中島愛 Part5

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7名無しさん@お腹いっぱい。
真綾はカリスマですが、ランカの中の人は、そうなのだろうか。
作中ではカリスマという扱いですが、どうなのか。
なぜランカがカリスマか分からないのと同じように、中島愛(中の人)もカリスマといえるほどの人なのか。
ミンメイは、カリスマかどうかはともかく、アイドルではあった。
真綾は、桑島や豊口と友達らしいが、この辺はみな姉を感じさせる
パーソナリティだが、中島愛は、妹を感じさせる。そういう声であろう。
では、釘宮や田村といった萌えの系列なのかというと、そうではなく、花澤香菜のような
棒読みの系列である。
棒読みなだけではなく、舌足らずである(名塚はそうではない)。
アニメ声は、80年代のアイドル的なものの介入でも、地平はそれほど変わらなかったが、96年のこどちゃあたりから、棒読みが公然と行われるようになる。
萌えも、アニメ声の延長ではあるが、それだけでは済まない(花沢さんと花澤さんを並べられるだろうか)。
劇画と萌えでは、作画と同じく声も異なるのではないか。
アニメ的であれいちおう完結した人格は去り、声に、もはや萌えを喚起する機能しかないのではないか。
釘宮や田村や沢城の声は、一種のドラッグのようなものなのではないか。
真綾は、透明感が売りだが、中島愛はそうではないだろう。
では、真綾の透明感は、どこから来るのか。
オタクが、透明感を重んじるのはなぜだろうか。
偽ケルトか偽アイドルでしかない歌を喜んで聴くのはなぜか。
透明であるとはどういうことか。
萌えをやっている声優では、透明な感じの歌はやれないだろう。
マクロスFは、限りなく劣化したエスカフローネなのか。
平野綾は透明ではないが、透明なだけが声優でもない。
突き進んでいる感じと童顔から来る子供っぽさとのギャップが、今のところは支持されているのか。
しかし、透明感がここまで欠けているのは新しい事態ではないか。
平野に限らず、若手には、キャバ嬢のようなのしかいないように思われるが、どうしてなのか。
声優は次第にかわいくなってゆくものと納得するしかないのか。