榎本温子の鼻毛と云えば、代々木で知らない者はない。
長さは五六寸あって上唇の上から顎の下まで下っている。
形は元も先も同じように太い。
云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと鼻の下からぶら下っているのである。
二十歳を越えた榎本は、日ナレの昔から、おたささの傍らに陞った今日まで、内心では始終この鼻毛を苦に病んで来た。
勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
これは専念に当来の浄土を渇仰すべき声優の身で、鼻毛の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。
それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。
榎本は日常の談話の中に、鼻毛と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。
榎本が鼻毛を持てあました理由は二つある。
―― 一つは実際的に、鼻毛の長いのが不便だったからである。
第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻毛の先が鋺の中の飯へとどいてしまう。
そこで榎本はマネージャの一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻毛を持上げていて貰う事にした。
しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げているマネージャにとっても、持上げられている榎本にとっても、決して容易な事ではない。
一度このマネージャの代りをした後輩が、嚏をした拍子に手がふるえて、鼻毛を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。
―― けれどもこれは榎本にとって、決して鼻毛を苦に病んだ重な理由ではない。
榎本は実にこの鼻毛によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
代々木の町の者は、こう云う鼻毛をしている榎本温子のために、榎本の俗でない事を仕合せだと云った。
あの鼻毛では誰も夫になる男があるまいと思ったからである。
中にはまた、あの鼻毛だから声優になったのだろうと批評する者さえあった。
しかし榎本は、自分が声優であるために、幾分でもこの鼻毛に煩される事が少くなったと思っていない。
榎本の自尊心は、所帯を持つと云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。
そこで榎本は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。
第一に榎本の考えたのは、この長い鼻毛を実際以上に短く見せる方法である。
これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。
どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、
頬杖をついたり顎の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。
しかし自分でも満足するほど、鼻毛が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。
時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。
榎本は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、
不承不承にまた元のスタジオへ、台本をよみに帰るのである。
それからまた榎本は、絶えず人の鼻毛を気にしていた。
代々木の近辺は、声優レッスンなどのしばしば行われる一帯である。
緩やかな坂を下ると、代アニが隙なく建て続いて、榎本の事務所では後輩が日毎に陽気に穀を潰している。
従ってここへ出入する声優も甚だ多い。榎本はこう云う人々の顔を根気よく物色した。
一人でも自分のような鼻毛のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。
だから榎本の眼には、堀江由衣も山本麻里安もはいらない。
まして田村ゆかりの般若面や、濱百合亜そのものなぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。
榎本は人を見ずに、ただ、鼻毛を見た。――しかし豚鼻はあっても、榎本のような鼻毛は一つも見当らない。
その見当らない事が度重なるに従って、榎本の心は次第にまた不快になった。
榎本が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻毛の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為である。
最後に、榎本は、女性週刊誌に、自分と同じような鼻毛のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。
けれども、米倉涼子や、松嶋菜々子の鼻毛が長かったとは、どの雑誌にも書いてない。
田中麗奈やビビアン・スーも、人並の鼻毛を備えた女優である。
榎本は、かつての24時間テレビの話の序に司会役の鈴木杏樹の鼻毛が少し長かったと云う事を聞いた時に、それがもっと長かったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
榎本がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻毛の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。
榎本はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。
烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。
鼠の尿を鼻毛へなすって見た事もある。
しかし何をどうしても、鼻毛は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。
その法と云うのは、ただ、湯で鼻毛を茹でて、その鼻毛を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。
湯は事務所の給湯室で、毎日沸かしている。そこで後輩は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提に入れて、給湯室から汲んで来た。
しかしじかにこの提へ鼻毛を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷する惧がある。
そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻毛を湯の中へ入れる事にした。
鼻毛だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。しばらくすると後輩が云った。
――もう茹った時分でござろう。
榎本は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻毛の話とは気がつかないだろうと思ったからである。
鼻毛は熱湯に蒸されて、ゆらゆらと揺れる。
後輩は、榎本が折敷の穴から鼻毛をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻毛を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。
榎本は横になって、鼻毛を床板の上へのばしながら、後輩の足が上下に動くのを眼の前に見ているのである。
後輩は、時々気の毒そうな顔をして、榎本の染髪頭を見下しながら、こんな事を云った。
――痛うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
榎本は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻毛を踏まれているので思うように首が動かない。
そこで、上眼を使って、後輩の足に皹のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
――痛うはないて。
と答えた。実際鼻毛はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて平たく縮れたようになった。云わば陰毛が踏み潰されたような形である。
後輩はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。
――これをライタアで炙れと申す事でござった。
榎本は、不足らしく頬をふくらせて、黙って後輩のするなりに任せて置いた。
勿論後輩の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻毛をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。
榎本は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に後輩が、鼻毛をライタアで炙るのを眺めていた。
毛は、御神木の幹のような形をして、四分ばかりの長さになるのである。
やがてこれが一通りすむと、後輩は、ほっと一息ついたような顔をして、
――もう一度、これを茹でればようござる。
と云った。
榎本はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、後輩の云うなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻毛を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鼻毛と大した変りはない。
榎本はその短くなった鼻毛を撫でながら、後輩の出してくれる鏡を、極りが悪るそうにおずおず覗いて見た。
鼻毛は――あの顎の下まで下っていた鼻毛は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅に上唇の上で意気地なく残喘を保っている。
所々寝癖のようになっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
――鏡の中にある榎本の顔は、鏡の外にある榎本の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
しかし、その日はまだ一日、鼻毛がまた長くなりはしないかと云う不安があった。
そこで榎本はヴォイストレーニングをする時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻毛の先にさわって見た。
が、鼻毛は行儀よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。
それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると榎本はまず、第一に、自分の鼻毛を撫でて見た。鼻毛は依然として短い。
榎本はそこで、幾年にもなく、外郎売の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
かってに立てるやつは放置でおねがいします。
>>1 氏ね!
そんな事よりが聞いてくれ。
アルプスの少女ハイジのブランコを覚えているか、と友人に尋ねられた。
オープニングの歌に合わせて、ハイジが異様に長いブランコを漕いでいたと言うのだ。
言われてみれば、そんな気も・・・そこで筆者はビデオ屋に走った。
確かに長いブランコだ。
画面で測定したところ、前方の空中で一瞬停止してから後方で止まるまで6秒もかかっている。
通常の振り子運動ではロープの重さを無視して計算するが、それに当てはめると長さは36m。
身長40mのウルトラマンに迫らんとする勢いだ。
だがこの場合、ロープの重さを無視していいのだろうか?
そこで今度は東急ハンズに走った。買ってきたのは直径16mmの麻ロープ。
ブランコとしては手頃な太さだ。1mの重さは170g。
片方36mなら、結び目を入れても13kgだ。
これに対して、10歳の日本人女子の平均体重は37kg。
やや太めのヨーロッパ人であることを考えて、ハイジの体重は40kg前後と見られる。
13kgのロープの端に40kgのオモリをつけた振り子の周期は14秒。
画面上の周期12秒に合わせて計算すると、ハイジのブランコの長さは27mとなる。
それでもブランコとしては異例の長さであり、落差も大きい。
最も低い地点では相当のスピードが出るはずだ。
画面を静止させて測ってみたら、最も高く上がった地点で垂直方向からの角度は70度もあった。
落差18m。最高速度は、6階の窓から飛び降りたのと同じ、時速68kmに達する。
ディズニーランドのジェットコースター・スペースマウンテンでさえ最高時40kmだ。
しかもシートベルトもなんにもなく、頼りになるのはシリの下の狭い横板と両腕だけ。
さらによく見ると、足もとのはるか下界を教会の尖塔が行ったり来たりしている。
どうやら100mぐらい上空で遊んでいるようなのだ。
上空100mにおける時速68kmの振り子運動。
常人ならとても耐えられないが、ハイジは天真爛漫に笑っている。
恐るべき精神力だが、それより気になるのは、
いったいどうやってこんなブランコに乗ったのかということだ。
歌に「教えてー、アルムのモミの木よ」という一節がある。
ハイジの生活圏内に、有名な大木があるらしい。ブランコの設置場所として考えられるのはここだけだ。
現在、世界最大とされているカリフォルニアのセコイアスギでさえ高さは110m 。
ハイジのブランコの木は地上127mに横枝を張っているのだから、楽勝で世界一だ。
ブランコに乗りたくなると、ハイジはこの世界遺産級の巨木にアタックをかける。
127mの垂直登攀を達成し、間をおかずロープ伝いに27m降りる。
続いて全身を躍動させ、ジェットコースターなみのスピードを満喫するのだ。
遊びあきたら、むろん同じルートをたどって降りてこなければならない。
往復308mの垂直昇降。10歳前後の小娘が、いつここまで体を鍛えたのだろうか・・・?
所が二三日たつ中に、榎本は意外な事実を発見した。
それは折から、用事があって、代々木の事務所を訪れた関係者が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ榎本の鼻毛ばかり眺めていた事である。
それのみならず、かつて、榎本の鼻毛を粥の中へ落した事のあるマネージャなぞは、通路で榎本と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。
用を云いつかった後輩たちが、面と向っている間だけは、慎んで聞いていても、榎本が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
榎本ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。
しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。
――勿論、マネージャや後輩たちが哂う原因は、そこにあるのにちがいない。
けれども同じ哂うにしても、鼻毛の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子がちがう。
見慣れた長い鼻毛より、見慣れない短い鼻毛の方が滑稽に見えると云えば、それまでである。
が、そこにはまだ何かあるらしい。
――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
榎本は、読みかけた台本をやめて、染髪頭を傾けながら、時々こう呟く事があった。
愛すべき榎本は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍にかけた林原めぐみの画像を眺めながら、鼻毛の長かった四五日前の事を憶い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。
――榎本には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた。
――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。
所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。
少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。
そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。
――榎本が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、周囲の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで榎本は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。
しまいには鼻毛の療治をしたあの後輩でさえ、「温子様は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。
殊に榎本を怒らせたのは、おたっきい佐々木伸である。
ある日、けたたましく犬の吠える声がするので、榎本が何気なく外へ出て見ると、佐々木は、松明をふりまわして、鼻毛の長い、痩せた尨犬を逐いまわしている。
それもただ、逐いまわしているのではない。
「鼻毛を焼かれまい。それ、鼻毛を焼かれまい」と囃しながら、逐いまわしているのである。
榎本は、佐々木の手からその松明をひったくって、したたかその腕を焼いた。松明は以前の鼻毛持上げの木だったのである。
榎本はなまじいに、鼻毛の短くなったのが、かえって恨めしくなった。
するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、窓の風鐸の鳴る音が、うるさいほど枕に通って来た。
その上、寒さもめっきり加わったので、冷え性の榎本は寝つこうとしても寝つかれない。
そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻毛がいつになく、むず痒いのに気がついた。
手をあてて見るとだらんと垂れている。どうやらそこだけ、床に着いてるらしい。
――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
榎本は、仏前に香花を供えるような恭しい手つきで、鼻毛を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、榎本がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金を敷いたように明るい。
塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、都庁がまばゆく光っている。
榎本温子は、ブラインドを上げた窓辺に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び榎本に帰って来たのはこの時である。
榎本は慌てて鼻毛へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻毛ではない。
上唇の上から顎の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻毛である。
榎本は鼻毛が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。
そうしてそれと同時に、鼻毛が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
榎本は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻毛をあけ方の秋風にぶらつかせながら。 完