沖 雅也

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135名無しさん@お腹いっぱい。
手元に25年前に出た芸能雑誌がある。
それに沖自身が生い立ちを語ったインタビューが載っている。

雅也(本名・楠城児)は昭和27年大分生まれ。
先祖を辿ると南北朝時代の武将、楠正成に行き着くらしい。
楠一族は九州・大分では有名な代々医者の家系で、親戚ほとんどが優秀な医者。
そんな中、雅也の父、宗生(写真を見るとかなりの二枚目である)は医者になること
を拒み、経済学を学んで石油業界に身を投じた。雅也の両親は完全主義者のため
お互いに譲らない性格で、それが原因で雅也が15歳のときに離婚、母親は
家を出る。父に失望した雅也は姉と妹と離別し、上京する。
ラーメン屋やバーテンなどで生活費を稼ぐ雅也は、ある日父親の知り合い
である日景忠男と会う。日景は雅也の父に連絡するが「息子を頼む」と
言われ雅也の父親代わりとなる。日景も医者の家系に生まれていたが
東大建築科を経て大学院まで進んだあげく、親の金をくすんで水商売に足を
突っ込んでいた道楽モノだった。
雅也はモデル稼業を経て(童貞喪失はこの頃。愛情のないセックスに嫌悪感
をおぼえたらしい)、日活から映画俳優としてデビューすることに
なる。年齢を多めにごまかし19歳とし、高校中退と偽ってのデビュー
は昭和43年、雅也16歳の時であった(続く)。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/18(土) 11:29
(続き)
しかし日活はこの頃にロマンポルノ路線に方向転換。
雅也に仕事の声はかからなくなる。2年ほど泣かず飛ばずの時期が
続いたがテレビドラマ「さぼてんとマシュマロ」(原作は少女漫画)
の主役に抜擢され、スターダムに。
18の時、日景に説得された雅也は実父に会うことを決意。
再開した父と息子は思いの丈をぶつけあう。
その後親子のわだかまりも徐々に和らぎ、時々日景を交え酒を
飲んだりするようになる。
昭和50年のある日、雅也は番組の仕事で大分の湯布院を
訪れる。そこから東京に戻った彼を待ち受けていたのは、父が心筋梗塞で
亡くなったという知らせだった。享年49歳、雅也は嗚咽する。
楠一族の猛反対を押し切り、父の遺骨を東京に持ち帰った雅也は
墓を作り父を見守る決意をする。
そして雅也は正式に日景の養子、「日景城児」となる。

・・・要所をかいつまんで転載してみました。
私は特に沖さんのファンということではなかったのですが、
太陽にほえろ!フリークだったせいもあり、その関係で
出演ドラマはほとんど見ていました。
生きていれば49歳ですか。丁度お父さんが亡くなった歳
でもありますね。
誰にも、どうすることも出来なかったのでしょう。
彼らしい運命といえば運命だったのかも知れません。