文春、今週号(2013年3月15日号)のプリンセス雅子妃物語 1
アンチ東宮の発狂ポイント抜粋
・1995年(平成7年)、予定より2日早く帰ってきた皇太子ご夫妻。すぐに阪神大震災の慰問には行けなかった。
両殿下は帰国したその日に被害状況を資料や新聞記事で確認され、2日後の30日には、日本赤十字社の
山本正淑社長(当時)を東宮御所に招き、救助活動などの報告を受けられた。
2月1日にも警察庁長官から被災地の状況を聞かれている。
・現地でも皇太子ご夫妻のお見舞いを切望する声があがり、宮内庁にも帰国を早めたのになぜすぐに
現地入りしないのか、という疑問が寄せられていた。両殿下も被災地のお見舞いを強く望んでおられた。
・だが、両殿下の意向だけで被災地に行くことはままならなかったのだ。
皇室には守らなければならない「順」というものがある。
・「まず天皇皇后両陛下が被災地を慰問されてから、両殿下の予定が決まるものなのです。」(元東宮職)
・雅子妃はご自身が前にでて積極的に国際親善を行うことよりも、皇太子妃として、皇太子のお役に
立つことができればというお気持ちが強いのだという。
妃殿下という立場を積極的に誇示するご性格ではなかったのだ。
・3月5日には、淡路島の避難所ご訪問、神戸市で催された合同慰霊祭へご参列のため被災地に再訪された。
同月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発赤。日本の安全保障や危機管理を揺るがした。
こうした治安の面と、阪神大震災のお慎みから皇太子ご夫妻のご公務や外出は控えられていた。
・雅子妃は宮内庁関係者たちや両陛下とテニスをされることもあった。
雅子妃は両陛下とテニスをされるとき、たまに軽食を手作りされ、持参されることがあったという。
・雅子妃は今後の公務で自分がどのようなことで役に立てるのか、お考えになって、そしてそのことを
宮内庁のなかでご相談されたといわれている。ところが、考えるべきことは世継ぎのことで、公務のことは
必要ないという返答だったため、黙り込んでしまったといわれている。