遅まきながら、女性セブンの記事を読んでみました。
すでにアンチレポは上がっているかと思いますが、おさらいも含めて詳細を。
「女性セブン」2011年5月26日号
「雅子さま「私の娘も・・・」被災者にかけだ再起゙のお言葉」
・5月6日、学習院初等科正堂では1〜2時限目に「一年生を迎える会」が行われ、この日、愛子さまはこの会に遅刻しないように1時限目が始まる前に登校された。
・愛子さまは高学年のお姉さまらしく、きちんと椅子に腰かけて会の様子を温かく見まもられました。
・この日雅子さまは愛子さまとご一緒に登校されましたが、貴賓室に待機されたままで正堂にも教室にも姿を見せられなかった。
・放課後にはクラスの仲間とドッジボールに興じられた愛子さま。
・埼玉県三郷市瑞沼市民センターでは当初は1時間半の予定だったが、ひとりでも多くの人を励ましたいと訪問時間は3時間近く。皇太子ご夫妻はほとんど全員のかたとお話しされていた。
・両殿下から声をかけられた78才の男性Aさんは膝の状態が悪く、痛みもあって床に座ることもできない。
Aさん「いつも簡易ベッドに腰かけて生活しているのですが、ご夫妻がおいでになったとき、
それでは申し訳ないと正座をしようとしたんです。すると雅子さまが『どうぞ、そのままで』と優しい言葉をかけてくださって・・・」
この男性は自宅が倒壊し若者に背負われて三郷に避難してきたことなどを話した。
雅子さまは男性の目を見つめながら小さく幾度もうなずかれていた。
Aさん「雅子さまは目に涙を浮かべられて『おつらいと思いますが、少しずつ前を向いて歩いていきましょう』とおしゃられて・・・
雅子さまが私のために泣いてくださるなんて、本当に何にも勝るお言葉でした」
(セブン続き)
・中学3年生のB子さんは家族総勢17名で避難してきた。
B子さん「雅子さまは『学校はどうですか?お友達はできましたか?』と話しかけてくださったんですけど、私は緊張して声がでませんでした」
・その後、小学6年生になったばかりのB子さんのいとこと野球の話に。
Bさん「いとこはピッチャーをやっていて地元の新聞に取り上げられたことがあるんです。
その記事を雅子さまにお見せすると『すごいわね〜』と褒めてくださって
『私もソフトボールをやっていたのよ』とか『私も内野手だったの』とか野球の話ですごく盛り上がっていました。
最後に『三振を取るようなすごいピッチャーだったのね。また野球ができるようになるといいですね』といとこを励ましてくださいました。」
・10年ほど前に婦人会の勤労奉仕で東宮御所を訪ねたことがある70代の女性Cさん。
Cさん「『雅子さまと皇太子さまのお家の玄関前で草むしりをしたことがあるんです』とお話しすると、
雅子さまの顔がパッと明るくなられて『それは大変お世話になりました』と微笑まれました。
(雅子さまが)『殿下にそのお話しはされましたか?』と聞かれたので
『緊張のあまりお話しできなかったんです』と申し上げたところ、
雅子さまは先に進まれた皇太子さまを『殿下、少しだけよろしいですか?』と呼び戻してくださって・・・
草むしりのことをお話ししました。すると皇太子さまは
『ありがとうございます。そのときに比べれば私たちは何もできませんが、
どうかお体にお気をつけてお過ごしください』とおっしゃってくださいました。
雅子さまのそのお心遣いに感激してしまい、自然と涙がこぼれて、雅子さまのお顔もぼやけて見えました」
(セブン続き)
・三郷での避難所生活が2ヶ月近くになる60代の女性Dさん。
Dさん「雅子さまが目の前にいらっしゃるのが夢のようで私は思わず
『雅子さま、ご自分のご体調もお悪いし、愛子さまも学校のことで大変なときでいられるのに、私たちのためにおいでいただいてありがとうございます』と話しました。
雅子さまは私の両手を取られ『ありがとう。私も愛子も大丈夫ですよ』とにこやかに答えてくださいました」
・30代の母親Eさんには愛子さまと同じ小学4年生の娘がいる。
震災以来、ちょっとしたことでも怖がるようになり、ずっと元気がないまま。
E子さんが娘の状況を雅子さまに説明すると、
(E子さん)「雅子さまは心配そうなお顔をされてこうおっしゃいました。
『私の娘もいろいろなことがありました。でも、少しずつ乗り越えようとしています。
絶対に、絶対に大丈夫。一歩づつ階段を上がるように前を向いていきましょうね』と。
すごくありがたいお言葉で娘も勇気をいただいたようです。
私も落ち込んではいられない、頑張ろうという気持ちが強くなりました」
・不安の困難のただ中にある被災者に心からの思いを寄せられた雅子さま。
本来ならあまり話されたくないであろうプライベートなことを体験談として話された、被災者を勇気づけられた。
そこには冒頭で愛子さまが示されたとおり「再起」に向け、着実に進まれてきた母娘の自信と被災者の1日も早い「再起」への願いが込められていた。
(記事終わり)