1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 00:04:41
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景に
たよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」
「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、
地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 00:05:13
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。
すなはち、われわれはその橋を渡つて、未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、
未来と過去とはいつでも交換可能なものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 00:05:34
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら尋めゆくものが、何だらうかと
考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、きつと
身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、
ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに
気づくからだ。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 00:06:29
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の
庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、
いつのまにか、ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。
又、生をあざむかれるやうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験できない。それは
すでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、
幾何学上の定理の美しさを知るであらう。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 00:09:05
竜灯祭へお招きをうけて、灯籠流しにもいろいろの趣きがあるのを知つた。今まで私がしばしば見たのは
熱海の灯籠流しであつたがこれはふつうの施餓鬼の行事で、ひろい海面の潮のまにまに灯籠が漂ふのは、淋しい
彼岸へ心を誘はれる心地がした。柳橋の竜灯祭は神事である上に、いかにもこの土地らしい華麗なものである。
川面いちめんに灯籠が流れ出す数分間はふだんはただ眺めてゐるだけの隅田川をわれとわが手で流した灯籠で、
占領してしまつたやうな快感を与へる。地上の豪奢を以て、水中の竜神の心を慰めるといふ趣きがある。それが
いかにも「竜灯祭」といふ名にふさはしいのである。
また、それから引き潮に乗つてあれほど夥しかつた灯籠が、数分間のうちにほとんど視界を没し去るのも、
いかにもいさぎよくて、江戸前の感じがする。執念が残らないで、さはやかなのである。
三島由紀夫「竜灯祭」より
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 00:09:25
最後まで料亭の舟着場の下などにまつはりついて離れない少数の灯籠もあるが、これも執念といふものではなくて、
そのすぐ上方の座敷のさんざめき、美妓のたたずまひなどに心を残して、無邪気にそこに居据つてしまつた感じで
可愛らしい。あたかもその十いくつの灯籠だけが、そろつて首をもたげてうすく口をあけて、地上の遊楽の
美しさを讃美してゐるやうだ。
灯籠流しといふと、人はすぐ暗い仏教的イメーヂを持つが、私の発見したのは別のものだつた。このごろの
大キャバレエの遊びよりも昔の人はもつと豪奢な遊びを知つてゐた。そして消えない電気の光りよりも、
波のまにまに夜のなかへ馳け込んでゆく灯籠の光りのはうに、はるかに、遊楽に一等大切な「時間」の要素が、
いきいきとこめられてゐるのを知つた。一度花やかな頂点に達してそれが徐々に消えてゆく、そのゆるやかな
時間の経過の与へる快さは、快楽の法則に自然に則つてゐて、いづれにしても花火よりも「快楽的」であると
思はれるのだつた。
三島由紀夫「竜灯祭」より
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 02:58:23
良スレ乙です
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 12:13:43
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。
これは、言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が
悲痛な声をふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、
われわれは、力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの
激しい労働を冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。
三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 12:14:00
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。
黒人の皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな
激しい太陽と海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、
外界をのぞかうとするのかもしれない。
三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 12:14:18
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。
そしてその官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の
官能性とは散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の
太陽の下のファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。
三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:03:03
体操といふものに、私は格別の興味を持つてゐる。それは美と力との接点であり、芸術とスポーツの接点だからである。
ほかのスポーツのやうに、芸術の岸から見て完全に対岸にあるものでない。
(中略)
はいつていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる
鋏を入れて、まつ白な切断面を次々に作つてゆくやうな美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体の
まはりの空間を、どんよりと眠らせてはふつておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体、全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を
与へつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思ひ切つた放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、
人間はたしかに昔、神だつたのだらうといふ気がする。といふのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、
全く彼の支配下にあるやうに見え、選手が演技を終つて静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、
まだピリピリと慄へて、彼に属してゐるやうに見えるからだ。
三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:03:28
(中略)スポーツの奇蹟は、人間の肉体といふものが、鍛へやうによつては、どんな思ひがけないところに、
どんな思ひがけない楽園を発見するかわからないといふ点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。
酒や阿片とは反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであらう。
(中略)
さつき神のやうだつた選手は、かうして会つてみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでゐるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、
「練習」といふ苛酷な見えない鎖が感じられる。それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。
三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:03:57
オリンピックの非政治主義は、政治の観念の浄化と見るほかなく、政治を人間の心から全然払拭することはできまい。
(中略)
「オリンピック東京大会、第一日目を開始いたします」
といふアナウンスのあとで、登場したこの二人の試合は、アラブ連合がしばしばスリップダウンをし、韓国が
判定で勝つたが、判定を待つあひだ、レフェリーを央にして、選手が二人直立して正面に向つてゐた姿は、
プロ・ボクシングを見馴れた目には、すがすがしく、気持がよかつた。
これで最初の日の勝敗が決まつたのであるが、韓国選手の謙虚な勝利者としての表情と共に、アラブ連合選手の
心を思つて、私はシャルル・ビルドラックの「兵卒の歌」の最後の聯を思ひ出して、一種の羨望を感じた。
「私は、むしろ私はなりたい、
戦争の第一日目に
第一に倒れた兵卒に。」(堀口大学氏訳)
三島由紀夫「競技初日の風景――ボクシングを見て」より
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:07:07
何といふ静かな、おそろしいサスペンス劇だらう。(中略)
もちろん選手がバーベルを高くさしあげたときの感動もさることながら、私は、いよいよバーベルにとりつく前の
選手の緊張に興味があつた。多少ともウエート・トレーニングをした人間には、この瞬間の恐怖と逡巡がわかるはずだ。
韓国のキン・ヘナム選手は必ずバーベルのぐあひをたんねんにしらべ、ポーランドのコズロスキー選手は、
手をかけてから長いこと腕の筋肉をふるはせ、日本の三宅選手は相撲の仕切りのやうに長い時間をかけて、
何度か天を仰いだ。
これはおのおのの就寝儀式のやうなものであつて、それをやらなければ安眠できない。ひとたび眠ることが
できれば、完全に眠ることができれば、眠りの中では、丸ビルを持ち上げることだつて可能だらう。精神集中の
究極の果てに、一つの自由な空白状態がポカリと顔を出すのだらう。そのとき力が、おそらく常の人間の能力を
超えるのだらう。
三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:07:23
地球を負ふアトラスの忍苦に似た、あくまで押へに押へぬいた努力のいるこのスポーツは、たしかに日本人の
一面に適してゐる。三宅選手は、リングの上ではむしろのんきに見え、豪放に見えるが、こんなに綿密な力の
計算を積み上げてゆくには、青空の下のスポーツとちがつて、研究室の中の科学者みたいな内向的な長い努力が
いつたはずだ。彼は金メダルを本当に計算づくでとつたのだと思ふ。鉄のバーベルの暗い、やりきれない、
うつたうしい圧力と戦ひながら。
(中略)
金メダルを受けた三宅選手は、実に自然なほほゑましい態度で、そのメダルを観衆の方へかかげて見せた。
彼はそのとき、あの合計397.5キロの鉄の全量に比べて、金のたよりない軽さを感じたかもしれない。
美麗のその黄金の羽根のやうな軽さを。
三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 10:43:24
体操でも、この飛び板飛び込みでも、落下のほんの瞬間に、人体が地球の引力に抗して見せるあの複雑な美技には、
ほとほと感嘆のほかはない。あの落下の一秒の間に、花もやうを描いてみせるその人間意志のふしぎな働きと
その自己統制力は、自然(引力)へのもつとも皮肉な反抗であり、犬が人間にじやれつくやうに人間がきびしい
自然にじやれつく最高の戯れだらう。(中略)
重量あげなどの、ジワジワと胸をしめつけるドラマチックな競技とちがつて、水泳競技は、単純なまつすぐな
人間意志の推進力を、美しくさはやかに見せるだけだから、その印象はひたすら直截で、ドラマといふより、
青いプールを縦に切るあの白いロープのやうに、一行の激しい白い叙情詩だ。(中略)
ガウンを脱ぎ捨てて黒い水着姿になつた彼女は、その強靭な、小麦色の体躯に、こまかいバネがいつぱい
はりつめてゐるやうな感じで、それはただ一人決勝に残つた日本女性の、しなやかな女竹のやうな姿絵になつた。
三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 10:43:41
田中嬢が泳ぎはじめる。もうあと一分あまりの時間ですべての片がつく。彼女は長い長い練習の水路をとほつて、
ここにやつとたどりついた一艘の黒い快速船になる。水しぶきの列のなかで帰路、彼女の水しぶきは少し傾いて、
ともするとロープにふれる。……(中略)
泳ぎ終つた田中嬢は、コースに戻つて、しばらくロープにつかまつてゐたが、また一人、だれよりも遠く、
のびやかに泳ぎだした。コースの半ばまで泳いで行つた。その孤独な姿は、ある意味ですばらしくぜいたくに見えた。
全力を尽くしたのちに、一万余の観衆の目の前で、こんなにしみじみと、こんなに心ゆくまで描いてみせる
彼女の孤独。この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかつてゐない。一億国民の
重みもかかつてゐない。
田中嬢は惜しくも四位になつたが、そのときすでに彼女はそれを知つてゐたにちがひない。
三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 00:29:33
今日のハイライトである百メートルの決勝がはじまる。(中略)選手たちがスタート・ラインについた。
それから何が起つたか、私にはもうわからない。紺のシャツに漆黒な体のヘイズは、さつきたしかにスタート・
ラインにゐたが、今はもうテープを切つて彼方にゐる。10秒フラットの記録。その間にたしかに私の目の前を、
黒い炎のやうに疾走するものがあつた。しかも、その一瞬に目に焼きついた姿は、飛んでもゐず、ころがりもせず、
人間の肉体の中心から四方へさしのべた車輪の矢のやうな、その四肢を正確に動かして、正しく
「人間が走つてゐる姿」をとつてゐた。その複雑な厄介な形が、百メートルの空間を、どうしてああも、神速に
駆け抜けることができるのだらう。彼は空間の壁抜けをやつてのけたのだ。
しかし、十秒間の一瞬一瞬のそのむしろ静的な「走る男」の形ほど、金メダルの浮彫の形にふさはしいものはなかつた。
三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 11:09:41
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
――四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。その大きなあきらかな
数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。
三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 11:09:58
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。
三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 11:10:20
――千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あの
ぬれた顔、ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは
確実なことで「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。
たとへそれが、一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。
三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 14:26:50
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎはにあるものがあらうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、
微妙に交はり合ひ、犯し合つてゐる。満潮のときスポーツだつたものが、干潮のときは芸術となる。そして
あらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに
美しいフォームでも、速さのためとか高さのための、有効性の点から評価されるスポーツは、まだ単にスポーツの
域にとどまつてゐる。しかし体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいへば、芸術の本質は
結局形に帰着するといふことの、体操はそのみごとな逆証明だ。
十月二十日の夜、東京体育館の記者席から、まばゆい光りの下、マット上に展開される各国選手の、人間わざとも
思へぬ美技をながめながら、私はそんな感想を抱いた。
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 14:27:07
双眼鏡で遠い鉄棒の演技をながめてゐると、手を逆に持ちかへるときに、掌にいつぱいまぶしたすべりどめの
粉がパッと散る。それは人体が描く虚空の花の花粉である。徒手体操では、人体が白い鋏のやうに大きくひらき、
空中から飛んできて、白い蝶みたいに羽根を立てて休み……ともかく、われわれの体が、さびついた
蝶番(てふつがひ)の、少ししか開かないドアならば、体操選手の体は、回転ドアのやうなものだ。そして、
極度の柔らかさから極度の緊張へ、空虚から突然の充実へ、力は自在に変転して、とどまるところを知らない。
もつともバランスと力を要する演技が、もつとも優美な静かな形で示される。そのとき、われわれは、
肉体といふよりも、人間の精神が演じる無上の形を見る。
ポオル・ヴァレリーが「魂と舞踊」の中で、肉体が「魂の普遍性を真似ようとするのだ」と書いてゐるのは、
この瞬間であらう。(中略)
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 14:27:30
小野は徒手で、遠藤はあん馬で、見のがしえぬミスをやつたが、実際、人間なら、あやまちを犯すはうがふつうで、
あやまちを犯さないのは人間ではない。それらのミスにこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が
ひらめいてゐる。ほんのちよつとよろめくこと、ちよつと姿勢が傾くこと、ほんのちよつと足があん馬に
さはること、ほんのちよつと演技の流れが停滞すること……これこそわれわれが「人間性」と呼んでゐるところの
もので、半神であることを要求される体操競技では、人間性を示したら、たちまち減点されるのである。
この世に、ほんの数秒の間であらうと、真のあやまりのない秩序を実現するのはたいへんなことだ。体操選手たちは、
その秩序を、少なくとも政治や経済よりはるかに純度の高い形で、人間世界へもたらすために努力する。
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 14:27:47
遠藤選手のあん馬のあとで、十数分のものいひがついたあと、五月人形のやうな無邪気な顔と体をした三栗選手が
登場して、おちついた、正しい演技を示して九・六五をとつたのには感服した。
小野選手の右肩の負傷にめげぬ敢闘にも心を搏たれ、同じ三十代の私は、年齢と肉体のハンディキャップを
越えたその闘志に拍手を送つた。練習時間のあひだから、鉄棒は彼の肩を冷酷に責めてゐた。そのとき肩は、
彼の目ざす秩序の敵になり、敵軍に身を売つたスパイのやうに彼を内部から苦しめてゐた。
優勝者遠藤さへ、退場の際、心なしか暗い目をしてゐたのを考へると、体操選手を悩ます「完全性」の悪夢が、
どれほどすさまじいものであるかがうかがはれる。
三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 20:50:59
選手たちの登場。宮本がそのすらりとしたからだと、栗鼠を思はせるかはいらしい顔で、機械人形のやうに
おじぎをする。
東側の選手家族席では、宮本のおとうさんがなくなつたおかあさんの大きな写真を膝に抱いて観戦してゐる。
練習がはじまる。お祭りの風船のやうに、たくさんのボールが空に浮ぶ。七時三十分。琴の音楽がはじまり、
いよいよ日本のアマゾンたちと、ソ連のアマゾンたちとの熱戦が開始される。
バレーボールの緊張は、ボールが激しくやりとりされるときのスリルにあることはいふまでもないが、高く
投げ上げられたボールが、空中にとどこほつてゐる時間もずいぶん長く感じられる。そのボールがゆつくりと
おりてくる間のなんともいへない間のびのした時間が、実はまたこの競技のサスペンスの強い要素なのだ。
ボールはそのとき、すべての束縛をのがれて、のんびりとした「運命の休止」をたのしんでゐるやうに見えるのである。
三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 20:51:16
第一セットでやや堅くなつてゐた日本は、第二セットでははるかにソ連を引き離し、余裕のあるゲームを見せたが、
なかんづく目につくのは河西選手の冷静な姿である。
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のやうに、敵陣によく目をきかせ、
アップに結ひ上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらつてゐる。ボールは必ず一応彼女の手に納まつたうへで、
軽くパスされて、ネットの端から、敵の盲点をつくやうに使はれる。
河西はすばらしいホステスで、多ぜいの客のどのグラスが空になつてゐるか、どの客がまだサラに首をつつこんで
ゐるかを、一瞬一瞬見分けて、配下の給仕たちに、ぬかりのないサービスを命ずるのである。ソ連はこんな
手痛い、よく行き届いた饗応にヘトヘトになつたのだつた。(中略)
――日本が勝ち、選手たちが抱き合つて泣いてゐるのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあつたが、
これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。
三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 22:36:10
良スレですね
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 11:52:36
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。
蛍光灯の下では美人も幽霊のやうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、
あまり美味しくもなささうな色の料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、蝋燭が用ひられだした。磨硝子(すりガラス)の円筒形のなかに蝋燭を
点したのが卓上に置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した
女は、周囲の暗い喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した
目の煌めきまでがいきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も蝋燭に如くものはないらしい。
そこで今度は古来の提灯(ちやうちん)がかへり見られる番であらう。
三島由紀夫「蝋燭の灯」より
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 11:53:05
…私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。内玄関の鴨居には、
家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、それらが一家の
避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。
江戸時代の庶民の発明した紙のシャンデリアである。
三島由紀夫「蝋燭の灯」より
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 16:06:38
素晴らしい
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 11:18:45
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の
美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。
(中略)
しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の
古典芸能の名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、
西洋の芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに
電光石火、最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の
問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。
三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 20:00:05
名言だ
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 23:51:45
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 23:52:13
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略)
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの
なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と
シルクハットさへ冠つてゐた。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 23:52:31
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な
しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 23:52:49
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた
人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、
さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の
帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。
だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 10:45:32
西郷さん。
明治の政治家で、今もなほ「さん」づけで呼ばれてゐる人は、貴方一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、
同時代人からは畏敬の目で見られたかもしれないが、後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることがありません。
あなたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもつとも代表的な日本人として見てゐます。(中略)
あなたの心の美しさが、夜明けの光りのやうに、私の中ではつきりしてくる時が来ました。時代といふよりも、
年齢のせゐかもしれません。とはいへそれは、日本人の中にひそむもつとも危険な要素と結びついた美しさです。
この美しさをみとめるとき、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでせう。
三島由紀夫「銅像との対話――西郷隆盛」より
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 10:46:45
あなたは涙を知つてをり、力を知つてをり、力の空しさを知つてをり、理想の脆さを知つてゐました。それから、
責任とは何か、人の信にこたへるとは何か、といふことを知つてゐました。知つてゐて、行ひました。
この銅像の持つてゐる或るユーモラスなものは、あなたの悲劇の巨大を逆に証明するやうな気がします。
……………………。
三島君。
おいどんはそんな偉物ではごわせん。人並みの人間でごわす。敬天愛人は凡人の道でごわす。あんたにもそれが
わかりかけてきたのではごわせんか?
三島由紀夫「銅像との対話――西郷隆盛」より
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 19:43:14
素晴らしい
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 21:51:57
今度借りてきて読もう
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 17:44:50
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 17:45:55
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。
大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 17:47:23
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を
仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、
汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、
相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。なぜ日本刀だけで、
負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャ
だったからだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり
計算して、こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、
インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは
大問題だと思う。生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという
生活者の知恵でみるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の
近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるか
という分かれ目にぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 17:48:14
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。
腕力があり、剣があって、初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、
ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に立たないと思う。やっぱりそのときには剣が
ものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、言葉で考えてる
人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは
必ずしも信じない。
…客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的
条件というのはないんだ、それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを
熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかがかもしだされてくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 19:14:51
現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、
なにから、やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。
うそでかためれば安全、謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、
とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、不特定多数の人間の平均的な好みに
自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが現代社会ですよ。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
ヒューマニズムなんて言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:09:04
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を
料理するものだという考えが抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か
作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは抜けないね。
ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうが
かえって強く持っている考えであるかもしれない。
日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に
対する日本人独特の感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、
日本人は無意識にそれを形式的にキャッチしようと思う。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:09:21
ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、
人間にとって、それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
…いま日本はナショナリズムがどんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの
九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
身を守るということは卑しい思想だよ。絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう
原理を守らなくちゃならないでしょう。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:09:37
三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと
思うんです。戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな
存在にしちゃったからです。天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり
非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:09:55
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。
三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より
人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんです。
三島由紀夫
河上徹太郎との対談「創作批評」より
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。
それは二十世紀文学の悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが
来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:10:12
僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。
どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。
無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。
そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。
それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、
お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、
最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、
結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 14:30:45
歌舞伎の世界というのは、名優は自分は死なないで、死の演技をする。それで芸術の最高潮に
達するわけですね。しかし武士社会で、なぜ河原乞食と卑しめられたかというと、あれは
ほんとうに死なないではないか、それだけですよ。そのひと言だけで芸術はペッチャンコですよ。
三島由紀夫
埴谷雄高との対談「デカダンス意識と死生観」より
ナルシシズムというのは、自分の問題じゃないでしょうね。他人からの関心の問題ですからね。
ですから、自分へのこだわりとちょっと違うかもしれませんね。自分へのこだわりは、
ナルシシズムと反対かもしれませんね。もし、自分へのこだわりを捨てたければ、もっと
みんなナルシシストになればいいのです。
自分になんかだれも興味をもってくれないというのは、まず社会の根本原則ですね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 14:31:52
僕は、自分の本質がなにかということを考えるということはやめたのです。
…自分とはなんだという問題ですね。つまり、ほじくってほじくって、玉葱の皮をむいて
いくでしょう。だんだん孤独になって、いまの大江君の「万延元年」など見ると、
そういう感じが非常にしますがね。玉葱の皮むいている。
(芯が)あるはずかもしれないけれども、皮だけかもしれない。一番簡単な通俗的な方法は
精神分析ですね。僕が自分の精神分析をすれば、どんな精神分析学者よりもうまくやる
自信がありますよ。なんでもあります、僕の中には。
…僕の変なことをやる動機なりなんなり、精神分析で解釈すれば、なんでもつくのです。
なんでもできますね。どんな精神分析学者をつれてきても驚かない。僕のほうが
うまいでしょうね。人間というのは、やはり動機で動くものじゃないと思っています。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 14:32:51
谷崎さんにしても川端さんにしても素晴らしい芸術家だけれども、男というものは一人も
出てこないでしょう。元禄時代、元禄時代というけれども、西鶴はちゃんと書いていますよ。
男の世界を書いている。人間がデリケートな感情から発して、激しい行動に一直線に
つながるところを書いてますね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より
人間の生存本能や、自己防衛本能を超越できたら、人間というものはもう少し
飛躍するのだろうと思いますけど、気違いはそれが飛躍してしまうんですね。
僕はやっぱり物体というものは、バイブレートするものだと思うんですよ。物体自体が、
一つの構成要素がバイブレートしていなければ、この宇宙は成り立たないと思うな。
ほんとうはバイブレートしているのかもしれないけれども、われわれにはその動きが
全然見えないわけですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 11:42:10
(西洋では)フレッシュとボディは違うのだ。キリスト教は、フレッシュは否定するが、
ボディは否定しない。それは受肉という思想があるから。インカーネーションでもって、
ボディが復活するのであって、フレッシュは復活しない。フレッシュは滅びる。
日本ではそれが、フレッシュとボディの区別がない。日本の体という場合には、
フレッシュとボディは渾然一体なんです。それで「源氏物語」の闇のなかにあらわれる
女体は、やはりフレッシュでありボディである。同時にその背後のものを暗示しているね、
一つながりのあれですね。それが日本の「色」というものだと思います。
村松剛が言ったひと言を忘れないのだが、天皇制がなぜ日本に合っているかというと、
日本人が嫉妬深いからだと、うまい説明だと思ったな。つまり、一つのクッションを置いて、
権力を授受しないと、絶対に日本人は承服しない。日本人同士の互選では、権力というものは
一日も成立たんと言うのだ。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 11:42:35
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか
身を投げることしかない。それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、
アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これはことばにかけると同じ重さを、
からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を
刻むべきだよ。彼ら(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 11:42:51
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、
女の足を纏足(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。
これは伝統的なものだと思うんだ。中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、
自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の人間主義というのは非常に
人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――」より
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 16:09:18
すばらしい
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 00:13:41
自分に危険がないような暴力行為はまったく意味がない。それにはモラルがないですからね。
ですから、アウシュヴィッツや、原子爆弾には、いまでも反対ですね。それは、
ヒューマニズムとちょっと違うんだな。ヒューマニズムだからそういうことをしちゃいけない、
というのとはちょっと違う。
無を、スタイルによって自分の中にうまく引き止めた人間、それが芸術家じゃないでしょうか。
一般にスタイルってものは、ある個人のいちばん深いところから出てきて、社会の
いちばん浅いところまで支配しちゃうようなものでしょうね。後世から見ると、それが
その時代のスタイルというふうになって、非常に歴史的なものになっちゃうんですね。
不思議ですね、これは。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 00:14:02
精神分析ってのは、ついにスタイルの問題を解決しない。スタイルを解決しなきゃ、
芸術は絶対分らない。精神分析は、いつも超歴史的なモメントを持ってきて、いつも
おんなじところへ引き戻す。おんなじところへ引き戻して、どうしてミケランジェロが
いて、どうしてワットーが出てくるか、そういうスタイルの問題を、何ら解決しない。
ですからあれは、あらゆる芸術美学がそうですが、フロイトも芸術論でいちばん
失敗していますね。カントも「判断力批判」では失敗していますね。
かりにも美ってものに哲学者がタッチしたり、あるいは哲学者以外のああいう学者が
タッチしたら、全部まちがえるのはそこです。ぼくは、けっきょく、それが歴史だろうと
思うんです。芸術っていうのは、非常に個性的なあらわれ方を、自分ではしていると
信じているんだけれども、どんなことをしてもできない。それが芸術なんですね。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 00:14:34
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、
みんな大笑いする。
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でも
なんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、
ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下で
なければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。
ベトコンはやせているから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。
どうして日本のインテリというのは、ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は
重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 11:20:00
了解
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 10:55:44
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。
そういうときに何があるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、
ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、
そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 15:51:44
かっこいい
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 19:33:21
時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。
だから女は時間に遅れる権利があるんだよ。(中略)
女は自分が時計なんだから、肉体がちゃんと時計の役割をして、規則正しく自分の影響を
受けている。時間内存在なんだよ。男は時間外存在になりかねないから、しょっちゅう
時計に頼らないと、こわくてこわくて。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。
鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の
真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 19:33:49
ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、
鏡花はどこかへ連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていって
くれる文学というのはほかにない。
…谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。天国へもいかない。川端康成さんは
ある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。地獄ですかね。
鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
スウェーデンボルグ流に言うと天使界かな。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 00:30:04
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言って
いるわけです。場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければ
ならないでしょうね。天皇制の本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、
右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党がやっていたのは共産党が
バカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。
あそこで陛下の帽子をふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 00:31:57
彼ら(共産党)は天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。
だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持までできれば成功していたし、第一党に
なっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。しかしもう遅い。
守るというのは剣の使命であって、言葉の使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。
守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 10:31:54
三島:僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は
戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきた
ということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。
武田:いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタに
なっちゃう。
三島:でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを
言わなかった。
武田:それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。
三島:そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみると
いやだよ。
武田:いやだろうけど、それは我慢していかないと……。
三島:それじゃ、我慢しないでだよ、たとえば、戦後社会を肯定して、お金をもうけることは
非常に素晴らしいことだ、これならだれに対しても恥ずかしくない、と言えるかな。
武田:言えないでしょう、それは。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 10:33:04
三島:言えないでしょう。そうすると、われわれだってどっちもいけないじゃないの。
どうするのよ……。
武田:だから最後まで強気をもつということよ。
三島:強気をもつということは、もう小説を書くことじゃないだろう、そうすれば。
文学じゃそれは解決できる問題じゃない。
武田:だって、小説だって、あの長いもの書くのに、強気でなければ書けないよ。
三島:しかし僕は、それは絶対文学で解決できない問題だと気がついたんだ。
…たとえば政治行為というものはね、あるモデレートな段階で満足できるものなら、
自分の良心も満足するだろう。たとえば、デモに参加した、危険を冒して演説会をやった、
私は政治行為をやったということで、安心して文学をやっていられる。私は自分の良心に
これだけ忠実にやったんだぞ、ということで、文学をやる、小説が売れる、お金が入る、
別荘でも建てる、犬でも飼う、ヨットを買う、そんなことほんとうにいやだな。
武田:それは、あなたはいやでしょうね。
三島:ほんとうにいやだな。
武田:だけども、つまり政治行動というものは、ほんとうはそうじゃないからね。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 00:09:23
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、
「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。というのはね、
やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来は
ないんだけれども、文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、
その二つの対立だよ。
「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、
今日始めなきゃだめなんだよ。だから一番緊急なことなんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 00:11:00
一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始める
というのが、ぼくは一番現実的な考えだと思うね。
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、
あぶないときにどっかに置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、
こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう
連中はね、どんなインテリよりもぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の
歴史を見てもよくわかりますがね。文化人というのはいつものんきなんだが、資本家が
金をこわがるように、どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、はかなさ、
というものを感じないんだろうかね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 00:12:03
いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。
そっからすべてものの危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを
投げ出してもいいと思うしね。
文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 00:13:08
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、
そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。それは
アンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して
古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)
天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。
その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、
お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 00:14:00
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと
飛び上がる椅子をつけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル
先から女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。
自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。
日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で
飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。
それはカソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。
頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 20:16:33
素晴らしい
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 11:47:56
ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)する
わけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、
いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくは
もし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口を
言われようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と
思うようになりました。ぼくのこの気持ちは、思想的立場の違う人、ゼネレーションの
違う人にはきっと理解できないんだと思います。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 11:49:01
いまの相対主義的な世界におけるエロティシズムというのは、フリー・セックスでしょう。
なんにも抵抗がない。あんな絶対者にかかわりを持たぬセックスなど、ぼくは
エロティシズムとは呼びたくないですね。
やっぱり穀物神だからね、天皇というのは。だから個人的な人格というのは二次的な問題で、
すべてもとの天照大神にたちかえってゆくべきなんです。今上天皇はいつでも今上天皇です。
つまり、天皇の御子様が次の天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時に
すべては天照大神と直結しちゃうんです。そういう非個人的性格というものを天皇から
失わせた、小泉信三がそれをやったということが、戦後の天皇制のつくり方において
最大の誤謬だったと思うんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 11:50:47
明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、
あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは
嫌いなんです。どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。
それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。
だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、
革命にしろ、その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、全共闘には、やっぱり
生命尊重主義というか、人命の価値が至上のものだという戦後教育がしみついていますね。
(ウーマン・リブは)バカの骨頂ですね。女が女であることを否定したら損だということが
理解できないんですね。ただバカな女どもですよ。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 11:53:06
ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集は、もちろん
ほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん
苦しんだのは、あの手記の内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と
日本との融合だったんですよね。戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と
西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。そこを突っきって
行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。
それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと
書いてある。そういう考えは、ぼくは許せない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 11:55:14
どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、
蒙昧主義的な、そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連に
つながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動に
つながっているんです。
大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまい
だろうと思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは
出てこないでしょうね。未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。
安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、ぼくは行けないんです。それで世界中が、
すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、まったく同じ精神、
同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、
それはよいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 14:53:31
名言
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:19:02
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。
三島由紀夫「踊り」より
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:20:27
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて
失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在の
ありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののため
なのである。自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。
三島由紀夫「踊り」より
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:21:31
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の
宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、
無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、
純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。
三島由紀夫「踊り」より
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:22:56
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の
肉体に音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すもの
だといへるだらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる
別様の法則と秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。
三島由紀夫「踊り」より
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:23:55
…ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影で
みたしてしまふ。未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、
踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久に
よろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。
三島由紀夫「踊り」より
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:27:09
名言
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:51:03
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの
昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:53:06
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:54:16
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:55:17
どんな政治体制でも歴史的な基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では
日本の天皇制もまったく同じだと思います。ですから民主主義が悪いとか、天皇制が
いいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に立った政治体制が
できていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。
…資本主義国家も国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の
国家の時代という点では、国家の管理機能はむしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。
これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、そんなことは先のことである。
我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように
私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、
それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:56:13
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの
社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が
戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、
日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識が
ある国です。というのは、ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。
ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、クラブというのがありますね。
みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブをステイタス・
シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段を
するわけです。(中略)
アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:58:58
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。
…一つの社会風俗的現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに
乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金でキャデラックに乗っている、それが
ブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けば
それがブルジョアなのか。そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に
別荘を持っている。(中略)
私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を
使ったってできるのだ。(中略)
権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、
我々はむしろ権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 10:59:49
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に
同情する人がなくなっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン
動物愛護協会というものなんです。これは生活の余裕がなければできないことで、
オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方はわかりますが、犬を可愛がって、
犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうになっちゃう
ものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中から
どうやって社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 11:00:48
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 22:06:11
素敵
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 00:40:09
肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、
これは私がいつも考えてきたことであります。なぜなら、われわれは自分の肉体の外へ
一ミリも出られない。こんな不合理なことがあるだろうか。
おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ。ぼくは空間を
意図しないけれども、時間を意図している。
文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。
外在すると同時に内在するその中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の
行為である。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 00:41:40
私にとっては、関係性というものと、自己超越性――超時間性といいましたかな、
そういうものと初めから私の中で癒着している。これを切り離すことはできない。
初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、別の癒着の形として
行動も出てくる。
言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかに
どんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して
私は去っていきます。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:57:27
名スレ
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 21:41:08
佐々木某―永井鷹―平岡夏子―平岡梓―平岡公威(三島由紀夫)
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:27:45
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を
離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼む
ミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩(平八郎)は太虚といふものこそ
万物創造の源であり、また善と悪とを良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに
至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。彼は一つの譬喩を
持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま太虚に
帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち
肉体に包まれた思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち
肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:29:58
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば
能動的ニヒリズムの根元と考へてよいだらう。
…仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に
達してまた現世へ戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へには
この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける
抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動ともいふことが
できるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:32:33
陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。
ラショナリズムに立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、
太虚の一つである。この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や
耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つてゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と
異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に帰すれば、天がすでに
その心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:35:10
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていく
ほかはない。形のあるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつて
ゆすぶられる。何故なら形があるからである。しかし、地震は太虚を動かすことはできない。
これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を語ることができるのである。
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。
心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の
正義と一致するのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:37:47
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。
また、心の外にある虚は、すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。
この説は世界の実在はすなはちわれであるといふ点で、ウパニシャッドのアートマンと
はなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを
恨む」といふことをつねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと
思はれるのである。心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。
だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを
知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:43:27
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると
日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」
といふ人が無数にふえていくことが想像される。肉体の延命は精神の延命と同一に
論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、
ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、
肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり
平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを
恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:45:55
死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が
生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であつて、肉体を離れるとき初めて
この死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ気持のうちに
死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に
帰ることである。
ひたすら聖人に及ばざることのみを考へてゐるところからは、決して行動のエネルギーは
湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と同一視することであり、
自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを
経過した行動ならば、その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な
行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ
知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:53:04
日本が貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの
一環に属することによつて西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による
抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を
革正することによつてしか、最終的に成就されない道である。そのとき革新思想が
どのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその政治的有効性の方向に引きずられて
いくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの陽明学といふ
忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における
精神の闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 22:58:20
廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシャの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのである。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる
目と牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き
出してゐる。(中略)
大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。
三島由紀夫「旅の絵本 壮麗と幸福」より
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 22:59:38
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を
離れ、われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、
そのためにそれが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの
理由の、どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在を
すでに喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。
廃墟は現実の人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、
自然に対立して自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や
神官や女たちのやうには、灰に帰することから免れた。と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の
役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。
三島由紀夫「旅の絵本 壮麗と幸福」より
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 23:00:37
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然――ここではすさまじいジャングルの無限の緑――との間に、
対等の緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と
対比されて深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。
われわれが神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、
そこに漂ふ厖大な「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。
三島由紀夫「旅の絵本 壮麗と幸福」より
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 13:38:57
素敵
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 23:52:09
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も負はずに
社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も
読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。
みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。
三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 23:59:02
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげて
ゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。写真や映画は
正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。かうなつてくると、
いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。
私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。
三島由紀夫「同人雑記」より
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 14:19:20
かっこいい
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 18:07:42
キモイ
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 20:08:36
Q:若い人に対して、自由と規律について。
三島:十代二十代といふのは、身体の中に力がいつぱい余つてをりますからね。これを外へ爆発させたいといふ
気持があります。しかし、その力がどつちへ行くかわからないから、それに方向を与へてやらなければならないのです。
そのためには、剣道なりスポーツなりをやらせるのは非常に有効なんです。彼等は自分でもどうしたらいいのか
解らないのですから、どうしても必要ですね。
僕はいつも思ふんだけど、みんな青年に達したら団体訓練をやらせるといいと思ふんです。なにも戦争をやれと
いふのではないのですが……。それも義務的に一度団体訓練を経験させるといいと思ひます。
むかし、村落共同体には「宿」といふものがあつて、そこで団体訓練をうけてきました。もつと古くは、
成年式みたいなものがあつて非常に厳しい訓練を受け、辛ひ思ひをしてやつと一人前の男と認められたのです。
三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 20:10:23
ところが現代社会は技術の社会ですから、団体訓練が全くいらなくなつて、技術的知識が一人前であれば、
一人前の人間として認められる社会ですから、訓練ができてゐません。人間は技術的ないしは行政的知識だけでは
絶対に足りないと思ひます。人間には身体があるんだから、身体からしみこむものが必要です。
Q:「剣」のなかに「強く正しい者になるか、自殺するか、二つに一つなのだ」といふ文章がありますが……。
三島:この世の中で強く正しく生きるといふことは不可能なことです。みんな少しづつ汚れてゐます。
生きてゐるといふことは汚れてゐることですからね。
三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 20:11:20
Q:先生の皇室観について。
…僕は、天皇制といふものは、制度上の問題でもなく、皇居だけの問題でもない。日本人の奥底の血の中に
あるもので、しかもみんな気付いてゐないものだと思ひます。だからどんな過激なことをいつてゐる人でも、
その心の奥をどんどん掘りかへしていくと、日本人の天皇との結びつき、つまり天皇制といふものの考へが
ひそんでゐると思ひます。我々は殆(ほと)んど無意識のうちに暮してゐますけど、心の奥底で、天皇制と
国民は連なつてゐるのだと思ひます。それを形に表はしたのが皇室なんです。
ですから皇室で一番大切なのはお祭りだと思ひます。
“お祭り”を皇室がずつと維持していただく、これが一番大切なことです。歴代の天皇が心をこめて守つて
来られた日本のお祭りを、将来にわたつて守つていただきたいと思ひます。
三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 20:12:28
Q:現代かなづかひについて。
…僕は今の若い人は現代かなづかひでなければ小説など読まないと思つてゐたんですけど、かならずしも
さうではないやうです。
言葉をいぢるといふことは、言葉の魂をいぢることで、日本人の歴代を人為的にいぢるのと同じことです。
僕は大嫌ひですね。言葉を大切にしない民族は、三流ですよ。
Q:先生は「文章読本」の中で、プロとしての文章家を一般と区別してをられますが……。
三島:プロといふのは僕達のことです。文章といふのは、誰れにも書けるやうで書けないものなんです。
音楽でしたら勉強しなければ出来ないとはつきりしてゐるが、文章は誰れでも書けると思つてゐるんです。
そこに錯覚があると思ひます。
しかしプロといつても、何でも書けるか、といつたらさうでもない。私が大蔵省に入つたとき大臣の演説文を
書かされましたがね、(中略)僕達の文章では大臣の演説文は書けない。
三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 12:17:41
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。それは
誘惑なのである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 12:18:48
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされる
らしく、夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:23:27
理想的な父親の教育とは、父子相伝の技術の教育であつた。そこに父親といふものの意味があつた。漁師の父親が、
息子に、縄のなひ方から、櫓のこぎ方、網の打ち方、などをだんだんに教へてやる。時には、わざと教へないで、
息子に危険を犯させて自得させる。そして父親の死後、息子は若かりし日の父親とそつくりの、村一番の、逞しい、
熟練した漁師になる。舟を漕いで沖に向ふとき、朝焼けの空の雲一つが、人の顔のやうに見え、その顔から、
父親のきびしい、しかし温かな面影を思ひ出す。……
これが本当の父子といふものだ。しかるに都市のインテリ階級は、息子に伝へるべき技術を何も持たぬ。上役に
おべんちやらを言ふ技術なんか、息子に教へるわけには行かない。私のやうに、都市インテリ階級の家に生れて、
その上、特殊な文筆業の、決して息子に伝へることのできない一代限りの技術で生活してゐる者はどうすれば
よいのか?
三島由紀夫「わが育児論」より
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:24:38
事業を持つてゐれば、事業を息子に継がせるための教育といふものもあらう。しかし、私は自分の息子が文筆業者に
なることを決して望まないのである。世俗の目からは収入(みいり)のいい職業だと思はれてゐるかもしれないが、
この職業の心の地獄を私はよく知つてゐるからだ。
そこで子供には普通の市民生活への道を歩ませたいのだが、そのためには家庭の環境が特殊すぎる。大体子供が
向上心を持つには、親が適度に貧乏であることが必要なのだが、むかしの日本では、貧富を問はず、子供(殊に
男児)に贅沢をさせない気風は徹底してゐた。私は貿易自由化の今でも、学生が、高価なスイス製の腕時計を
はめてゐたり、舶来の万年筆を使つてゐたりすると、言ひやうのない不愉快な感じをもつ。しかし今の子供は
昔とちがふ。(中略)今では、収入の多い親が、ムリヤリ経済的に子供を圧迫して、自分の古い儒教的倫理観を
満足させたところで、そんな不自然なことには、子供がついて行かないのである。
三島由紀夫「わが育児論」より
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:26:28
私は今六歳の女児と三歳の男児を持つてゐるが、女児が生れたとき、私は父親の最低限度の教育として、三つの
言葉を教へようと骨を折つた。それは、
「こんにちは」
「ありがたう」
「ごめんなさい」
の三つである。「こんにちは」は、「おはやう」「おやすみ」「ごきげんよう」「こんばんは」「さやうなら」
等々を含み、要するに日常の挨拶である。
「ありがたう」は、社会生活の要求する最低限度の言葉で、人に
何かをしてもらつたとき、人に何かをもらつたとき、必ず言ふべき言葉である。
「ごめんなさい」は、自分があやまちを犯したとき、素直に口をついて出るべき言葉である。
この三つが、大人になつてもスラリと出ない人間は、社会生活の不適格者になる。私は口やかましくこれだけを言ひ、
子供たちはどうやら言へるやうになつたが、言はないときは忘れずに寸時を措かずにこちらから催促する。
とにかく命令して言はせるのである。
三島由紀夫「わが育児論」より
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:27:29
それから、テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところで
あるので、どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、
多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には
帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。子供のウソは、子供の夢と
結びついてゐるからである。
三島由紀夫「わが育児論」より
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 11:19:32
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルクの
港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、
威風堂々と入つて来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは
別に応答もなく、まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。これは実に単純な感情で、
とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、
それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な明るい心情が、
そこから光りを放つてゐるやうだつた。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 11:20:29
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。私はひねくれ者のヘソ曲りで
あるし、私の心情は時折明るさから程遠い。それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くして
ゐるのである。これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなに
いつも「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。いくらインテリぶつたつて、
いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、結局、
いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ帰ることができるんだな、と考へる。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 11:21:25
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。しかしそんなことは
どうでもよいことだ。私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいた
ところで、小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを
大切にする。人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する。
日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 11:22:37
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の
特攻隊を誇りに思ふ。すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、
押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の
部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と
勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 11:23:41
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と
同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、
理由のないことではない。だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。日本人がノイローゼに
かかりにくいことを誇りに思ふ。どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを
誇りに思ふ。そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 14:01:23
素晴らしい
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 11:25:12
私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと一本の
ネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。
(中略)
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の資格はない。
せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。靴下のことまで
考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、もう一歩進んで、
自分の頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。
三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:06:10
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は
進歩してゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もう
スターリン批判以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の
西洋崇拝から言ふと少し外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の
理想から遠くなつてしまつた。近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的な
ラディカルな革命のやり方でやれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:07:39
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の
下に於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の
本当に実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:09:02
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。
(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは
来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が予測されない闇の中を進んでゆくためには、その闇の
彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに対決して本当に自分の現在に生きるかといふことの
二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:10:06
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、
私自身の考へから、経験から言へるのです。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:11:21
(中略)
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間の
ところで文化は完結してゐる。その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:14:14
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ
気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふ
ものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを
背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。
(中略)「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと驚いた
ことがあるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:15:36
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができる
といふのは、人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:17:17
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と
伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと
思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で
後輩を、又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると
思ひます。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 23:27:32
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。
三島由紀夫「劇画における若者論」より
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 23:28:40
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。
三島由紀夫「劇画における若者論」より
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 14:28:07
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会へば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。なぜ多数を恃むのか。
自分一人に自信がないからではないのか。「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。その少数の一人一人が、
「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。たつた一人孤立しても、
切り抜けて行けなければならない。
三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 17:36:45
すばらしい
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 13:02:37
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、
さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として
抹殺するにいたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な
問題に触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。
三島由紀夫「一貫不惑」より
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 13:03:37
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、
その点、思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。
三島由紀夫「一貫不惑」より
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:25:02
三島:日本人はアジアでも特殊な民族で、外来文明に対する抵抗力はいちばん強いと思う。肺結核の黴菌に
対しても、清浄な空気の田舎から出てきた人は非常にかかりやすく、都会でもまれて免疫になっている人は
かかりにくいのと同じで、日本は外来文化の吹きだまりと言われているぐらいなので、抵抗力はアジアでいちばん強い。
インド人は依然としてサリーを着ている。インド人は外来文化に対して立派に抵抗している。日本人の男は
似合いもしないセビロを着、女はドレスを着ている。
皮相な観測をする外国人は、日本人は無節操で外来文化に対する抵抗力がないというが、そんなことはない。
似合わないセビロを着ていられるから抵抗力があるのだ。そういう恰好ができないということは、逆にいえば
抵抗力がないということだ。ガンジーが糸車で抵抗したのはそれを知っていたからだ。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:26:26
三島:トインビーが言っているように、東南アジアから近東地方にかけての西洋文明の侵略に抵抗しえたのは
ガンジーの糸車である。もし、たとえ小さな機械でも、あれを機械に変えていれば、堤に穴があいたように、
そこからどっと西洋文明が入って来る。そして社会が改革され、経済が改革され、西洋人が教えたとおりにやっていく。
現に東南アジア諸国は西洋をまねて革命を起こそうとしているが、日本はその点、いつもぐずらぐずらしている。
明治維新だってしようがないからやったんだ。のらりくらりで、相手を受け入れても抵抗力を失わない。
これは自信を持っていいと思う。冷蔵庫やテレビをおいても、もう一つの世界を持っていける力がある。
人生をフィクションにする力は、日本人の大きな力だ。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:27:35
三島:アメリカ人をご覧なさい。アメリカ人は六つの頃からセビロを着て、死ぬまでセビロを着なければならない。
ほかに着るものがない。人生をフィクションにする部分は一つもない。教会に行ってもプロテスタントの教会だから、
カソリックと違って飾り物やお祭があるわけでもない。
その一生は、人生のフィクションを味わうものがなにもないから、じつにさびしいものだろう。そうだから、
日本の文化に見られる人間精神の、純粋な結晶に、憧れを感じる。日本人はそれをケロっとして持っている。
自信を持っていい。
千:私もそれを考えて、ある席で言ったことがある。日本人は模倣性が強いというが、そんなことは考えなくともよい。
無意識のうちに外にいるときは洋服、畳の上にいるときは着物を着る。衣食住に関しては、外国人ができないことを
平然としてやれる。ですから、こういう機械文明の時代になっても、茶室で静かに自分の境地をさがし出すこともできる。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:28:27
編集者:(中略)お茶事は演出するもの、フィクションである。しかも、それは歌舞伎の「先代萩」とか
「菅原伝授」とか、たとえ俳優がかわっても繰り返してなんべんでもやれるというものではない。
だから一期一会……。
千:一期一会はお茶から出ているんだが、べつにお茶だけに限らなくともいいでしょう。人間はおたがいに
生活に追われているから、一日の一瞬間でも、ほんとうに心からとけあってお茶事を構成していこう、そういう
解釈でいいんじゃないですか。今日会えば二度と会えなくても満足だという真剣勝負のような気持、そういう
気魄は当然あるべきだと思う。ただ、それを押しつけては、おたがいに窮屈になってしまうけれど。
三島:最高の快楽というのはそういうもんじゃないか。
現在の一瞬間を最高に楽しむ。非常にストイックな快楽ということになりますね。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:29:24
千:瞬間瞬間をいかに満足するか。お茶を出す亭主はどういうようにすればお客さんに喜んでもらえるか、また
客のほうは、どうすれば雰囲気のなかに溶け込んで、自分というものが亭主に快く受け入れられるかという
瞬間的なふれあい、それは今言われたように、最高の快楽、和・敬・清・寂というものだろうと思う。
三島:たいへん教養のあるアメリカの婦人が、日本にきて、北鎌倉のあるお寺に行ってそこの高僧に会った。
春で庭に梅の花が咲いていた。その人は日本語ができないので、おそるおそる座敷に入って、端近に座った。
やがて和尚さんが現われてニッコリした。彼女もなにもわからないがニッコリした。その瞬間、彼女はここで
死んでもいいと思ったそうです。これまで五十何年間生きてきたけれども、自分が死んでもいいと思った瞬間は
あのときがはじめてだといっていたが、ここに道を求むる人ありという感じでした。(笑)
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 13:32:20
三島:(中略)これは古い言葉ですが、伝統芸術というのはおしなべて「捨身飼虎」の精神がほしいと思う。
身を捨てるということは、現代ではセビロを着ること、テレビを見ること、洗濯機を使うこと、地下鉄を乗ること、
これが現代の捨身。お茶はほんとうにおそろしいものですよという位置まで高めるのが飼虎。そうしなければ
いけないと思う。いま歌舞伎や能の人のやっていることは、虎が檻から勝手に出てしまって、自分では虎を
飼っていない人が多い。そこで身を捨てないで、着物、羽織、袴をはいても、虎がいないのでは人の心をつかめない。
お客さんは檻のなかに虎がいないことを知っている。(中略)
編集者:…お茶は虎だというのは非常に大切だと思います。盲蛇におじずで、虎を猫だと思っている人が多いから、
猫じゃなくて虎だということを知らせるのは伝統を守るために必要なことでしょう。外人を茶室に入れたら、
キチッと坐らせて、猫じゃなく虎だと思わせることは非常に必要なことですね。
三島:ますますこれから必要でしょう。総理大臣までチョロチョロしている世の中で、日本の凜然たるものを
持っているのは伝統文化だけだということになるかもしれないですね。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 23:46:44
このごろでは先生が鞭を鳴らしながら授業でもしたら、「サーカスぢやあるまいし」と、忽ちPTAにいびり
出される始末になるが、むかしは先生は、ちやんと「教鞭」を持つてゐたものであつた。
私自身の小学校時代をかへりみるに、賞罰は実にはつきりしてゐた。しかし、そこには先生の人徳といふもので、
同じひどい目に会はされても、カラッとした人柄の先生にはいつまでもなつかしさが残り、陰気な固物の先生には
やはり面白くない記憶が残る。(中略)
そのうちに怖いのは先生よりも上級生といふ時代がはじまる。
そのころ鬼よりも怖かつたA先輩など、今会つても頭が上がらない。私の母校は敬礼のやかましい学校で、
一級上の上級生にでも挙手の礼を忘れたら、どやしつけられた。
…小説を書く奴なんか軟派だと言つて目をつけられてゐたから、運動部の猛者は殊に怖ろしかつた。私は
旧制高校の最上級生のとき、総務委員といふものになつて、運動部の予算をもすつかり握る権力を得てから、
はじめて彼らに復讐する快感を満喫したのである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 23:47:58
…文学者としての自分を考へると、一般的に「文学を否定する」雰囲気があつたといふことは、自分の文学を
育てる上で、大へんなプラスになつたことはたしかである。
私は天才教育などといふアホなものを信じない。「何クソ」といふ気持を養はせるだけの力がなければ、
何事も育ちはしない。
現在の学校教育の実態にうとい私だが、ほぼ確実だと思はれることは、そこには軟派と硬派の区別もなくなり、
文学芸術を否定する空気もなければ、一方、スポーツ万能を否定する空気もないことだ。むりやり右へ行けと
言はれるから、あへて左へ行く勇気も生まれるので、西も東もわからぬ子どもに、「どつちへ行つてもいいよ」
と言へば、迷ひ児がふえるだけのことである。その意味で、丹頂鶴の日教組の極端な左翼教育も、私には、
失ふに惜しいもののやうな気がする。この行き方をもつと徹底させれば、反骨ある愛国少年を、却つて沢山
輩出させることになるのではないか。もつとも、そのための極左教育は反抗期の中学生時代からやつてもらひたいが。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 23:49:33
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。
猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。
万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、単なる
抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。個性などといふものは、
はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。
それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり
耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり
熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 23:50:57
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、
妥当な罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。
生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには
心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、
大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。
ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が苛酷だといふ
伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。どこの学校もネリカン並みになれば、
とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、少年不良化の防止になるにちがひない。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 23:52:17
暗い陰惨で辛い生活をとほりぬけて来たといふ自信と誇りを、今の子どもは与へられなさすぎる。
「学園」といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいな
イメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。
学校の建物も質素で汚ならしいことが必要で、何だつてこのごろの学校は、高級アパートみたいな外見を
とりたがるのかわからない。冷暖房装置などは以てのほかで、少なくとも中学校以上は、暖房装置も撤去すべきである。
かじかんだ手でノートをとるといふあのストイックな向学心の思ひ出を、これからの子どもはもう持たなく
なるのではないか。
…何事にも感覚的享受しかできない少年期には、「精神」に接するにも感覚的実感が要るのだ。その「精神」の
感覚的実感とは、要するに「非物質的感覚」であつて、寒さであり、オンボロ校舎であり、風の音であり、
たよるもののない感じであり、すべて眠たくなるやうな「生活の快適さ」と反対なものである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 23:54:24
私は、一流商社のやうなツルツルした校舎へ毎朝吸込まれてゆく学生たちが、数年後サラリーマンとして又もや
ツルツルした大ビルディングへ毎朝吸込まれていくことを考へると、その一生が気の毒になる。オンボロ校舎の
精神的風格などを一生知らずに、ツルツルした表紙の週刊誌ばかり読み、団地生活をつづけてゆく人間が
かうして出来上がる。政府は政令を発して、学校建築に制約を加へるべきではないか。(中略)
こんなことを言つてゐるうちに、すべてはノスタルジアに彩られ、日清戦争の思ひ出話みたいになつて来たから、
ここらで筆を擱くことにする。
最後に、まじめな私見を言ふと、硬教育の復活もさることながら、現代の教育で絶対にまちがつてゐることが
一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。
古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。
ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、
即刻復活すべし。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 19:54:10
私は残念ながら、大阪における武智歌舞伎時代に、世評の高かつた君の「妹背の道行」の求女を見てゐない。
しかし、その後、映画で見る君の芸風、容姿から考へて、求女がいかに適(はま)り役であつたか、想像するに
難くない。目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に
出る者はあるまい。
君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。
市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬ
ところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げた
あらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げた
あらゆるものを注ぎ込んだ。さういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。
三島由紀夫「雷蔵丈のこと」より
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 14:33:27
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀(辰雄)さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。
私は小説と肉体との関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は
非常な胃弱でした。当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて
逆立ちして、しばらく我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして
私は、自分の身体を鍛へ直さうと思つたわけです。
(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 14:34:35
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまで
ズルズル入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうに
そそのかしてゐる。多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識が
ある人間に技術を与へて小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。
三島由紀夫「日本とは何か」より
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 14:35:39
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 14:36:38
(中略)そして、日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを
考へてゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。
(中略)
私は今のやうな時代には、つまりは安保賛成、反対といふやうな簡単な問題ぢやないんだ、これから日本といふ国は、
「日本とは何だ」といふことを非常に鋭く鋭く、ますます問ひつめられる状況にあると、かう判断するわけです。
安保については、…安保賛成か反対かといふことで私は日本人全部を分けるといふ考へには賛成ではない。
これは、あたかも白人と黒人とにアメリカ人を分けるやうなもんだ。私はやはり、安保反対か賛成かで
分けられないものが日本人のなかにある。それが、日本人が合理的に安保に賛成したはうが生活が楽であるといふ
やうな論理算段、理性判断ぢやなくて、情緒判断における選択といふものがどこかにある。これが七〇年問題の
これから先の大きな問題になるんぢやないかといふことを、私は信じて疑はないんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 14:37:46
これから一年、来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、
表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、安保賛成か
反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
…私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに
初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。
そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、アナーキストも出てくるでありませうし、
われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。しかし、われわれは最終的にその問ひかけに
直面するんぢやないかと思ふんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 14:40:13
たまたま私がさういふことを言ひますものですから、こなひだの全学連とのディスカッションで私の隣へ
ヒッピーふうな学生が来まして、ふけだらけの髪の毛が肩まで垂れて、髭を生やして不気味な感じでありましたが、
その男が「三島、お前は可哀さうだ。お前、日本人てとこに、完全に囲ひの中に入つてゐる一種の家畜にすぎない」
「君は一体なんだ」
「俺は日本人ぢやない」
「君はどこか外国で生まれたの?」
「いや、俺は無国籍だ」
「君の戸籍、どうするの?」
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」といふんです。私はその顔をいくら
眺めても、やはりモンゴリアン的な日本人の風貌をしてをりまして、これはどう考へても西洋人ぢやないと思つた。
かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」
――さういふ二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を
用意し、あるひは行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つて
ゐるわけであります。
三島由紀夫「日本とは何か」より
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/19(金) 15:49:02
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。
そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の
衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。
三島由紀夫「偏見について思ふこと」より
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/19(金) 23:11:44
私は戦時下のあの時代を、一面的に見られることの腹立ちを、いつも抑へることができない。又、あの時代に
不適格者であつたことを誇りにする人の気持が知れない。あの時代に永い病床にあつて、つひに病死した青年は、
自分の心の傷とも闘はねばならなかつた。しかし文学は、克己的な青年にとつては、嘆きぶしでも愚痴の捨て場
でもなく、精神の或る明るい平静な矜持を保つための方法だつたのである。
なるほど繊細鋭敏な感受性は、戦争には何の役にも立たない。だが、さういふ感受性の受難の運命は、
戦時中だらうと平時だらうと同じことだと悟り、若くして自若とした心を獲得することは、いづれにしろ一つの
勝利だつた。東氏は自分の非運を、誰のせゐにもしなかつた。
三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/19(金) 23:13:40
(中略)
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、
人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。ただ耐へること、
しかも矜持を以て耐へること、それも亦、ヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な
兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の
青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り出す機縁になることを、私は信ずる。
三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 20:53:15
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら
威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、
航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。私がお茶漬ナショナリスト
といふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、
どうにも否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、
一方では文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きく
しないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言つたらどうだらうか?
比較を一切やめたらどうだらうか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 20:54:16
(中略)
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、
衰亡してしまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を
名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 20:55:33
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の
国際会議か何かで、三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューに
ひるがへつた。これは実に晴れがましい印象だつた。自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、
一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 20:57:30
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の
感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を
鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、さういふ
中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつき
ながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 11:21:03
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、東南アジアと
日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに
国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。
まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。
ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 11:23:09
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、事実と
イリュージョンとの合金です。「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件が
あるでせう。海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。幻想をくだくには
幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 17:37:38
Q――寺院も寺院だが、信仰をする人々、つまりレリジョン・イン・アクションはどうでしたか。
三島由紀夫:これはもう……インドでは宗教が生きてゐます。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は
見たことがありませんね。…
Q――実践を持つてゐる宗教は強いといふことぢやないですか。キリスト教を例にとつても、宗教改革いらい
プロテスタンティズムは、宗教とは人間の頭のなかの問題である、といつてきた。ところが、長い目で見ると
カトリシズムのはうが結局は強かつたといふやうな……。
三島由紀夫:さうです。現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。だから
カトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも同様だが、生きてゐる宗教とは
そんなものなんですよ。プロテスタンティズムのやうなものは理論としてはりつぱだし、啓蒙主義の時代には
役立つたかもしれないが、いま宗教が復活するとすれば、あんな形では絶対に復活しませんね。…
三島由紀夫「インドの印象」より
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 17:41:21
Q――日本人のものの考へかたのなかで、絶対に日本以外には通用しないものがある、と感じませんでしたか。
三島由紀夫:…ぼくは外国に行くときは、必ず「ノー」といふ言葉を用意して行くんです。外国では「ノー」
といふのが三分の一秒でも五分の一秒でもおくれたら、あとで自分がえらいめにあふ。「ノー」といふべきときは
必ず「ノー」(大声で)と急いでいはなくちやならん。日本ぢや「ノー」といはなくても、あとでちやんと
始末がつきます。
Q――日本文化をどう思ひましたか。インドは、いはば日本文化の源流ですが。
三島由紀夫:昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(豊饒の海)も、唐・天竺的な大きい
文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。
で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。
三島由紀夫「インドの印象」より
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 21:39:53
Q――あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q――あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
Q――自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 18:17:32
すばらしい
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 12:59:42
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・
自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 13:01:04
(中略)
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、
批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、
政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ
思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながら
そこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 13:01:55
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的
盲信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 13:04:58
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 17:39:06
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 16:00:00
すばらしい
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 16:00:29
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、
私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 16:01:54
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を
防止しなければ、第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。十年もつといふ
宣伝で買つた洗濯機が、三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で
押して来られたら一トたまりもない。幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔を
してゐられるから、平和がありがたい、といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の
考へと同じである。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 16:02:59
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。
今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。
ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、
公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 16:04:07
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた
煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、
被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んでゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの
権威を落すものであると考へられる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 11:15:44
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 11:17:23
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 13:25:41
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は諦観ではない。
僕らの肯定には残酷さがある。――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦
正当である筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。
僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。時空の凡ゆる制約が、僕らの目には
可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――
そこに僕らはたえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に
僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 20:11:06
名文だ
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 17:43:12
(中略)
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。発見は「既存」の
革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の現象的相対的変化に他ならない。既存の
革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。(中略)
読者は僕らがなぜ革命を云はうとするのか訝(いぶ)かるかもしれない。しかし手始めに僕らは、革命といふ
概念の古さを修正しようとかかつてゐるのだ。十八世紀以来使ひ古されたこの陳腐な概念そのものに、革命を
与へることからはじまるのだ。(中略)
僕らは永遠への思慕を忘れかねて革命を欲求する。衝動のはげしさは革命の概念によつて盲目にされはしない。
熱情の血との併有。信仰と懐疑との美はしい共在。僕らは革命のスツルム・ウント・ドランクを通じて、無風帯を
留保しておくだらう。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 17:48:56
(中略)
熱情に対して、より低い次元の侵入を警戒せねばならない。あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を
昂(たか)めこそすれ、決してもみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに
僕らは誇りを感じるべきだ。(中略)
たえず高きを憧れる存在が同じくその存在にとつて本質的な他のものによつて掣肘される時醸し出される緊張は、
その存在から矛盾と衝突が取除かれ融和と協同のみが得られる所謂「完成」と之を比べる時、何れ劣らぬものを
もつてゐるのではあるまいか。形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。
結果たる勝敗を本質的なものとして固定的に考へるならそれは変様と過渡とにすぎぬが、併し真の普遍性と
永遠性は後者のなかに見出だされるかもしれないのだ。独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。
不変なるものは変様のうちにひそんでゐるかもしれない。僕らの若さはなるほど本質的なるものが分裂し互に
制約する点にもともと悲劇的なものであるといへるし、若さそれ自身が不吉であるとさへ感ぜられる。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
しかし傍目には退屈なこの形成の過程は、それから生れ出る結果を俟(ま)つまでもなく、それがそのまま
抽象されて評価に耐へうる筈だ。未完的完結の形に於てその刹那刹那に終止する否定しがたい意味が見られる筈だ。
その外見上の未熟と不完全とにも不拘(かかはらず)、(壮年老年の文学が表現によつて定型化されるなら)、
若年の文学は表現を掣肘せんとする凡ゆる時間的空間的因子によつて定型化されるであらう。いはゞそれは
ネガティヴな、これまた貴重な表現型式であるといはねばならない。若年の文学的作品はその言語的表現以前の
評価の基準となりうべき、或るかけがへのない不吉な「確かさ」に満ちてゐるものだ。
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。なぜなら我々の
最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりでその存在の可能性のみを信仰してゐることに
存するのだから」かくの如く僕らは主張し警告することを憚るまい。(中略)新らしい時代を築かうとする若年には
夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に
矜り高くその道を歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 18:16:12
その外見上の未熟と不完全とにも不拘(かかはらず)、(壮年老年の文学が表現によつて定型化されるなら)、
若年の文学は表現を掣肘せんとする凡ゆる時間的空間的因子によつて定型化されるであらう。いはゞそれは
ネガティヴな、これまた貴重な表現型式であるといはねばならない。若年の文学的作品はその言語的表現以前の
評価の基準となりうべき、或るかけがへのない不吉な「確かさ」に満ちてゐるものだ。
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。なぜなら我々の
最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりでその存在の可能性のみを信仰してゐることに
存するのだから」かくの如く僕らは主張し警告することを憚るまい。(中略)
新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、
凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 20:44:16
すばらしい
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 23:19:50
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着として、
生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、池水が
前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ存在の意義を
比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に於ける逢会であつた。
私は不朽を信ずる者である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「別れ」より
良スレ
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 19:38:42
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 19:40:01
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との
信念で行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは
大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 19:41:24
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど
考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。
さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのでは
ないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、
自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 19:42:23
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を
動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、
さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにも
ならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 21:22:12
素晴らしい
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:15:50
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:16:51
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:18:03
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、
ギリギリにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、
必然性と不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、
ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目も
ふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、
醜悪なんです。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:19:01
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:20:08
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。
…「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:22:18
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、
告白も、かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 10:23:13
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 20:05:34
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、――ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 20:06:57
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 20:08:20
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、
ほんとの能力というのはあったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。
それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、
みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 20:09:20
(中略)
目ですね。
ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を
鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。
しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 20:10:19
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足に
つかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。
…ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、
動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。
動くものが、美しい。“動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来にはなくて、源泉のなかに
あるのだ、という感じがする。
三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 19:39:46
すばらしい
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 14:50:44
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 14:52:46
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、
散歩でも、現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(中略)
プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の
判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 19:56:30
良いね
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 15:53:56
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。
男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。
「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 15:55:09
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を
堅持してゐる。何のために車を持つか? 一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から
都心までは、ラッシュ・アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて
四十五分はかかる。これでもなほ車に乗るのは、どうかしてゐる。(中略)
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率と
スピードに背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうに
なつたら、一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 21:14:48
すばらしい名文
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 00:43:10
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。
みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど
血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい
椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(中略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 00:45:41
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの
赤ん坊の可愛らしいこと!…(中略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。(中略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 19:00:32
いいね
三島面白いな
俺みたいな教養の無い中卒でも面白いと思える
教養よりも感受性に訴える部分が大きい人かな
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 17:25:29
>>231 イメージよりも意外とユーモアのあるエッセイがありますね。
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 00:20:15
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に
陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(中略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 00:21:57
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと
思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や
羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する
人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な
やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 00:23:13
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ
脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を
素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを
歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ
コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう
といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも
あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(中略)
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 00:25:09
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い
羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ
ものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(中略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを
対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 02:07:29
すばらしい
三島さん深いなあ、目から鱗
普段漠然と抱えてる説明出来ない何かを、あぁ、なる程、そういう事かって気づかされる
だけど三島さんが表現した文章を自分が思っていた事かの様に錯覚して感銘を受けてる自分が信用ならん
しかし感銘の本質ってそういうもんなのかな
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 08:16:31
素晴らしい
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 00:01:09
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるい
ものはない。さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、
ニグロに対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局
インディアンの伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙の
ヨーロッパ人としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代に
インディアンと戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的
危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、
あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。
三島由紀夫「西部劇礼讃」より
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:28:50
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな
ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、
日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな
国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する
抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、
今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の
ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:30:18
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領される
おそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の
舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに
なつたのはもつともである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:31:37
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、
どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、
「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:33:15
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の
馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい
起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。
しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に
忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の
祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ
ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。
日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と
喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(中略)
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:35:02
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードをかついで
ゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の
祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと
苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、
形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる
「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 10:58:51
素晴らしい
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 22:51:19
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。
三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 20:37:09
機能主義といふと、バカに働き者らしく威勢よくきこえるけれども、その実、現代人のナマケ性にマッチして
ゐるやり方かもしれないのである。三度の食事も、コソコソと、昔なら男子禁制の台所の一隅で、リビング・
キッチンとやらのおちつかない合成樹脂の棚の上で、大いそぎですませる。さういふと働き者みたいだが、
私に言はせれば、そんなやり方は、御飯のたべ方を怠けてゐるのである。むかしの人は御飯をたべるのにも、
煩をいとはず、全身全霊をこめて作り且つ喰べた。(中略)
グッド・デザインとは、生活に対する一生けんめいな、こまごました、わづらはしい意慾と関心が薄れて来た
時代の産物である。さういふ関心をみんな機械が代用してくれる時代の産物である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 20:38:11
ところで、西洋ではグッド・デザインも意味があるので、ルイ式の家具調度や、曾祖母ゆづりの食器一式に
飽きた人たちが、かういふ簡素なデザインに魅力を感じる意味もわかる。古くさい家具や食器に対する、
離れがたいなつかしさと同時に、不便な憎たらしさがつのつてくると、新デザインの家具や食器がほしくなるのも
わかる。はるかに快適で、便利で、使ひよい。明るく清潔で、手入れも面倒でない。
しかし日本では、そこらへんが微妙である。日本の家ほど機能主義的な家はないので、一間が寝室にも客間にも
居間にも茶の間にもなる。ナイフやフォークやスプーンの代りに、箸が二本あれば足りる。襖は、壁とドアを
兼用してゐる。作りつけのベッドの代りに、ふとんがあり、くたびれたらタタミの上へぢかに寝ころぶことも
できる。……機能主義やグッド・デザインの狙ひはとつくに卒業してゐるので、日本における西洋風とは、
最新のモダン・リビング、最新のグッド・デザインでも、旧来の日本風よりいくらか反機能的な生活形態を
いとなむことに他ならない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 20:39:36
(中略)
日本人は、様式の統一といふことをやかましく云はない。スキヤ建築の座敷にテレビを置くなら、どうしても、
紫檀か何かの箱でなくちや納まらない箸だし、芸者屋の茶の間にテレビを置くなら、ツゲの箱かなんかでなくては
をかしいのに、平気で新式デザインのテレビを置いてゐる。日本座敷の縁側に、パイプを折り曲げた椅子なんかを
置いてゐる。かういふ様式無視は、明治以来の日本人の美意識欠如と進取の気象をよくあらはしてゐる。(中略)
(グッド・デザインは)あくまで商業的成功であつて、「革命」ではないのである。グッド・デザインの
販路拡大を、「革命」だと思つてるデザイナーがゐたら、よほど考へが甘いのである。何もないところを
占領するのは革命ではありません。
その上、その商業主義的成功は誤解を生む。西洋式生活は簡便で安いといふ誤解である。こんな誤解は戦前には
なかつた。あきらかにアメリカ占領後の現象である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 20:43:56
>>250訂正
納まらない箸だし ×
納まらない筈だし ○
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 20:46:35
西洋人の生活は、見かけ以上にしきたりに縛られてゐる。その点では日本以上である。その上、生活における
様式の統一といふことを重んじる。手術室のメスみたいなナイフを使はうと思へば、まづ家全体を手術室風に
デザインしなければならん。コタツに足をつつこんで、メス式ナイフで、トンカツをちよん切るなんて器用な
ことは、西洋人にはできない。(中略)
貧乏して裏長屋に住んでゐる詩人が、タバコだけは英国タバコを吸ふ。これが日本式ゼイタクであり、西洋への
あこがれといふダンディズムである。裏長屋ならシンセイを吸ふはうが、様式的統一に忠実であり、かつ
美的であるといふことが、どうしてもわからないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 03:35:06
かわいい
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 11:06:16
良スレ
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 14:32:48
端的只今の一念より外はこれなく候
一念々々と重ねて一生なり(葉隠)
新年に想ふのは「葉隠」の一章。マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気を
もちたい。一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから……
三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 04:16:57
なるほど
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 04:23:43
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 15:49:43
立派です
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 20:16:30
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。
この死を前に、戦死者たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも
「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は
戦争の中にそれを求めただけの相違である。
三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:38:19
凄いね
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 16:17:49
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに
まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた
やうな騒ぎになつてしまつた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 16:18:32
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、
寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 16:18:58
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 16:20:07
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(中略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 05:40:22
かっこいい
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 16:24:03
あのヨーグルトを固めたやうな男が、男性の性的魅力の代表であるといふことについては、異論のある人が
多いと思ふ。(中略)
年増女の母性愛をくすぐる憂愁も、あどけなさも、少女の英雄崇拝にうつたへる体力も、不良つぽさも、
性的経験のある女に対する魅力も、それのない女からの憧れも……何もかも一身に具備して、歌の一ふし、
体の一ひねり、ことごとくセクシーならざるはないといふこの男。しかもそれを男の中の男と呼ぶには、
何か欠けてゐるやうな男。なまぐさい若さの、動物電気みたいなものを、存在すべてにしみこませて、それで
成功した男……。(略)
しかし、男といふものは、別にそんな存在になるために生まれてくるわけぢやない。プレースリーは、男性に
おける突然変異であり、ひどく自然に反したもので、一種の「性の神」になるやうに生まれついた男である。
ひよつとすると、彼がアメリカ人であるといふことは、女性の権力が強くなりすぎた社会における、男性の
側からの永い怨みと復讐のしるしかもしれない。
三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 16:24:30
「ああ、女たちよ。威張れ。威張れ。いくらでも威張れ。お前たちのおのぞみの歌、大好きな歌をうたつて
やるからな。ほら、俺が歌ふと、どうしたんだい? 今まで威張つてたお前たちが、急にしびれて、引つくり
かへるぢやないか。男の暴力を封じ、経済力をむしばみ、権力を弱めてきたお前たちが、
ハ、ハ、ハ、ハートブレーク・ホテル
だなんて、俺が下らない歌を、ふるへ声で歌ふと、とたんに降参して城を明け渡すぢやないか。なんて君らは
低俗な趣味なんだ。どうだい、腰を振つてやらうか。うれしいか。ざまあみろ。俺の前ぢや、みんな仮面を
はがれてしまふんだ。いくらとりすました顔をして、威張つてゐたつて、こんな下品な歌一つで一コロなんだ。
どうだ。男にはやつぱりかなはないといふことがわかつたろう。(略)」
――プレースリーの歌をきいてゐると、私は砂糖菓子みたいな歌詞のむかふがはで、彼がたえず右のやうに
歌つてゐる声をきくやうな気がします。
三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 00:00:00
電熱器ばやりの今の人には火鉢と云つてもピンと来ないだらうが、むかしは炭火をカンカン起して、鉄の網を
五徳にのせて、東京人が「おかちん」と呼ぶところの餅を、火鉢で焼いて喰べるのが、冬の夜の家庭のたのしみの
一つであつた。その鉄の網目の模様がコンガリと焼けた餅にのこり、私たちは、熱い餅をフーフー吹きながら、
醤油をかけて、おいしく喰べたものだ。
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられた
ものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく
焼けるのである。
さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間の
エネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 00:00:31
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、
ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。
ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、
一度も成功しなかつた。
どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、
あの怖ろしい炭火から得るほかはない。一例が、プロヒューモ氏は、例の醜聞事件以後、すばらしく有能な
慈善事業家として更生してゐるさうである。
人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 00:01:53
しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。だから、餅と火の
あひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在して
ゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。さういふときは、餅網は餅が
黒焦げになるに委(まか)せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。餅網の論理にとつては、罪と罰は一体を
なしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、
彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 00:03:02
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に
恩恵を蒙(かうむ)つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。かくて、終局的に、
責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も
生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。
この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。
そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、
同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 01:18:02
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。
それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、
不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを
公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、
火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに
引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を
逸してしまふといふことである。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 00:58:23
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 00:58:47
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 00:59:07
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 00:59:22
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 00:59:37
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)
三島由紀夫「欲望の充足について」より
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 08:55:15
名文ですね
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 16:34:26
嘘つき
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:52:08
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。声に翳りがほしい。
いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、風が吹くたびに木かげと日向が
一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしくきこえるが、そこらで
自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、時折かういふ声を発見して、美しいなと
思ふことがある。(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。電話のむかうの声の
たゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:52:25
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、それをごまかす小さな咳の
可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと
思ひ描かせることがある。
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に見るやうな気持がして
きらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女のおしやべりには絶対にかなはない。(中略)
女のタイプライターのやうなお喋りがはじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつてしかもおしやべりで
ない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性はいかにも優雅にみえるが、ともすると
細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:52:54
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない明るさ賑やかさ
快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方をするやうな女がいい。批判、皮肉、
諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、
男に委せておけばいい。(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と
早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院に
ゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」…(中略)
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:53:09
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、カアテンごしにきこえる
姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界のふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ
滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることが
つまらない。襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな
感覚的な没論理的な主張は……」
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 01:31:56
かわいい
由紀夫ってトニーレオンに似てるね
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 02:16:40
似てますね
格好よくてセクシィですね
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 17:25:05
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、
一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に
対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。
三島由紀夫「愛国心」より
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 17:25:26
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。
日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら
多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の
裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。
三島由紀夫「愛国心」より
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 17:25:41
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては
変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の
感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と
日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、
この種の陥穽を含んでゐる。(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。
三島由紀夫「愛国心」より
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 17:26:01
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。
三島由紀夫「愛国心」より
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 17:26:30
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、
あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、
彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/24(月) 09:22:36
名文です
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 10:56:49
かっこいい
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 23:08:34
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、
バカに古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことは
ないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔色がすぐれなかつた。
三島由紀夫「現代青年論」より
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 23:09:05
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は
二・二六事件に欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い
道義性の実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、
強姦の罪を犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの
証左であつて、毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
三島由紀夫「現代青年論」より
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 23:09:28
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が
残つてゐるだけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、
何ら高い道義性を感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の
源泉になるのである。
三島由紀夫「現代青年論」より
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 23:40:28
かっこいい
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 00:19:54
近代日本が西洋文明をとりいれた以上、アリの穴から堤防はくづれたのである。しかも、文明の継ぎ木が
奇妙な醜悪な和洋折衷をはやらせ、一例が応接間といふものを作り、西洋では引つ越しや旅行の留守にしか
使はない白麻のカバーをソファーにかける。私はさういふことがきらひだから、いすが西洋伝来のものである以上、
西洋の様式どほり、高価な西洋こつとうのいすにも、家ではカバーをかけない。
昔の日本には様式といふものがあり、西洋にも様式といふものがあつた。それは一つの文化が全生活を、
すみずみまでおほひつくす態様であり、そこでは、窓の形、食器の形、生活のどんな細かいものにも名前がついてゐた。
日本でも西洋でも窓の名称一つ一つが、その時代の文化の様式の色に染まつてゐた。さういふぐあひになつて、
はじめて文化の名に値するのであり、文化とは生活のすみずみまで潔癖に様式でおほひつくす力であるから、
すきや造りの一間にテレビがあつたりすることは許されないのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 00:20:13
私はただ、畳にすわるよりいすにかけるはうが足が楽だからいすにかけ、さうすれば、テーブルも、じゆうたんも、
窓も、天井も、何から何まで西洋式でなければ、様式の統一感に欠けるから、今のやうな生活様式を選んだのである。
それといふのも、もし、私が純日本式生活様式を選ばうとしても、十八世紀に生きてゐれば楽にできたであらうが、
二十世紀の今では、様式の不統一のぶざまさに結局は悩まされることになるからである。
私にとつては、そのやうな、折衷主義の様式的混乱をつづける日本が日本だとはどうしても思へない。
また、一例が、能やカブキのやうなあれほどみごとな様式的美学を完成した日本人が、たんぜんでいすにかけて
テレビを見て平気でゐる日本人と、同じ人種だとはどうしても思へない。
こんなことをいふと、永井荷風流の現実逃避だと思はれようが、私の心の中では、過去のみならず、未来においても、
敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない
日本および日本人のイメージがあるのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 00:20:39
そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、
生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない
日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、
文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、
これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。
三島由紀夫「日本への信条」より
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 00:21:02
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 10:34:27
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに
無恰好である。どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、
どうしていいかわからないのである。先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、
そこには何か有無を言わせぬ力がある。男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、
女の場合は純粋な精神力である。どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、
愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。非常に美しい若い女が、大金持の
老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それはまちがつてゐる。
打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。
三島由紀夫「愛するといふこと」より
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 17:47:15
「長安に男児ありき 二十にして心已に(すでに)朽つ」
(李長吉の詩「陳商に贈る」の冒頭の二行)
李長吉は中唐の天才詩人で西暦紀元七九一年に生れ、二十七歳で西暦紀元八一七年に死んだ。
耽美的で、難解で、デカダンで、華麗で、憂鬱で、鬼気を帯びて……、とにかくすばらしい詩人だ。
実生活は不幸で、二十歳のとき、人のねたみで、官吏登用試験を受けられず、失意に沈んだ心境を述べた詩だが、
私はそんな来歴にはかまはず、全く自分のものとしてこの詩を愛してゐる。
二十歳の自分の心境告白として、この二行を愛してゐるのである。二十歳にして敗戦日本の現実に投げ出された私は、
すでに心朽ちたまま、自分の美の国を建設せねばならなかつた。その気持を李長吉が歌つてくれたやうな気が
するのである。
三島由紀夫「私の愛することば」より
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 20:19:36
ジャニーズが三島作品の舞台するんですね
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 20:31:52
名作ですね
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 20:59:10
>>305 東山やV6なのに、テレビの芸能ニュースでは告知されないのがふしぎ。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 02:42:20
見ます
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:20:29
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。このやうな怪物的日本は、
鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を
借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。このやうな叫びに
目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。それが私の口から出、人の口から出るのを
きくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには
「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと一体化することのもつとも
危険な喜びを感じずにゐられない。
三島由紀夫「実感的スポーツ論」より
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:22:00
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。
(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの
快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」
と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。
運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。どんな権力を握つても、どんな放蕩を
重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。
三島由紀夫「実感的スポーツ論」より
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 10:56:14
Q――クール・セックス時代とか、モノ・セックス時代とかいはれてをりますが、青年は男らしいと思ひますか?
たとへば、童貞が激増してゐるといふやうなこと。
三島:童貞がふえてるといふことと、男らしさといふものとは、あまり関係がないんぢやない?
だけど、ボクサーの場合、童貞の選手は強いですね。セックスをやつてるひとは弱いですね。それか、セックスを
ずーつと前に知つちやつてね、セックスといふものが、そんなに固定観念になつてないひとは、強いですね。
男らしさ、といふことをいへばいまは、女とやつてる奴の方が、女らしくなつてるかもしれない。
(中略)男の方がどうしても女のロマンチックな趣味に合はせるやうになりますからね。これは昔から変はらない
ことだけれども、若い女といふものは、あんまり男らしい男は、好きぢやないですよ、こはくて。
だから、いまの青年が男らしくないとすれば、それは女のせゐですよ。そんなの汚ならしい、カッコ悪いと
いはれれば、仕方がないからさうしちやふ。
三島由紀夫「青年論――キミ自身の生きかたを考へるために」より
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 10:57:34
Q――青年にすすめたい本、十冊をあげて下さい。
三島:ゲーテの「ヘルマンとドロテア」、これは一番すすめたい。
それから、林房雄の「青年」もぜひ読んで欲しい。これは、ちよつと我田引水になるけれども、ぼくが最近書いた
「葉隠入門」。
若いひとにぜひ読んでもらひたいと思つて、あれは書いたものだからね。
それからフランス文学では、サン・テグジュペリの小説、アンドレ・マルローの初期のものね。ああいふのは
青年らしいですよ。
東洋には、日本も含めて、青年のための本といふのは、少ないですがね、ぼくが非常におもしろくて、好きなのは、
世阿弥の「花伝書」。これはすすめたいな。(中略)
それから、ヘルデルリーンの詩、「ヒュペリオン」、あれはいい。
トルストイ、ドストエフスキーなども、「罪と罰」なんかいいけど、別にぼくがとくにすすめる必要はないと思ふ。
三島由紀夫「青年論――キミ自身の生きかたを考へるために」より
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 20:37:22
Q――泣かれたことがありますか?
三島:昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない。泣くほど感動的な事件がないからね。
Q――義理と人情をどうお考へですか?
三島:義理はマナーであつて、モラルではないと思ひます。わたしの場合でいふと、一度でも恩義を感じた人、
親しくした人の悪口は、口ではいつても、文字にはしません。わたしは物書きだからね。人情はほどほどがいいと
思つてゐますね。心の底からわきでて、涙がこぼれるといつたことはありません。またきらひですね。と、いつて、
ヨーロッパ流の我をむきだしにした対立も困る。人間関係の潤滑油としての人情は認めますし、持ちあはせてゐる
つもりですよ。
三島由紀夫「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」より
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 20:38:21
Q――サービス精神についてどう考へられますか。
三島:わたしはやりたいことをやつてゐるだけの話で、サービス精神だなんて考へたこともない。他人に
サービスするといふのは人生のムダですよ。ですから、わたしは、いつも、まじめな気持でいろいろなことを
やるわけです。しかし、実際には、それがピエロにみえる。自分がピエロだと自覚して、他人にサービスすると
いふのは、もう古いので、ピエロはピエロであるといふ自意識をすて、ひたすらまじめに行為をするべきなのです。
まじめであればあるほど、ピエロはいきてくる。だから、わたしがピエロにみえるのは当然。ピエロになるのが
いやなら文士などにならなきやいい。
Q――新しいものに、異常な好奇心をもやされるやうですが。
三島:時のはやりには適当に身をまかすべし、と「葉隠」はいつてますからね。ハッハッハ。
三島由紀夫「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」より
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 20:39:22
Q――賭けはおきらひなのですか?
三島:好きなのです。魅力がありすぎて、はじめれば、きつと溺れると思ひます。だから、やりません。
Q――それでは、人間の最高の徳目とは、なんでせう?
三島:義でせう。義は人間の本性からでたものではないだけに、最高の徳目になるのです。情感、情念を滅ぼして、
人間は義に生きねばならないときがある。義に生きなければ千載に悔いを残します。しかし、義ほどつかまへにくい
ものはない。客観的につかまへられないがゆゑに、義であるかどうか判断することがむづかしい。たとへば、
二・二六事件が義であつたかどうか、いまでもわからない。義はいつくるかわからない。しかし、もし、
つかまへそこなふと、人間としてダメになる。
三島由紀夫「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」より
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 11:24:57
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく
戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は往々歴史を見誤まるのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 原始戦に有効な剣道の哲理」より
人間の目と心は、どちらが先なのか? この人たちの心が何かを見るのか? 目が先に見て、心がそれを解釈し
分析するのか? 瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言つたのは、ポオル・
ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を見ようと努めなければならない。
第一回は機動隊の目に映つた世界、あれは又明るく単純な戦闘行為の世界だつた。第二回は反戦青年委員会の目に
映つた世界、これは暗い現在と不可測の未来へひらかれた複雑な世界である。
ファクトはどちら側にあるのだらうか? 算術的にその中間にあるといふものではあるまい。反戦青年委員会の
いはゆる「未来の閉ざされた世界」に住む機動隊が明るく、一方、未来に明るい光りを見ようとする者の世界は暗い。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 11:26:01
兜町――それは現在のこの一瞬だ。
現実といふのは、兜町のやうな姿をしてゐるのかもしれない。すなはち過去に対しても未来に対しても絶対に無責任な、
しかしものすごく確信のある、ものすごくいきいきとした現実。このかたはらに置いたら、ほかのいかなる現実も
色あせて、ニセモノめいてくるやうな本物の現実。
そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない
現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も
役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。
いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ気持が
あれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 11:27:03
ひどく敏感で、ひどく鈍感。(中略)
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を
動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。
一九七〇年の危機が叫ばれ、ゲバ学生の襲撃の危険がささやかれる兜町の第一線の人々と親しく話してみて、
そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に
達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。
しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか?
それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 11:29:10
都市の問題を考へるとき、ゴミの問題を抜きにしては考へられない。パリの五月革命では、ゴミ処理のために軍隊が
出勤し、それが又いはゆる「後拠支援」の絶好の口実になつた。身に物理的危険が迫らなくても、ゴミの問題一つで、
大都市は力にすがらざるをえなくなるのである。都市の弱点とは、いはゆる重要施設ばかりではない。いかに
都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的肉体的特徴が備はつてゐる。
それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。
しかも消費経済の過剰な発達は、どんどん物を消費し廃品化して行かなければ、経済自体が成立たないといふ、
アメリカ経済的体質に変りつつある。もはや質素と倹約は、国家的見地からも美徳でなくなつたのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 11:30:31
かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、ゴミと化すると共に、
公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、
自らの持つ意味をたしかめられない時代に入つたかのやうである。
ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は自分がゴミと化することに
よつて終る。
私の会つた東京都清掃局の古いヴェテラン職員の顔には、何か哲学者のやうな翳があつた。人間をさういふところで
キャッチしてゐるといふ並々ならぬ自信がうかがはれた。かういふ人たちの前へ出ると、われわれは実に弱い。
何だか自分がゴミと屎尿の製造機にすぎぬやうな気がしてくるからだ。夢の島を見て、その厖大さに、気の遠くなる
思ひをしたすぐあとのことであつた。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 20:22:11
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 20:23:31
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 20:24:47
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生たちと論争したが、かれらは誇張した
言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では
インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、
しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。
日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、
感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、
左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、
左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。
次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 20:26:19
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:02:04
>>307 テレビ業界の上層にはまだ当時の左翼老人が残ってるから、
三島ブームが再発することが怖いんじゃないかな
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 10:17:51.75
>>326 マスコミは、アンチ三島の姜尚中がでかい面して贔屓されてのさばってるからね。
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 06:56:25.16
素晴らしい
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:13:58.92
純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。
小説の中に、ピストルやドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら
身の危険を冒して『危険物』を扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。
純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。
どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、
大きな幸福感がある筈で、書き上げられたときその幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:14:59.52
日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。
五十歳の野球選手といふものは考へらないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:16:20.51
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:18:31.33
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
――かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 03:48:17.61
良スレです
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 12:00:46.15
>>5の後
……それにしても、仙洞御所を一時間あまり拝観して、辞去するとき、私ははなはだ畏れ多いことながら、その庭が
自分の所有に属さないことを喜んだ。いづれ又、紅葉の季節や、花の季節に、私は拝観を願ひ出て、仙洞御所を
再訪することもあるだらう。しかし、この御庭を愛すれば愛するだけ、私はそれが決して自分の所有に属さず、
訪れない間は、京都へ行けば必ずそれがそこにあるといふ、存在の確実さだけを心に保つことができるのを喜ぶ。
それといふのも、所有といふことの不幸と味気なさを、私は我身で味はつたのは貧しい例でしかないが、人の
身の上にしみじみと見て来たからである。或るフランスの大富豪の貴族のシャトオに数日滞在してゐたときのこと、
私は次々とあらはれては去る来客を、主人夫妻が、ほぼ同じ順序でもてなすのを見た。(中略)
自分のシャトオにゐる間、主人夫妻は、いはば、案内役と司会者の役割を毎日つとめて、倦きもせずに、ただ
次々と新らしい客の讃嘆の声だけを餌にして生きてゐた。これを見てゐて、私はつくづく、所有する者の不幸と
味気なさを感じたのである。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 12:01:45.59
庭も亦所有を前提としてゐる。他人に思ふまま蹂躙された庭は、公園であつてもはや庭ではない。しかし厳密に
言ふと、所有者にとつても、それは徐々に「庭」であることをやめるのである。なぜなら、見倦きた庭は、
庭であることから、何かただ、習慣のやうなものになつて、われわれの存在の垢とまじり合つてしまふからである。
四季の変化からなるたけ影響を受けぬやうに作られた幾何学的な庭はもちろん日本の庭の中でも竜安寺の石庭の
やうな抽象的な庭は、所有者にとつては、忘れられた厖大な蔵書の一部のやうになつてゆくにちがひない。
ある庭を完全に所有すまいとすれば、その庭のもつ時間の永遠性が、いつも喚起的であるやうに努めねばならない。
理想的な庭とは、終らない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走してゆく庭であることが必要であらう。
われわれの所有をいつもすりぬけようとして、たえず彼方へと遁れ去つてゆく庭、蝶のやうに一瞬の影を宿して
飛び去つてゆくやうな庭、しかもそこに必ず存在することがどこかで保証されてゐるやうな庭、……さういふ庭とは
何であらうか。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 12:02:08.07
私はここで又、仙洞御所の庭に思ひ当る。なぜならその御庭は、私の所有でないと同時に、今はどなたの住家でも
ないからである。しかもそれは確実に所有されてをり、決して万人の公園ではない。もしわれわれが理想的な庭を
持たうとするならば、それを終らない庭、果てしのない庭、しかも不断に遁走する庭、蝶のやうに飛び去る庭に
しようとするならば、われわれにできる最上の事、もつとも賢明な方法は、所有者がある日姿を消してしまふ
ことではないだらうか。庭に飛び去る蝶の特徴を与へようとするならば、所有者がむしろ、飛び去る蝶に化身すれば
よいのではないか。生はつかのまであり、庭は永遠になる。そして又、庭はつかのまであり、生は永遠になる。……
そのとき仙洞御所の焼亡は、この御庭にとつて、何かきはめて象徴的な事件のやうに思はれるのである。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 12:02:41.40
生きてゐる芸術家とは、どういふ姿になることが、もつとも好ましく望ましいか。
私は或る作家の作品を決して読まない。それは、その作家がきらひだからではない。その作家の作品を軽んずる
からではない。それとは反対に、私は彼の作家としての良心を敬重してをり、作品を書く態度のきびしさを
尊敬し、作品の示す芸のこまやかさと芸格の高さにいつも感服してゐる。それなのに、私は彼の作品を読まうと
しないのである。
何故かといふのに、私が読まなくても、彼は円熟した立派な作品を書きつづけてゐることがわかりきつてゐる
からである。さういふ作品が彼を囲んで、ますます彼の芸境を高めてゐることを知つてゐるからである。
さうなつた作家は、すでに名園である。いはば仙洞御所の御庭である。行かなくても、そこへ行けば、その美に
搏たれることがわかつてをり、見なくても、そこにその疑ひやうのない美が存在してゐることがわかつてゐるからだ。
だが、私は、自分の作品の、未完成、雑駁を百も承知でゐながら、生きてゐるあひだは、決してさういふ千古の
名園のやうな作家になりたいとは望まないのである。
三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 14:01:22.67
なるほど
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 14:44:31.64
さしも世界に名高い日本の柔道も紅毛碧眼に名を成さしめる仕儀に相成つたが、剣道はまだまだ勝味がござる。
小生、先ごろ桑港(サンフランシスコ)に赴き、書肆(しよし)の一画に「柔道」と名付くる棚があつて、
数十冊の柔道書を並べたる一驚を喫したが、生憎剣道のはうは一冊もござらなんだ。もつとも加州大学には、
剣道四段の碧眼の偉丈夫あり、勝負を挑まれたが、いささか日本国の名誉を思うて、風邪にことよせ、試合は
御辞退申した。かかる例外あれど、概して泰西諸国においては、剣道の普及未だしの観あり、剣道はもつぱら
「羅生門」の名優三船敏郎氏の風車剣法によつてのみ名あり。
剣をたしなむときけば、泰西人はいささか畏怖の情をあらはし、時代錯誤的恐怖にからるるやと思(おぼし)く、
ここがつけ目と愚考いたしてござる。武士道は、禅と等しく、ますます神秘化されてこそ世界に活路もあれ、
ゆめゆめスポーツ化させることなかれ、といふが、小生の切なる忠言でござる。
三島由紀夫「剣、春風を切る――ただいま修業中」より
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 17:34:11.10
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。彼らは一生のうちには必ず
癒つて行つた。(と言つても、カルシウムの摂取で病竃を固めてしまつただけのことだが)しかしここに不治の病を
持つた一世代が登場したとしたら、事態はおそらく今までの繰り返しではすまないだらう。その不治の病の名は
「健康」と言ふのであつた。
(中略)
われわれの世代を「傷ついた世代」と呼ぶことは誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口が精神の上に
与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。
戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
のみならず私たちの皮膚を強靭にした。面の皮もだが、おしなべて私たちの皮膚だけを強靭にした。傷つかぬ魂が
強靭な皮膚に包まれてゐるのである。不死身に似てゐる。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 17:36:44.08
(中略)
「芸術」といふあの気恥かしい言葉を、とりわけ作家・批評家にとつてはタブウであるらしいあの言葉を、
臆面もなくしやあしやあと素面で口にするといふ芸当は、われわれ面の皮の厚い世代が草始することになるだらう。
作家は含羞から、批評家は世故から、芸術だの芸術家だのといふ言葉をたやすく口にしなかつた。彼らは素朴な
観念といふものが人を裸かにすることを怖れるあまり、却つてその裏を掻いて、素朴な観念ほど人間の本然の
裸身を偽るものはないといふ教説を流布させた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために与へた最も素朴な
観念である。しかしこの言葉はタブウになると、それは「生」とか「生活」とか「社会」とか「思想」とかいふ
さまざまな言替の言葉で代置された。これらの言葉で人は裸かになりえたか。なりえない。何故なら彼等は
これらの言葉が、この場合、代置としてのみ意味を持たらしめてゐることに気附いてゐないのだから。それに
気附きつつそれに依つた真の選ばれた個性は、日本ではわづかに二三を数へるのみである。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 17:37:54.56
私はそのやうな選ばれた人々のみが歩みうる道に自分がふさはしいとする自信をもたない。だから傷つかない魂と
強靭な皮膚の力を借りて、「芸術」といふこの素朴な観念を信じ、それをいはゆる「生活」よりも一段と高所に置く。
だからまた、芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。それといふのも、
人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口をいふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈する
ことのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、彼より二三歩離れた林檎の
樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の模倣でもあるのである。――端的に言へば、
私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい)生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の
意味を明かにしてくれるのだ、と。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:48:12.91
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の
第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に
自分の姿なのであらうか? 私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるに
ちがひない。さうとしか考へやうがないのである。
自意識といふものは全然男性的なもので、そこには精神と肉体の乖離が前提とされ、精神が肉体を離れてフラフラと
浮かれ出し、その浮かれ出した地点から、自分の肉体を客観的に眺め、又、自分の精神を以て自分の精神自体をも、
客観的に眺めるといふ離れ業を演じるのが、すなはち自意識である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:48:33.64
もちろんこんな離れ業は、いつも巧く行くと限つたわけではないが、自意識とは、さういふ離れ業をともすると
演じようとする、精神の不可思議な衝動である、と定義してよからう。
しかるに、女の精神は、子宮が引きとどめる力によつて、男の精神ほど自由にふらふらと肉体を離れることが
できない。男には上部構造である頭脳と、下部構造である生殖器とが、全然関係のない別行動をとることも
できるけれど、女にはどうも、古代の爬虫類のやうに、頭と下半身と両方に脳があるらしいのである。脳と言つて
わるければ、女の精神を支配する中枢は二つあつて、一つは頭脳であり、もう一つは子宮であつて、この二つが
実に密接に共同して働くから、精神はいつも、この二つに両方から引つぱられてゐて、肉体から離脱できない。
ヒストリーの語源が子宮にあることは周知のとほりである。
簡単に言ふと、男性の精神構造は、一つの中心点をもつ円であり、女性の精神構造は二つの中心点をもつ楕円で
あるらしい。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:49:02.27
女の精神はかくて存在に帰着し、男の精神はともすると非在に帰着するが、自意識とは、非在に関する精神の、
もつとも生粋な、もつとも非在的なものである。
女の精神とて、もちろん自意識に似たものは持つことができる。しかし、自意識が自意識を生み、みるみる無数の
合せ鏡の生む鏡像のやうに増殖する、自意識の自己生殖は、決して女性のものではない。自意識が彼女を本当に
喰ひつぶすまでに行かないならば、それは結局、「擬自意識」の部類に属するだらう。女のもつ「自意識めいたもの」
には、肉体(子宮)といふ安全弁がついてをり、男の自意識のやうに、ブレーキが利かなくなつて暴走して、
崖から真逆様に顛落するといふやうな事態は起りえない。(さういふとき、奇妙にも、その男の自意識の暴走車は、
彼自身の自意識の海の中へ顛落するのであるが……)。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 12:49:26.75
ここではじめて、私には、自然が、女に対して、彼女の本当の顔を見せまい見せまいとしてゐるその配慮の理由が
呑み込めるやうに思ふ。それは明らかに生物学的要請であり、女の妊娠の責務を守るためであらう。
鏡とあんなにしよつちゆう深く附合つてゐる女が、みんな鏡の中へ投身して破滅してしまつたのでは、人類は
絶滅してしまふ。そこへ行くと、妊娠のつとめを持たない男はさうなつても一向構はない。水鏡に映るおのが
美貌に惚れ抜いて、水へ身を投げて死ぬナルシスが、決して女でなくて、男であることは、ギリシア人の知恵と
言へるであらう。ナルシスは、どうしても男でなければならないのである。
かくて、女たちが、鏡の中に見つめてゐる像が、彼女自身の姿でないことは、ほぼ確実になつた。自分でないものの
姿に見とれることを、ナルシシズムと呼ぶのは、言葉の誤用である。私見によれば、女にはナルシシズムは
存在しえないのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 23:26:34.12
女が自分のことを語るときの拙劣さには定評があり、どんなにえらい女でも、彼女が自分の正確な像をつかんで
ゐると感じられることはめつたにない。どんなに苦労し、どんなに世間智を積んでも、女は自分のこととなると
概して盲目で、不可避の愚かしさが、背中の糸屑みたいに必ずついてゐる。そして知的な女ほど、己惚れも
ひがみも病的にひどくなつてゐる場合が多い。彼女の理性にはえてして混濁したものがつきまとひ、論理は決して
泉の水のやうに明らかに澄み渡ることがない。どうしてであらうか? 私が女と議論することが死ぬほどきらひ
なのはそのためなのだ。
(中略)
精神が肉体から分離されなければ、そこに客観性といふものも生じえず、従つていかなる意味の自己批評も
生じえない。そして自己批評こそ、他に対する批評の唯一の基準であるから、そこには真の公正な批評が
成立しないことになる。女性の盲点はこのやうな自己批評の永遠の欠如であり、又、他に対する永遠の不公正な
批評癖である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 23:26:59.06
「A子さんつて、自分のバカさにどうしても気がついてゐないのね」
といふ批評が成立するためには、さういふ御本人が自分のバカさに気がついてゐなければならない。しかし女が、
「ええ、どうせ私はバカだわよ」
と言ふときには、彼女は決して自分のバカさをみとめてゐないのである。それは、すなはち、「あなたのやうな
不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ意味である。
「私つて目が小さいでせう」
と女に言はれて、
「ああ、小さいね」
と答へる男は、完全に嫌はれる。
もう少し思ひやりに富んだ男でも、同様に嫌はれる。それは、
「私つて鼻ペチャだから」
と言はれて、
「でも、とんがつた鼻より魅力があるよ」
と答へるやうな男である。
私がかうして徐々に、女性の内面的な顔から外面的な顔へと移行してゆくところに、注意していただきたい。
思ふにそこには確たる境界線がないのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 23:27:26.82
「私つてどうせバカだわよ」といふ言葉と「私つてどうせ不美人よ」といふ言葉との間の懸隔を、たとへば、
男の同じやうな発言、「俺はどうせバカなのさ」と「俺は二枚目ぢやないからな」といふ二つの言葉の間の懸隔と
比べてみれば、前者の懸隔はほとんどゼロに等しくなるであらう。つまり、男の発言には、自嘲のなかに必ず
アイロニーと批評が含まれるのが通例で、それが自意識の表徴なのである。
さつきも言つたやうに、女が「どうせ私つてバカだわよ」といふ場合、「あなたのやうな不公正な目から見れば、
どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ風に、判断の主体が故意にぼやかされてゐる。判断の主体及び
基準が自分にあるかのやうに一応装はれてゐるが、実は、相手に半ば判断の主体が預けられてゐる。男が「俺は
どうせバカなのさ」といふときは、自分の判断によつて自分のバカさ加減が痛烈に意識されてゐるのと同時に、
自らがその判断の主体であつて、他人の判断はゆるさないといふ強烈な自負がある。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 23:27:46.19
次に、女が「私つてどうせ不美人よ」といふ場合は、判断の主体が故意にぼかされてゐる点において、「私つて
どうせバカだわよ」といふ場合と、ほとんど径庭がないが、男が「俺は二枚目ぢやないからな」といふときには、
明らかに、判断の主体は、痛恨を以て、遠い遠い、見えざる第三者の手に全的に預けられてゐるのである。
なぜなら男は、人間の顔、容姿等の外観は、もともと社会的な価値であつて、他人の判断によつてしか評価されない
といふ苦い知恵を、(自意識の鍛練によつて)、夙(はや)くから自得してゐるからである。ここに男の、
劣等感や優越感の早い形成が見られるので、男は比較対照による客観的価値判断を早くから身につけてしまふのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 23:28:10.41
もちろん男といへども、少女が最初の男に愛されてはじめて自分の美に目ざめるやうに、最初の女に愛されて
はじめて自分の魅力を知ることも多い。しかし、彼の内面性は、それによつて鼓舞され、あるひはそれによつて
歪められることがあつても、決して彼の外面性と一直線につながらないのである。
かくて、男が鏡を見てゐるとき、何を見てゐるかが明らかになる。すなはちそこに見てゐるものは、彼の顔、
彼の純粋な外面に他ならない。女のやうに、内面から外面へ、さらに、化粧によつて変容した第二の外面へ、
一つながりにつながる複雑なイマジネーションの複合としての顔ではない。彼は髭は剃るが、化粧をする必要はない。
このやうに、純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体は、純粋自意識として作用するとき、
そこにはじめてナルシシズムが、ナルシスの神話の恋が成立するのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 03:09:46.72
募金する方は「日本ユニセフ」は利用しないでください。紛らわしい名前ですが、国連のユニセフとは別の団体です。
日ユは手数料として募金からかなりの額を懐に納めています。言わば「中間搾取団体」です。 皆様の善意が現地の方々に届くよう、赤十字等に募金しましょう。
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:16:02.99
鏡はそもそも、客観に奉仕するものなのであらうか? それとも主観に奉仕するものなのであらうか?
世にはさまざまな鏡がある。純粋客観としての鏡は、自意識の鏡であり、男の鏡である。純粋主観としての鏡は、
自意識の欠如した鏡であり、女の鏡である。前者はナルシシズムの鏡であり、後者は、化粧のための、変容の
ための鏡である。
自分の外面が自分であるといふ発見は、まづ一種の社会的発見であつた。そこに映つてゐる像こそ、正しく
自分自身でありながら、自意識とは劃然と分離された純粋存在であるといふ発見が、ナルシスの恋の端緒であつた。
もし鏡像と精神との間に、このやうに隔然たる分離がないならば、鏡像と意識、外面と内面とは一つながりの
ものとなり、そこには容易に妥協が生れ、馴れ合ひが生れ、つひには不自然な化粧が必要となるであらう。
女の友である鏡とはこのやうなものであり、鏡は女にとつては本質的に「油断ならない友」であり、男にとつては、
「敵あるひは恋人」である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:16:30.11
鏡を敵として、一日中その顔を見ずにゐたければ、男にはそれも可能である。朝は、手さぐりで電気髭剃り器で
髭を剃り、鏡を見ずに顔を洗ひ、手さぐりでネクタイを締め、出勤の電車に乗ればよいのだ。
それではさういふ男が男らしい男かといへば、さうとも言ひきれないのである。自分の写真を見るのをきらひ、
鏡を見るのをきらひな男たちには、深いニューロティック(神経症的)な劣等感を持つた人間が多く、又その多くは、
別の知的優越感や社会的優越感で補償されてゐる。そしてこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな
反応を呈する場合が多い。鏡をきらふ男を、バンカラで豪傑肌の男と勘違ひすると、とんでもないまちがひに陥る。
彼らは、ただ、鏡を怖れてゐるのである。
もともと鏡は、純男性的世界の必需品であつた。むかしの海軍兵学校や機関学校には、階段の下に必ず大鏡があつて、
軍装の威儀を正すために用ひられた。ラフなプルオーヴァーのスウェーターをひつかぶるのとちがつて、端正な
軍装の、四角四面な外観を維持するためには、どうしても鏡が必要とされる。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:16:53.58
軍人の世界は、男性的外観が厳密に規定され、その外観によつて、内面の自意識を規正し、自意識の暴走を抑圧し、
以て、劃一化され単純化された自意識のエネルギーを、超自我(スーパー・エゴ)に従属せしめる世界である。
従つてそこは男にとつては、自意識の永遠の休暇が約束される世界なのだ。
しかし、外部から軍人の世界へあこがれる少年の心理には、明らかにナルシシズムが含まれてゐたことを、私は
戦時中の経験によつてよく知つてゐる。海軍士官の軍服と短剣にあこがれて、海軍兵学校へ入つた少年は数知れぬ
ほどをり、それによつて戦死した若者は、ナルシスの死を死んだのだつた。(中略)
そしてこの種の少年のナルシシズムは、英雄類型への同一化の傾向を強く持つてをり、ひいては彼自身が英雄と
なるための原動力となる。アレキサンダー大王は、少年時代から叙事詩中のアキレスにあこがれ、アキレスとの
同一化を策して、アレキサンダー大王その人になつたのであるが、彼のナルシシズムは後年まで色濃く残つてゐて、
決して自分の三十歳以上の肖像彫刻は作らせなかつた。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:17:12.48
私はナルシシズムが、決して偏奇な知的一傾向ではなく、おどろくほど普遍的な衝動であることを、ボディ・
ビルディングのジムで学んだ。そこには多くの鏡があるが、鏡の前は大てい混雑してをり首をさし出してネクタイを
結ぶのも容易ではなかつた。(中略)青年たちが、自分の育成した二頭膊筋や大胸筋を鏡に映して、その光り
かがやく新しい筋肉に、時の移るのも忘れて見とれてゐるのを見て、私はナルシシズムが、男のもつとも本源的な
衝動であり、今まで社会的羞恥心から隠蔽されてゐたにすぎないのではないか、といふ考へをいよいよ強めた。
ボディ・ビルディングは、いかにもナルシシズムの範例的形態である。その自己完結性にはあらゆる逆説が
ひそんでゐて、鏡に映る自分の新しい逞しい筋肉は、自分でありながら純粋な「他者」であり、考へられるかぎりの
純粋な外面であるのと同時に、しかもそれは自分の意志とエネルギーによつて創造したものなのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:17:35.52
鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を
蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、すなはち自己破壊の衝動が、
ふしぎなほど欠けてゐる。ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、
ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:17:24.56
純粋ナルシシズムの本当の姿は、他人の賞讃を必要としないことであるが、ここには美のきはめて微妙できはめて
難しい問題がひそんでゐる。
なるほどナルシスは美しい。他人の目から見て美しいのである。そしてナルシスが、他人の目から見て客観的に
美しくなければ、あの神話の美しさ自体が成立しないのであるが、一方ナルシスが絶対に排他的であり、彼が
他人の賞讃を一切必要としないほど、自意識の客観性に絶大の自信を持つてゐなければ、同様に、あの神話は
意味がなくなつてしまふ。ナルシスは己れを知つてゐなければならず、自己批評の達人でなければならず、
そしていかなる容赦ない自己批評も破砕できぬほどに美しくなければならないのである。してみるとこの神話の
恋には、二つの、いづれ劣らぬ大切な要素があることがわかる。一つは彼の絶対的美貌であり、一つは彼の
自意識の絶対的客観性である。この二つが揃はなければ、ナルシスの恋は成立しない。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:17:45.12
しかし、いかにして自意識はそのやうな絶対的客観性に到達するであらうか? 決して他人の賞讃を必要と
せぬほどの境地に達しうるであらうか? 自意識の構造自体が、このやうな客観性を常に志向してゐることは
前にも述べたが、純粋ナルシシズムが、「他人の賞讃を必要としない」からと言つて、その逆は必ずしも真ではない。
ナルシスが他人を排斥するのは、他人を全く必要としないほど美しいからだが、醜い者も、同じやうに他人を
排斥する。彼は他人の賞讃を得る自信がないからである。世間でナルシシズムといふ言葉を口にするときに、
多くの嘲笑が含まれるのは、たとへば、アラン・ドロンがナルシストであつても少しも滑稽ではないが、客観的に
見て全然美しくないものがナルシシズムに陥つてゐるのは滑稽に見えるからで、このことは、男性一般の本源的
衝動であるナルシシズムの普遍性と、微妙に噛み合つてゐる。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
360 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:18:01.63
そこで他人の賞讃を期待できぬナルシシズムは、滑稽に見えることをおそれて地下に沈潜し、そこに「秘密の
ナルシシズム」「抑圧されたナルシシズム」が鞏固に形成される。これが、他人のナルシシズムへの嘲笑の
大きな原動力になるのである。
一方、嘲笑される側は、その醜さのためではなく、自意識の絶対的客観性の不足乃至欠如のために、笑はれるのだ。
このことが、社会全般におけるナルシシズムの捕捉を実に困難にする。
もとより他人の賞讃を全く必要としないほどの純粋ナルシシズムとは、絶対真空と同様に、一つの仮定としての
絶対値にすぎず、一つの究極の観念、一つの神話にすぎぬ。誰しも他人の賞讃を必要とするが、それは他人こそ
「物言ふ鏡」であり、その賞讃こそ、肉体を離脱した非在の観念としての自意識の、何ら目に見え手にとることの
できない絶対的客観性を、傍証してくれるからである。
ナルシスの水鏡を、ナルシシズムの純粋な無言の鏡とすれば、「他人」こそは、二次的でありながらはなはだ
力強い、物言ふ鏡と言へるであらう。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:18:27.82
自意識がその客観性を確認するために、どうしても他人の賞讃を必要とするのは、ナルシシズムの客観的要件を、
できるだけ多く自分のはうへ引寄せようとする自然な志向である。すなはち、すでに水鏡をではなく、「他人の
鏡」を相手にするときには、嘲笑が返つてくるか、賞讃が返つてくるかに、彼の自意識の客観性が賭けられてをり、
思ひどほり賞讃が返つて来たところで、彼の客観的要件は、本来減りもせず増しもしない筈であるけれど、
その結果、自意識の客観性は他人の賞讃によつて保証されること多大であるから、そこであたかも、彼の客観的
要件自体が増しでもしたやうな外見を呈する。それはあくまで一つの擬制であるが、水鏡ではなく「他人の鏡」を
相手にした以上、ナルシシズムは悉く相対主義に陥り、いはば相対性の地獄に落ちることが避けられない。
純粋ナルシシズム以外のあらゆるナルシシズムにとつて、かくて本質的な様態は「不安」Sorge なのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:18:50.16
さてこの際どい賭に勝つために、彼が自分の最良のものを賭けようとすることは自然であらう。肉体的ナルシシズムに
よつてこの賭に勝つ自信がなければ、知的精神的ナルシシズムによつて勝たうとするのは当然であらう。ナルシスの
神話は、あのやうに素朴に、人間の肉体的ナルシシズムの純粋性、絶対性を謳ひ、自意識の純粋形態を象徴して
ゐるのに、古代ギリシアにすら、やがてソクラテスの近代がしのび込み、知的精神的ナルシシズムが覇を制する。
知的精神的ナルシシズムは、純粋ナルシシズムの見地からすれば明らかに倒錯であるが、二つの絶対の利点を
持つてゐる。一つはそのナルシシズムが不可見のもの(知性・精神)に関はつてゐることであり、もう一つは、
従つて、普遍妥当性において、純粋ナルシシズムをはるかに凌駕してをり、ごく稀な天然真珠よりも、はるかに
一般的な養殖真珠に相当するからである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:25:14.83
のみならず、人々は安心してこのやうなナルシシズムを許容することができる。誰にも機会は均等に与へられてをり、
努力によつてそれに達することができ、しかも不可見であるからごく秘密裡に、男性全般のナルシシズム的衝動を
満足させることができる。
かくて男の世界における肉体蔑視がはじまり、近代社会の多くの知的弊害がそこから生れてきた。
男は不可見の価値に隠れ、女は可見の世界へ押し出された。男は見る側になり、女は見られる側へ廻つた。
男女の服装を見ればわかることだが、男は渋い色の劃一的な背広に身を包み、もはやきらびやかな緋縅の鎧を
着ることはなくなつた一方、女はますます肌をあらはに、さまざまなファッションに身をやつすやうになつた。
女のナルシシズムといふ観念は、男性から移植され注入された観念のやうに思はれるが、もし女にとつて、
一般的普遍的に肉体的ナルシシズムが許容されるとなれば、そこに自意識の規制が働かないことは明らかであるから、
別な方法が案出されなければならない。それが化粧である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:25:30.33
化粧こそ、一般的肉体的ナルシシズムを、滑稽さから救ふ唯一の方法である。この方法が特に女に普及したのは、
女の自意識の欠如の代償作用であつて、顔に白粉や紅を塗つて美しく作りかへることによつて、肉体的ナルシシズムは、
はじめからまつしぐらに、その不純性へ飛び込むのである。純粋ナルシシズムには、決して化粧の原理を
導入することはできない。
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をする習慣は、美女と醜女を問はないが、それが醜女だからと言つて、
人は決して笑はうとはしない。そこで問はれてゐるのは、自意識の客観性の問題ではなく、いかに美しくなるか
といふ問題だけであつて、化粧をしない醜女よりも、化粧をした醜女のはうが幾分でも美しく見えれば、それは
社会の志向するところと一致してゐるからである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:25:47.77
他人の賞讃が、しかし、女の場合には、肉体的賞讃にとどまるやうに、女自身も要請し、社会も亦これを要請して
ゐるのは、男の世界が守つてゐる知的精神的ナルシシズムの縄張りを、女に犯されないための用心であらう。
そのためにこそ、男は、古代の男の肉体的ナルシシズムの不安(ゾルゲ)の地獄を、女のために開け渡したのである。
しかし、さうして開放された世界が、女に果して不安(ゾルゲ)を与へたかどうかは疑はしい。鏡の前にゐるとき、
女は明らかに幸福に見える。その幸福を見て、男は又しても不可解なものにぶつかるのである。
どうして化粧をしてゐるときの女は、そんなにも幸福なのであらうか? ナルシシズムが幸福であらう筈がない。
それならば、それはきつと、何かわからぬ、何か別のものにちがひない。とまれかくまれ、「幸福」とは、
男にとつてもつとも理解しがたい観念であり、あらゆる観念の中で、もつとも女性的なものである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 12:14:59.13
知らない
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 03:51:21.94
今こそ三島さんを読むべき
おもしろいな。
なんか偽善とウソだらけの今の日本にこそ見直すべき作家だな
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 15:35:46.80
素晴らしい
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 13:05:04.47
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 19:59:29.95
三島由紀夫が今の日本を見たらどう思うのだろう
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 12:05:14.76
>>371 自衛隊の空母など、緊急災害時にも必要な自国の備えが、戦後60年以上たっても十分備わってないことに驚いているんじゃないでしょうか。
親が子を殺したり、動機不明の衝動殺人が発生したり
政治も右も左もなくてコロコロ総理変わったり
男が女社会に負けて草食男子になるとか、もうすでに予見してたからね
自衛隊の現状も予想の範囲内だったと思うよ
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 13:14:41.05
中世にパロディー文学=連歌なり謡曲なりあの奇怪な古今伝授(これも私は文芸として考へたい)なりが生れて
きたのは漠然たる憧れの為ではあつたが、文芸の次の時代の生命を奪はれたところに必然に執られねばならなかつた
姿ともいへる。パロディー文芸は学問といふやうな態度を多くとらない。生活を抽象に高めて行つて極美に達して
ゐるのは古典であるが、パロディーはその抽象を生活に還元しようとする働らきだ。日本の詩人たちの隠遁は
かゝる古典の還元の一作用である。その慨きの切なさについては頃日云ふ人も多いので云はない。学といふものは
自らの生活への還元といふよりもつと遠心的なところに立つて身にかへるのを要したのは宣長の古事記伝の態度を
みればわかる。かゝるパロディー文学は大抵の場合パロディーのまゝ伝はるか又は全く別な新文学の内に融合するか
どちらかゞ普通だが、後者は門左衛門(巣林子)に一時成就するかとみえた。蓋し自ら身に行ふ戯曲は、その
本質に於てパロディー性を有するものであつたのか千本桜や嫩軍記に於ては中世の軍記物のもつ雰囲気が切ないほど
身近くゑがかれてゐた。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 13:15:02.09
(中略)
日本の歴史の上の創造即ち「むすび」は段階的なものではなく、デカダンスの次の空間から生れるものではない。
「かへる」のではなく、いはゆる復古でもない。その前によこたはるものゝ「はじめ」が次の「はじめ」を誘致する。
「をはり」は「はじめ」を誘致するのではなく、「はじめ」が常に「はじめ」につらなるのである。これは
日本風な創造であり、仏教風な輪廻思想ではない。「はじめ」の連結により歴史が形づくられるが、「をはり」と
「はじめ」は革命思想でむすびつけられるのではない。「はじめ」が「はじめ」に結びつきうるのは血の
ありがたさで血の連続なきところにはかゝる結合はうまれない。支那では「はじめ」が「はじめ」にむすびつくなど
考へられぬ。日本ではじめて天壌無窮の御神勅ははじめて意義をもつのである。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 11:36:44.71
時代を考へることを皮相の面でするときそれは便乗に類する。便乗とはむしろ時代を考へない謂である。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「無題(『輔仁会雑誌』編輯後記用)」より
芟夷(さんい)の詩であることは、不朽のますらをぶりとたわやめぶりのその礎を固くすること――太しく
たてる宮柱のみわぎの裔に外ならない。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「後記(『赤絵』二号)」より
時世に敏なりといふことが詩人の特性のやうに言はれるのは滑稽で抱腹絶倒なことである。国の最高のなげかひを
共にせぬ詩人が最高の慶びにどうして侍(はべ)ることができよう。直毘をいふのはそこなのだ。だから日本こそは
古典主義即浪漫主義であるところの唯一の国である。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「古座の玉石――伊東静雄覚書」より
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 11:37:11.75
時間による超国家性は無窮の国に於ては国家性に外ならない。世界文学が時間で結ばれると真の国粋文学に一致する。
かゝる「時」の上の宣長の思想は本然的に血統となり血脈となり系譜となるものである。弁証法的思想史と全く
異つた思想を日本に於て宣明したところに宣長の世界的偉大がある。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「無題(『作文補遺』)」より
だんだんに私は文学を引き寄せるやうにしてゆきたいと思ふ。己れより乗り憑つて乗り憑りつつ清められると
云つたあり方に心ひかれる。さういふ場合の放胆さについてはもう口でいはぬはうがよいと思ふ。それは一種の
ニイチェ風な陥没であらうもしれぬが私は日本人にふさはしい手振だけをまなんでゆくほかはない。そして、
戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくること、それらを
私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「跋に代へて(『花ざかりの森』)」より
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 16:54:01.41
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、おもふに恋愛と不良化の
二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などが
はひる。また、不良化とは、稚心を去る暴力手段である。暴力といふこのことだつて既に、生の過食からうまれて
くる一つの美しい憲法に他ならない。稚心を去る少年たちは、まづ可能性の海の瑰麗な潮風になぶられる。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は拒否せぬ存在である。神は
否定せぬ。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「檀一雄『花筐』――覚書」より
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端氏の『抒情歌』について」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「恋する男」より
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 16:54:47.47
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神へのいたましい堕落と
思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては「基督のまねび」それは愛においても肉体の
まねびであつた。近代以後さらにその精神の純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「精神の不純」より
われわれが築くべき次代の駘蕩たる文化も亦、古い時代の駘蕩たる文化の残した生ける証拠を基ゐにして築かれる。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「沢村宗十郎について」より
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。演劇的批判にしか
耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「宗十郎覚書」より
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 16:55:20.19
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから
正義なのである。下手なものは、千万言の理論の正不正とは別に、悪である。われわれ若い者は下手なるがゆゑに
悪である。
凡てにわかり合はうといふことがおそろしいほど欠けてゐる時代である。お互がわからないことを誇る悲しい
時代である。なまじつかわかり合はうとすれば自分の体に傷がつくことを知つてゐるからだ。もうすこしバカに
ならうではないか。そしてよいものをよいと言はうではないか
平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
来年といふ領域は海のやうだ。僕の海への憧れは実はあこがれといふやうなものではない。それは僕の慾情だ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「一九四八年への慾情」より
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 12:38:38.18
いつもありがとう
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 21:37:12.30
閲覧ありがとう。
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 10:58:18.37
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえないことを、先生方は考へてみたことが
あるのかと思ふ。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない
部分」は決して大人には真似られない部分であると私には思はれるが、もしそれが事実なら、大人のいふ「童心」は
大人の自己陶酔にすぎないであらう。子供は先生たちとちぐはぐな場所で、小悪魔のやうに跳んだりはねたりして
ゐるだらう。
私は私自身を押し流さうとする少年期の羞恥から身を守るために、共にその羞恥に責め立てられる人を師として
求めた。しかるに学校の先生たちには羞恥なんかなかつた。彼らは少年たちの羞恥に、医師の態度で接しようと
身構へるのだつた。ところが羞恥を治すためにこれほど拙ない方法は考へられない。生理的には羞恥の、心理的には
自己嫌悪の少年期における目ざめは、それ自身病気ではなくて、自己が自己自身の医師であることの自覚に
他ならないからだ。
三島由紀夫「師弟」より
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 10:58:47.89
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。
浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの
芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、意地悪は
ヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、やはり清潔な秩序の精神が、
まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活のシンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 19:51:25.48
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪となるのである。
犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが見られ、犯人は人間の登場すべからざる
「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて
健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は選択後の問題にすぎません。
道徳とはいつの場合も行為なんです。
自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついてくるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 19:52:01.30
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。そこではもはや伝達の意識は失はれる。俳優が一個の
機械になる。人形劇や仮面劇との差は、この無限の無内容を内に秘めた人間の肉体の或る実在的な内容に
すぎなくなる。それが顔であり面であり、姿であり、柄であり、景容であるのである。そこではじめて「典型」が
成就される。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、その醜さには悪魔的な蠱惑が
なければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと確実な生の原型に
なるのである。
それはまだ人生の手前にゐる人には、夢の総称になり、いくらかでも人生を生きたといふことのできる人に
とつては、その追憶の確証になつた。
その後現実感の見失はれる不安な時代には、源氏物語は、なほかつ必ずどこかに存在すると信じられてゐる
「現実」の呼名になつた。その「現実」の象徴になつた。そしてそれこそは古典の本来の職分なのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 19:54:22.09
創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。
三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より
そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。
三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:30:30.66
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:30:52.85
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに忘れない平静な日常が、
散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、もともとその個人は
説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
己れを滅ぼすものを信じること、これは宿命に手だすけすることによつて宿命を暗殺する方法である。宿命に
手だすけする代償として、宿命を信じる義務を免かれる行き方である。浪漫主義者の生活の理念は、ともすると
この種の免罪符をもつてゐる。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 15:31:12.69
未曾有の国難です
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:47:36.56
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。ボヴァリイ夫人は私だ、と
フロベェルがいつたといふ話は、耳にタコのできるほどくりかへされる噂である。同時に、雪子は私だ、と
潤一郎はいふであらう。雪子は作者の全美学体系の結晶であり、これに捧げられた作者自身の自己放棄の反映である。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
主人公や女主人公とウマが合ふか合はないかで、その小説が好きになるかならないかは、半ば決つてしまふ。
三島由紀夫「私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に」より
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは野合といふものである。
われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の
類似性によつて似るのではない。われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義
及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:47:59.04
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、それは悪でも背徳でもなく、
何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも一人だといふ前提は、
宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提を
もたないのである。誕生と死の間にはさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より
愛慾の空しさなどといふものは、人間が演ずると、奇妙な、時には奇怪なものになりがちである。文学としての
「輪舞」は、何の説明がなくても、作者のシニシズムが納得されるが、映画の「輪舞」は、肝腎の役者たちが
生身の愛慾の場面を演じ、その限りで、肉慾そのものの誠実さのはうが、強く前面に押し出されざるをえない。
三島由紀夫「映画『輪舞(ロンド)』のこと」より
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:48:44.69
「ざつくばらん」といふ奴も、男の世界の虚栄心の一つだ。
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。
つとめて虚心坦懐に、呑気に、こだはりなく、誠実に、たのもしく振舞ふこと、ケチだと思はれないこと。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。なぜなら虚栄心は女性的なもので、男は名誉心や
面子に従つて行動してゐるつもりであるから、「男の一分が立たねえ」などと云ふときには、云つてゐる御当人は
微塵も虚栄から出た啖呵とは思つてゐない。
古い社会では、男の虚栄心が公的に是認され、公的な意味をつけられてゐた。封建時代の武士の体面や名前といふ
ものがそれである。男性の虚栄心に公的な意味をつけておくことは、社会の秩序の維持のために、大へん有利でも
あるし、安全でもある。金縛りよりもずつと上乗な手段である。
三島由紀夫「虚栄について」より
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:30:30.41
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
一面からいへば友情と恋愛を峻別することは愚かな話で、もしかすると友情と恋愛とは同一の生理学的基礎に
立つものかもしれない。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より
大体イヴニングを着てダンサーに見えない女は、日本人では、よほどの気品と育ちのよさの備はつた女か、
それともよほどのおばあさんかどちらかである。
三島由紀夫「高原ホテル」より
私はまだ酒に情熱を抱くにいたらない。時々仕事の疲労から必要に迫られて呑むことがある。趣味はある場合は
必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。
三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:30:54.62
これ(皮肉〈シニスム〉)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義にもとづく
自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。すべてを見てしまつたと
思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。
いきほひ感情は無力なものになり、情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。愛さうとして
愛しえぬ苦悩が地獄の定義だとドストエフスキーは長老ゾシマにいはせたが、近代病のもつとも簡明な定義も
またこれである。
(中略)
悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます強められ、おのづから
近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から生み出された古典主義である。喜劇は近代を
のりこえる力がない。(中略)偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用を
しかもたないだらう。
三島由紀夫「悲劇の在処」より
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:34:03.02
人の思惑に気をつかふ日本人は、滅多に「私は天才です」などと云へないものだから、天才たちの博引旁捜で
自己陶酔を味はふが、ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが完全に払拭されないと
芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよいのである。演劇とはスキャンダルだ。
後進国の例にもれず、芸術性と啓蒙性がいたるところで混同されてゐる例は、戦時中の御用文学にあらはれ、
今日また平和運動と文学とのあいまいな関聯を皆がつきとめないで甲論乙駁してゐる情景に見られるのである。
フランスの深夜叢書にイデオロギーにとらはれずに多くの文学者が参加したのは、結局その根本的なイデエが、
政治的権力の恣意に対する芸術の純粋性擁護にあつたからだと思はれる。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:35:24.32
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、選択である。小説の中に
出てくる人間批評だの文明批評だのといふのは末の問題で、小説も芸術である(といふ前提には異論があらうが)
以上、創作衝動がまづ素材にぶつかつて感じる抵抗がなければならない。
文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつて
しまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の
記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。
小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと勝手であるが、
技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。
理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。(中略)
芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 10:24:20.78
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。
パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて興ざめのする人種は、
小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、
わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客
目あてに美々しく装うてゐるが、これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な
芸術の生れる温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。私はよい芸術が、パリ市民の俗悪に
反抗して生れるから、パリが逆説的に温床だといつてゐるのではない。トーマス・マンもいふやうに、芸術とは
何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに便所があるやうな、さういふ構造を
宿命的に持つてゐる。これを如実に体現してみせた都会がパリであるから、その独創性はまことに珍重に値ひする。
三島由紀夫「パリにほれず」より
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 10:26:31.98
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、思考と行為との窮極の堺、
むしろ行為に近いもの、と云つてよい。「受動的な純粋行為」などといふものがありうるか? 言葉といふものは
ふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用を
もつてゐる。近代の小説の宿命は、この矛盾の上に築かれてゐるのですが、詩は言葉をもつとも行為に近づけた
ものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、
行為を極度に受動的に表現することによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つて
しまへば、詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、詩における
言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に近づくに従つていや増す受動性を、
最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、見事にこの要請に叶つてをります。
三島由紀夫「『班女』拝見」より
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 10:27:50.79
殿下は、一方日本の風土から生じ、一方敗戦国の国際的地位から生じる幾多の虚偽と必要悪とに目ざめつつ、
それらを併呑して動じない強さを持たれることを、宿命となさつたのである。偽悪者たることは易しく、反抗者たり
否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに
万全を尽くすことは、人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。
殿下の持つてをられる自由は、われわれよりはるかに乏しいが、人間は自由を与へられれば与へられるほど
幸福になるとは限らないことは、終戦後の日本を見て、殿下にもよく御承知であらう。殿下は人間がいつも
夢みてゐる、自由の逆説としての幸福を生きてをられるので、いかに御自身を不幸と思はれるときがあつても、
御自身を多くの人間が考へてゐる幸福といふ逆説だとお考へになつて、いつも晴朗な態度を持しておいでになる
ことが肝要である。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 22:05:07.50
素晴らしい
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 11:00:45.67
なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、
その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくない。
小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、
はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみに悲しくて、センチメンタルにしか物事を
見られないのは小説家としても脆弱である。
バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説といふものはさういふふうにしてかくものである。詩のやうに
ぼんやりインスピレーションのくるのを待つてゐるものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が
小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかはりないと思ふ。
なまけものはどこに行つても駄目なのである。
三島由紀夫「作家を志す人々の為に」より
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 11:24:43.02
張り合ひのない女ほど男にとつて張り合ひのある女はなく、物喜びをしないといふ特性は、愛されたいと思ふ女の
必ず持たねばならない特性であつて、かういふ女を愛する男は、大抵忠実な犬よりも無愛想な猫を愛するやうに
生れついてゐる。
(中略)
冷たさの魅力、不感症の魅力にこそ深淵が存在する。
物理的には、ものを燃え立たせるのは火だけであるのに、心理的には、ものを燃え立たせるものは氷に他ならない。
そしてこの種の冷たさには、ふしぎと人生の価値を転倒させる力がひそんでゐて、その前に立てば、あらゆる価値が
冷笑され、しかも冷笑される側では、そんな不遜な権利が、一体客観的に見て相手にそなはつてゐるかどうかを、
検討してみる余裕もないのである。
こんないら立たしい魅力も、しかし心を息(やす)ませないから、実は魅力の御本尊の自負してみるほど、
永続きはしないものである。
三島由紀夫「好きな女性」より
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 11:25:07.00
(中略)
ありがた迷惑なほどの女房気取も、時によつては男の心をくすぐるものである。かういふ女性の中には、どんなに
知識と経験を積んでも、自分でどうしても乗り超えられない或る根本的な無智が住んでゐて、その無智が決して
節度といふことの教へを垂れないから、いつも彼女自身の過剰な感情のなかでじたばたしてゐるのである。
(中略)
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。しかし計量できない天文学的
数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。
それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目を
つぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。
私は時には、さういふ催眠剤的な女性をも好む。
これはさつきの議論と矛盾するやうでもあるが、一方、認識慾のつよい男ほど、催眠剤を愛用する傾きも強く、
その必要も大きいといふことが云へるだらう。
三島由紀夫「好きな女性」より
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 11:25:48.84
この世にはいろんな種類の愛らしさがある。しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であらう。
美しいと謂はれてゐる女の人工的な計算された可愛気は、たいていの場合挫折する。実に美しさは誤算の能力に
正比例する。
(中略)
可愛気は結局、天賦のものであり天真のものである。
そしてかういふものに対してなら、敗北する価値があるのだ。
ほんのちよつとした心づかひ、洋服の襟についた糸屑をとつてくれること、そんなことは誰しもすることであるが、
技巧は、かういふ些細なところでいつも正体をあらはしてしまふ。
私は小鳥を愛する女の心情の中にさへ、暗い不可解な無意識の心理を、忖度せずにはゐられない不幸な人間であるが、
たまには、(時には気候の加減で)さういふ時の女にかけがへのない天真さを発見する。
何かわれわれの庇護したい感情に愬へるものは、おそらく憐れつぽいものではなくて、庇護しなければ忽ち
汚れてしまふ、さういふ危険を感じさせる或るものなのであらう。ところが一方には何の危険も感じさせない
潔らかさや天真さといふものもあり、さういふものは却つて私を怖気づかせてしまふから妙である。
三島由紀夫「好きな女性」より
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 13:11:41.67
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、透明な抽象的構造を
いつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。(中略)
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 13:12:13.82
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 13:13:00.70
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが紙一重であると
いふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。
私は女をだます気がないから、かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、
欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」の
ヴァルモン子爵は、(中略)女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を
総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、
そのへんがおぼこなのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 13:13:36.93
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 13:16:54.97
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な
文化の母胎であつた。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 13:18:08.35
したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を味はふことができぬのである。文化の進歩につれて、この孤独の意識を
先天的に持つた者が、芸術家として生れ、芸術の専門家になるのだ。私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと
首をひねらざるをえない。
あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教へてもらつてゐる始末である。教師的趣味の男が
いつぱいゐるから、それでどうにか持つてゐるが、丁度眼鏡を額にずらし上げてゐるのを忘れて、一生けんめい
眼鏡をさがしてゐる人のやうに、女は女性といふ眼鏡をいつも額にずらして忘れてゐるのだ。(時には故意に!)
こんな歯がゆい眺めはなく、こんな面白くも可笑しくもない、腹の立つ光景といふものはない。私はそんな明察を
欠いた人間と附合ふのはごめんである。うつかり附合つてごらん。あたしの眼鏡をどこへ隠したのよ、とつかみ
かかつてくるに決つてゐる。
もつとも女が自分の本質をはつきり知つた時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであらう。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
なんかワロタ
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 10:43:00.96
男にとつて、仕事は宿命です。
純粋な女の恋には、野心がありません。もし野心をもつたら、恋に打算が加はつて醜くなります。
それに、人を愛しながら野心を満足させることは、女の場合できないのです。女性においては、純粋な恋ほど、
野心から遠ざかります。
こゝに男の恋と女の恋の違ひがあるのです。男性の場合は、仕事に対する情熱――野心と、恋愛とが常にぶつかり
合ふのです。
野心をもたないやうな男は、情熱のない男です。(中略)情熱のない男、エネルギーの少い男性には、どんなに
閑があつても、ほんたうの恋愛はできません。
女は、恋のために、男の仕事を邪魔してはなりません。
(中略)一たん男が仕事に情熱を打ち込んだら、女性は放つておくこと。そんなときの男性は、子供が新しい
おもちやに夢中になつてゐるやうに、決して浮気をしません。
男性を仕事に熱中させることです。こんなときに男から仕事をとり上げてしまつたら、男は仕事を邪魔しない女性と
恋愛をするやうになります。
三島由紀夫「男は恋愛だけに熱中できるか?」より
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 10:43:50.51
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。
三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄やお茶の稽古事のやうな
稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。
芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より
ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。
三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 10:44:48.65
すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれを殺すところに発展がある。
三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より
文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬヨタ話を書きちらし、
一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的社会観を養つて、日本再建をマイナスすること
ばかり狂奔してゐる。
若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語があるものか)だの、
「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしいお題目は、私にいはせれば悉く文士の
不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。
三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より
義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。
三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 17:09:24.86
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、人の心を苛むものが
どこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態をとるにいたらしめる、
さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。
爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より
その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者へのてがみ」より
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 17:10:10.17
男といふものは、もしかすると通念に反して、弱い、脆い、はかないものかもしれないので、男たちを支へて
鼓舞するために、男性の美徳といふ枷が発明されてゐたのかもしれないのである。さうして正直なところ、女は
男よりも少なからずバカであるから、卑劣や嫉妬やウソつきや怯惰などの人間の弱点を、無意識に軽々しく露出し、
しかも「女はかよわいもの」といふ金科玉条を楯にとつて、人間全体の寛恕を要求して来たのかもしれない。
三島由紀夫「男といふものは」より
恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。
三島由紀夫「『恥』」より
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を大きらひだといふ奴は、
よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
三島由紀夫「私の顔」より
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 10:41:23.80
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。本当の青年だつたら、
矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。
青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。
青年期が空白な役割にすぎぬといふ思ひは、私から去らない。芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、
それよりもさらに、幼年期であらう。
肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれないものだと考へる私は、
青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く評価しないのである。肉体が衰へなくては、
本当の精神は生れて来ないのだ。私はもつぱら「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪は
ここから生じる。
三島由紀夫「空白の役割」より
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 10:41:51.24
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、老年の智恵に
青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割は
そこにしかない。それに誠実に直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。
今日の時代では、自分の青春の特権に酔つてゐるやうな青年は、まるきり空つぽで見どころがなく、青春の特権などを
信じない青年だけが、誠実で見どころがあり、且つ青年の役割に忠実だといへるであらう。
さう思ふ一方、私にはやはり少年期の夢想が残つてゐて、アメリカ留学の一念にかられて、鱶のゐる海をハワイへ
泳ぎついた単純な青年などよりも、アジヤの風雲に乗じて一ト働きをし、時代に一つの青年の役割を確立するやうな、
さういふ豪放な若者の出てくるのを、待望する気持が失せない。
やはり青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかないからである。
三島由紀夫「空白の役割」より
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 10:53:14.39
諷刺は人を刺し、おのれを刺す。
精神と精神との共分母にくらべれば、顔と顔との、単に目口鼻などといふ共分母は、それが全く機能的な意味を
しか想起させない、いかに稀薄な、いかに小さなものであらうか。われわれが、お互ひにどんなに共感し
共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに
没してしまつて、あたかも存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、目に見えるままの素面を
信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、そこにしかないからだ。
絶対的な誠実といふものはない。一つの誠実、個別的な誠実があるだけだ。
三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 10:53:43.02
役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。
美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。
三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より
歌舞伎はよく生き永らへてゐる。内容が古びても、文体だけによつて小説が生き永らへるやうに、歌舞伎の
スタイルだけは、おそらく不死であらう。
様式こそ、見かけの内容よりもつと深いものを訴へかけてゐる。
三島由紀夫「芸術時評」より
「潮騒」における思春期の設定は小説の道具にすぎず、私は人間の思春期なんか、別に重大に変へてゐない。
あの小説で私の書きたかつたのは、小説の登場人物から「個性」といふものを全く取去つた架空の人間像であつて、
そのためにわざわざ、遠い小島へ話をもつてゆき、年齢もとりわけ少年期の人物を選んだわけである。それなら
何故子供を書かないか? 冗談ではない。子供は少年よりもずつと個性的な存在なのである。
三島由紀夫「映画の中の思春期」より
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:29:05.45
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、わざとらしくなりがちだ。
三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より
われわれのふだんの会話を注意してきいてゐれば、すこし頭のよい人間は、物事を整理して喋つてゐる。筋道を立て、
簡潔に喋ることが、社会生活の第一条件といふべきである。心理的な会話なんて、さうたんとはない。頭のわるい
女だの、甘い抒情的な男に限つて、廻りくどい会話をするものである。
三島由紀夫「『若人よ蘇れ』について」より
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を
大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その
自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。
三島由紀夫「『沈める滝』について」より
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:29:32.15
外国の話は、その外国へ行つた人とだけ話題にすべきものだと思ふ。いはば共通の女の思ひ出を語るやうに
語るべきもので、人に吹聴したら早速キザになるのだ。
三島由紀夫「外遊精算書」より
ランボオとは、体験としてしか語られないある存在らしい。
絶対の無垢といふ、わかりやすいものを前にして、これほど仰々しい言葉の行列を並べてみせる、ミラア及び
西洋人といふものを、私はどうも鬱陶しく思ふ。この評論こそは、ランボオの呪つた文明的錯雑そのものではないか?
三島由紀夫「文明的錯雑そのもの――ヘンリ・ミラア作 小西茂也訳『ランボオ論』」より
いくら名だたる野球選手でも、水泳の名手でも、ゲーテの名も知らず、万葉集の何たるかも知らないでは一人前とは
いへますまい。私はそれと正反対の状況にありました。小説こそいくらか書いたが、肉体的には、レベル以下
ほとんどゼロでした。これでは一人前とはいへますまい。
三島由紀夫「信仰に似た運動――告知板」より
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:30:02.64
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。
三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より
私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。
三島由紀夫「黛氏のこと」より
あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。
死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。
三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より
芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。
人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。
三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:30:57.84
男性が持つてゐる特長で、女性にたえて見られぬものは、ユーモアである。
ユーモアとは、ともすれば男性の気弱な楯、男同士の社会の相互防衛の手段かもしれないのである。
三島由紀夫「長島さんのこと――あるひは現代アマゾン頌」より
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして行ひ難いことだ。
われわれは、恥かしながら、みんな宙ぶらりんのところで生きてゐる。
死の予感の中で、死のむかうの転生の物語を書く。芸術家が真に自由なのはこの瞬間なのである。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より
表現の見地から見れば、食欲や飲酒欲は、エロや涙より、はるかに高尚な対象なのである。なぜなら、物を
食ひたかつたり、酒をのみたかつたりすれば、本を読むより実物を得るはうがたやすく、かういふ充たされやすい
欲望を、言葉で表現するといふことは、ティーターン的大業ではないか。
三島由紀夫「誨楽の書――吉田健一氏『酒に呑まれた頭』」より
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 04:12:13.55
かっこいい
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 10:32:33.98
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。小学校では五月の図画の時間に、
よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、
緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、
よほどの問題児であると考へてよいが、どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くと
さうは描かない。ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしか
とらへようとしないのである。それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、
あからさまに証明してゐる。しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
大胆で誇張された鯉幟のデザインは、遠目で見られることを計算してゐる点で、あくまで機能的である。歌舞伎の
小道具に見られるやうな、強い、なまなましい、野蛮な配色が、鯉の活力を表現してゐる。
三島由紀夫「こひのぼり」より
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 10:32:54.67
殊に真鯉は、五月の青空を背景にして、その黒い鱗の土俗的な新鮮さが、官能的でさへある。日本の五月の空が
こんなに明るく、日本の五月の風がこんなに光りに充ちてゐなかつたら、もちろんこんな配色やデザインは
生れなかつたであらう。(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の
男性中心主義が、男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されても
よささうなものであるが、これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。
三島由紀夫「こひのぼり」より
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 11:20:41.76
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。
三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 11:21:14.83
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。
三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より
小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。
三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より
神を信じる、あるひは信じないことと、神を持たないといふことは、おのおの別の次元、別の範疇に於ける
出来事なのである。従つてそこには同一次元上の対立といふものはありえない。
神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。それを越えうるものは
信仰だけである。(日本古昔の耶蘇教殉教者を見よ)。
信仰にとつては、黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。神があるだけである。芸術にとつては
黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。人間があるだけである。アメリカの黒人問題を扱つた小説は、
すべて具象的で、人間的である。
三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 11:21:39.53
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは観客に対する
思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、実は同じ根から生れたものである。
本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より
大体私はオペラをばからしい芸術だと考へてゐる。オペラの舞台といふものは、外国で見たつて、多少、正気の
沙汰ではない。しかし何んともいへない魅力のあるもので、正宗白鳥氏流にいふと、一種の痴呆芸術の絶大な
魅力を持つてゐる。
三島由紀夫「『卒塔婆小町』について」より
今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。
どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 16:53:38.06
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。新仮名論者の進歩派たちも、羽田の
見送りさわぎでは日本的風俗を守つてゐるのが奥床しい。
三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より
母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。
三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より
国の裁判権の問題は、その国の威信にかかはる重大な問題である。
三島由紀夫「きのふけふ マリア・ルーズ号事件」より
現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり家にだつてラジオの
一台は必要だといふことはありうる。
三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より
辺幅を飾らないのは結構だが、どこまでも威厳といふものは必要だ。ことに西洋人は、東洋人独特の神秘的な
威厳といふものに弱いのである。
日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮できないものであらうか。
ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。
三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 16:54:24.52
人生では、一番誠実ぶつてゐる人が一番ずるいといふ状況によくぶつかります。一番ずるさうにしてゐる人が、
実は仕事の上で一番誠実である場合もたくさんあります。
私は、人間といふものは子どものときから老人に至るまで、その年齢々々のずるさを頑固に持つてゐるものだと
考へてゐます。子どもには恐るべき子どものずるさがあります。気ちがひにすら気ちがひのずるさがあります。
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして誠実であるかどうかについても
たえず疑つてをります。
人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずり
まはらなければいけません。しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつて
しまふのもまた奇形であります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 21:05:30.05
感覚に訴へないものは古びることがない。
三島由紀夫「鴎外の短編小説」より
私は次のやうに考へてゐる。肉体的健康の透明な意識こそ、制作に必要なものであつて、それがなければ、
小説家は人間性の暗い深淵に下りてゆく勇気を持てないだらうと。
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より
われわれはいかに精神世界に生きても、肉体は一種の物質である以上、そのサビをとらなければ、精神活動も
サビつきがちになることを忘れてゐる。
三島由紀夫「体操と文明――浜田靖一著『図説徒手体操』」より
知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し肉化する力を失ふのである。
私がスポーツに求めてゐるのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい。
三島由紀夫「ボクシングと小説」より
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 21:06:20.53
清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい負ひ目として現はれるので
なければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人
といふものには、私は頭から信用が置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、
そのために苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。
古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。かれらは人間生活を
よりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのではなかつた。死に関する知識、暗黒の
血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、
一定の智者がそれを統括して、管理してゐなければならなかつた。
三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:37:56.39
神島は忘れがたい島である。のちに映画のロケーションに行つた人も、この島を大そう懐しんでゐる。人情は素朴で
強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた。地方へ行つて、地方的劣等感に
会ふほどイヤなものはない。
三島由紀夫「『潮騒』のこと」より
オペラといふものには懐しい故郷のやうな感じがするのである。さうして、大体、オペラの筋の荒唐無稽さとか
不自然さとかといふものは、我々は歌舞伎に慣れてゐるからさほど驚きもしない。
この間のわけのわからない京劇などよりも、私はよほど感動した。さうして隣国でありながら京劇がわからないで
オペラはわかるといふことは、不幸なことのやうでもあるが、京劇のやうなわからないものをわかる振りを
するインテリの一部の傾向は、私には無邪気さを欠いてゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「盛りあがりのすばらしさ」より
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:38:19.79
詩人の魂だけが歴史を創造するのである。
三島由紀夫「日本的湿潤性へのアンチ・テーゼ――山本健吉氏『古典と現代文学』」より
オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに詩と死は同じ仮名である。
オルフェは詩に恋し、死神は神の詩であり、オルフェの女房は詩に嫉妬する。それでいいのだ。
三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な美しさに満足して
ゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつて
ゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より
地震なるものに厳密な周期律も発展性もないやうに、文壇崩壊論にも、さういふものはない。
近代小説なるものは、日本的私小説であつてはならない。
近代小説には思想が、少なくとも主体的なライトモティーフがなければならぬ。
小説は面白くなくてはならないのである。
三島由紀夫「文壇崩壊論の是非」より
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:43:50.93
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。まことに人生はままならないもので、
生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、練習は必ず毎日
やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より
画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら外国の一流の作家の
模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作がズラリと並んでゐてほしい。
運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、少なくとも初歩的な
段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものにならないのである。
三島由紀夫「学習院大学の文学」より
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:44:12.11
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。そこにもろもろの小説家、
劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。
三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より
恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも恋は青春の感情と
考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。
三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀(辰雄)氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ない
ものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:53:24.91
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。
三島由紀夫「文字通り“欣快”」より
花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の着物がはやりだすと
戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。(中略)
かうした慣習や迷信は、女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、洋服の形の変遷も馬鹿には
できない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いてゐるかもしれないのである。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会 小社会の根底にひそむもの」より
男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎた
ためであらう。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:53:47.79
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、喜劇の部類に
入らぬことを銘記すべきである。
三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より
怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、早く印象が
薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。
三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、
短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。ゲーテがウェルテルを
書いて、自殺を免かれたところからはじまる。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:54:12.06
「いづれ春永に」といふ中世以来のあいさつには、あの春日のさし入つた空白のなかでまた顔を合はせませう、
といふ気分があるのだらう。愛情も、好悪も、あらゆる人間的感情が一応ご破算になる。さういふ空間を、
早春の一日に設定した人間のたくらみは、私にも少しはわかる。
三島由紀夫「いづれ春永に」より
ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、これを逆に申しますと
「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。
他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。
三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より
芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、その生活までも芸術に
引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。
三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:43:26.46
日本人には、無意識のうちに、俳句的な感情類型といふものは潜んでゐる。五七五でものを考へ、事物を把握し、
ふとした嘱目の風景を、いつのまにか五七五の形に要約して見てゐるといふことはありうる。小さなもの、
たとへば蝶、蚊、こでまりの花、水引草、……そんなものを見た時ほど、さうである。われわれの目には昔ながらに、
美的な、顕微鏡がついてゐる。
(中略)
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、
モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、いつのまにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を
痛感することがある。長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、
ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
実際北米ニュー・メキシコ州の、西部劇によく出てくる峨々たる岩山ばかりの、乾燥した空々漠々たる風景などに
触れたとき、私は自分の目のレンズがどうしても合はないのを感じた。
三島由紀夫「蝶の理論」より
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:45:43.74
よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、「薇」といふ字はその葉つぱ
みたいに見えるではないか。
三島由紀夫「薔薇と海賊について」より
表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。薔の字は、
幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。
三島由紀夫「あとがき(『薔薇と海賊』)」より
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな
言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、
それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、
あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 11:22:09.13
米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて
ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから
肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。
三島由紀夫「紐育レストラン案内」より
女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。
三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より
自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。
三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より
大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。
人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる
ものを持つてゐる。
三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 11:22:34.63
退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より
もし空想科学映画狂を子供らしい悪趣味と仮定するなら、私は大体において、実生活においても完全に「良い
趣味」を持してゐる芸術家といふやつは、眉唾物だと思つてゐます。
どう考へても、空飛ぶ円盤が存在するといふことは、東山さんの絵や小生の小説が存在するのと同じ程度には、
確実なことではないでせうか。又もし空飛ぶ円盤の存在があやしげだといふのなら、この世における絵や小説の
存在もあやしげになるのではありますまいか。
三島由紀夫「『子供つぽい悪趣味』讃――知友交歓」より
悪の定義は、無限軌道をゆく知性の無道徳性から生れてをり、知性の本来的宿命的特質が、極限の形をとると、
おのづから悪の相貌を帯びるのである。
三島由紀夫「人間理性と悪――マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳『悲惨物語』」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 10:29:01.36
やつぱり僕は日本の女の人、好きだよ。だつて、いざとなりや、親切だもの。ほんと、親切ですよ。ずいぶん
意地悪なこと言つても、結局、親切だもの。
外国の女性はね、友達になつても、日本人みたいに人情が通じないしね、第一、ソバカスが出てて気味が悪いもの。
それにみんな巨きい女つて嫌ひなんだ。(中略)
僕の女の友達、いつぱいゐるけどね、みんな口が達者で、お互に悪口ばつかり言つてて、僕なんかボロクソに
やられてゐる。三文文士扱ひでね、まづ着てるものを全部ケナすんですよ。「趣味の悪いセーターを着てる」とか、
「その頭の格好は何さ」とか「クツシタがなつちやゐない」とかね。さうして「一緒に歩くの恥づかしい」なんて、
サンザン言ふんだ。だけど、その口の悪い友達がね、この間、僕のおふくろが病気で入院したら、三島さんが
さぞ困つてゐるだらう、ショックを受けただらうと思つて泣いたつていふんだな。あとでその話を聞いてね、
僕はちよつとホロリとするんですよ。
僕はヘンな性質があつてね、けんくわ相手みたいなのが好きなんだ。けんくわ相手で時どき親切つていふのが
好きなんです。
三島由紀夫「僕の理想の女性」より
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 10:29:25.60
(中略)
僕に文学的な興味を持つて僕のお嫁さんになりたいといふ人とは、僕は結婚したくない。さうして非常に
むつかしいことだけど、僕に一人の亭主、一人の夫だけを感じてくれる人と結婚したい。僕は文学的な意見といふ
ものを、身近な人から言はれるのがこはいんです。たとへばヘンな話ですがね、新聞小説を書いてて、家の者に
“つまんない”つて言はれることが、一番いやなんだ。世間の人が“つまんない”つて言ふのはいいけれども、
自分の近所から言はれるの、とつてもいやですね。まして自分の奥さんがさういふことを言ひ出したら、
たまらないだらうと思ふ。
(中略)
それからね、タイプとしては、僕は自分の顔が長いんで、まるいはうがいい。うちの両親みたいに、両方とも
顔が長くつちや、優生学上よくない。僕みたいな子供ができちやふんだ。その僕の所へまた長い顔の奥さんが
来たら、馬がシルクハットかぶつたやうになつちやふ。
僕は可愛いタイプが好きだから、しつかり者で可愛いといふのは、無理なやうだけど、そんな人、ゐないわけぢや
ないと思ひます。
(談)
三島由紀夫「僕の理想の女性」より
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 11:06:20.54
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に思はれてゐる人もたくさんゐる。
社会の大半の人はさうだといふこともできるだらう。あの人は磊落で面白い人だ、気分のいい人だ、と言はれて
一生を過した人が、実はとんでもない反対の性格の持主であつたといふこともありうる。僕といふ人間は磊落かと
思ふと神経質、神経質なのかと思ふと磊落に思はれたりする。正反対の両方が世間にまるだしになつてゐる点で、
一番あけつぴろげなのだといへるかも知れない。
普通の社会だつたら人間だけがあつて、それによつて、太つた人は楽天的、痩せた人は神経質といふふうに
思はれたりするが、小説家といふものは、人間があつてその上作品があるのだから二重の誤解の上に立ち、読者は
いろいろな像を描く。その像にすつぽりはまる作家もゐるだらう。(中略)
僕は自分が不機嫌な時、僕の肖像が、僕をきらひな人の描いた肖像にまるで生き写しだと思つて感心することがある。
三島由紀夫「作家と結婚」より
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 11:06:49.60
(中略)
僕は結婚したら、大変いい御亭主に見えるだらうとすでに云はれてゐる。しかしシャイネンする(ふりをする)
だけでいいのではないか。人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間は
なかばシャイネンの存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。ザイン(存在)だけのものになつたら、
シャイネンがほんたうに要らない人間になる。それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。
どんなに誠実さうな人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。芸術家らしい
シャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。芸術家らしいシャイネンといへば、
頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 10:48:05.33
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、
人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、
古くなるにしたがつて古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。
形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も
密着してゐるからであります。(中略)しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華な
はなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。
三島由紀夫「文章読本」より
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 10:51:47.73
文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と
見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつとも
なごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 10:53:30.91
富士山も、空から火口を直下に眺めれば、そんなに秀麗と云ふわけには行かない。しかし現実といふものは、
いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な
富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり
一部であるのだ。
古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものにしてゐた。われわれは
厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。
三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 10:54:37.75
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。たとへば、祭りのミコシを
かついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。われわれに本当に興味のある話題といふ
ものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかに
するものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より
感動しました
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:52:57.64
一体文学的生活とは、伝統的に、孤独と閑暇の産物である。孤独も閑暇もないところに文学的交遊がある筈もなく、
いはゆる文学バアにおける文士の交歓なども、今ではビジネスマンのくつろぎと大差ない。
仕事の時間は要するに厳密に仕事をする時間であり「文学的」でも何でもない。これはいはば、パリの流行の
服を着るアメリカの金持女性が「流行的」であるのと、その流行を作るパリのデザイナー自身は、かくべつ
流行的でないのとの関係に似たものだ。私に終局的に必要なのは文学であつて「文学的」な事柄ではない。
三島由紀夫「わが非文学的生活」より
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:57:10.02
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることが
できたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない
現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:00:50.08
たえず自己から遁走しようとする傾向は、少年のものだ。自分といふものを密室の中へとぢこめておいて、
そこから不断に遁走しようとする傾向は少年のものだ。青年は自分と一緒に放浪するものである。
現代少年は、ただ抽象的な青春の論理によつて傷つき、滅亡するといふ悲劇しか知らず、かくて自分の内在的な
論理に飽きるときには、外からの具体的な滅亡の力を夢みる。
戦争中の少年たちが「聖戦」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出したやうに、現代の少年たちは、これと逆な
操作を辿つて、「悪」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出す。悪とは、青春そのものの構造の、どうのがれ
やうもない退屈な論理性から、少年たちを解放する力なのである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:02:55.33
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。
三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 12:13:13.99
私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと興がわかない。
見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に許容しないところのものが、芸術であり
スポーツであるが故に許される、といふのが私の興味の焦点だ。やたらに人を打つたりたたいたりすることは、
ボクシングや剣道以外の社会生活では、社会通念上許容されないことである。そこが面白い。
三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 12:14:34.03
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。追つてゆく人間は、知恵を身に
つけることができぬ。追つてゆくことで一杯だから。
しかし「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと「若さ」に敗れる日が
来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 12:15:25.07
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである。
この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 12:17:01.70
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、私は決して咎めないが、
現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を
発見するやうな人たちのはうを、私はもつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふ
のである。なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、その恐怖の
造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスのちがひでしかない。
三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 13:36:38.43
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、たくさんの船虫に
蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、風雅な住ひを飾るのだ。
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、観客席のはうへ顔を向けて
ゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 13:38:07.46
大体、適度な運動などといふものは、甘い考へであつて、運動をやるなら、少し過激に、少し無理にやらなければ、
運動をやる意味がないのである。
完全な自由といふものも退屈なものである。
三島由紀夫「三島由紀夫の生活ダイジェスト」より
犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。ぼくら小説家は、
いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。
映画俳優は極度にオブジェである。
映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。
三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 17:46:38.74
胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いてゐれば、存在を
意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちやんと政治を
してゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に専念してゐられるのである。
民主主義といふ言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含してゐる。平和とは
時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるやうなもので、
これでは民衆の頭は混乱する。政治が今日ほど日本語の混乱を有効に利用したことはない。私はものを書く人間の
現代喫緊の任務は、言葉をそれぞれ本来の古典的歴史的概念へ連れ戻すことだと痛感せずにはゐられなかつた。
本当の現実主義者はみてくれのいい言葉などにとらはれない。たくましい現実主義者、夢想も抱かず絶望もしない
立派な実際家、といふやうな人物に私は投票したい。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より
467 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 17:47:18.04
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
実際、空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しないとすれば、よほどぐうたらな
息子でない限り、学校の勉強や入試を通じて、苛酷な生存競争に立ちまじつてゆくことを選ぶにちがひない。
知力に、意志力に、体力が加はれば、どんな分野でも鬼に金棒だが、この三者の調和をとることがいかに困難で
あるかは、父自身がよく味はつてきたことなのだ。
男としての自覚を持つために、肉体的勇気が必要である。これも父自身が永年考へてきたことである。男は
どんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら世間は知的エリートだけで
動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。
三島由紀夫「小説家の息子」より
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:11:55.30
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつてゐても、醜聞といふものは、
いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージとよく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、
大して致命的なものではなく、人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには
尚更である。かくて醜聞はそのまま神話に変身する。
(中略)
アメリカにおける日本娘の名声の高さは大へんなものである。われわれスポイルされた日本男性は、風呂の中で
妻が背中を流してくれるのを当然のサーヴィスと心得てゐるが、アメリカ人の感激は大へんなものらしいのである。
しかしアメリカ婦人だつて、自分の愛犬の背中を喜んで洗つてやるではないか。とすれば、アメリカ婦人が良人の
背中を流したがらない理由は、男性を犬から区別する敬意に出てゐるのかもしれないのである。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:12:49.85
(中略)
日本のサーヴィス業といふものには、微妙な東洋的特色があるのである。西欧では、快楽といふものは、
キリスト教的伝統によつて、肉体的快楽と精神的快楽にはつきり分けられてゐるらしい。日本ではこのへんが
ひどくあいまいで、肉体から精神にいたるひろい領域を、いろんな種類の快楽が埋めてゐて、そのひとつひとつに
対応するサーヴィス業があるわけだ。だから日本人は、外人が芸者やバアの女給を娼婦と混同するやうな誤解に
ひどく気を悪くする。芸者は断じて娼婦ではない。かと云つて素人女でもないのである。いや、娼婦ですらも、
厳然たる合理的娼婦ではない。十八世紀の日本の純粋な恋愛劇は、ほとんど娼婦と客との恋を描いてゐる。
この点では、封建時代の日本人はよく割り切つてゐた。恋愛とは、金を払つた女とやるものであり、結婚と
恋愛とは何の関係もないと思つてゐたのである。今でも日本人にはこの気分が残つてゐて、恋愛といふものは、
金を払へる場所で、たとへば女のゐる酒場で、次第に精神的に成立するものだといふやうな考へがある。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:13:30.45
(中略)
日本人はほとんど英語を話さない。と云ふとアメリカ人の旅行者はおどろくだらうが、ホテル業者やガイドや
貿易商社関係や、つまり英会話の能力で利益を得る人たちが英語の巧いのは当り前である。だから、本当の日本人、
外人と附合はなくてもやつて行ける日本人は、ほとんど英語を話さない、と云つたはうが正確だらう。そして
かういふ本当の日本人は、外人風に肩をすくめたり、身ぶり手ぶりを使つたり決してしない。英語で話しかけられると、
「わからない」といふしるしに、例の有名な「不可解な微笑」をうかべるだけである。
この微笑が、西洋人には、実に気味のわるい、謎に充ちたものにみえることは定評がある。しかしわれわれに
とつては単純な問題である。悲しいから微笑する。困惑するから微笑する。腹が立つから微笑する。つまり、
「悲しみ」と「困惑」と「怒り」は本来別々の感情だが、それをXならXといふ同じ符号で表現するわけだ。
このX符号を示された相手は、すぐ次のやうに察しなければならない。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:14:10.99
「ははア、これはきつと何か、隠しておきたい感情があるんだな。そんなら触れずにそつとしておかう」
つまり微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは社会生活では
当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が個人の自由を守つてきたのである。
しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
ところが外国人はさうは行かない。殊にアメリカ人となると、絶対に我慢できない。一体このX符号は何だらう。
彼は頭を悩まし、分析し、判断し、質問する。そしてあげくのはてに、相手が怒つてゐるのだと知ると、茫然と
してしまふ。「そんならはじめから、微笑したりせずに、怒ればいいぢやないか」しかしそれは礼儀に外れた
方法である。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:18:51.52
(中略)
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つておけば腐つてしまふ。
伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が
行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方をよくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの
間には決定的な差があるが、木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次の
オリジナルになるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。かくて
伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の秋は今年の秋とおなじである。
だから一般的に云つて、日本人くらゐ、伝統を惜しげなく捨て去つて、さつさと始末してしまふ国民もゐない。
伝統の重圧といふものは、日常生活には少しも感じられず、東洋風な敬老思想もなくなつて、今日では、日本の
老人は、若者の御機嫌をとるのに汲々としてゐる。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:19:28.72
(中略)二十歳以下の連中は、ブルー・ジンズで街を歩きまはり、ロックン・ロールにうつつを抜かしてゐる。
外人旅行者は目をうたがふ。これが日本なのか? 旅行案内社のポスターと何たるちがひだらう!
しかしこれが日本の伝統なのである。鎖国時代の日本人でさへ、今日の若い日本人が、ジャックとかメリーとかいふ
アメリカ名前のニック・ネームを使つてゐるやうに、支那式の名前を別に持つてゐた。当時、支那は日本にとつて、
今日のヨーロッパのやうなものであつた。
二十年目毎の改築と遷宮、これは実に象徴的である。終戦後十五年あたりから、もうすつかり死に絶えたと誰もが
思つてゐた古い日本思想が、あなどりがたい力で復活して、若い世代の一部を惹きつけてゐる。一九六〇年に、
十五年ぶりでハラキリが復活した。岸内閣の政治に憤慨した或る僧侶が、官邸の前で切腹したのである。これから
又たびたびハラキリが出て来ても、おどろくには当らないのである。サムラヒもやがて復活することであらう。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 16:04:01.26
去る六月二十二日のこと、読売新聞の「夫の注文」といふ欄に、「いい年をしてミーハー趣味」といふ題の
投書が載つた。その投書は、「テレビといへば鶴田浩二にうつつをぬかし、タンスの上の写真立てには仲代達矢が
ニンマリ笑つてゐる。茶の間のガラス戸には大川橋蔵があつちを向いたりこつちを向いたり。そんなミーハー趣味より、
少しは知性を高める本でも買つたらどうか。子供が大きくなるといふのに、おばあさんになつても石原の
ユウちやんはいいねなどといふことになるのではイウウツだ」といふ趣旨のものだつたが、その反響は俄然
ものすごく、百通近くの投書が来た。(中略)
こんなつまらないことに賛成したりムキになつて反対したりする投書族の心理はさておき、この種のミーハー
奥さんは、百通の投書を氷山の一角として、日本全国に無数にちらばつてゐると考へてよからう。ブロマイド
ぐらゐで満足してゐるあひだはいいが、若い映画俳優や歌手の後援会には、三十代以上の奥さんも、相当なる
パーセンテージで参加してゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 16:04:53.14
さて、ブロマイドを飾るのが低俗かどうかなどと論ずるより先に、ブロマイドといふものが何を意味するかを
考へたはうが早い。
鑑賞用美男などといふと体裁がいいが、ブロマイドは明らかに人気にもとづいてをり、その人気とは、悲しいかな、
芸よりもむしろ、その俳優の性的魅力にもとづいてゐる。だから、身もフタもないところ、女性にとつての、
男優の顔のブロマイドは、男性にとつての女のヌード写真とさしてちがはない意味を持つてゐると云つていい。
ただ女性にとつては、男の顔だけで十分なので、女性ヌードに対抗して、ハリウッドで、男優の水着姿の
ブロマイドを一杯売り出したところ、案に相違して、ちつとも売れなかつたさうである。
もし芸や人格や名声にあこがれてのことなら、乃木大将や坂東三津五郎や、毛沢東の写真を飾ればいいわけで、
ブロマイドの男優たちは、若くて美男であるといふことを、全然内容ヌキで買はれてゐるわけだが、顔といふものは
おのづから人間の気質を暗示するから、何とでも言ひのがれができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 16:05:28.43
この「言ひのがれ」といふことが、女性にとつてのブロマイドの魅力の一つである。
「仲代達矢つて、孤独で、ニヒルで、どこか悪の漂ふ魅力だわ」
などとブロマイドを見ながら言つてるが、それは映画の作つたイメージにすぎず、仲代君が本当に孤独でニヒルで
悪党であるかどうか、本人にきいてみなければわからない。いや、本人にもよくわからないだらう。性格はよく
顔と反対の場合があるのである。しかしかう言つてる分には、
「仲代達矢の顔見てると、シビれて来るわ」
などと旦那様に告白するよりは無難である。旦那様も、どうにもシビれさせやうのない自分の顔は棚上げにして、
何とか奥さんの要望にこたへて、「孤独で、ニヒルで、悪の漂ふやうな魅力」を身につけようと努力するかもしれない。
その結果、旦那様が、本当に手形偽造や公金費消にでも手を出したら、それは奥さんの責任といふものだが……。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 16:06:05.26
しかしミーハー奥さんがブロマイドを飾り立ててゐたら、まづ旦那様は、自分の若さと性的魅力をすでに失つたか、
あるひははじめから持つてゐなかつたか、に気づかなければならない。そのくらゐの敏感さもなくて、
「少し知性を高める本でも買つたらどうか」
などと言つてるのでは、現代の亭主として落第である。
若い美男俳優のブロマイドは、奥さんよりも旦那に向つて、不断に、
「お気の毒ですなア。別に僕はお宅の御夫婦仲の邪魔をしてるわけでもなし、薄つぺらの無害の紙きれですが、
旦那よ、あなたの確実に持つてゐないものを、僕は全部持つてゐるんですからなア」
と話しかけてゐるやうなものである。亭主たるもの、豈(あに)奮起せざるべけんや。
しかし、深夜ひそかに亭主も耳をすまして、ブロマイドが何を独り言を言つてるか、ちよつときいてみる必要がある。
奥さんの鏡台の上で、あるひは茶ダンスの上で、かれらはかう言つてゐるのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 16:09:07.78
「僕も商売だから、かうしてお宅のガタガタの鏡台や、安物の茶ダンスの上で、歯を見せて御愛想笑ひをしてゐるが、
あなたにして上げられるのは、これだけですよ、奥さん。もしあなたがヘンな気を起して、僕の家を突然訪ねてでも
来られたら、うちの玄関番が、うやうやしくお引取りねがふほかはないでせう。何しろ僕は、ひどく忙しくて、
ひどく疲れてゐるんですからね。今は僕も独身ですが、いづれ結婚するときは、十代か二十代はじめの、ピチピチした
若いきれいな娘をもらひますよ。奥さんと僕ぢやね、年もちがひすぎるし、生活感情も何もかもちがひすぎますもの。
くれぐれも己惚れてヘンな気を起さないで下さいね。僕たちの付合はこれだけにしておきませうね」
――もちろん知的な女も、美男俳優のブロマイドを見て、心を動かされることはあるだらう。しかし彼女が一切
その意志を表明せず、ブロマイドなんかを身辺に近づけないのは、右のやうな深夜のブロマイドの独り言を、
ちやんときいてゐるからぢやないかと思はれる。知的な高尚な女は、耳がとてもよく利くのだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 16:09:38.06
さて本題に戻つて、いはゆるミーハー奥さんは可愛らしい。彼女の耳にはそんな独り言は永遠にきこえないのである。
しかもきこえないから、暴走するかといふと、さにあらず、適当なところで止まつて、よそへ行けば亭主の
惚気を言ひ、年をとれば、それこそ孫を相手に「裕ちやんはいいね」などと言つてゐる。
ミーハー奥さんのブロマイド道楽は、女性が無意識に出してゐる小さな可愛らしい尻尾であつて、かういふ尻尾を
出してゐる女性は、無意識の美徳を持つてゐるから、永遠に可愛らしい。おばあさんになつても可愛らしい。
男性はこの尻尾に感謝すべきである。こんな尻尾のどこにも見えない知的で高尚な女こそ本当の魔物である。
しかし、男性もへんないたづらつ気を出して、奥さんのこんな無意識の尻尾を気にして、その尻尾をギュッと
引張つたりしないはうがいい。引張られた尻尾は忽ち九尾に裂け、おそるべき魔性をあらはし、目は怒り、口は裂けて、
女性の怖るべき本質をむき出しにするであらう。賢明な男とは、女をして、女の本質に目をひらかせないやうに、
いつもうまく誘導してゆくことのできる男である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:53:54.60
尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:54:29.76
――むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありませんでした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:54:56.74
お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:55:29.80
実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:58:57.15
(中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:59:32.91
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 10:51:21.49
俺が嫌いなのは三島ではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきの三島に託し、三島が頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない
487 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 11:31:26.27
女の子のスキーやスケートの姿は、雪女の伝説ではないが、勇ましいうちにも冷艶なものがある。ほつぺたを
真つ赤にして滑つてゐる健康な少女でも、そこには、何だか、妖精的な、透きとほるやうな女らしさが、雪や氷を
背景にして匂ひ立つのだ。
三島由紀夫「新夏炉冬扇」より
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 23:36:56.53
素晴らしい
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 18:05:25.04
私は自分のものの考へ方には頑固であつても、相手の思想に対して不遜であつたことはないといふ自信がある。
これが自由といふものの源泉だと私には思はれる。
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 19:29:36.96
私は自分のものの考へ方には頑固であつても、相手の思想に対して不遜であつたことはないといふ自信がある。
これが自由といふものの源泉だと私には思はれる。
三島由紀夫「『尚武のこころ』あとがき」より
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 19:24:10.57
…私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。
↑これって竹中平蔵のことだよねwww
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 20:41:21.94
懐かしい名前
今さら平蔵の名前出すってことはただの平蔵ストーカーだろうね
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 00:27:33.34
懐かしい
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 20:21:30.42
いいスレ
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 04:41:58.38
素晴らしい・・・
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 09:55:11.58
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から何ものかを汲まねば
ならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の文化がつひに死滅するときであらう。
三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 09:36:15.09
ちやうど舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ女の心を永久に
惹きつけるものだ。
三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 02:38:18.45
素晴らしい
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 16:06:26.67
嘘つき
恥ずかしい裏話をいろいろと黄色い髪の前世はピカチューさんに
ばらされてる
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 23:00:12.83
素晴らしい名文
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 10:11:37.93
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 23:38:36.54
戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、
明らかに政治的意図があつて、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
505 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 23:15:27.16
日本で一等いけないのは、政治家よりも、全学連よりも、新聞だと思ひます。
三島由紀夫
ドナルド・キーンへの書簡より
いつも張ってくれてありがとうございます。
これスマフォで見れる電子本にならないかなー
絶対需要あるよ
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 20:03:59.48
>>506 ホント、三島って隠れた名言が埋もれてるよ。
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 20:05:58.59
現代ジャーナリズムが商業的に避(よ)けて通るやうな問題にこそ、最も緊急な現代的問題がひそむ。
三島由紀夫「『侃侃諤諤』を駁す――交友断片」より
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 18:01:51.37
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 10:58:58.14
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 23:01:39.51
日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮できないものであらうか。
ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。
三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 00:54:39.20
先人がカンカンでいらっしゃる
咥えて差し上げろ
−−−MSMYKO
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 01:02:02.73
彼ら(左翼)は、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようと
するほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫「反革命宣言」より
514 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 01:02:56.71
日本の社会問題はかつてこのやうではなかつた。戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、
純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、
一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。
しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、
偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力から
その道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 09:44:37.27
けふ久々のお手紙をいただき、洵にうれしく拝読、丁度数日前「文藝」で「近松と欧米の読者」を拝読、お手紙を
差上げようと思つてゐたところでした。この論文は、明晰で情理を尽したもので、一方きはめて具体的で、
岩波の「文学」系のチンプンカンプンの左翼国文学者たちに少くとも十回ぐらゐ味読させてやつたら、少しは
彼らの目もさめるかと思はれました。
このごろの日本人はあの勇敢なカミカゼ精神をどこへ忘れてきたのでせう。慨嘆に堪へません。
三島由紀夫
昭和37年9月9日
ドナルド・キーンへの書簡より
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/06(木) 23:36:49.29
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。
他にいくらさがしてもないんだ。
ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、沖を見て
いたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが変わり者だという評判が
たちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、本当に。景色を見るやつは、もうすでに
アウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。
現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が全然ないだろう。
威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/06(木) 23:37:49.69
バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。伝達することによって、
何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるより
ほかないじゃあないですか。明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、工業化が進展して、
社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことがおこってそして巨大な力で動かされて
いるんだけれども、各人がバラバラになって、伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを
統合するには空白のものしかない。絶対に断絶しかない。
祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達を
する人は一人しかいない、それが天皇だ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 23:54:44.77
★首相官邸にどんど意見を送りましょう!!
首相官邸ご意見募集
http://www.kantei.go.jp/jp/iken.html 被災地には3兆円しか予算を割かないのに、
「復興増税」を決めた直後に、韓国には5兆4千億円を
「融資」する民主党政権に国民の意見を伝えましょう。
韓国の為の増税に抗議しましょう
首相官邸 0 3 - 3 5 8 1 - 0 1 0 1
民主党本部 0 3 - 3 5 9 5 - 9 9 8 8
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 15:47:16.18
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。この国でもつとも危険のない、人に
尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。(中略)
知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。母親たちは子供に
兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、子供たちは
ぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:31:29.06
社会党の「護憲条例」提出は、社会党自体の愚かさを示して余りありますが、私達は何としても、こうした
バカげたことを避けるために、ここで抗議集会をもちたいと考えます。
皆さん、既に御存知のように、現在の憲法は、GHQが、日本が再び立ち起ることが出来ないようにと、永久に
三流の後進国家としての位置におとしこむために作られた“占領基本法”でしかありません。ですから、
“マッカーサー憲法”とも呼ばれ、心ある国民は、一日も早くこのようなインチキ憲法を改正し(その改正方法に
関しては、いろいろな議論はありますけれども―)自主的な日本民族の手になる憲法の制定を呼びかけています。
現行憲法の基調は、さきほどの山本委員長の演説でも触れたように、アメリカ占領軍の日本弱体化政策の基調、
すなわち三S、五D政策にのっとられて作られた、“アメリカのための”日本国憲法であります。
森田必勝(楯の会)「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:32:12.39
三S政策とは、セックス、スポーツ、スクリーンといったSのイニシャルに代表される軽薄極まりないアメリカ文化の
移入によって、日本の伝統的な文化、歴史を破壊しようというたくらみであり、五D政策とは、第一に非民族化、
第二に非産業化、第三に非集中化、第四に非軍事化、そして第五に民主化といった、それぞれがDのイニシャルに
象徴される、徹底的な日本の破壊のための基本方針であります。
GHQは、日本の占領中に、権力をフルに行使して、これらの基本方針を実行し、軍隊を解体し、国家の独立を
まっとう出来ないような状況にしました。そして、警察機構を分断し、各県の県警はそれぞれの自治体に
帰属させたり、あらゆる連絡網の分断を策したのであります。
また日本の産業が再び力をつけることのないよう、航空技術の開発を停止させたり、国家的規模の産業の興隆を抑え、
あるいは、再び日本に民族精神の昂揚がないようにと、歴史、地理教育の禁止を策したのでありました。
森田必勝(楯の会)「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:33:12.82
とりわけ、日教組に代表される極端な歴史教育の歪曲は、「民主化」という、アメリカニズム、もしくは
プラグマティズムを背景に、わが国の光輝ある歴史を、一方的な視野から裁断し、日本の過去の歴史はすべて
悪いのだ、といった調子のおどろくべき教育の条件の下で、我々戦後世代は育ってきたのです。あの家永訴訟に
みられるごとく、まったく内容の無いマルクス史観で貫ぬかれた家永三郎の日本歴史が、それを代弁しています。
(中略)
そしてまた憲法をよく読んでみれば、第九条と、第九九条が、明らかに相互矛盾しているにもかかわらず、
(これは、わずか二週間で作ったという拙速主義の何よりの証しですが―)そのような矛盾点にほおかむりして
現行憲法は世界に誇るべき平和憲法だなどといって自己満足している学者、文化人、党派の、日本民族と日本の
歴史に対する犯罪的な行為を、我々は絶対に許してはならないと思います。
森田必勝(楯の会)「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 10:13:30.32
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。
男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 10:27:42.74
いつもありがとう
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 10:35:03.83
私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/30(水) 10:35:37.81
外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで
進むことができる。
北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも
十分にありうる。
アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの
(上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を
描いた映画で、皆さんもご承知であらう。
結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、
結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の
ちがひにすぎぬことが多い。
見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで
あらうと思ふ。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 11:11:05.07
戦後、文化の問題の偏頗な扱ひは、久しく私の疑惑を培つて来た。戦争について書かれた作品で、文学作品として
後世に伝へられる資格を得たものは、悉く文学者の作品である。餅は餅屋であるから、もちろん文章は巧い。
文学的な深みもあり、普遍的な説得力もある。しかし、いかんせん、その個人的な戦争体験は限られてをり、
戦闘に参加する前から文筆の人であつた者の目に映じた戦争は、どんなに公平を期しても、そこに自ら視点の
限定がある。いかなる大戦争といへども、個々人にとつては個人的体験であることは当然だが、同時に、そこには、
純戦闘員による戦争の真髄が逸せられてゐたことは否めない。
誤解のないやうに願ひたいが、私は、文学者の書いた戦記が、体験のひろがりと切実さを欠いてゐる、と非難して
ゐるのではない。ただ、あの戦争に関する記録乃至創作を、純文学的評価だけで品隲することは、実は、もつと
大きな見地からは、非文学的、ひいては非文化的行為ではないか、といふ疑問を呈したのである。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 11:11:45.44
その好例がこの「戦塵録」である。これがいはゆる文学作品を狙つた記録でもなければ、文学的素養ゆたかな人の
作物でもないことは、一読すでに明らかである。しかしここに描かれてゐるのは、大きな一つの文化及び文化様式の
終末の悲劇なのである。
わけても貴重なのは、筆者が戦闘機乗りとしての純戦闘員であり、戦争の最先端の感情と行為を体験し、又、
一人の若者であつて、純情な恋愛とその愛別離苦を身にしみて味はひ、且つ、戦争の終末とその終末に殉じた人たちの
最期に立会つたといふことである。行為者にして記録者であること、青春の人にして終末の立会人であつたこと、
……このやうな相矛盾する使命をこの人に課したのは、おそらく歴史のもつとも生粋のものを後世に伝へようと
はかられた神意であるにちがひない。
今にして思へば、私は、戦後文化の復興者であらうと自負した人たちの近くにゐすぎた。そこにゐたのは、必ずしも
私の責任ではないが、そこにゐて感じた反撥の数々は、却つて私をして文化と歴史の本質について目をひらかせて
くれたとも考へられる。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 11:12:15.93
すなはち、昭和二十年八月、身を以て、日本文化の伝統的様式を発揚し、日本の純にして純なる文化の終末を体現し、
そこに後世に伝へるべき真の創造を行つたのは、いはゆる文化人ではなくて、「戦塵録」に登場する、若い
戦士だつたのであり、自刃して行つた矜り高い武人たちだつたのである。戦後の文化人は、そこにもつとも重要な
文化の問題がひそむことを理解せずに、浅墓な新生へ向つて雀躍したのである。残念ながら、私もその一人で
あつたと云はねばならない。「戦塵録」の著者ならびにその戦友たちは、若き日を、戦ひ、死に直面し、
絶対的なものについて思惟し、しかも活々と談笑し、冗談を飛ばし、喧嘩をし、異国の美女に心を惹かれ、
明日をも知れぬ恋を体験し、……そのやうに十分に生きた上で、ひとりひとり、いさぎよく散つてゆく。冒頭の
人名の上に引かれた赤線は、かれらの名を抹消するのではなく、かれらの名を不朽のものにするのである。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
530 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 11:12:48.91
そして、選局逼迫の只中にも句会を催ほし、死に臨んでは辞世を作る。日々日本刀の手入は怠りなく、そこには、
日本人に対する日本文化の「型」が与へた最後の完璧な強制とその達成があつた。もちろんかれらは、強制されて
句を作り辞世を詠んだわけではない。しかし文化の本質とは、その文化内の成員に対して、水や空気のやうに、
生存の必須の条件として作用して、それが絶たれたときは死ぬときであるから、無意識のうちに、不断に強制力を
及ぼす処のものである。それこそは文化であり、このやうな文化を理解しなくなつたところに、戦後の似而非文化は
出発したのである。戦士たちの死の作法そのものが文化であるやうな文化の、最高度の発揚とその終末を、
「戦塵録」ほど、みごとに活々と語つてゐる本はなく、その点でいはゆる文学作品をはるかに凌駕してゐる。
では果して、日本文化は滅びたのか? 私は、ここには、反時代的なその「型」の復活の衝撃によつてのみ、
蘇生の可能性をのこしてゐる、とだけ言つて置かう。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 11:13:32.72
「戦塵録」は、もとより意図して、文化の発揚と終末を語つたものではない。それは伝来の規律正しい簡潔な
「軍隊の文体」で語られた記録であり、すべてが「型」の文体であるから、そこには人間心理の発見などといふ
ものではない。戦闘状況は巨細に述べられるが、強ひて迫力を加へようとした抒述はない。(中略)
平凡な抒述であるだけに却つて深い真実に迫つてゐる。戦闘の場面と、これら恋愛の場面と、最後の自決の場面が、
「戦塵録」の三つのクライマックスであることは明らかである。
私はその上に、ただ一行、いつまでも心に残る個所をあげておきたい。それは私がそのやうな青空を同じ時期に
日本でも見てゐるからであり、又、今を去る数年前、同じ青空を、現地カンボジアで見てゐるからでもある。
昭和二十年六月二十五日、死を決した著者は、スコールのあくる日の大空、「手を伸せば指の先が藍色に染って
しまひそうな」ほど鮮やかに澄んだ熱帯の空を眺めて、次のやうな一行の感想を心に抱くのである。
「此の大空、果てしない碧空にこそ凡ての真理を包蔵して居るのではなからうか」
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/03(土) 00:58:38.60
憂国の士
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/15(木) 11:02:26.76
「我が国旗」
徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。それは鹿児島の大大名、天下に聞えた
島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。
平岡公威(三島由紀夫)11歳の作文
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 11:55:43.94
535 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 13:34:44.17
はつきり言へることは、近代戦のもつとも凄壮な様相が如実に描かれてゐる点で、又、ただ僥倖としか思へない事情で
生き永らへた証人によつて、人間の「滅尽争」Vernichteter Kampf がはつきり描かれてゐる点で、これは世界に
比類のない本だといふことである。この本は実にありえないやうな偶然(すなはち証人の生存)によつて書かれた
ものであるから、これ以上の文学的贅沢などを求めるのは全く無意味である。
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を促して
おくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐる
ことである。玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て
戦友の飢を救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に
敗れたけれども、人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。
三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 13:35:36.10
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、
頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに戦死したのち、
三日目に米軍野戦病院で蘇り、さらにペリリュー収容所で、敵機を破壊しようと闘魂を燃やす。
しかも氏が生を無視しようとすればするほど、死もあとずさりをするのである。もちろん、氏に課せられた死の条件が
十であるとすれば、その条件がたとひ一であり二であつた人も、一方では現実に命を失つてゆく。それは意志とも、
あるひは勇気とも関はりがない。氏の勇猛果敢が、氏の命を救つたすべての理由であつたといふわけではない。
三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 13:36:13.81
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、はつきりと
自決の決意を固めてゐたからである。
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、一つの
行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。氏はかう書いてゐる。
「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」
三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/16(月) 13:36:44.77
第三には、これは私自身にとつても大切な問題だが、「見る」といふことの異様な価値である。
行為のさなかでも見ることをやめない人間が、お互ひに「見、見られること」を根絶しようとして戦ふのが、
戦争といふものであるらしい。敵をもはや「見ること」のない存在、すなはち屍体に還元せしめようとするのが、
戦ひの本質である。氏がつひに生きのびたといふことは、氏が戦ひに勝つたといふことであり、自分の目と、
自分の見たものとを保持したといふことである。そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると
同時に、絶巓における人間の美であつた。
そして目が見たものは、言葉でしか伝へやうがない。そこに言葉の世界がはじまり、文学の根元的な問題がはじまる。
言葉が、徐々に、しのびやかに、執拗に、とどまるところを知らぬ動きをはじめるのである。……
三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 22:46:45.48
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と馴れ合ひ、
ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私はニューヨークで、
トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。私は自民党の生きる道は、真の
リベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国における共産党の生きる道は、
すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。真にナショナルなものは、そのいづれにも
本質的に欠けてゐるのである。
真にナショナルなものとは何か。それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも与(くみ)しない
ものだと思はれる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 22:47:16.88
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも
大切な秩序と、政治にとつてもつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、
われわれは「天皇」を持つてゐる。実は「天皇」しか持つてゐないのである。中共の「文化」大革命に決定的に
欠けてゐる要因はこれであり、かれらは高度な文化の母胎として必要な秩序を、強引な権力主義的な政治的秩序で
代行するといふ、方法上の誤りを犯した。文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを
犯す心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的に
かかはらうとする姿勢において、すでに文化を殺してゐる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 22:47:45.95
(中略)
最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としての
ナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、殺人の責任は
直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 22:48:15.64
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の殺人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。第四に、この自刃は、包括的な命名判断
(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの群衆すべてを、ただの日本人として包括し、
かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらうからである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとは
さういふ意味である。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 11:49:58.98
いやしくも盟約を交はして事を起こした同志であれば、動機の深浅、運動経歴の長短、性格の相違等は問題ではない。
男として誓ひ合つた一集団は、栄辱共に等分に受けるのが当然である。その中で、誰それは純粋であり、
誰それは相対的に不純である、等の差別があるべきではない。従つて、加盟将校のうち、一を英霊とし、他を
怨霊とするが如き見地は、幽界をうかがふ生者のさかしらにすぎぬと思はれた。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 11:50:49.62
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな
状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 12:01:01.08
私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて、むしろ
国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て
二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のナインであり、天皇信仰自体が永遠の
現実否定なのである。
道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。
二・二六は、このやうな意味で、当為(ゾルレン)の革命、すなはち道義的革命の性格を担つてゐた。
あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の
形態をとる。すなはち日本天皇制における永久革命的性格を担ふものこそ、天皇信仰なのである。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 16:18:24.91
ファクトに対して想像力がある。そしてもし、ファクトを認めることが冷静な理性の唯一の証左であるなら、
精神の自由がファクトの味方になることはまづ覚束ない。自由は或る場合に、理性がファクトに縛られることを
容認しないのみならず、理性をして、理性自身のファクト以上の価値に目ざめさせようと努めるのであらう。
想像力はそのやうにして故意に高められた理性を基盤にして栄え、精神の自由の核ともいふべきものを形づくる。
そのとき、自由人はファナティズムと容易に結びつくのである。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 16:21:48.03
追ひつめられた状況で自ら神となるとは、自分の信条の、自己に超越的な性質を認めることである。
決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、男性的な美徳である。
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。弱さとは
そのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? もしさうだとすれば、強さとはファクトを
容認した諦念に他ならぬことになり、単なるファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が
最悪の状況に立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは「最後の楽天主義」の
英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、つひには実在となる。なぜなら、悔恨を
勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 16:37:38.38
日本テロリズムの思想が自刃の思想と表裏一体をなしてゐることは特徴的であるが、二・二六事件の二重性も亦、
このやうな縦の二重性、精神史的二重性と共に、横の二重性、社会学的二重性を持つてゐる。それは同時に、
先鋭な近代的性格を包摂してゐる。
私は、少なくともこれが成功してゐたら、勝利者としての外国の軍事力を借りることなく、日本民族自らの手で、
農地改革が成就してゐたにちがひない、と考へる。
むかしの殿様は、毒味を重ねて運ばれる冷え切つた料理に馴らされて、すつかり猫舌になつてしまつてゐた。
われわれの舌もさうなつてをり、いきなり熱い料理に接すると、火傷をする。さらでだに、あらゆる情熱が
人に不快を与へるやうな時代に、われわれは生きてきたのである。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/24(金) 00:07:31.36
しかたない
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 05:14:30.67
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは必定だろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!!
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
分かったナッ!!!!!!!
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 05:37:59.55
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!!
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 06:25:34.16
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!!
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!
『春の雪』の映画化だって断然オレに決定してただろうしサッ!!!
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 06:55:48.18
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!!
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!
『春の雪』の映画化だって断然オレを主役に決定してただろうしサッ!!!
554 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/02(金) 13:08:41.28
素晴らしい
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 23:50:56.29
人間の生命とは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど、
人間は強くないんです。
というのは人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているのであって、
生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまうんです。すると死ぬのも
何かのためだということが必ず出てしまう。それが昔いわれた大義というものです。
そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは
立派な死にかただと考えられたわけです。しかし、今は大義がない。これは民主主義の
政治形態というものは大義というものがいらない政治形態ですから、当然なんですが、
それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ生きていることすら無意味に
なるというような心理状態がないわけではない。
三島由紀夫
NHKインタビューより
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/04(日) 05:10:31.09
ナッちゃんって最高に素敵〜!
557 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/14(水) 17:46:27.22
5 名前:名前をあたえないでください
「ホモ牛乳」をわざわざ「ホモゲ牛乳」に改名したんぢや無かったのかゑ!!!
ジュンとネネの森永「ジュネス」のCMを再放送して呉れーイッ!!!!!!!
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/19(月) 09:11:15.03
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
『愛の処刑』から三島由紀夫の名文句を列挙して呉れーイッ!!
559 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/20(火) 03:44:11.68
榊山 保
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/20(火) 13:18:06.40
矢頭保
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/23(金) 00:52:49.48
OTOKO
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/25(日) 05:26:21.32
アドニス会の機関誌「ADONIS」別冊「APOLLO」5号
昭和35年10月
に掲載
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/27(火) 17:04:23.13
図書館にあるか
564 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/28(水) 09:14:00.05
全集に入っている
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/29(木) 02:11:04.10
読んでみたい
566 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/29(木) 02:55:02.81
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/29(木) 03:32:08.50
素晴らしい
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/30(金) 09:40:14.98
『神官』から何か引用文を。
ところで『神官』は昭和何年に書かれた作品なのでせう?
569 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/11(水) 20:57:24.41
up !
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/11(水) 21:11:34.60
三島由紀夫のファクト・メガロポリス
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/11(水) 21:24:31.98
名文だ
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 21:12:15.76
up !
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 15:52:56.97
これらの写真を見て、私のまづ感じたことは、知るべからざる事実を知り、見るべからざる事実を見た、
といふことに尽きる。人類の創始以来見ることのできなかつた月の裏側が見られる時代であるから、
母体の中の胎児の生成が見られてもふしぎはないかもしれない。
かうして二十世紀といふ「事実の世紀」は、ますますデータを増すことになつた。
科学はそれで大いに研究の手がかりをつかむだらう。しかし文学は、これらの写真を見て、何か
新しいものをつかんだといふわけにもゆくまいし、人間の想像力はこれくらゐのことはもう知つて
ゐたのである。
(中略)
これらの写真で、私は人間の生命の神秘がいよいよ深められた思ひこそすれ、解明されたといふ感じは
少しもしなかつた。
明るさの中にこそ神秘がひそむ。人間の生命も、闇の神秘から、もう一つ深い白昼の神秘の中へ
躍り出たのだ。
三島由紀夫「事実と神秘と」より
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 16:12:25.55
流れを庭に導入し
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 17:22:56.99
いぇ
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/02(水) 04:39:29.51
素晴らしい
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/02(水) 21:33:10.12
素晴らしい
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/02(水) 23:13:44.36
空間的支配の終末
579 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 10:56:41.34
一度運動のたのしみを知つた人間は、麻薬患者と同様で、もう二度と運動のない世界へ
戻れるものではない。
テレビのおかげで、大方の家庭の茶の間の団欒といふものは台なしになり、みんな沈黙して画面に
向かつてゐるだけだから、画面からスポーツ用語や流行語は教はるけれど、会話のたのしみや
会話の能力は衰退してしまふ。昔から茶の間といふものは、会話の能力の道場であつた。
三島由紀夫「何もせぬ人」より
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 13:27:01.90
しかたないね
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 20:45:02.56
あの岬
582 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 03:21:27.45
しょっく
583 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 09:50:45.73
漫画家の原哲夫って自分自身がゲイでありながら、
「ホモ」などという蔑称・差別語を平気で使いやがるんだナッ!
しょせん詰まらぬオカマだゼッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 16:46:23.07
2 名前:オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!
いくら俺がケンシロウに瓜二つだからと云って、
あんまりウルサク言い寄って来るなヨッ!!!
分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 20:12:41.34
日本の誇り
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/08(火) 01:34:02.05
2 名前:名無しさん@恐縮です
オレは監督その他のスタッフ連中から日参されて、
「皇帝の愛人たる絶世の美青年アンティノウス役になって頂きたい」
とウルサイほど愁訴嘆願かつ哀願されつづけたけれど、
「誰が嬉しくって芸人風情と同席出来るものかーッ!」
と言下に断り通して、節を守り続けたゼッ!!!
分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/08(火) 11:56:56.84
ゲイ
588 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/08(火) 14:00:30.60
3 名前:名無しさん@恐縮です
ナッちゃんを美青年として登場させると、
阿部寛が醜男にしか見えなくなるから、
スタッフ・制作者側も諦めたんですね。
589 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/08(火) 16:17:26.09
9 :名無しさん@恐縮です
ナッちゃん様がアンティノウス役で御出演遊ばしていたら、
今の何百倍もの興行収入を獲得出来ていたのにネ!
もちろん世界中に配給されて!!!
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/09(水) 00:21:21.35
8 名前:オレオレ!オレだよ、名無しだよ!!
邪悪で不自然な異性愛の泥沼を抜け出して
立派な一人前のゲイになりま〜す。
ここに正々堂々とゲイ宣言を致します!
羽鳥慎一
591 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/10(木) 10:34:30.48
七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡潔な遺書は、明らかに幾多の
既成概念のうちからもつとも壮大もつとも高貴なものを選び取り、心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら
自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし既成の言葉とはいへ、それは
並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつて
われわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。
三島由紀夫「太陽と鉄」より
592 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/16(水) 20:47:35.38
読んでます
593 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 15:00:19.85
素晴らしい
594 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 16:59:07.19
「松本つよし」とかいう阿呆のチョンなら聞いたことがある。
兵庫県出身の愚鈍低劣きわまりない豚でしかなく、醜い肉塊でしかない化け物
最悪最低の田舎者の分際で身の程知らずの大口を叩いては更なる大恥をかきさらしていたとか
お情けで同志社の哲学科へ入れて貰ったものの、阿呆さ加減は一向に治らず、
優れた人を持ち前の猜疑心から下種の勘ぐりを巡らせては、誹謗中傷していたらしい。
こんなウスノロの豚は即刻屠殺してしまうべきだ!
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/08(金) 21:39:32.98
これらの写真を見て、私のまづ感じたことは、知るべからざる事実を知り、見るべからざる事実を見た、
といふことに尽きる。人類の創始以来見ることのできなかつた月の裏側が見られる時代であるから、
母体の中の胎児の生成が見られてもふしぎはないかもしれない。
かうして二十世紀といふ「事実の世紀」は、ますますデータを増すことになつた。
科学はそれで大いに研究の手がかりをつかむだらう。しかし文学は、これらの写真を見て、何か
新しいものをつかんだといふわけにもゆくまいし、人間の想像力はこれくらゐのことはもう知つて
ゐたのである。
(中略)
これらの写真で、私は人間の生命の神秘がいよいよ深められた思ひこそすれ、解明されたといふ感じは
少しもしなかつた。
明るさの中にこそ神秘がひそむ。人間の生命も、闇の神秘から、もう一つ深い白昼の神秘の中へ
躍り出たのだ。
三島由紀夫「事実と神秘と」より
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/08(金) 22:27:04.15
平岡公威(
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/08(金) 22:55:30.32
平岡公威
598 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/09(土) 03:28:49.78
かっこいい
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 06:36:59.94
【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 12:37:54.12
事実を知り、見るべからざる事実を見た
601 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 13:54:55.07
革命哲学としての陽明学
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 15:52:04.57
アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 18:20:10.61
わが世代の革命
604 :
名無しさん@お腹いっぱい。: