三島由紀夫の噂

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601名無しさん@お腹いっぱい。
ところで、三島由紀夫の自死を評して、「気が狂ったとしか思えない」と言った某政治家がいたのを想起しよう。
この“良識者”の言説は限りなく陳腐であると同時に、限りなく正しい。
認識者本多繁邦から逃げ出すには理性の網目から逃れ出る狂気の力が必要であり、人間はその狂気と
相対することでのみ、自らの存在の限界を踏み超えるのだ。「正しい狂気、といふものがあるのだ」とは
『葉隠入門』の言葉だが、狂気の領域への参入は、「人間」(という概念)を超え出ることである。
フーコーの言葉で言うなら、「人間から真の人間への道程は、狂気の人間を媒介とするのである」(『狂気の歴史』)。
『天人五衰』のエクリチュールは、理性と非理性とのせめぎあいの中で狂気という故郷へ回帰しようと
もがいている。そして三島は狂気そのものと化する地点で消滅したのだ。

青海健
「三島由紀夫の帰還」より
602名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/11(水) 15:23:38
(中略)
三島由紀夫の「言葉」がフーコーのいう「弓」であるとするなら、その弓から発射された弾丸としての行為
=自死の儀式は、逆にその「発射する反動で」言語表現(デイスクール)という装置を「後退」させ作者の
生の外部へと押し出してしまう。そうして、それの描く軌跡をこそ、私は「狂気」と呼ぼう。
作者の生からはみ出した近未来小説『天人五衰』、三島はここで、非理性によって夢見られる狂気(それは
すでに病理学の対象とはなり得ない)(フーコー『狂気の歴史』)のだとすれば、三島の自裁は、到達不能の
狂気への到達への試みである。
(中略)
三島の“最後の小説”は、大江健三郎の言に反して、むしろ「発展させられる」べき多様な問題を孕んでいる。
…三島は、その最後の小説を、パラドクシカルに開かれた作品として遺したのだ。
その多様な問題こそ、今日の問題である。

青海健
「三島由紀夫の帰還」より
603名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/12(木) 11:36:11
われわれ精神科医にとって三島由紀夫ほど魅力的な研究対象は他に例を見ない。
それはまず、三島作品の中には、精神科医が日ごろ臨床で見る精神病理学的な体験が数多く、見事な
洞察力をもって描かれているからである。
精神科医ですら記述が難しいほどの心の綾やメカニズムが、みごとに言葉として造形されている。
例えば、私が三島の最高傑作と考える「金閣寺」には、周知のようにモデルとなった事件・人物が実在するのだが、
鹿苑寺金閣に放火したその学僧・林承賢の精神の病の発症と発展の有り様が、作品には実に緻密に、かつ
正鵠に記述されている。
例えば、林の発病期の、つまり放火決意直前の「妄想気分」などは、荒涼とした日本海の風景に託して、
実に迫真的にイメージ化されている。ここでは、「症状」が、芸術的な「美」に高められているのであり、
作家の腕前には感嘆する他ない。

福島章
「三島由紀夫と精神医学」より
604名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/12(木) 11:36:59
かつて私は、この「金閣寺」の作者・平岡公威氏と、実在した犯人・林承賢と、それから小説の主人公の三者を
比較対照する年表を作り、その異同を研究したことがある。モデル小説であっても、作者の心の真実が必ず
作品の内容に、特にその主人公の心理に投影されていないはずはないと考えたからであり、その「詩と真実」の
嵌め込み細工を分析することが、作者の「詩の技法」を解明することにもつながると思ったからである。
その研究論文にはあからさまには書かなかったが、平岡氏の心理と、精神分裂病を患った林承賢の心理とは
かなり通低するのではないか、と当時の私は直観した。
しかしそれはもちろん、氏が精神分裂病を初期段階でも体験したことがあるという意味ではない。そうではなく、
ポテンシャルとして、体験する可能性があった人ではなかったか、という直観であった。精神分裂病という病気に
まったく無縁の人であれば、患者の心理に対するあれほど深い感情移入は不可能ではないか、と思ったのである。

福島章
「三島由紀夫と精神医学」より
605名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/12(木) 11:37:44
この考えは、次の傑作「鏡子の家」を読み返しても変わらなかった。しかし「鏡子の家」を書いたころは、
「金閣寺」を書いたころに比較すれば、作家の狂気に対するスタンスは大分違っていた。
遠くなっているように思われた。つまり、この作品に描かれている狂気はかなり概念的なものに変化していた。
この程度であれば、精神医学の教科書を読んでいれば、まったくの正気の人でも書けないことはない。
それにしても、三島はなぜ精神医学の教科書や事典にとどまらず、高度に専門的な学術書や論文まで渉猟する
情熱を持っていたのかという疑問は残る。
三島は、精神医学の本ばかりではなく、性科学(特に性倒錯・同性愛・冷感症・窃視症など)、犯罪学(殺人)、
精神分析学の専門書をかなり耽読していた。
いずれにせよ、精神科医の目から見ると、「金閣寺」は作家の精神の軌跡にとって一つの重要な転回点であったろう。

福島章
「三島由紀夫と精神医学」より
606名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/12(木) 11:38:43
「金閣寺」と「鏡子の家」の創造で、内面の力学に関する仕事の一山を越えた作家は、その後しだいに、
内面から外界へ、精神から身体へ、思索から行動へと、その重心を移して行く。
そして、精神分析学的には「行動化」と呼ばれるその傾向の終点に、あの劇的な割腹自殺が待っていたのである。
何人かの精神科医は、作家の衝撃的な事件に弾かれたように、三島由紀夫の病跡学(パトグラフィ)を書き、
精神分裂病とか、パラノイアとかいう診断を試みた。
しかし、それが的外れの誤診であったことは、今ではほとんど明らかである。
また、「仮面の告白」でデビューした三島の精神診断については、必ずといってよいほど言及される
「同性愛」説にしても限界はある。それは村松剛氏のような、強力な同性愛否定論者がいるからではなく、
平岡公威氏の性嗜好は、両性愛的であったばかりではなく、プラトン的であったからである。

福島章
「三島由紀夫と精神医学」より
607名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/12(木) 11:39:33
精神分析学者エリック・エリクソンは、「天才的リーダーとは、彼が出会った若者に大きな影響を与え、
彼らをして、それ以前の人生行路とは違う人生への道を歩ませ、その時代にはまだ類い稀なアイデンティティを
若者に与える人物のことだ」と定義した。この定義に従えば、「楯の会」を組織して、多くの若者に
「対抗的同一性」(カウンター・アイデンティティ)という新しいアイデンティティを与えた三島もまた、
単なる同性愛者ではなく、天才的リーダーだった。
そして、三島由紀夫が孤独な天才作家から天才的リーダーへの道へと方向転換したのは、実に内的な病の
ポテンシャルを、創造を通じて克服した、あの「金閣寺」創作の時期だった、と見るのが妥当であろう。

福島章
「三島由紀夫と精神医学」より
608名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/15(日) 02:53:30
>>110
盾の会とかまんまだもんね…と思いながらも右思想とは明らかに違う三島由紀夫独自の思想を感じる。
サルトルに通じる唯物論的な思想ね。

609名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 16:31:44
☆三島由紀夫の主義・主張★
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/shugi/1258439789/
610名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 17:55:41
11月。もうすぐ、憂国忌だね。

誰が参列するんだろう?
611名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 22:06:14
 憂国忌、詳細プログラムが決定
  松本徹(三島文学記念館館長)が開会挨拶
     ◎
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((( 憂国忌プログラム )))
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 第三十九回 三島由紀夫氏追悼会
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 とき     11月25日(水曜日) 午後六時半(六時開場)
 ところ    星陵会館 二階ホール
        http://www.seiryokai.org/kaikan.html
 開会の挨拶  松本徹(三島文学記念館館長)
 シンポジウム 「現代に蘇る三島思想」
 パネラー   杉原志啓 (評論家、徳富蘇峰研究家)
富岡幸一郎(文藝評論家、司会)
        西部 邁 (評論家、『表現者』顧問)
        西村幸祐 (評論家、『撃論ムック』編集長)
 会場分担金  お一人 1000円
        記念冊子とメルマガ合本(第十二号、20ページ)をお渡しします。
        過去の憂国忌ポスターを頒布します。過去の冊子はバックナンバーがありません。ご了解下さい。
 どなたでも予約なしで入場できます。
       ◎

「憂国忌」懇親会のご案内
@@@@@@@@@@@@
懇親会の場所が違います。
当日は午後845から星陵会館から徒歩五分の場所でおこないます。別途会費 おひとり3000円お願いします。ビュッフェ。飲み放題。
参加希望の方は、当日会場で係にお尋ね下さい。或いは下記へお問い合わせ下さい
yukokuki@hotmail
612名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/24(火) 21:30:43
トピック
 女優の若尾文子が三島と共演した「からっ風野郎」を回想
 **************************

 大物女優・若尾文子が三島由紀夫との交遊を回想している(日本経済新聞、11月11日、夕刊)。
若尾文子は三島原作の『永すぎた春』と『獣の戯れ』にも主演した。
 映画「からっ風野郎」では三島と共演した。三島がやくざを演じ、若尾はそのやくざに妊娠させられるという娘の役だった。
 監督は増村保造で、三島があまりに演技が下手なので「馬鹿、駄目駄目」と何度も連呼し、「本当にあんた、頭が良いんだろうか」とぼやいた由。
 増村は東大卒、イタリアの映画センター留学後、溝口健二、市川昆の助監督を経た。しかも東大法学部時代、三島とは知人だったという。
 さて、作家としては天才であっても映画は別世界。それでも三島は何回も呶鳴られながら、役をこなし、映画は完成。
 若尾の文章はこう結ばれている。
 「撮影が終わった後、『アメリカへ行くので、若尾さん、食事をご一緒したい』とのご招待があった。芝の増上寺の前のフランスレストランで、撮影の時の話などをいろいろとした。
その記念にとこの銀の燭台に、ロココ調のテーブルと椅子の三つ揃いでプレゼントを頂いた。夕食後、赤坂のナイトクラブに行き、お酒を少し飲み、ダンスを踊った。
ちょっとぎこちなく、時々、ぶつかり合いながらの感じで踊った。そして、『これで心残りなくアメリカに発てる』と仰った」。
 そして自決まで十数年、若尾は三島と会うチャンスはなかった。文字通り『ラストダンス』となった。
 心に残る文章でした。
 (編集部)
613名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/25(水) 12:31:20
合掌
614名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 11:25:29
「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。
ああ、俺の考えは世の中に合わないのかな、と思ったよ。
…学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。
肉体的には負けないけど、論争して負けたくないから理論武装したいと思った。
先生(三島由紀夫)の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。
根ほり葉ほり訊いたね。先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、
時間を守る、威張らないし、そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。
礼儀正しさとか非常に親切心があるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」
仲山徳隆(元楯の会会員)

「三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。
じっと見られた大きな目がキラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。
(中略)
体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。
薬を飲まされ、隊舎のベッドで横になっていると、三島先生がいらしたんです。
ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。『幾つになった』と訊かれ、
『十八です』と答えると、『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、行けるか?』と。
先生のあの声は忘れられないですよ」

田村司(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
615名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 11:26:47
「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時は
バリケードがあって機動隊が出てましたよ。
早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が主流でした。
でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。
それでいろんなものを読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。
そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。
自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。
それと規律で全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの
規制の中で人間がどうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです。
三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。
思想的束縛がありませんでした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。
僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。
僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。
非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、
水晶のような、そんな印象でした。
森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。
そういう意味で翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」

佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
616名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 11:30:52
「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを
出されていました。こういうのは、これから面白いなと思った。
つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を担うという構想を出されていた。
アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけがそのような民兵組織がなかった。
自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、ああいう考え方は非常に新鮮でした。
今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。
あの時、三島先生は『銃の重さを知ることが非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。
よく記憶しています。国を守るということは、銃の重さを身体で感じることなんだと、理屈ではないんだと。
全くその通りだなと思いました。
ほとんどの話は忘れてしまったけれど、これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

「森田とは同じ年だった。ある時、先生が俺をからかって、
『森田には命預けますっていう学生がいっぱいいるんだよ』と言ったんだ。
そうしたら、森田は顔を真っ赤にして、『いやあ、僕の命は先生に』って言った。
僕は自分の日記に書いても先生に直接そんなふうに言ったことないよ」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
617名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 11:32:00
「高校一年の時に、文化大革命が起きて、新聞は『文化大革命』礼賛一色ですよ。
『毛沢東万歳!』ってすごかった。ものすごい理想国家のように持ち上げていた。
ところが、新聞にちっちゃく記事があって、大陸から香港に逃げてフカに食われて死んじゃう人が
何百人もいるのを目撃したって。そんな素晴らしい国ならなんで亡命して逃げて来るんだ。
変じゃないかって、子供心に思っていたわけです。
…右でも左でもなかった。ところが、昭和四十五年一月頃、早大キャンパスに確か『三島由紀夫と
自衛隊に体験入隊しよう』というタテ看板を見て、俺が求めていたものはこれだと、決心。
楯の会という意識はなかった。自衛隊に行くことが主で入会はついでだった。
そのあと、サロン・ド・クレールで三島先生に会いました。非常にさっぱりした感じだった。
どんな本を読んでいるかと訊かれて、大江健三郎と。
その時、先生は大江健三郎の絶版になった本の話をしたんだよ。『政治少年死す』ていうやつを。
読んでないから答えられなかったんだよね。先生は、なんでこんなヤツが来たんだみたいな顔して、
森田さんの方を見た。森田さんは『いやいや、なかなか元気がいいですから』と言ってくれました。
森田さんの一言で、私は救われたようなもんです。
そうでなければ、こんな軟弱な学生が入れるわけないじゃないですか。
森田さんて人は、知れば知る程素晴らしい人でしたね。快活という言葉、一言。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
618名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/27(金) 11:35:42
「三島由紀夫先生と楯の会のことは、田舎にいる時は全然知らなかった。興味もなかったし。
父親が靖国会をやっていて、その関係で森田必勝さんに会ったんです。
確か、森田さんが橘孝三郎(祖父)のことを知って、靖国会の事務所を訪ねて来たんです。
その後、私も紹介されました。親父は森田さんのことをこう言ってました。
『森田必勝という、なかなかいい男が俺を訪ねて来たぞ。凄く気骨のある人間だ。凄くいい青年だぞ』って。
くりくりっとした坊主頭の人で、本当にね、少年みたいにね、本当に裏のない人でした。
森田さんは兄と同じ二十年生まれ、ずっと兄のように思っていました。
(中略)
西新宿のルノアールで、三島先生にお会いしました。ほとんど何も言えなかったけどね。
『橘先生、お元気ですか?』と、祖父の橘孝三郎のことを訊かれたことを覚えています」
塙徹二(元楯の会会員)

「私は、正式な会員じゃないんです。
もともと大学が早稲田だったから、楯の会のことはよく知っていたんですよ。
でも、その当時は入ろうという意識はなかったですね。
…国学院の友人に、三島先生に心酔しているものがいて、仲間と一緒に先生に会いに行くことになったんです。
それにも、たまたま行かなかった。
友人は、念願の先生にお会いして、頭の中が真っ白になって
『先生は、いつ死ぬんですか?』と訊いたそうですよ。
先生は、『わっはっはっ』と大笑いされて、『まあ、お茶でも飲め』と、紅茶をご馳走になった。
何も聞けなかったけど、気さくな人だったと。夏の暑い日だった。
社交辞令だろうけど、募集してるから、また来い、ともおっしゃってくれたそうです」
須賀清(元楯の会幻の六期生)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
619名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 23:18:47
「森田必勝とは同じ二十五歳だった。当時、森田たち十二社のメンバーはすぐにテロだとか言っていた。
できるわけねえじゃないかこいつら、と思っていた。
でも、事件が終わってから、森田の見方が変わった。あの男に対する見方は変わったよ。
先生に対しては変わらない。もともと凄いなと思っていたからね。
…何かの折に触れ思い出すと、『あいつは凄かったな』と思う。
要するに、腹を切る切らないの前に、あの状況に立てるかどうか考えた。
それから介錯して、短刀を取って……。あの状況に立った古賀、小賀、小川、森田は凄いと思う。
三期で一緒だった牧野隆彦が、先生が亡くなった四十五歳を越えた時、『先生に、すまない』と言った。
そして、翌年四十六歳、くも膜下出血で死んでしまった。その時は、ショックだったね」川戸志津夫(元楯の会会員)

「フルコガ君(古賀浩靖)とは事件後、品川だったか、電車の中で偶然会ったことがあります。
その時、彼は『すみませんでした』と言ったので、僕は『そんなことないよ。君がそんなことを思うことは
サラサラないね』と答えた記憶があります。
先生は、残すべき人間は残したんだと思いますよ。おそらく。
だから、残った人間は、重い荷物を背負っているんですよ。
私以外に、楯の会の会員で二人、自衛隊で定年を迎えた人がいます。
彼らと違うのは、私は事件が起きる前に自衛隊に入隊していたことです。
二人は事件が起きたあとに入ったから。まあ、どちらが大変という比較は難しいですが、それぞれ
大変だったと思いますね。ずっとマークもされてましたから。
多分、三人とも定年までマークされていたと思います。
…事件当日に市ヶ谷で斬られた人と会ったこともあります。
腕を斬られて、背中を何針か縫った人を知っています。でも、三島先生のことを悪く言う人はいません。
先生の心情はわかるということを、随分言われました」
イニシャルK、元明治大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たち」より
620名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 23:19:41
「たぶん、先生は最初一人で死ぬつもりだった。森田さんも死ぬ覚悟を決めていたんですよ。
『森田の精神を恢弘せよ』とは、その森田さんの純粋な行為、行動、信条を後の人に伝えろというのが
あるのだと思います」
佐原文東(元楯の会会員)

「三島先生という存在自体は亡くなられても、文学者としての三島由紀夫、社会的な立場にある人としての
三島由紀夫は残ると思います。しかし、森田についてはおそらく何も残らない。
森田について言いたいことは政治的な森田。日本には『自決』という政治的表現があるんです。
諭したい相手がダメだと思ったら、自らの命を捧げて訴えるという政治的な表現法です。
行動主義の森田だったから、西洋的にしゃべり尽して相手に伝える事をせず、『自決』という行動で、
『日本の真の姿を見よ』と訴えたかったんだろうと思います」
伊藤好雄(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
621名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 23:20:36
「先生はもうそれなりに著名で確立されている方です。でも、森田さんは無名でした。
三島先生は、ものすごく森田さんの身の上を案じ、今後、森田さんの精神がそのまま埋もれてしまうことに対して
危機感があったんだと思います。
僕の進んできた道を――商社に入ってずっと普通に生活してきたことを、申し訳ないという気持ちがあります。
(中略)
僕は、大学で中国語を学び、中国という共産主義の国が隣にあって、日本がどう思われているのか、最近の
反日の運動を見るにつけ、その前から中国はずっと日本に対して辛く当たっていることを経験してきました。
みなさんは日本の中で日本を見てきたと思うけれど、僕は中国というフィルターを通して日本を見てきたんです。
預言者としての三島由紀夫というのは、ものすごく的確だと思います。
今の日本の政治はぶれている。外交上、中国にしてやられています。そういういたたまれない状況にあるだけに、
非常に的確に予言していたな、と思います。それだけに、三島先生や森田さんのやった行動が余計光ってくると思います。
一条の光というか、僕は、やがてもっともっと輝いてくると思っています」
古屋明(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たち」より
622名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 23:25:10
「僕が、どうしてしゃべる気になったかというと、結局、あの事件は、『三島由紀夫』だけが
前面に出ているから。
だから、世間の評価というのは、いわゆる作家が起こした結末だというのがほとんどでしょ。
もし、三島先生一人だけだったら、僕はそれは認めるわ。だけど、森田さんが一緒だった。
まるで森田さんなんて、さしみのツマみたいなもんや。
だから、僕はそれが我慢できへんかった。ずっと、今でも、そう思う。
三島先生は、もの凄い追い詰められたと思うの、森田さんに。本当に。
もし森田さんがいなかったら、三島先生、絶対せえへんよ。ああいうことは。思い切れなかったと思う。
違った形でしたかもしれへんけど。自分で腹切って死ぬことはあったかわからへんけどね。
ああいうことはしなかったと思う。うん、すべて森田さんの影響よ、あれは。
森田さんの言動でもわかっていたし。
…森田さんは『自分でテロするなら、必ず自分の命を絶たなきゃいけない。
生き残ったらいけないんだぞ。
そんなヤツいるか?今の日本で、自分の命を賭けてもいい奴がいるか?』そう言った。
森田さんは、その時、もう覚悟できてたし、三島先生について行ったらいいと、
自分の命を捨てる覚悟だったんやろうね。
三島先生は、すべて規定済みやった。たぶん野次で、自分の声がかき消されるのもわかってた。
それを上回るようなマイク使ったら、値打ちもない。演説と違うんだから。やっぱし、最後は肉声よ。
明治維新から百年たって、高杉晋作や坂本竜馬がどうだったか、今では我々もわかる。
五十年、百年たって、わかる人がわかればいいのよ。
当時、二十歳前後だった我々は、他のみんながこれからどうして生きようという学生時代に、
どうして死のうか考えてた。それだけの覚悟をしてしまった。
それは、森田さんも、我々も一緒だった」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
623名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 23:26:09
「三島先生と一緒に行動を起こし、残った三人のうちの二人古賀浩靖と小賀正義は、自分が楯の会に誘ったんです。
警察に留置されている二人のことをずっと考えました。
(中略)
フルコガ(古賀)とチビコガ(小賀)が出てくるまでは、東京にいるのが義務だと思いました。
彼らが出てきたので、その年の秋、秋田に帰ることになりました。
お金がなかったので、トラックをレンタルして、運転手を古賀と友人が手伝ってくれました。
一日かかって秋田に着き、夜に三人で酒を飲みました。その時、古賀に訊いたんです。
『古賀(ヒロヤン)、ひとつだけ訊きたいことがある、いいか?』
『何だ?』
『十一月二十五日、あすこの現場を出る時、投降して捕まって出る時、どういう気持だったんだ?』
今考えると、バカな質問をしてしまった。自分でさえ頭がまっ白になったのに、彼らがその時のことを
言葉に表現できるはずかない……。気付かなかった。
なかなか答えてくれないから、『あの事件は、何があなたに残ったんだ?』と訊いた。
すると、古賀は、カウンターの上で、ゆっくり右の手のひらをただ上に向け、何かを持つようにした。
古賀はその手をじっと見つめたまま、一言もなかった……。
それが何を意味しているのか理解したのは、一ヶ月か二ヶ月たってからだった。もう声も出なかった。
それは、三島先生と森田さんの、首の重さ……。それを知った時、ふーっと血の気の引くような衝撃に襲われた。
あの人が首を落とし、安置した。古賀だけが首の重さを知っている……。
彼らに事件のことを訊いたのはそれだけ。あとはもう訊けない。
今でも時々会うが、一切そういう話はしない。失礼に当たると思っています。
(中略)
あの行動を凌駕する言葉とか文章、表現はない。
それを残された会員みんな、漠然と確実に持ってしまっているんです」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
624名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/29(日) 01:51:35
ガチホモ
625名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 15:09:35
「拘置所にいる時、記録として残しておこうと思った。
日記のような形にしようと思って、それを看守に言ったら、あかんと言われた。
ノートは手に入ったので、洗面所にあった釘で書いた。結局、検閲で見つかって没収されてしまった。
三島先生は、日本は文化概念として天皇陛下がいらっしゃると言われてきた。
『我々の一番の根幹は、天皇を守るか守らないか。これから稲を植えて収穫するのは、
天皇家しかやらないんじゃないか、そういう未来が来るよ、工業化のあげくに……』
先生はずっとそう言っていた。
森田さんに対して…忸怩たるものがある…何もできていない…。
しかし、僕をはじめ、みんなも表に出なくていいと思う。本来埋もれていくべきだと思う。
森田さんのことを語り合うのは価値があるが、自分たちのことを話すのは間違っていると思う。
先生は偉大な人だから、それは置いて、我々は埋もれていげばいい。埋もれなければならない。
活動したことは価値あることで、先生が『楯の会』という、今までにない団体で行動したのは、
時代に夢があったからだと思う。今後とも出て来ないだろうし、価値があった。
でも、我々が、楯の会の会員だったということを口にするのは、違うと思う。
森田さん自身、そんなに言ってほしくないと思っているのではないか…。
僕は黙って死んで行く…という人だから。
…『森田の精神を後世に恢弘せよ』とは、三島先生と森田さんの、感性を持てということだと思う。
先生があそこまでできたのだから、僕もできるだろうと。それがずっとある…。
自分はそれだけのことをやっている自信はある」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美
「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より
626名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 21:18:20
美文なら吉田修一さんより佐藤亜紀さんですね。
627名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 21:23:18
日曜日たちは面白かったです。佐藤さんならバルタザールの遍歴、ミノタウロスがやはり圧巻でしょうね
628名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 21:31:02
残念ながら三島由紀夫は読んだことありません。
629名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 21:35:48
一番気にかけてたのは実は村上君です。これぞ『仮面の』告白。もの言う株主。
630名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/30(月) 21:40:54
ついていけそうにないと感じた段階で吉本行きます。では。
631名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/01(火) 02:00:48
ホモ
632名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/03(木) 17:47:14

外国人地方参政権阻止国民大行動 in銀座 西尾幹二 ドイツは手遅れ
http://www.youtube.com/watch?v=A95gp7UZx_A&hl
633名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 15:59:24

「炎上」三島由紀夫:原作 市川雷蔵 現代劇初出演
http://www.youtube.com/watch?v=IECyJVgYZjE&hl
634名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 19:01:46
オーラの人の元彼
635名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 00:11:28
>>607
福島章って足利事件で菅谷さんを「幼児性愛者」と誤診した人と同じ人?

636名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 10:30:17
>>635
Wikipediaをみる限りではそのようですね。
Wikipediaの記述も中には偏向や間違いもあるので、よくその詳細が事実かは解りませんが。
もし誤診が本当なら心理学者や精神分析者の診断する性嗜好だのもいい加減な曖昧なものだということでしょう。
637名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 13:56:29
生前の三島さんを語り合える人も数少くなってしまったが、いま劇場でその劇作は絶えることなく上演され、
「サド侯爵夫人」「鹿鳴館」「近代能楽集」等、舞台を通じて三島さんへの追憶にひたる機会にこと欠くことはない。
文学座を脱退した三島さんは劇団NLTを創立、一九六五年五月、「近代能楽集=班女・弱法師」を、私が
支配人をしていたアートシアター新宿文化で上演することになった。(中略)
その公演の初日直前のある日、知人から電話があった。「葛井さん今夜劇場を貸してほしいんだが、映画の試写、
何分極秘裡に願います。素晴らしい人を紹介しますからお楽しみに……」と。
夜九時すぎ、白い細身のスラックスに皮のポロシャツの男性が颯爽と事務所のドアから現われた。
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」
あとは例の破顔大笑、その夜上演されたのは、完成したばかりの映画「憂国」であった。

葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より
638名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 13:57:17
(中略)終了後、私は戦慄と興奮で暫く席を立つことが出来なかった。言葉を失なったまま三島さんに視線を
向けると、満足げに微笑みを湛えて見返した三島さん。これが三島さんと私の出逢いのはじまりであった。
その夜は酒場「どん底」で祝杯を重ね、ツール映画祭への出品が決った。
(中略)
「憂国」はアートシアター創立以来の大入りで二ヶ月余のロングランとなり、連日三島さんと過す日が続いた。
私にとって三島さんは友というには偉大すぎ、私は敬愛こめて「三島先生」と呼んでいた。作家としての深淵は
私には判る筈もないが、ひたすら慣れ親しんで夜の巷で遊び廻るのが常であった。
然しその交流の中で私は多くの教えを受けた。細やかな気遣いと優しさに充ちた雑談の中で、芸術、文学、
人生について貴重な話をきくことが出来た。

葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より
639名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 13:58:56
ある時はテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティに会った印象、ジャン・コクトオ、レナルド・
バーンシュテインの話、外国の舞台、バレエ、オペラ、音楽など直にその場に居合せ、まるでその人々と
対峙しているように、生きた挿話は私を夢中にさせてくれるのであった。(中略)
夏、下田のホテルできかされた連載小説「命売ります」の荒唐無稽な仕掛けの話、焼玉蜀黍(とうもろこし)を
かじりながらの深夜任侠映画、丸山(美輪)明宏さんのリサイタルゲスト出演のためトレーニングの成果を
聞かせるからと「造花に殺された船乗りの歌」の背景にふさわしい場所でと横浜埠頭まで駆り出された夜、
映画「人斬り」では付人として京都まで随行、自衛隊富士学校への面会、森田必勝君にテーブルマナーを教えると
フランス料理店にお供した夜、「椿説弓張月」の舞台稽古と楯の会の国立劇場でのパレード、等々短かい歳月の間に
数えきれない程、多くのエピソードを残して、三島さんはあまりに早急に逝ってしまった。

葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より
640名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 14:00:19
そして遂にあの日が来た。
七〇年十一月二十五日、ニュースをきいて私は三島邸に駆けつけた。涙があふれ、唇は乾ききって唾液も
飲み込めない。到着して直ぐ何かの用で三階へと向った。そこは左右対称の円形の部屋で、壁龕には嘗て
「これがぼくの総てだよ」と指し示めされたとおり、三島さんのミニチュアブロンズ像、「癩王のテラス」の
舞台模型、外国語訳の自著群が並び、主を失った部屋は静謐に沈んでいた。
視線を移したその時、片隅のテーブルにレコードプレーヤーが置かれ、蓋が開け放たれ、そこにLPのレコード盤が
残されたまゝになっていた。私は茫然と見詰めていたが、何故か触れることをためらった。若しもあの日の前夜、
三島さんが最後に聴いた曲だとしたら……
然し瑤子夫人も亡きいまとなっては、もはや確める術もない。

葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より
641名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/18(金) 20:40:05
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。
疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていた土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上がり、
そして舞い下りています。
あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、
私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。
それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教室講座」を発表したとき、私は
「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには
生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。
あなたを恍惚とさせる「美」をおしのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。

武田泰淳
「三島の死ののちに」より
642名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:35:57
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
643名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:36:55
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
644名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:39:11
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
645名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:40:12
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』となぜ
侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
646名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:41:05
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
647名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:47:27
(中略)
平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。
この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略)
天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た
男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。
彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略)
「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。
…戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、
「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」
「すまないことをした」という意味とされている。…マスコミではほとんど取り上げられなかった。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
648名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:48:14
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。頼むよ、
原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、天皇の
御柩に向かって叫んだ。
「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に
なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。
浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」
(中略)私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた
河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
649名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:49:48
(中略)
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
650名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 14:51:10
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。

原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
651名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 20:46:35

青木直人:取材も報道もされない対中ODA
http://www.youtube.com/watch?v=-SFtQwj5oIk&hl
652名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 12:15:33
(トピックス)
三島由紀夫『らい王のテラス』の舞台 アンコールワット展覧会
http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/angkorwat/

 1月17日まで日本橋三越 新館七階ギャラリー
 三島がグラビアで撮った「閻魔大王ヤマ天」など実物展示です
 新潮文庫の『写真集 三島由紀夫』のなかにも、この仏像をスケッチする三島の写真が掲載されています。

  ♪
(もう一つ、トピック)
歌手・宇多田ヒカルの恋人・福田天人氏(日本画家)は元「楯の会」の会員だった福田俊作氏の息子の由。
 宇多田ヒカル自身も三島由紀夫ファンで『春の雪』の主題歌も歌ったと『週刊文春』(12月31日・1月7日合併号)。
  ◇
653名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 17:55:58
【チャンネル桜のイベント告知】
1/11【東京都渋谷区・神奈川県横浜市】 1.11 売国議員を落選させよう!街頭宣伝活動 (1/11)
1/16【東京都千代田区】 1.16 民主党・党大会抗議!日本解体阻止!外国人地方参政権阻止!緊急国民行動 (1/16)
1/17 【大阪府大阪市】 パチンコをやめようデモ IN 大阪 (1/17)
1/17【愛知県名古屋市】 国会開会直前行動!!「外国人参政権粉砕街宣&デモ」 (1/17)
1/25【東京都千代田区】 外国人地方参政権付与法案に反対する全国地方自治体首長・議員集会 (1/25)
http://www.ch-sakura.jp/events.html

【在特会の予定】
1/10 新春街宣/池袋商店街を汚す元凶・シナ人掃討街宣
http://www.zaitokukai.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&action=View&event_id=0000000179&caldate=2010-1-9
1/10 外国人地方参政権断固反対デモ神戸【そよ風・関西】←★【生中継】ニコニコ生放送14:30〜
http://www.zaitokukai.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&action=View&event_id=0000000174&caldate=2010-1-8
654名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 19:14:05
あげ
655名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 08:50:47
三島由紀夫の兄弟は何人いたの?

実弟の孫とかいう平岡なんとか(下の名前忘れた)の本が出てるよね。
656名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 11:20:03
平岡あみ、だった。

母親(三島の姪)も詩人なんだね。
平岡淳子
http://plaza.rakuten.co.jp/nf40s/diary/200509200000/

Wikiで読みたい、平岡あみ。  だれか書かないかなあ

現在、私が知ってる事。
平岡あみ。 三島由紀夫実弟の孫娘。 あれ?これくらいか。
657名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 15:50:01
>>656
へ〜、はじめて知った。詩を読んでみたいなあ。
658名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 01:00:05
http://www.bk1.jp/product/03185768

ここ↑の、「平岡あみ詩」ってリンク部分クリックで、幾つかの詩集が出て来た。
659名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 01:20:00
実弟のこと、調べた。

平岡千之(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E5%8D%83%E4%B9%8B

だれか、このWikiに孫娘のこと書き加えてくれないかな。
(以前、他の人物だけどWIkiに書こうとして上手く行かなかったから)

それとも、こっちの方がいいかな。
三島由紀夫(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
660名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 01:36:21
http://www.mishimayukio.jp/shop.html

三島由紀夫の詩って、あいにく読んだ事ない。
661名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 01:48:25
三島関連のスレの中に在った。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/poetics/1256699353/

「冬の夜」

火鉢のそばで猫が眠つてゐる。
電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。
けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。
おぢいさまが、
「けふはどうも寒くてならんわ」
とおつしやつた。
冬至の空はすみのやうにくろい。
今は七時だといふのにこんなにくらい。
弟が、
「こんなに暗らくつちやつまんないや」
といつた。

平岡公威(三島由紀夫)
8歳の詩
662名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 12:16:51
663名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 16:21:24
平岡あみ の詩の中にも寒い日のことを書いたものが在った。(ネット上のどこかで見た)

手が冷たかったので友達から手袋片方借り、
もう一方の手を繋いだ・・・

みたいな感じの詩。

三島はコクトー好きだったと記憶するが、まるで「詩人の血」とでも呼べそうな話。
664名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 16:55:29
>三島はコクトー好きだったと記憶するが、まるで「詩人の血」とでも呼べそうな話。

コクトーのは詩人の流す血って意味合いなんでしょうね、ちょっと勘違いしました。
665名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 17:54:11
>>663
ここで読めたよ。
http://tarareba-web.hp.infoseek.co.jp/poem.html
俳句や短歌も書けそうな趣きがあると思いました。
666名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 23:04:18
>>665

これです、これです。  どうも。
667名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/14(木) 12:19:38
「山中湖文学の森・三島由紀夫文学館」
 http://www.mishimayukio.jp/

都内に在れば行くのになあ。
668名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 12:01:40
>>658

宇野 亜喜良
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E4%BA%9C%E5%96%9C%E8%89%AF

寺山修司を思い出す。
寺山と三島の対談、昔読んだけど他に誰と対談してたかなあ? >三島の対談集
669名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/20(水) 17:36:45
>>668
石原慎太郎、大島渚、安部公房、鶴田浩二、大江健三郎などなどですよ。
670名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 09:52:56
>>669

おかげで記憶が少し甦って来た。

石原との対談では「あんたが共和制を主張するなら俺は、あんたを切る」みたいな事
言ってたね。
他の人に関しては、まったく思い出せない。
671名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/26(火) 13:09:01
>>656

>平岡あみ(ヒラオカアミ)
>1994年ニューヨーク生まれ。2001年度産経新聞「朝の詩」年間賞受賞
672名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 11:30:49
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
673名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 11:33:08
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
674名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 11:34:27
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で
とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。
これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に
言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう――そういう期待でやったのではないかと私は把握した。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
675名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 11:35:46
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
676名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 12:06:02
>>671
三島の弟の平岡千之は1996年に65歳で死去してますけど、63歳のときの子供なの?
677名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 12:10:20
ああ、間違えた。孫になるからいいんだわ。
678名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/31(日) 13:18:50
芸能界では宇多田ヒカル、ユーミンなどが三島ファンらしいけど、
他には、どんな人が居る?

このスレで既出だった場合は、リンクよろしく。
679名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/31(日) 22:34:34
>>678
及川光博、松井秀喜、佐藤江梨子が三島愛読してるって聞いたことあるよ。

海外ではビョーク、ジャン・ジャック・バーネル、デヴィッド・シルビアン、デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、コッポラ…など多数。
680名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/31(日) 22:36:39
681名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/01(月) 13:32:52
小説家を見つけたらって映画でも三島の本がチラっと出た
682名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/01(月) 17:24:26
レスどうも。

ミック・ジャガーが三島の、どの本読んだか気になる。
「地獄の黙示録」と「豊穣の海」は私の中では結びついてなかった。意外。



683名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/03(水) 12:04:41
ニコニコ動画に「misima」というタイトルの(多分DVDかな?)動画がUP
されてたんで幾つか見てみた。

これはどういうんだろ、三島を何人かの俳優が演じている様なんだが、
今のところ俺には訳が判らない。
この映画(日本未公開?)に関する情報集めてもらいたいんだが、(DVDとか)観たやついる?
684名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/03(水) 14:44:25
ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/MISHIMA
685名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 17:52:39
>>684

三島役は二人だと判った。
永島敏行が切腹するシーン見て、これも三島役に勘定してしまった。

奥さんの反対が在って日本未公開の様だが、反対理由を語った記録とか残ってないのだろうか。
686名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 19:50:23
>>683
三島の生い立ちの間に、三島作品の金閣寺の溝口、鏡子の家の収、奔馬の勲などの小説の主人公が混じってるんだよ。


>>685
はっきりした奥さんの言葉のソースはないけど、噂では、美輪明宏に三島がフラれたシーンがいやだったとか。
687名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 22:51:24
自分が生まれた時、既に三島由紀夫はこの世を去っていた。
なんとなく敬遠していた作家だったけど、豊饒の海を読み始めました。
もっと早く読めばよかったと後悔しています。
688名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 00:21:30
>>686

なるほどね。 少しずつ映画の構造が判って来た。

>>687

あんたの文章読んだら、俺も「豊饒の海」読みたくなって来たよ。
689名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 10:27:35
私は短い小説だけど
『愛の渇き』が自分に照らし合わせて共感を覚えました
690名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 11:54:39
三島の作品一覧みたいなの無いかな、と思って探したら
代表作品の紹介ページがあったのでリンク。

三島由紀夫代表作品
http://www.mishimayukio.jp/sakuhin36_1.html
http://www.mishimayukio.jp/sakuhin36_2.html
691名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 22:53:04
川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1178802032/

三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみよう
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1265269733/
692名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 23:36:09
693名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 14:13:49
三島由紀夫は好きだ。私は三島作品で最高傑作は「憂国」だと思っている。
改めて読み直して、美への強い憧憬に圧倒された。「憂国」は二・二六事件で新婚のため親友達から蹶起に
誘われなかった青年将校が、自分の美を守るために妻と心中といってよい自決をする話である。
今また読み、かつては気にならなかったところに、改めて目がとまった。
「この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れていた。」
新婚生活をこのように書くところに、三島由紀夫という作家の才能を感じる。
「厳粛な神威」と「身も慄えるような快楽」がはからずも三島由紀夫の才能をあらわしているのだが、彼の自死の
後の三十年はこの二つを社会から失ってきた歳月ではなかったろうか。もちろん彼が作家生活をしていた時期も
美の喪失過程はつづいていったのであり、喪失の流れを受容できなかったための自決であったのだ。

立松和平
「アンケート 三島由紀夫と私」より
694名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 14:14:30
「憂国」を読むかぎり「厳粛な神威」とは国家神道にもとづく天皇制のことだが、視点をそこで止めてしまったのでは、
三島由紀夫はとうてい理解できないのである。それは山川草木に宿る歴史性のことで、生き生きとした
森羅万象のなかに「身も慄えるような快楽」が宿るのだ。皇軍の将校が妻をも巻き込んで自決する一夜の物語を
何度も読み、今でも戦慄を覚えるのは、国家の中心にある美やエロスや生命といったものが描かれているからだ。
そして、そのことこそが、三島由紀夫自決後三十年で急速に失ってきたものなのである。(中略)
美、エロス、生命の対極にあるのが、経済という物資活動であろう。美やエロスを捨て、生命を圧殺してきたからこそ、
日本は経済活動で成功したのだ。結局、三島由紀夫は時期を機敏にとらえてこの時代から去っていったのだ。

立松和平
「アンケート 三島由紀夫と私」より
695おさかなくわえた名無しさん:2010/02/10(水) 14:38:50
茶番劇のTVRみるたび空しくなる。
テラスから自衛官に場違い(勘違い)すぎる武力蜂起?を呼びかけたら
周囲からヤジと怒号の非難でモノ哀しい。

貧窮や労働問題のたびに、チェゲバラのような革命士を求めるが
(劇画では絵になるが…)リアルになると結構シラケてしまうんだよな。
696名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 17:26:10
好き嫌いの次元ではありません。無視することのできない存在です。
人はこの人の作品によって、リトマス試験紙のように試されるのだと思います。素直になるべきでしょう。

Q:三島作品のベストワンは?

…「仲間」です。モーツァルトはグレゴリウス聖歌たった一曲と自分の全集を交換してもよい、と断言しました。
三島由紀夫の全生涯の文業と、このわずか十数枚足らずの短編についても同じことが言えると考えます。
三島が嫌悪した太宰治に「駆込み訴へ」、氏が愛した坂口安吾に「桜の森の満開の下」があるように、
「仲間」は白鳥の歌です。ワイルドの「幸福な王子」に匹敵する傑作です。

森内俊雄
「アンケート 三島由紀夫と私」より
697名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 17:44:47
「午後の曳航」が印象に残ってます
父親を嫌悪する13歳の少年たちの会話とか
ナイーブで想像力は豊かなのに言語能力がとぼしくて
思うことの100分の一も語れない船乗りの男とか
妙にリアルでした
698名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/10(水) 22:03:14
午後の曳航は三島作品ベスト5には入るなあ。
699名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 20:42:23
横の会
700名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/19(金) 11:23:52
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」
のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、
山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、
日記を綴るようにノートに書きためていた。
…表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。
誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から
「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、
さらにこうつづけていた。
〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。
そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より