1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
中絶は事実なのか?都市伝説か?
真面目に検証しませう。
子供を産む前の紀子様、かわいかったな。
あの頃の色気が取り戻せれば、人気回復間違いなし。
>>1 キジ焼きババア、うぜえよ。
相変わらず、訛りがきついようだね。
田舎者はおとなしく皇居の草むしりでもやってろよ。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/06 16:37:16
これは知人から聞いた話です。
皇太子妃masakoは、【水銀オナニー中毒】だそうです。
masakoは折った体温計を膣に挿入し
くちゅくちゅぐちょぐちょ、音を立てて水銀オナニーをしまくっていたそうです。
その為に、膣から入った微量の水銀がmasakoの子宮に蓄積され
水銀中毒の娘、哀コが池沼として誕生する結果を招いたのです。
哀子が自閉症気味なのは、すべてmasako妃の体温計を使った
水銀オナニー中毒のせいなのです!
この真実をもっと世間に広げるべきです!
水銀オナニー常習者の皇太子妃なんか皇室にいりません!
>>1は前々レスあたりから荒らしに来るアンチ紀子妃の雅子妃信者です。
「陛下の喪中に結婚したワケあり婚」とか「修士2年の時宮内庁の裏
工作で学位を取った」などの噴飯もののレスで失笑を買ってますw。
さあ〜今スレではどんなDQNなレスで爆笑させてくれるのか?
楽しみですねぇ〜♪
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/06 19:08:49
悪魔に憑かれたこどもアイコンを産んだ嫁は皇室にいらない。エクソシスト雅子は実家に帰れ。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/06 21:33:24
キモい雅子ヲタがいっぱい釣れたw
両陛下が老体にむち打って皇室イメージUPに励んでるのに、
嫁は休養ですかw
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/06 23:09:04
紀子さまと宮様の初エッチはいつですか?
<万能レディー>紀子さん
英語は母国語並み ドイツ語、中国語も
スキー本場仕込み テニス、乗馬も得意
川嶋紀子さんは、昭和四十一年九月十一日、母・和代さんの実家に近い静岡市
の済生会病院で生まれた。
当時、一家は東京・新宿区早稲田南町に住んでいたが、四十四年、父・辰彦氏
の留学に伴って米・ペンシルバニアへ。紀子さんはここで幼児期(三歳―六歳)
を過ごし、帰国後の四十八年、学習院初等科に入った。紀子さんの英語が母国語
同然といわれるのもそのためで、初等科時代の友人は、「日本語にも外国人のよ
うな英語なまりがあった」という。
昭和五十三年、紀子さんが初等科五年の時、父・辰彦氏がIIASA(国際応用シス
テム解析研究所)の主任研究員に迎えられたため、四十八年に生まれた長男・舟
(しゅう)さんも含め一家四人は、オーストリアのウィーンに渡る。紀子さんは
現地のアメリカン・スクールに通って英語に磨きをかける一方、ドイツ語も日常
会話に困らない程度にまでなった。
帰国したのは、五十四年九月。紀子さんは学習院女子中等科に一年生の二学期
から戻り、二年ぶりに日本での生活を始めた。紀子さんは十三歳だったが、すで
に六年近くを外国で過ごしており、語学をはじめとする国際感覚は、ごく自然に
身についたようだ。
中等科時代は、美術部に所属、十数人の仲間と一緒に週二回、静物、風景画な
どを熱心に描いていた。スキーもオーストリア仕込で、三年の時に山形県・蔵王
で行われた学校のスキースクールでは、一人だけ上級クラスだったという。当時
の友人は「マイペース型で、周囲の人がいろいろ言っても自分のペースを崩さな
い。それでいて気配りも忘れず、みんなを決して不愉快にしない人だった」と話
している。
女子高等科に進学すると、様々な学内活動に取り組んだ。厚生委員会では、
ハンセン病患者のための募金活動の中心に。「私たちがのどの渇きを我慢して、
牛乳一本分のお金を出せば、それで何十人もの患者が助かる」と募金活動に奔走
した。
山岳同好会にも所属し、テニスや乗馬なども得意で、「スポーツは万能」と
評判だった。友人たちは、そんな紀子さん像を「いつもニコニコしていて怒った
顔をみたことがない」反面、「意志が強く、何事もきちんとしている人」と表現
する。
常に前向きの努力家という一面は、高等科の第二外国語に中国語を選択したこ
とにもうかがえる。英語のほか、ドイツ語もできる紀子さんだが、「何でもやって
みたい」と、あえて新しい語学に挑戦したという。
大学は文学部に進み、心理学を専攻した。社会心理学のゼミに属し、卒業
論文は「環境心理」。
講義には欠かさず出席、国文科の書道の単位も取るなど、勉強熱心さは、
評判で、恩師も、「申し分ない学生」と、賞賛の言葉を惜しまない。サークル
は、礼宮さまとの出会いの場となった「自然文化研究会」のほか、心理研究会、
手話サークルに所属。手話は、文化祭の手話劇を見て感激して始め、言葉が
不自由な学生に付き添って講義を受け、通訳をしたりノートを取ったりもして
いた。
この間、スポーツではテニス、スキーなどを続ける一方、毎朝のジョギング
も日課に。「親しみがあってみんなに優しい」「天真らんまんで、一緒にいると
楽しい」「とにかくいい人で、欠点が見当たらない」。大学時代の友人も、一様に
紀子さんの親しみやすい人柄を語る。「顔を合わせると、遠くからでも、手を
振りながら声をかけてくれる。一度話したことは覚えていて、『あの話はどうな
った?』と心配してくれるなど、思いやりのある温かい人でした」と、高校友人
の一人。
読売新聞 1989年 8月26日号より
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/07 07:07:25
コピペ馬鹿
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。: