永島氏はこの連載で、何を語ろうとしたのか、改めて聞いた。
「尾崎はちょうど『放熱への証』のコンサートの準備中でした。チケットもほぼ
完売、6月に予定してたCDにも予約が殺到していました。つまり尾崎豊にとっ
ていままさに絶頂を迎えようとしている時だったのです。ところが、その準備中
の3月頃から尾崎が絶交していた
Tという昔の知人が尾崎に接近するのです。Tはなかなか単独では接近できない
ので、仲間を仲介させて会う段取りをつけたのです。そして4月24日、後楽園
で行われたビアパーティで偶然にもTと尾崎は出会ったんですね。その夜、尾崎
は致死量を超える覚せい剤を服用した。そして午前3時30分ごろ、千住河原町
の民家で裸になっているところを保護されたわけです。その後、尾崎は白髭橋病
院に運ばれましたが、ここの担当医師は、『総合的に判断する必要があると思い
まして、転院先を決めて待っていた』わけですが、夫人が現れまして、転院には
耳も貸さなかった。しかも『どうしても連れて帰る』といって連れかえったので
す。これで尾崎は治療のチャンスを失い、92年4月25日12時6分、尾崎豊
は不帰の人となったわけです。今お話しただけでも疑問に思われるでしょうが、
尾崎は明らかに事故死でも、自殺でもありませんでした。それで取材をして行く
とさらに他殺の線が強くなっていったのです」
尾崎豊の死について、所轄である千住警察署は「肺水腫による病死」として事
故死でも、自殺でもなく、病死扱いにした。
おどろくべことは、その永島氏が連載を始めると、Tという人物から電話が入
り、「覚せい剤の犯人は捕まっている」などと訳のわからないことをいってきた
という。
「しかもですね。Tは警察にオジキがいるというんですね。なんのことはない。
それは千住警察署で尾崎の死を担当した刑事ですよ。それで私は刑事に連絡し、
面会しましたよ。そしたらオジキでもなんでもなかったのです」
その刑事は、尾崎の死を行政解剖から一転、司法解剖に回し、事件の解明を計
ろうとしたのである。
「刑事は私が会った時は警視庁の警視という身分で管理官でした。彼は、私にこ
う説明しました。『全部調べたよ。何処から覚せい剤を摂取したのかね。お尻か
らいれたわけでも、注射を打ったわけでもない。腕にそんな傷はなかった。だか
らね、これは結論から言うと口から摂取したたことになるわけです。だがね、あ
れだけの量の覚せい剤は簡単に飲めるものではない。誰かに飲まされなければね』
と。しかし、千十警察署は捜査を止めてしまったのですよ。理由を聞くと刑事は
『私は殺人事件として捜査しようとしていた。しかし上がやめたんですよ』と答
えてくれましたよ。幹部が何故辞めたのか、いまだに理由はわかりませんが。こ
れで捜査は終了、未亡人は難なく遺産を相続したわけですよ」
こう語る永島氏はその後、『尾崎豊 覚醒剤偽装殺人疑惑』を刊行、一部始終
を詳細かつ具体的に記述している。
この著作を読む限り、尾崎豊の26年間をかなり具体的かつ詳細に描き、事件
の前後に描写は恐ろしいものがある。
尾崎豊を「他殺」と主張した永島氏に、夫人は週刊誌記者を抱きこんで「自殺
説」を主張したが、これは千住警察が「自殺はない」と否定されている。その際、
遺書があるとウソをついたことがばれてしまった。
94年9月、テレビ朝日は夫人から「殺害の依頼を受けた」とする未亡人の側
近のインタビューを収録、放送する準備をしていた。その情報をつかんだ夫人は
テレ朝日と永島に総額一億円の民事提訴を行ったのだった。
http://www.ontimes.com/i/X-report/