野村総一郎の『専門医が教えるうつ病D』幻冬舎は、
商品名を一般名(アモキサンをアモキサピン)で分かりにくい。対応表はあるが。
三環系は効果・副作用ともに強いが、アモキサンの副作用はそれほどでもないとか。
抗うつ薬には依存性はなく、いわゆる薬物中毒(薬物依存症)になることはない。性格が変わることもない、気力上げる作用で怒りっぽくなったように感じられることがまれにはあるが、これは性格が変わったわけではないし服用やめれば元に戻る。
抗不安薬には一般に使われるベンゾジアゼピン系で、依存性があり、長期漫然服用は好ましくない。
とのこと。
問題は、
「うつ病の症状は、脳内の情報伝達物資(とくに気分や意欲、不安などに関わるセロトニンやノルアドレナリン)の量が減少し、神経細胞間での情報伝達がうまくいかなるために起こると考えられています。」
との記述。
これ、セロトニン仮説に懐疑的だった『うつ病の真実』と言ってること違うじゃん?
いや、この幻冬舎の本は、専門書ではなく一般書だから、いいのか?
あと、「起こると『考えられています』」と、あくまでも受動態の書き方をしているから、「著者自身の考え方ではない」とも言えるか。
セロトニン仮説に懐疑的なその著書は、上記幻冬舎の本とほぼ同時期の出版。
日本評論社『うつ病の真実』野村総一郎→
モノアミン揺さぶり仮説立てたことがある。
小見出し モノアミンの袋小路
→これはモノアミンにこだわることをいったんやめないと、本当に新しい薬は作れないのではないかと思われる。
つまり、抗うつ薬の開発というのは、創業者が偉大すぎてそのブランドイメージに引きずられ、新しい発想が出てこない大企業のような問題点をかかえているわけである。
別の喩え話で言えば、馬車がものすごく移動手段として優れているので、人類究極の乗り物は馬車だ、と信じこんでしまい、馬の改良ばかりに力を注いでいるような状況に似ている。
これでは自動車というまったく発想の異なる乗り物は発明できないであろう。
(中略)これまでの抗うつ薬開発の歴史をみて、もう一つ感じることは、これまでは「『うつ病』を一括して治すための薬を作る」という発想だけで進んできたことである。
しかし、これまでみてきたように、うつ病と一言で言っても実にさまざまなものがある。おそらく、これまでの抗うつ薬は「すべてのタイプのうつ病の最大公約数に一応効く」という薬ではなかったか。
そこに限界があったかもしれない。今後は、うつ病の歴史をじっくり勉強して、「個々のうつ病に個々に効く」という薬を作るべきであろう。
小見出し セロトニン仮説の隘路
→これは前章にみたように、ほとんどすべての抗うつ薬がセロトニンの働きを強めることから来ている。
つまり、セロトニンを与えれば治るということは、セロトニンが不足しているのだろう、という論理である。水がほしい、ということは、体に水が不足しているのだろう、というのに似た考え方であって、医学ではよくみられる発想だ。
大間違いではないにしても、次の点で本質を外す可能性もある。
@そもそもセロトニンを強める薬が抗うつ薬として開発されているのだから、循環論法であって、ここには原因と結果を混同しているような面がある。
妙な喩えかもしれないが、「郵便ポストはどれも赤い」「それでハガキがどんどん集まるところをみると、どうやら赤という色を見ると人はハガキを出したくなるらしい」「だからポストの色は赤が一番良いのだ」と言っているようなものである。
この場合、たまたま明治時代にポストの色を赤に決めただけであって、もし最初に緑にしていたら、緑にハガキは集まったはずである。
(A以降は例ではないから略)
ストレスとコルチコステロンを軍隊で喩えるとか、例え話が多くてわかりやすい。ただ、例え話はわかりやすいが本が全体的に難しすぎる。