もうそろそろどなたか次スレお願いします。
今日から薬飲むのやめます
956 :
平成退屈男:2006/07/09(日) 10:51:26 ID:6Zi7nL/s
断薬はやめとけ。再発のおそれがあるぞ。
ところで、今日も暇だ〜〜〜〜なんとかしる!
>>917 ばかじゃねーの、スルーすれば勝手に決めつけると思ってたら案の定だ。
私は統合失調症発症時にはなんの治療も受けてないんだよ。
part13(03/01/05〜)から、ここにいて何度も書いてる。
過去ログ読め。
>>578でも触れてる。
>>939 人格障害のホムペとかみると
まともな人間て存在するのか?と思うようになる
人格障害に効く薬はないからね。併発しやすい抑うつとかの治療で誤魔化すだけ。
精神科医にかかってまともでいられる人間なんていない
みんななんだかんだと病名を付けられて患者にされる
薬には依存性があるので一生抜け出せない
963 :
フィナルスの女神 ◆ITjaWCIZAM :2006/07/09(日) 15:55:42 ID:yqDJrMfw
>>YOSHIHIROさん
次スレありがとです
TBSおもろ
バンカーバスターあまり効かんと
阪大李英和教授が先月中に発射日を言い当ててる。すげー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%8B%B1%E5%92%8C 李英和(イ・ヨンファ、1954年12月22日 - )は朝鮮民主主義人民共和国研究者、
民主化運動家。関西大学経済学部教授(2005年4月1日 - )。
在日朝鮮人三世として大阪府堺市に生まれる。関西大学、同大学院修了。
1991年4月、西側からの初の留学生として、北朝鮮の大学へ短期留学をするが、
同国の極端な個人崇拝と監視社会、経済の破綻を知り失望する。
そして、危険を冒して集会を行う反体制知識人とも接触する。
帰国後の1993年、北朝鮮民主化を目指す「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動
ネットワーク」(RENK)を結成、代表を務める。RENKは脱北者の支援や
北朝鮮内部の資料、映像を世界へ公開する活動をしている。
阪大じゃなくて関西大学
バンカーバスターは簡単に避けられるよ。
格ゲーの話じゃないって?
最近のゲームはリアルだもんね。
「精神障害ドクターショッピングゲーム」
「精神保険指定医(になる)ゲーム」
とか誰か作らないかな。
>他人の故意の咳払いや鼻すすりが耳障りな人
騒音過敏。統合失調症でなくてもなります。
関係妄想が絡んでいるのなら統合失調症の可能性あり。
>世の中の奴らが敵にみえる
>人はどうしてすれ違いざまに悪口言うのか?
単に頭の悪い人にもいますが統合失調症の可能性あり。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/piano.htm ピアノ騒音殺人事件
【 事件発生 】
1974年(昭和49年)8月28日、その日は朝から蒸し暑かった。神奈川県
平塚市の団地の3階の奥村宅から、いつものようにピアノの音が聞こえ始めた。
「少しくらい遠慮すればいいものを、わざとやっていやがる!」
気温が高くなるにつれ、その音は奥村宅の真上の4階に住む大浜松三(当時46
歳)の異常に高ぶった神経をイラつかせた。
午前9時20分ころ、奥村家の主人(当時36歳)が出勤し、妻の八重子(33
歳)がゴミ袋を持って玄関から出た。それを見ていた大浜は刺身包丁を手に取る
と、その奥村宅に走り込んだ。
ピアノを弾いていた長女のまゆみちゃん(8歳)の胸をひと突きして死亡させ、
続いて傍らにいた次女の洋子ちゃん(4歳)を刺して死亡させたあと、マジック
で襖に乱暴になぐり書きした。2人の子供を刺しても、大浜の興奮はおさまらな
かった。本当に憎いと思っていたのは母親の八重子であった。
<迷惑をかけているんだから、すみませんのひと言くらい言え。気分の問題だ。
大体、来た時も挨拶にこないし、しかもバカヅラしてガンをとばすとは何事だ。
人間、殺人鬼にはなれないものだ・・・>
来た時・・・入居して来た時
そこまで書いたとき、八重子が戻ってきた。洗濯機のスイッチを押し、それから
子供部屋の隣りの居間に入ってきた。大浜は、居間に飛び込むと、ためらわずに、
八重子の胸を狙って刺身包丁を突き刺し死亡させた。
【 本人歴 】
1928年(昭和3年)、大浜松三は東京都江東区亀戸で生まれた。3男3女の
三男だった。家業は書店であった。小学校時代は成績優秀で、ずっと級長だった
が、3年生のとき、近所の吃音の子と遊んでいるうち、自分も吃音するようにな
って悩んだ。
1968年(昭和43年)6月16日に起きた横須賀線電車爆破事件の犯人の若
松善紀(よしき)も小学2、3年の頃から、親類の子どもがドモるのをまねてい
るうちに、自分もドモるようになった。中学に入る頃には益々ひどくなって、吃
音(きつおん)矯正所に通うまでになってしまった。また、1945年(昭和2
0年)から翌年にかけて7人もの女性を殺害した小平義雄も小学生のとき、吃音
に悩まされた。小平は自分の意思がうまく伝わらないとき、すぐ激昂した。横須
賀線電車爆破事件の詳細についてはこちら、小平義雄連続殺人事件の詳細につい
てはこちら
旧制中学に入り、国語の授業で指されて教科書を読んだが、上手く読めず屈辱的
な体験をして、劣等感を抱いて学習意欲を失い、怠惰になり、みるみる成績が落
ちた。
卒業して疎開先の山梨県で敗戦を迎えた。その後は親類の車体組み立て工場に勤
めていた。この頃、吃音はいっそうひどくなって職場ではちょっとしたことで腹
を立てた。また、家庭では兄たちと毎日ケンカして、近所の人と顔を合わせても、
目をそらして口をきかなかった。
1948年(昭和23年)、国鉄(現・JR)中央線の東京都国立(くにたち)
駅の職員になった。IQは109あって「頭の良い男」と見られていた。
1951年(昭和26年)、競輪に熱中した挙句、小額の公金を横領して逃げ、
金がなくなると、ひったくりをやって逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の判決
を受けて、国鉄を解雇された。その後、旋盤工場に就職したものの長続きせず、
自宅でぶらぶら過ごしていた。
1955年(昭和30年)、家出して、1年ほど東京都港区新橋でホームレスと
して過ごした。
1956年(昭和31年)、亀戸の自宅に戻り、再び旋盤工として働き始めるが、
工場を次々と替った。吃音のため先輩に嫌われ、仕事を教えてもらえず、勤労
意欲を失ったという。
1959年(昭和34年)、農家の婿養子になったが、妻が別れた前夫と密会し
ているのが気に入らず、まもなく離婚した。その後、八王子へ移り、アパート住
まいを始めて、日野市の自動車工場で働いた。アパートの住人はほとんどが夫婦
者で小さい子供が多い。しかし、大浜は隣人たちと挨拶を交わさず、子供に声を
かけることもなく「気難しい変わり者」と見られていた。
1963年(昭和38年)ごろ、大浜の身に異変が起きた。自動車工場はニ交替
勤務で、夜勤のとき昼間アパートで寝ていると、原因不明の「ドカーン」という
音がする。
これが数日続いて眠れなくなった。これは、近所のガラス戸の開閉音が爆弾の炸
裂音のように聞こえていたようだ。大浜はこの音を聞くと、脳が破壊されるよう
な気がするという。
同じアパートの夫婦者に、ステレオの音が大きいと苦情を言って大喧嘩したこと
もあった。
それ以降、騒音に異常反応を示すようになった。アパートの子供たちの遊び声が
うるさいと叱りつけたり、よく吠える近所の犬を何匹か殺して、警察に通報され
たりした。
1964年(昭和39年)7月、大浜はアパートを出て転職した。
1965年(昭和40年)、知人の紹介で結婚した。妻は明るい性格で気立てが
良かったが、大浜は相変わらず気難しく無口で、妻に対して暴力をふるった。や
がて、仕事を辞めて自宅でぶらぶらし始めた。
そして、雀の鳴き声が気になり始めると、木によじ登ってビニールテープを「雀
よけ」と称して張り巡らした。
1967年(昭和42年)、大浜は八王子市内の会社に就職し、夫婦は寮に移っ
た。ここでしばらく小康状態は保つものの、やがて、隣人の話し声がうるさいと
抗議し始め、口論が続いて退職した。
1970年(昭和45年)4月、大浜と妻が神奈川県平塚市田村の県営横内団地
34号棟の4階に入居した。大浜はテレビを見ているときはイヤホンを使ってい
た。
6月、大浜家に続いて、奥村家の親子4人が階下に入居してきた。その日に、さ
っそく棚を取り付けるため、ハンマーでがんがんやり始めた。
静かな夫婦と騒々しい親子が、厚さ12センチの床の上と下で暮らし始めた。
階下の亭主は腕っぷしの強そうな男で、女房は外ですれ違っても、挨拶するどこ
ろか、「フンッ」といった顔つきで大浜を見たりした。
大浜は階下の物音は戸の開閉まで気にしながら、抗議に行ったことはない。むし
ろ、自室の物音が階下の一家を刺激して報復を招いていると考えた。だから、妻
に口やかましく注意し、部屋には厚いマットを敷いて、忍び足で歩いた。
にもかかわらず、階下では日曜大工の音が激しくなった。大浜は日曜はトラブル
を避けるため、自分の方が朝から外出した。
1973年(昭和48年)夏ころから、この横内団地で、ピアノやエレクトロン
などの楽器騒音が問題化した。幼稚園や小学校へ通う子のいる家庭で、競い合う
ようにしてピアノなどを買うようになり、部屋を飾るのが流行しはじめ、団地の
近くに音楽教室ができたりした。
だが、団地の自治会活動が活発なお陰で、すぐにこのことが議題のひとつに取り
上げられ、音量を絞ったり、練習は昼間だけに限るなど、自粛の約束をつくった
りした。でも、全ての人がこの約束を守っていたわけではなかった。
11月、階下の奥村家にピアノが運び込まれた。小学2年の長女がピアノを習い
始めたからである。その後、毎日、練習曲が響き始めた。
大浜は、その頃、失業しており、妻は愛想を尽かして実家に帰っていた。階下で、
ピアノの練習が始まると、図書館に行って本を読んで一日を過ごしたり、釣り
に行って退屈をまぎらわせていた。
「自分だけがなぜこんなに悩まなければならないのか? 自分はもう生きていけ
ない。自殺するかもしれない。自分はもう死んでもいいけれど、自分をこれほど
までに苦しめた2人の女だけは生かしておけない」
大浜は仕返しをすることを決意し、刺身包丁を買ってきた。
1974年(昭和49年)8月28日、事件が起こる。
【 その後 】
犯行後、大浜は海で死ぬことを考え、さまよったが、死にきれず、3日後の8月
31日に自首した。
1975年(昭和50年)10月20日、横浜地裁小田原支部で大浜に死刑の判
決が下った。
大浜にとっては望み通りの判決で控訴はしないと言ったが、弁護人は控訴手続き
を取った。大浜は不満の意を表したが、弁護人は説得して控訴趣意書を書かせた。
この大浜自筆の控訴趣意は原稿用紙80枚に及ぶ、妄想の集大成であった。
騒音に悩む人々の同情が集まり、助命嘆願活動も行われた。
1976年(昭和51年)5月、東京高裁は東京医科歯科大教授の中田修に精神
鑑定を命じた。その結果、大浜は犯行当時、パラノイアに罹患しており、責任能
力なしの状態にあったと判断した。
10月5日、大浜は弁護人との相談なしに控訴を取り下げた。自ら「控訴取下申
立書」を作成し、拘置所長を通じて裁判所に提出した。
「死刑を免れて無期懲役になったところで、刑務所での生活がうまくいくとも思
えない。騒音過敏と不眠症で、人生に疲れ果てている。ここでの生活は、自殺も
ままならない。それならいっそ、処刑された方がいい。もし、精神鑑定で異常と
結論が出て免責されても、一生を病院で過ごさねばならぬ。したがって、処刑に
よって自殺の目的を遂げたい」
12月16日、東京高裁第4刑事部の寺尾正二裁判長は、控訴の取り下げを有効
と認める決定を下した。
(snip)
1977年(昭和52年)4月11日、東京高裁第5刑事部の谷口正孝裁判長は
、第4刑事部の決定を支持し、死刑が確定した。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/lobotomy.htm ロボトミー殺人事件
1929年(昭和4年)1月1日、桜庭章司は長野県松本市で次男として生まれ
た。小学生のとき、東京に移った。神経質なところがあったが、気が強く明朗闊
達な子であった。小学校卒業後、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)付属工科
学校に進学したが、貧窮家庭の生活を支えるため、1年で退学して工員になった。
1945年(昭和20年)の終戦の頃、松本市に戻り、商売をしながら町のジム
でボクシングの練習をやり始めた。19歳のとき、北陸5県社会人ボクシング選
手権大会にライト級で出場して優勝した。
1949年(昭和24年)、20歳のとき、「これからは英語の時代」を確信し
て独学で英語を勉強し、通訳の資格を取得した。その英語能力をかわれ、占領軍
基地のある新潟の電話局(現・NTT)に通訳として就職した。その後、米軍の
OSI(諜報機関)にスカウトされ、英語力に磨きをかけた。
だが、病躯の母親の面倒を見るため、松本に帰ることになった。松本には英語を
生かす職場がなかったため、体力に自信のある桜庭は日銭稼ぎに土木作業員とし
て飯場で働くことになった。
飯場では喧嘩が絶えなかった。ある日、刺青をした土木作業員が出稼ぎの農民を
殴っているのを見て、桜庭は刺青の男を叩きのめした。ボクシングで鍛えたパン
チは衰えていなかった。
桜庭は土木作業を続けているとき、路肩工事の手抜きを発見した。班長に注意す
ると、その夜、桜庭は社長に呼ばれ小料理屋に連れて行かれて、5万円を握らさ
れた。
桜庭には作家になりたいという夢があった。そのために読書や執筆に専念したか
った。5万円あれば、しばらく働かなくても暮らせると思い、悪いこととは知り
ながら受け取ってしまった。
その後、桜庭は警察に逮捕された。刺青の男が訴えたのである。訴えにより、事
情聴取された社長は、金を脅し取られたと供述した。桜庭は暴行と恐喝容疑で起
訴され、懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けた。
1958年(昭和33年)8月、ダム工事現場で働いていたとき、賃金不払いと
不当解雇問題が発生した。桜庭は社長宅に談判に行ったが、恐喝容疑で逮捕され
た。執行猶予は取り消され、12月、長野刑務所に収監された。
1961年(昭和36年)8月、刑務所を出所した桜庭は、東京で鉄筋工として
働きながら、翻訳会社を介して翻訳のバイトをした。
1962年(昭和37年)の春ごろ、2、3のスポーツ新聞を見て、海外スポー
ツ情報のいい加減な紹介に腹が立った。桜庭は幾つかの新聞社や雑誌社にクレー
ムの手紙を書いて出した。手紙を読んだ編集者たちは桜庭に原稿を依頼してきた。
33歳になっていた桜庭はこれを契機にライターへ転身した。
その後の仕事は順調に運び、資料整理のために2人の学生アルバイトを雇うほど
になった。月収は10万円を超え、当時の中堅サラリーマンの3、4倍は稼いで
いた。
1964年(昭和39年)3月、桜庭は東京都板橋区の妹宅に立ち寄った。老い
た母親のことで話し合っているうち、喧嘩になった。桜庭はそばにあった人形ケ
ースなどを壊した。妹の夫が110番通報した。志村署の警察が駆けつけ、桜庭
は器物破損の現行犯で逮捕された。
翌日、妹夫婦は告訴を取り下げたが、警察はさらに1週間留置し、桜庭の過去を
調べ、暴力、恐喝などの前科を洗い出した。繰り返される暴力行為は、精神疾患
からくるものとして、桜庭は世田谷区の都立梅ヶ丘病院に連れて行かれ、精神鑑
定にかけられた。
HPの方は読む気がしないから、出来れば、要約バージョンきぼんぬw
担当の医師は桜庭を「精神病質」と鑑定した。桜庭は釈放を求めたが、警察によ
って今度は、3月11日、東京都多摩市の聖跡桜ヶ丘の桜ヶ丘保養所(現・桜ヶ
丘記念病院)に連行され強制措置入院させられた。
桜庭はスポーツライターとして編集者から信頼されていたので、入院後も原稿執
筆を続け、編集者は病院へ原稿を受け取りにきていた。
桜庭は拘禁中に精神外科手術をされることをおそれていた。それは、入院中に、
八重という20歳くらいの女性が精神外科手術をされ、担当の藤井澹(きよし)
医師が手術は大成功だったと言っていたにもかかわらず、約1ヵ月後に八重が首
吊り自殺したからだった。桜庭は精神外科手術によって廃人にされることをおそ
れ、主治医である藤井医師に対して明確に手術の拒否を告げていた。また、手術
するには母親の承諾が必要であることが分かっていたので、桜庭は安心していた。
ところが、藤井医師は何も解らない母親から承諾書を取ってしまった。
11月2日、桜庭(当時35歳)は藤井医師から肝臓検査と称して、全身麻酔を
かけられ、加藤雄司医師によって、ロボトミーの一種であるチングレクトミーと
いう精神外科手術を強行された。
チングレクトミー手術は、患者の攻撃性や爆発性を選択的に除去する効果がある
という大義名分のもとに手術が行なわれてきた。患者の右前頭部の頭皮を開き、
頭蓋骨を切り取って脳硬膜を開き、大脳間裂を広げて視認できる脳梁のやや上部
に位置する帯状回転(帯回ともいう)の前部に外科的侵襲を加える手術をいう。
ロボトミー lobotomy の lobo- は、中肺葉や前頭葉の「葉」という意味で、-t
omy は「切断」「切除」を意味する。ロボトミーは正式には prefrontal loboto
my といい、「前部前頭葉切截術」と訳されている。
(snip)
「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(スキゾフレニア)を訳したも
のですが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更
されています。
桜庭がチングレクトミーを強行されたのは、ベースボールマガジン社発行の『プ
ロレス・ボクシング』誌に、ペンネーム・鬼山豊で、「貧しかった労働少年がつ
いに栄光をつかんだ」というサブタイトルで「イタリアの発電所」と異名をとる
レスラーのブルーノ・サンマルチノの原稿が掲載されてから間もなくのことだっ
た。
手術を強行されてから約4ヶ月後、桜庭は希望していた退院が叶えられたが、藤
井医師によって、退院許可と引き換えに手術の同意書を書かされた。すでに手術
の症状が現れ、従順になっていた桜庭は同意書を書いた。桜庭の精神的意欲は減
退し、原稿を書ける量は手術前の5分の1に減少した。その後、桜庭はスポーツ
ジャーナリズムの世界から姿を消した。運転手や自動車修理工場の見習い工など
をしながら各地を転々とした。
1969年(昭和44年)ごろから桜庭はてんかん発作に悩まされるようになっ
た。名古屋の中央労災病院で診察を受けた結果、チングレクトミーの後遺症であ
る可能性が指摘された。
1976年(昭和51年)2月、桜庭は弟が経営する会社に勤めていたが、英語
力をかわれ、フィリピンの支社で働くことになった。ここには約2年間、滞在し
ていたが、働く気力が湧いてこない。藤井医師が言っていた「チングレクトミー
によって無理がきかなくなる」という言葉を思い出す。
1978年(昭和53年)のある日の夕方、桜庭はマニラ湾の夕日を眺めていた
とき、はっきりと覚った。
世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、俺の心には何の感動も湧いてこな
い。もはや俺は人間ではないのだ。生きている資格はない。こんなことになった
のは、あの藤井医師のせいだ。あいつがチングレクトミー手術をしたせいだ。あ
いつを殺して俺も死のう。
1979年(昭和54年)9月26日午後5時ごろ、桜庭(当時50歳)は藤井
医師(当時53歳)との無理心中という形で決着をつけるべく、遺書を持って、
バルビタール(長時間作用型鎮静・睡眠薬)などの薬物を服用したのち、東京都
小平市の藤井宅にデパートの配達員を装って押し入った。ダンボール箱を渡しな
がら、藤井の妻の母親の深川タダ子(70歳)を押さえつけ、手足に手錠をかけ、
ガムテープで目と口をふさいだ。間もなく帰ってきた藤井の妻の道子(44歳)
も取り押え、藤井医師が帰ってくるのを待った。桜庭の調べでは、午後6時半
ごろ帰宅するはずだった。だが、午後8時になっても帰宅せず、決行を後日に延
期するため、2人のノドを切りつけ、胸を刺して殺害し、物盗りに見せかけるた
め、預金通帳と現金46万円入りの給料袋を奪って逃走した。
午後10時20分ごろ、池袋駅の中央改札口近くで何度も手錠を落とす桜庭を見
た警察官から職務質問を受け、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕された。
翌27日午前2時、藤井医師は同僚医師の送別会の2次会を終え、タクシーで帰
宅して妻と義母の死体を発見して、知人を通じて警察に通報した。
東京地裁八王子支部での1審で、桜庭は精神鑑定を受けた。検察側の筑波大学教
授の小田晋(すすむ/現・帝塚山学院大学教授、國際医療福祉大学客員教授)に
よる鑑定では、「責任能力あり」とし、脳波検査では「異常なし」とした。精神
科医師の逸見武光による鑑定では、責任能力は裁判所の判断事項であり、直接書
かない主義としており、責任能力は減弱していたとし、脳に萎縮がある。両側則
脳室前部が拡大。脳室周囲低吸収域が認められるところから髄液循環障害がある。
手術中、止血用に使用した金属製クリップが脳に残存したままになっている。
脳波検査では「異常あり」とした。
1993年(平成5年)7月7日、東京地裁八王子支部は、小田晋鑑定を採用し、
桜庭に対して無期懲役を言い渡した。死刑を求刑していた検察側が控訴した。
桜庭は弁護士に対し、「私に対する判決は死刑か無罪にしてほしい。1審での無
期懲役は中途半端で、チングレクトミーの問題点をまったく理解していない」と
語った。そして、弁護側も控訴した。
1995年(平成7年)9月11日、東京高裁でも無期懲役の判決だった。桜庭
は上告した。
1996年(平成8年)11月16日、最高裁で上告棄却で、無期懲役が確定し
た。桜庭は67歳になっていた。
http://nagano.dee.cc/kyodou.htm 現在東京拘置所に在監中の桜庭章司さんの場合を見てみよう。1979年9月逮捕
以来彼は足かけ17年間獄中生活を送っている。精神外科後遺症や結核にもかかわ
らず保釈どころか、一時期を除いて病舎に移されることもなかった。そのうえ彼
は独房内で勝手に立ち上がった、あるいは勝手に汗をふいたといったささいなこ
とや、自殺未遂を理由に何度も懲罰を受けている。食事も用便中も皮手錠をさせ
られ、保護房(懲罰のための独居房)に放り込まれる、といった懲罰である。こ
うした残虐な獄中処遇の中で彼の精神外科後遺症は進行し、「文字書き不能(書
字中枢障害)」という状態に追い込まれている。獄中での外部通信は手紙のみで
あり、「文字書き不能」は外部通信権の行使を不可能にする。とりわけ訴状書き
を武器とする刑事被告人にとって「文字書き不能化」は防御権を著しく圧迫する
人権問題でもある。このため桜庭さんはワープロ使用を幾度も拘置所側に要請し
ているが、いまだに認められていない。
桜庭さんは公判の中で「精神外科手術を受けて外で暮らせる人は、暖かい家庭
があるか、金があるかの人だけである。自分にはどちらもないから死刑にしてほ
しい」と訴えている。この悲痛な叫びに答えるには、私たちが彼と「共に生きる」
ことを提示していかなければならない。これはすべての違法行為者に対して言
えることである。これこそ「反保安処分思想」の実践である。
1996年4月
>>リスカ大佐
被害妄想が恐ろしい事件に発展する恐れがあるのはわかりました。
それを予防するのに精神科による早期治療が効果を発揮するだろうとも
思います。
一方で、被害妄想的な気分というだけで統合失調症とみなされ人生を
大きく制限される例もあると思います。
私は、誰にも迷惑を掛けない心がけがあれば、統合失調症と診断されていても
健常者として振舞う自由を認めるべきと思います。
この事件情報サイトすごく詳しいね。
女子高生コンクリ殺人事件が、かましによって発覚したというのは知らなかった。
>被害妄想が恐ろしい事件に発展する恐れがあるのはわかりました。
というかせっかくの自分をダメにしてしまうんです。
>それを予防するのに精神科による早期治療が効果を発揮するだろうとも
>思います。
そうですね。
ですが精神科医(心療内科医)にも
・名医、ヤブの差
・患者との相性
があって、また所詮商売人ですから過信は禁物です。
「セカンドオピニオン」「ドクターショッピング」も
頭に入れて、一度きりの人生を後悔なく過ごし
舵は自分で握ることが大事だと思います。
>一方で、被害妄想的な気分というだけで統合失調症とみなされ人生を
>大きく制限される例もあると思います。
抗精神病薬(メジャー、統合失調症の薬)が
あらゆる精神障害の重い症状、反応に効いてくれる
というのがまず第一にあるからです。
統合失調症ということにしておいても統合失調症であることを
隠しておいても、要は薬が効いていてば結果を出せていることになる。
ただ、抗精神病薬は、はっきり言って脳の痺れ薬です。
患者は副作用を超えたメリットがないと飲む気ががしない。
それなのに多剤大量処方が普通に行なわれている。
そのうえ、(特に統合失調症では対症薬物療法以外に)対話がほとんどない。
「妄想を悪化させるだけなので人並みの対話は避ける」
というもっともな理由があるのですが、そこに空いた穴をうめる、
患者を人として扱う何かを一向に考えてくれない。
世の中を責めてもどうにもなりませんが、診察が陰湿に感じられてしまう。
また、最近問題になってるのが向精神薬を処方されていると
別の内科などにかかるとき、通常の処方をしてくれない、
中には嫌がられる傾向がある
(心療内科にかかっていれば、本来内科医なのでそういうことはあまりないですが)。
まあ、統合失調症だと心療内科では不都合ですが。
>私は、誰にも迷惑を掛けない心がけがあれば、統合失調症と診断されていても
>健常者として振舞う自由を認めるべきと思います。
そういう心掛けと熱意は、きちんと治療を受けていれば
ある程度信じていいと思います。
病気に慣れてくると「やばい」という感覚、前触れがあるもので
最悪の事態を防ぐことは可能になってきます。
前のコテのときのレス
805 :塞翁が馬 ◆mad1g.OZQQ :03/10/27 22:59 ID:NEdFG8In
過去レスを読んでいない方、ちなみに僕の現在の診断名は「心因反応(鬱)」です。
パキシルをメインにデパスやレキソタン他を飲んでいます。賦活効果はかなりあります。
統失症と診断し「一生治らない」と言ったのは、その前に行ったクリニックです。
なんか最近日増しにどうでもよくなってきたので、ここでそのことを告発します。
そこは血液・心電図の検査なしに、初診からいきなり朝昼晩2種類のSDAと副作用
止め、晩はベゲタミンBなどを飲むように指示し、悪性症候群で失神・悪寒・動悸
脾臓の鈍痛・めまい・起立性貧血・失禁:嘔吐…などで僕をとんでもない目に
あわせたクリニックです。対処は電話でケースワーカー兼事務員(無資格)による
投薬中止のみで医師によるフォローは一切なしです。前にも書きましたが、そこの
医師"呉 太善"は「精神分裂病は不治の病だ。これからは失うものを失って今まで
どおりにはいかない生活が始まる。生活保護受けなさい。仕事はしてはいけません。
薬を飲み続けてれば案外気楽なもんだ。飲む飲まないは自由だが。あとで後悔する」
“厚木こころのクリニック”という医療機関でした。これはまぎれもない事実です。
ところで次スレは?
>>920 乙です。
ちなみにある情報筋によると、長期入院をしている慢性化して人格荒廃が進んでいるタイプの患者には
冬生まれが多いです。極秘資料によると。
ちなみにある情報筋によると、長期入院をしている慢性化して人格荒廃が進んでいるタイプの患者には
躁鬱病の家族がいる場合が多いです。
996 :
946:2006/07/09(日) 23:29:20 ID:siYvf0p+
>947
>948
>949
>950
ありがとうございます。それらはだいたい試してみています。
医師に相談してもショックを与えるような言い方でしか
答えてくれません。怖くて会いたくありません。
カウンセラーさんも同様です。怖いです。
万策尽きました。もう嫌。
名無しに戻ります…
へえそうなんだ。それは知らなかった。
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このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。