統合失調症(精神分裂病)の人が集まるスレpart11
>>53とても長ったらしい文章なのよ。他の人達にもしつこい!と迷惑かけそう
だけど、色んな人に知ってもらいたいため、再度コピペするわ。
渡米直後にカリフォルニア・リバーサイドにあるDランクの私立大学附属の語学学校
に在籍しました。その語学学校は、日本人が数多く在籍しておりました。彼等は
学内に独自のコミュニティを形成していました。
日本人コミュニティの拘束力は強く、日本人集団の輪からの逸脱は、学内での孤立
を意味しておりました。一方、アメリカ人の輪に入っていくことは、言葉の障壁の
高さがネックとなっておりました。
自らの意見を伝達するには、ほぼ全てを言語に頼ることになります。
英語の熟達度が低く、表現が不十分であると、自己内面すらも低レベルと見られて
しまうのです。
アメリカ人の付き合いを妨げる重大要素はもちろん、大多数の異人種を嫌うアメリカ
人の存在でした。
慣れない海外生活、文化の違い、言葉の壁、1人では何をするにも困難極まりな
い状態でした。よって、仕方なく同じ文化圏の人間同士が群れあう素地が出来上が
っているとも言いえたでしょう。日本における会社組織の閉鎖的組織からの離脱を
起因として、渡米をした私ではありましたが、アメリカにおける日本人組織では、
さらに苛烈ないじめに遭うことになりました。
いじめの内容は実に陰湿でした。
私は上手くやろうと努力して頑張ろうしたにも関らず、集団で無視されて、何度
名前を呼んでも返事すら返してもらえません。当然、私の方から悪意を伴う行動を
とっていないにも関らずにです。それどころか、周囲の日本人には、懸命に気配り
していたにも関らず全く身に覚えのないことをでっちあげられて、悪口を影でこそ
こそと言われていました。ランチタイムも一緒に食事をしてはくれるのですが、口
は一切きいてもらえず、ただの傍観者でした。
パーティが開催されるというちらしが配られると、私の前を「ちょっとごめんね」
と皆素通りして、他の集まりの人達に、「行くでしょう?」と楽しげに騒いで談話
をしている始末です。
日本人に嫌われることは、前述したように学内での孤立を意味することとなります。
そのうち、その悪口もアメリカ人にまで伝わり、居られなくなってしまうのです。
まさに、私はコミュニティから排斥される状況下に置かれたわけです。
またアメリカにおいてもじめじめした日本人社会が存在するのかと落胆し、次第
に馬鹿らしくなってきました。そして、たった2ケ月ほどで、日本人の多い
カリフォルニアを後にし、アメリカは中西部イリノイ州に移りました。
●最初の人種差別体験
人種差別経験には種々雑多、各人各様であるでしょう。
私の場合は、学内で白人女性2人組に「Don't Walk!」と罵られました。
一瞬呆然として、何を意図して彼女らがそのような言葉を発したのか理解出来ません
でした。 しかし、根底から自己存在否定をするが如き表現を、いとも安易に言っ
てのける彼女らの倫理感を把握するには、さして時間を要しませんでした。後に白人種の方々
は差別される人種側の心の痛みを感じることは出来ていないという現実を、私は
思い知らされることになります。
白人優位主義を目の当たりにした出来事
日本人のいない所を求めた結果、イリノイのある田舎町にある学校に辿り着きま
した。その学校に行っていても何か違和感を感じることが頻繁にありました。町に
は、ヒスパニック系がたくさんいるのに、なぜか学校に行くとほとんど白人ばかり
なのです。この学校は、白人用校舎と、ラティーノ用の校舎と分けていたのです。
ラティーノ用校舎を見に行ったことがありますが、おそらく築50年はたっている
だろうと思われるそれは古い建物を少し手直しして使っていました。廊下を歩くと、
床がぎしぎしと音をたて、本当におんぼろ校舎でした。場所はダウンタウンのど真
ん中、底所得者層の住む居住区で、古びた汚らしい建物が立並び、道路の清掃もさ
れておらず、そしていかにも怪しげな人達が周囲にたむろしており、最悪な環境と
言えました。本校は、しょっちゅう増改築していてピカピカで、ダウンタウンから
遠く離れた所謂白人居住区にあったのです。
この学校で、まだESLにいた頃、ある白人生徒が、皆の前で「私、学費払わなくて
いいって言われちゃった。超うれしい!」と大声で自慢していました。他の大多数
を占める有種人種の生徒達は、働きながらやっとの思いで通って来ているので、その
周囲に配慮することのない無神経な発言に腹がたちました。
私は何度も奨学金を申請したが断られた為に、赤貧に喘いでいました。私も円安の事も
理由に含めて、アドバイザーに学費免除をたのんだら、「仕事紹介するから働け」
とにべもなく申し渡されました。しかも、その白人女生徒は、なんと観光ビザで
ESLへの入学を許可してもらっていたのです。これは、明らかに違法であり、こ
んなことがまかり通っていいのか、と驚いたのと、やはり腹が立ちました。
ESL=English as a Second Language
●白人パーティーに行ったら
ホストマザーに連れられて、親戚のバースディーパーティーに行きました。
その家は、なんと専用の池付きの豪邸で、気楽に釣りを楽しめるような環境でした。
25名程いたでしょうか、その全員が白人でした。パーティー会場の居間も日本で
は考えられないぐらいの広さで、30畳以上はあったように記憶しています。いかに
も金持ちらしく豪華絢爛な家具が揃っていました。
ところが、実際のパーティの時間になると、私の周りには誰も寄ってこず、それ
どころかちらちらと私のことを見て、何やら話してクスクス笑っていました。大変
居心地が悪く、ああ、ここに私はいてはいけないのだ、全く場違いな場所に連れて
こられてしまったのだと泣きたい気分になり、早々にも退散したくなりました。
後から聞いた話しでは、その家の主は医者だったそうです。アメリカで医者になる
には大変な苦労を要すると聞きました。授業では常に落とそう落とそうとするそう
で、脱落者も多数でて、実際本当に医者になれるのは選ばれた小数の人達だけと聞
きました。アメリカ人は4大卒業後、メディカルスクールに6年行き、卒業後レジデント
(実習生?)として何年か働かないといけないそうです。そのような苦行を乗り越え
選抜された優秀な人間が、このような、人種的嫌がらせをするという事実。
私は、アメリカの大学の社会学の授業で、人種差別を軽減させるには、「教育」
しかない、と教わりました。でも、それは、幻想でしかないのではないか、と悲しい
気持ちになりました。
●スパニッシュパーティーに行ったら
家のガレージでのこじんまりとしたパーティーで、お世辞にも小奇麗な場所では
なかったのですが、主催者の方やその友人、親戚一同私に大変好意的で、笑顔で出
迎えてくれました。皆さんフレンドリーに話しかけてきて下さって楽しいひととき
を過ごせたのです。私のつたない英語を必死に理解しようとして下さったことに感謝
し、来てよかった、私はその日心からそう思ったのです。後日、そのホストから旅行
の誘いも受けました。
●白人居住区に住んだら
ここは、大変環境がよく、森林保護地域もすぐ近くにある緑多い生活するのは抜群の
住宅地だったのですが、住んでる住人達にひどい嫌がらせをされました。私がここに
住めたのは、カップルのルームメイトの家に居候させてもらっていたのですが、そこの
奥さんが日本人と白人の混血であったことと、幸運なことに、旦那も、ドイツ系白人で
したが人種差別意識をもたない人だったからです。
私が家から1歩外へ出ると、必ずといっていいほど「イエロー!!」のかけ声がか
かりました。子供に、目の前で、唾を吐かれたこともありました。ここでだけでなく、
イエローと言われ唾を吐かれた経験は、3度もあります。子供だけでなく、大人にもやられました。
ここの住人達は陰険なやり方で差別をします。人種差別は違法ですから露骨にや
るのは、馬鹿ですね。後述しますが、そのような人達も実際はまだいることは確か
ですが。「イエロー」と大声で怒鳴った後は、必ず顔を見られないようにさっと身
を隠します。どの家の誰が言っているのかは特定できませんでしたが、近所の住人
達は皆、黄色人種がたった1人そこに居ることに嫌悪感を持っていたのです。もともと
胃が悪かったのですが、このような出来事が溜まり溜まって精神的に打ちひしがれ、
とうとう胃潰瘍になってしまいました。そして、そこから引っ越すことを余儀なくさ
れたのです。
●スパニッシュに対する差別
私は、胃を悪くするまでは、あまりイエローとは言われませんでした。顔色はどちらかというと、
色白だった為です。ただ、なぜかいつもすれ違う人達に「あれは、スパニッシュか、
アジア人か」と言われました。すぐに人種を特定したがるのはアメリカ人の特徴なの
です。学校でも黙っているとスパニッシュと勝手に思われていました。それは、一番
最初の授業で、自己紹介をしたときに「日本からきました」と言うといつも「えー、
彼女アジア人なの!?スパニッシュに見える」と驚かれたことから分かったことです。
スーパーで買い物をしていたとき、白人のおばさんの前に手を出して、商品を取ろう
とした時、「チッ、スピックス」と吐き捨てられるように言われました。黄色人種に
対する白人の差別もさることながら、スパニッシュに対する差別の酷さも私は理解できます。
●学校でのいじめ
日本人がほとんど居ない学校でしたから、日本人を見るのが初めてというような生徒がたくさんいて、
私が日本からの留学生だというと驚かれました。クラスでは本当のマイノリティーで、
いつもどこに座っていいのかとまどいました。特に、胃潰瘍のせいで顔色が変色して
からは居場所がなくて大変でした。特に白人の隣に座ると露骨に嫌な顔をする生徒
もいましたから、いつも教室には、誰よりも早く行き、席を確保していました。
一番最後にきた生徒が、しかたねえなぁーという感じで私の唯一空いている隣の席
に座るのです。
こんなこともありました。いつもの用に隅の席にひっそりと座っていると前にいた
スパニッシュの女性2人が、「見て、私の後ろにイエローがいる」と言ってクスクス
笑いました。クラスのスパニッシュはこの2人だけでしたが、他の白人達に媚を売っ
ていました。マイノリティーはそんな風に白人に媚っていなければ授業にも参加させ
てもらえないのか、と思い、しかし私は私で自分というものをしっかりと持ち、日本人
であることの誇りを失いたくないと頑なに思ったのです。
胃潰瘍は一向に良くならず、顔色も黄土色だった時、学校内で、指をさされて、
「イエロー!!」と白人女生徒2人に大笑いされました。「あれはスパニッシュかアジア人か?」
という問いも「あれはスパニッシュかイエローか」に変わりました。
「JAP」と言われることは、NYでは風のようなものだ、とある本で読みましたが、
実際に言われてみると憤りを感じずにはいられませんでした。
ある授業で、教授が授業中、「日本ではどうなのか」と私に質問をぶつけてきました。
教師は、生徒の名簿のラストネームを見ただけで、すぐ何人か判断できますから。
そして、クラスメート全員にその時始めて私が日本人であるということが知れ渡った
わけです。すると、そのクラスのスパニッシュの女生徒が、私のことを皆に「JAPだ」
と言い、周囲を笑わせました。日本人がほとんどいない場所柄だった為、「JAP」と
いう差別用語はあまり若い人達に浸透していなかったのです。
後日、そのクラスのクラスメートの白人女生徒とその彼氏が一緒に歩いていたのに遭遇
したとき、彼氏は彼女に質問しました。「彼女って何人?」すると、その子はわざと聞こえる
ように大声で言いました。「She is JAP!!」
●あるアジア人の男子生徒の話
その男子学生は、韓国と日本のハーフでした。彼の母親は、熱心なクリスチャンで、
どうしてもアメリカで神学を学びたいと夫に頼みこみ、息子と娘の2人の子供を引
き連れての米国への留学を許可してもらったそうです。 彼の両親は最高レベルの学業
を修めていた故に、非常に教育熱心に育てられていたことと、又、当人自身も負けず
嫌いな性格だった為か、渡米したのは彼が中学生の時だったのですが、言葉の障害を
乗り越えての猛勉強の結果、高校では、成績が学校1位になったそうです。ところが、
表彰されるのはいつも2番目の白人の生徒だったそうです。その子は痛切に感じた
そうです。有色人種は白人より目立ってはいけないのだ・・・くやしいけどそれが現実なのです。
困難だったアパート探し
白人居住区を追い出された私は、新聞のルームメイト募集の記事を頼りに、ある中流家庭
が住むようなアパートを尋ねました。電話したとき、なぜか彼女は、昼間の時間の来訪
を希望してきました。ところがアパートの部屋の呼び鈴をいくら鳴らしても、返事が
ないのです。そこで、外の公衆電話から彼女の家に電話したところ、彼女はちゃんと
在宅しているのです。私だと分かると、ハッとして、いきなり留守電に切り替えました。
そうです、彼女は、イエローなんかとは住みたくない、という理由で、ドアの覗きアナ
から私の顔を見て、無言と言う形で拒絶したのです。
もっともっと色々な事があった米国での生活でしたが、肌の色だけでこんなに苦痛を
味わうということは、日本にいては分からないことです。マイノリィー同士、助け合って
いかなければならないのに、お互い蔑みあっているのが現状です。容姿では、黄色人種より
ラティーノ、黒人の方が、優れているとか、力があることを見せつけたがったりと。
どこへいっても差別ななくならない、米国の人種的偏見は、子供の頃からうえつけら
れる。でも、それはあまりに悲しいことです。人を人としてみれなくなってしまうなんて。
23年も前の著書の話になりますが、「アメリカ合衆国」という本田勝一著の本を
読みましたが、彼は南部で、ユダヤ人と一緒に車を運転していただけで、白人に車の
フロントガラスに弾丸をぶちこまれています。
これが、黒人とだったら、命を狙われる可能性の危険度はさらに倍増するそうです。
彼は南部の白人達の冷たい目にさらされ、さらには、NYのハーレムにも一人で住み、
劣悪な環境のなか、いつ自分の身になにがおこってもおかしくない状況で、いつも恐怖
ととなりあわせでいることの恐ろしさを刻銘に記しています。昔と比較すればアメリカ
の人種差別問題はかなり改善されたかのようにみえます。それは、マーティン・ルーサー・キング
などの非暴力の抵抗によってアメリカにおける黒人解放運動の展開による活動が活発化
したせいで、表向きには差別は非合法とされても、いまだに根強く、私が経験したような
言葉の暴力による人種差別や、生活上の根底には白人優位主義が今も残存しているどころか、
それが行動規範になっているのは事実です。
スピルバーグも幼少のころ、自らがユダヤ人であるというだけで、苛烈ないじめに
あっています。いじめ行為は暴力をも伴い、石を投げつけられたこともあったそうです。
彼は投げつけられた石を握り締め、ユダヤ人として生きる事の辛さを体感し、悔しさをバネに
して成長してきました。映画製作者としての地歩を固め、映画表現に裏打ちされた意見の
伝搬力を行使できる段階に至り、ナチス占領下におけるユダヤ人ジェノサイトを描いた
「映画シンドラーのリスト」を製作することとなりました。当然、彼の人種差別体験が、
かの作品を製作するモチベーションとなったと推察致します。