☆   閉鎖病棟スレッド   ☆

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96優しい名無しさん
迫害群衆の急速な増大の一つの重要な理由は、この企てに危険が伴わぬ
ということである。群衆の側が圧倒的に優勢だから、危険もないわけである。
生贄はかれらに対して手も足も出ない。生贄は逃走しているか、鎖につながれて
いるか、そのいずれかであり、反撃などは思いも寄らぬことである。
抵抗する力がないからこそ、生贄は生贄なのである。しかも、生贄は破滅
そのものに関しても、かれらの自由に任されている。生贄はそのように運命
づけられており、したがって、何びとも処罰のことを恐れるには及ばない。
その許された殺害は、人びとがその実行に対する厳罰を恐れるあまり、
断念せざるをえぬあらゆる殺害の代償行為となる。
安全であり、許可されているだけでなく、勧められてさえいる、他の大ぜいの
者たちとの共同殺害は、大多数の人間にとって堪らないほど魅惑的なもの
である。また、注目に値いする別の要因もある。死の脅威というものは
元来あらゆる人間たちの上に差し迫っており、それがどんな姿をとろうとも、
それが時には忘れうるとしても、常にかれらに影響を及ぼし、かれらに死を
他の者の方へそらせる必要を感じさせるのである。迫害群衆の形成は、
この必要に応えるものである。

それはじつに容易であり、一切がじつに急速に起こるので、人びとは、
それに間にあうためには、急がなければならない。迫害群衆の迅速さと
得意さと確信とは、無意味な感じを与える。それは、これまで全く眼の
見えなかった人間が突然見えるようになった、と信じたときの興奮と
少しも違わない。群衆は、それを構成する全員の死を、この機会に
一挙に免れるために、生贄に襲いかかり、処刑する。しかし、そのとき
群衆に実際に生じるのは、全く予期に反したものである。処刑を通じて
それも処刑の後で初めて、群衆は、これまで以上に死によって脅かされ
ているのを感じる。群衆は崩壊し、逃走するようにして四散する。処刑が
大きければ、恐怖も大きい。同じような一連の出来事が急速に連続して
起こる場合にのみ、群衆は存続できる。

共同殺害に対する嫌悪は、全く近代的な産物であり、過大評価されるべきではない。
今日では、誰もが、新聞を通じて公開処刑に荷担しているのである。しかしながら、
他の一切のものと同様、それも昔よりはずっと快適になっている。
われわれは家で、平和な気分に浸りながら、椅子に坐り、たくさんの記事のなかから
特別のスリルを提供するものを選んで、暇をつぶすことができる。
われわれは一切が終わった後で初めて喝采し、われわれの興を殺ぐような
共犯意識など少しもない。

迫害群衆は、新聞読者層という社会のなかで維持されており、それと事件との
隔たりのために、いっそう無責任な群衆なのである。それは、この種の群衆の
もっとも卑しむべき形態であり、同時にもっとも安定した形態でもある、
といえるだろう。この群衆は集まる必要さえないから、崩壊を免れることが
できる。必要な気分転換は、新聞が毎日配達されることによって、叶えられる。
(エリアス・カネッティ、1959年初夏)