「どうせ女ですわ」と細君が新三共胃腸薬を御主人様の前へ突き付けて是非詰腹を切らせようとする。
御主人様はなんにも云わず立って書斎へ這入る。
細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑うとよ。
こぎゃんときに後からくっ付いて行って膝の上へ乗ると、えらく目に逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上って障子の隙から覗いて見ると、御主人様はエピクテタスとか云う人の本を披いて見ておった。
もしそれが平常の通りわかるならちょこっとえらいばってんくさある。
五六分するとそん本を叩き付けるように机の上へ抛り出す。
大方そぎゃん事やろうと思いながらなお用心しとると、今度は日記帳を出して下のような事を書きつけた。
寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。
池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついとった。
衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。
なんとなくうちのヌコに似とった。
なんも顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものやけん。
吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そぎゃんに人間と異ったところはありゃせん。
人間はこう自惚れておるから困る。
宝丹の角を曲るとまた一人芸者が来よる。
これは背のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着とる薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。
白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕は――つい忙がしかったもんやけん」と云った。
ばってんくさそん声は旅鴉のごとく皺枯れておったけん、せっかくの風采も大に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかいなる人なるかを振り向いて見るもしろしかになって、懐手のまま御成道へ出た。
寒月はなんとなくそわそわしとるごとく見えた。
人間の心理ほど解し難いものはない。
こん御主人様の今の心は怒っとるのだか、浮かれとるのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らんけん。
世の中を冷笑しとるのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しとるのか、物外に超然としとるのだかさっぱり見当が付かぬ。
ヌコやらなんやらはそこへ行くと単純なものやけん。
食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。
第一日記やらなんやらとゆう無用のものは決してつけない。
つける必要がないからである。
御主人様のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されんけん自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れんけんが、我等ヌコ属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そぎゃんしろしかいな手数をして、己れの真面目を保存するには及ば
ぬと思うとよ。
日記をつけるひまがあるなら椽側に寝とるまでの事さ。
神田の某亭で晩餐を食うとよ。
久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合がえらよかい。
胃弱には晩酌が一番だと思うとよ。
新三共胃腸薬は無論いかん。
誰がなんと云っても駄目やけん。
どうしたって利かいないものは利かいないのやけん。
無暗に新三共胃腸薬を攻撃する。
独りで喧嘩をしとるようやけん。
今朝の肝癪がちょこっとここへ尾を出す。
人間の日記の本色はこう云う辺に存するのかも知れんけん。
せんだって○○は朝飯を廃すると胃がよくなると云うたから二三日朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。
△△は是非香の物を断てと忠告した。
彼の説によるとどいでんが胃病の源因は漬物にある。
漬物さえ断てば胃病の源を涸らす訳やけん本復は疑なしとゆう論法やった。
そいから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったが別段の験も見えなかったから近頃はまた食い出した。
××に聞くとそれは按腹揉療治に限る。
ばってんくさ普通けんはゆかぬ。
皆川流とゆう古流な揉み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。
安井息軒もえらいこん按摩術を愛しとった。
坂本竜馬のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速上根岸まで出掛けて揉まして見た。
ばってんくさ骨を揉まなければ癒らぬとか、臓腑の位置をいっぺん顛倒せんと根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉み方をやる。
後で身体が綿のようになって昏睡病にかかったような心持ちがしたけん、いっぺんで閉口してやめにした。