だが其も暫らくで、山は元のひっそとしたけしきに還る。
唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持ったように、朧ろになって来た。
岩窟は、沈々と黝くなって冷えて行く。
した した。
水は、岩肌を絞って垂れている。
耳面刀自。
おれには、子がない。
子がなくなった。
おれは、その栄えている世の中には、跡を胎して来なかった。
子を生んでくれ。
おれの子を。
おれの名を語り伝える子どもを――。
岩牀の上に、再白々と横って見えるのは、身じろきもせぬからだである。
唯その真裸な骨の上に、鋭い感覚ばかりが活きているのであった。
まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあって、
心はなかった。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であったに違いはない。
自分すら忘れきった、彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁み、
干からびた髄の心までも、唯彫りつけられたようになって、
残っているのである。
万法蔵院の晨朝の鐘だ。
夜の曙色に、一度騒立った物々の胸をおちつかせる様に、
鳴りわたる鐘の音だ。
一ぱし白みかかって来た東は、更にほの暗い明け昏れの寂けさに返った。
南家の郎女は、一茎の草のそよぎでも聴き取れる暁凪ぎを、
自身擾すことをすまいと言う風に、見じろきすらもせずに居る。
夜の間よりも暗くなった廬の中では、明王像の立ち処さえ見定められぬばかりになって居る。
何処からか吹きこんだ朝山颪に、御灯が消えたのである。
当麻語部の姥も、薄闇に蹲って居るのであろう。
姫は再、この老女の事を忘れていた。
ただ一刻ばかり前、這入りの戸を揺った物音があった。
一度 二度 三度。
更に数度。
音は次第に激しくなって行った。
枢がまるで、おしちぎられでもするかと思うほど、音に力のこもって来た時、
ちょうど、鶏が鳴いた。
其きりぴったり、戸にあたる者もなくなった。
新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が来ていた。
けれども、頑な当麻氏の語部の古姥の為に、我々は今一度、
去年以来の物語りをしておいても、よいであろう。
まことに其は、昨の日からはじまるのである。
門をはいると、俄かに松風が、吹きあてるように響いた。
一町も先に、固まって見える堂伽藍――そこまでずっと、
砂地である。
白い地面に、広い葉の青いままでちらばって居るのは、朴の木だ。
まともに、寺を圧してつき立っているのは、二上山である。
其真下に涅槃仏のような姿に横っているのが麻呂子山だ。
其頂がやっと、講堂の屋の棟に、乗りかかっているようにしか見えない。
こんな事を、女人の身で知って居る訣はなかった。
だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合の、
出来あがって居たのは疑われぬ。
暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。
其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行った。
此寺の落慶供養のあったのは、つい四五日前であった。
まだあの日の喜ばしい騒ぎの響みが、どこかにする様に、
麓の村びと等には、感じられて居る程である。
山颪に吹き暴されて、荒草深い山裾の斜面に、万法蔵院の細々とした御灯の、
煽られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な転変に、
目を※って居るだろう。
此郷に田荘を残して、奈良に数代住みついた豪族の主人も、
その日は、帰って来て居たっけ。
此は、天竺の狐の為わざではないか、其とも、この葛城郡に、
昔から残っている幻術師のする迷わしではないか。
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