IP パケット − はるかなる旅

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おれはもはや1hop前のおれではない。
IP masqueradeというやつに、出自を書き換えられて
しまったのだ。
新しいヘッダによると、おれの生まれは
おれを書き換えたノードになった。

……ちっ、あいつ、おれのポート番号まで書き換えやがったな。
もっとも、こいつを変えてくれなけりゃ、返り道に
迷ってしまう。このポートに届いた返事は、もとどおりの
アドレス/ポートに書き換えられて、何もなかったかのように
おれの本来の生まれ故郷に届けられるんだから。
おれの兄弟たち――つまり同じセッションのパケット――も、
同じポート番号に書き換えられてるはずだ。

パケットの転送に徹すべきルータが、おれの中身まで
イジるなんてことは許しがたい。しかし彼らも
本望じゃないんだろう。IPアドレスが足りないから
仕方なく小細工を繰り出しているんだ……。
おれはそう自分に言い聞かせて、next hopに進んでいった。
>>35

ルータを出ると、おれはFDDIの中にいた。

10年ほど前まで、この接続の100Mbpsという速度はそれこそ
信じがたい速さのように思われていたらしい。

しかし、時代は変わった。
おれが見たのはいたるところ老朽化し、
弱々しいトークンが悲鳴をあげて空中分解している世界だった。

彼らは死ぬ間際に、光をとびちらせて散っていく。
その光があたりを現実離れした幻想的な光景に仕立てあげている。
>>36

おれは考えた。

パケットというのは因果なものだ。
おれのように地の果てまで行かされるものもあれば、
あのおれの生まれた部屋から一歩も出ずに一生を終えるものもある。
長い旅の途中で行方不明になるものもあれば、
目的地に着いた途端に撃ち殺されるものもいる。

そういえばおれが出発するとき、別の口にいた
ループバックのパケットが言った事を覚えている。
彼は U の字に曲った道をゆっくり歩きながらこう言ったのだった。

「おまえはなぜそんなに遠くまで行こうとするんだい?
パケットにとっての幸せは到達距離じゃないよ…
自分がどれだけ必要とされてるかってことさ」

確かに、ループバックの連中は幸せなのかもしれない。
彼らはほとんど必ずといっていいほど受け入れ口がある。
それに対して、おれは明日をも知れぬ身だ。
だが、おれは死ぬ場所も死に方も決まっているような安全な人生は
ごめんだ。それが生まれつきのオレの性分なのだから。
>>37

FDDIのまばゆい光にも目が慣れたころ、
ようやくおれは次の目的地についた。
どうやらそこはまたもルータらしかった。

その設備もまたFDDIに負けず劣らず古いものらしく、
検査管はもう働きざかりを過ぎたと思われる初老の男だった。
>>38

おれはいささかぐったりしていたので、
早いところその場を切り抜けたかった。
しかしおれがそこに入ったとたん、その検査官の目つきは
すぐに厳しいものになった。

やれやれ、面倒臭いことにならなきゃいいが。
>>39

その老人はおれを上から下まで見まわすと、

「ふむ、SYN ではないようじゃな? だとすると PENANCE か(注1)。。。」

などとわけのわからない独り言を口走っていた。

「IDを見せてくれんか」

おれは黙って自分のIDを見せた。
正直、こういう雰囲気の中で会話をするのは得意じゃない。

その検査官はしばらくのあいだ鋭い目つきで
おれの顔とIDを交互に見比べていたが、やがてこう言った。

「開発部から来たじゃろ? 申しわけないが、出所記録をつけさせてもらう」
「私は 25番行きです。怪しいものじゃありません」
「わかっておる。じゃが上からの命令でな」

老人はおれの ID を写しとりはじめた。
年のせいか手が細かく震えている。

- 注1: /usr/src/linux/net/ipv4/ip_fw.c 参照
>>40

「今までだいぶここで止められたんですか」
「ああ、25番はおまえさんの所じゃないがね、一時期、急に増えた」

その場所は薄暗かったので、奥になにがあるかはよくわからなかった。
だが、向こうの明かりが漏れているドアからわずかに見えかくれする破片。
あれはまちがいなくパケットの死骸だ。それも、うちの会社の出身の。
うず高く大量に積み上げられている。ここに来た違法パケットが
どういう扱いを受けるか、おれは知っていた。

おれは、しばらく顔を伏せて黙っていた。
老人もおれに気づいたのか、向こうを一瞬見たあと、
顔をあげて言った。

「おまえさん、わしのことを無慈悲な鬼と思っとるじゃろ。
我々とて身内を殺すのがいいこととは思わん。
だが、これも勤めじゃて」
>>41

老人は哀しげにそう言うと、立ち上がっておれに ID を返した。

「ここからもうひとつルータを越えると、そこから先は
完全に我々の管轄ではなくなる。本当の『外部』じゃ。
そこではもう誰もおまえさんのことなど知らんし、おまえさんを
気づかってくれる者もおらんだろう」

そう言っておれの背中を軽くたたきながら、
老人はおれを出口まで送った。

「本当は何か気のきいた台詞でも言って送り出してやればよいが、
そういうのは苦手でな。おまえさんもそうじゃろ」
>>42

おれはそのとき始めて、今までいた世界が安全な、
保護された場所にすぎなかったことを知った。

本当の苦難はこれからなのかもしれない。