★☆★小田切馬 第8R★☆★

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663小田切総統 ◆Q1ExssOilE
(週刊ギャロップ05年1月30日号・音無秀孝特集)
昭和29年6月10日、宮崎県児湯郡西米良村尾股という林業が中心の土地で生まれた。
実家は炭焼き業。競馬と無縁の生活だったが、中学生の時、同じ宮崎県出身の大崎昭一騎手が
ダイシンボルガードでダービーを勝ったという新聞記事を読んでから、この世界に興味を持つようになった。
ただ、将来の夢というほどではなく、最初に選んだ職業はコックだった。修行のために移った大阪で実際に競馬を見てファンになったが、
次第にラチの外から競馬を見ているだけでは満足できなくなった。騎手になりたい。
その夢はどんどん膨らみ、いつの間にか気持ちを抑えることができなくなっていた。
「雪の降る2月でした。このままその思いを持ったまま生活しても、どの仕事をするにせよ身が入らないと思って、栗東トレセンに行ったんです。
誰も頼る人はいなかったけど、もう行くしかなかった。まだ18歳ならやり直せるかもしれないし、後悔はしたくありませんでしたから。
それで試験を受けることになり、騎手候補生になることができたんです」
この時とった行動が「若気の至り。それが良かったとか悪かったとか、思うことはないんです」とトレーナーは振り返る。
当時は現在の競馬学校と違い、確立されたカリキュラムの中で教育されていたわけではなかった。
馬に乗った経験のない音無青年にとって、騎手候補生時代は過酷な日々の連続だった。
何人もの同期が騎手の道をあきらめて去っていくのを見送りながら、何度も辞めることを考えたという。
「半分以上が騎手になるのをあきらめていましたからね。それに他の人たちが15歳くらいで騎手候補生になっているのに、
ボクは18歳からだったし、騎手試験に合格するまで時間がかかったから。いい年して『アンちゃん』と呼ばれるのもつらかった。
でも、いったん他の世界を見ているぶん、頑張れたのかもしれません。とにかく勝負服を一回でいいから着てみたいという思いだけでした」
664小田切総統 ◆Q1ExssOilE :2006/02/08(水) 00:15:45 ID:UIzG8MyQ
騎手候補生になって7年目の昭和54年、4回目の試験で念願の騎手免許を収得。すでに25歳になっていた。
ようやく手にしたあこがれの職業。しかし、その世界は甘いものではなかった。
実際、騎手として参戦した競馬は、非常に厳しく、勝つことは容易ではなかった。
「勝てないままで騎手を辞めるのかな」
そんな思いも頭をよぎった。初勝利を挙げた時、騎手になってすでに1年4ヶ月が過ぎていた。
それから2年後の昭和57年、転機が訪れた。騎手人生を大きく変える馬に出会うことができたのだ。馬の名はミスラディカル。
「重賞を4勝したのですが、一番初めに勝った京都牝馬特別がボクの重賞初騎乗でもあったんです。
この馬とのコンビでジャパンCにも出走させてもらえましたし、すごく感謝しています。
でもいま考えてみれば、重賞はもう一つや二つ勝てていたかもしれませんね」
小田切有一オーナーの持ち馬で、25戦すべての手綱を取った。京都牝馬特別、阪神牝馬特別、金杯(西)、朝日CCの重賞4勝のほか、
エリザベス女王杯2着をはじめ、6度もG1の舞台を踏むことができた。その縁もあって、小田切オーナーの所有馬ノアノハコブネとコンビを組むことにもなった。
音無厩舎内の調教師ルームになる寝室には、一畳以上もある大きなパネルが飾られている。
写真は昭和60年のオークス。勝ち馬はノアノハコブネ、もちろん鞍上は音無秀孝騎手だ。
「勝てるという思いはなかったんです。ただ、スタートのよくない馬だったから、上手にゲートを出ることだけを考えていました。
それで中団くらいからレースをできればと思っていました。でも結局、ゲートをうまく出ることができなくて、後ろからの競馬に。
それで開き直れたことが結果的に良かったのかもしれませんね。ペースが速くなり、直線ではみんな脚がなくなっていました。
ボクだけがうまく脚をためられたのだと思います。でも、4コーナーでは28頭立ての25番手くらい。何頭か交わせると思ったくらいで、勝つなんて想像していませんでした。
ところが、直線で外に出したら、前が止まっている。ちょうど、ゴール前で差し切ることができました」
最高峰のG1レースを制したにもかかわらず、ゴールした瞬間はまったく実感がわかなかった。だから、ウイニングランをすることもなかった。
本馬場を引き返し、スタンドの正面から地下へもぐって検量室へ向かうことは勝った馬のみに許される特権だが、
音無騎手は他の馬と一緒にダートコース脇の地下道から検量室に戻った。
「みんなと一緒に戻っていったら、『なんでお前がこっちから戻ってるんだ』って他の騎手に言われました。“花道”から戻ることを忘れていたんです。
勝ったというか勝たせてもらったレースといえるでしょう。ようやく実感がわいてきたのは表彰式の時でしたね。胸が熱くなる思いがしました」と懐かしそうに唯一のG1制覇の瞬間を振り返る。
ミスラディカルの存在がなければ、ノアノハコブネでのオークス勝利もなかったかもしれないし、今の音無調教師の生活も大きく変わっていたのかもしれない。
14年間のジョッキー生活での通算成績は1212戦84勝。今の上位騎手なら一年間で挙げられる数字だが、その過程を考えれば価値の高さは計ることなどできない。
665小田切総統 ◆Q1ExssOilE :2006/02/08(水) 00:16:20 ID:UIzG8MyQ
波瀾万丈といえる騎手人生ではあったが、ジョッキーへの愛着は人一倍強かった。
生涯一騎手でありたいと思っていたが、現実がそれを許さなかった。36歳で結婚し、翌年には子供が生まれた。
自分一人なら騎乗数が少なくても騎手を続けられるが、家族ができて、新しい道を進むことを選択しなければならなかった。
後ろ髪を引かれる思いで騎手生活に別れを告げ、恩師である田中良平調教師の子息である田中章博厩舎で調教助手になり、調教師試験突破に向けて取り組んだ。
3回目の試験で見事に合格。平成7年に調教師免許を手にし、この年の6月に勇退した日迫良一調教師の厩舎を引き継ぎ開業することになった。
1年目はわずかに1勝。ところがその1勝が派手だった。イナズマタカオーで制した北九州記念だったのだ。初勝利が重賞勝ち。
「調教師としてのスタートも1勝でしたし、決して楽ではなかったですね。イナズマタカオーがいてくれた。ホント、イナズナタカオーさまさまでした」
2年目は8勝、3年目が16勝、以降の勝ち星は17,15,18,16,34,26。そして昨年、自己最多を大きく更新した。
「開業して2,3年目から、やることはほぼ変えていないんですけどね。3年前から成績がいいのは、昨年の5歳世代がよく走ったということもあるでしょう。
それに引っ張られるように、4歳世代、3歳世代もよかった」。そう分析するが、地道な研究や努力を惜しまないかったのは、その足跡から明らかだ。
栗東近くの育成・調教施設であるグリーンウッドを有効に活用して馬の入れ替えを積極的に行ったり、好成績を残している他の調教師の調教方法を参考に、“オリジナル”の音無流に変更しているのだ。
そしてなにより、オーナー関係者やスタッフとの信頼関係は厚い。使うレースや放牧のタイミングなど、オーナーの意見を尊重しながらスタッフの進言などを基に柔軟に対応している。
「調教師一人が頑張ったところで、こういった成績は残せません。馬主さんをはじめ、騎乗してくれた騎手や厩舎スタッフみんなの力がうまく融合されてできたこと。すごく感謝しています」
競馬人としてスタートを切った雪の日の行動を“若気の至り”と言うが、音無調教師がこの世界に入ることは必然だったのではないだろうか。
決してチャンスに恵まれたわけではなかった騎手時代にオークスを勝ち、1勝からのスタートだった調教師生活では、
区切りの10年目の年に関西リーディングを獲り、JRA賞の優秀技術調教師賞を受賞するにまで至ったのだから。
666小田切総統 ◆Q1ExssOilE :2006/02/08(水) 00:16:57 ID:UIzG8MyQ
小田切有一オーナー
「音無調教師の師匠である田中良平厩舎に馬を預けていたので、騎手見習時代からよく話しをしていたのですが、
その時から人柄の良さにほれ込んでいたんです。だから、なんとか騎手になった成功してほしいという思いを強く抱いていました。
デビューした直後は、ずいぶんと勝つことができませんでしたが、努力していた姿も見ていました。
そしてようやくボクの持っていたヒノサトで初勝利を収めました。そこから始まって、アラブのエアーシャトルでは逃げを会得。
その後、ミスラディカルではすべてのレースに騎乗してもらったのですが、こちらは追い込みで、うまく持ち味を引き出してくれていました。
とにかくミスラディカルとは名コンビで、安心して競馬を見ることができましたね。その後でコンビを組んだのがノアノハコブネ。
年明けデビューの馬で、もう1勝しないとオークスに出られないという状況だったときに、『オークスに出るにはどうしたらいいか』と相談したら、
音無騎手が『ボクは千八のダートが一番いいと思う』って言うんですよ。田中良平調教師は別の特別戦がいいと話していたのですが、
結局、彼の強い進言にしたがってダート戦へ。有言実行で勝ってくれたので、よく覚えています。
オークスは滑り込みという形での出走だったので、注目を受ける存在にはならなかったのですが、
陣営は目に見えない部分の実力というものを感じていて、差のない競馬ができるという感触がありました。
オークスを勝った時は『ヒデがやった、ヒデがやった』って大騒ぎだったんです。感動しましたね。
彼はこの世界に入るまではコックをしていたけど、自分の意思で何のツテもない栗東の門を叩き、自分の力ではい上がってG1勝利まで手に入れた。
一般的な騎手と違った、すごい部分を持っていました。そして調教師になって、昨年は素晴らしい成績を残しました。
彼の場合、仕事も趣味も馬なんです。馬のことしか考えていないようなところがありますね。また、ボクたち馬主に対する接し方にも好感が持てるんです。
レースの選択や、放牧に出す期間などが計画的で、先を読んでいます。それでいながら要望も取り入れてくれます。
一緒に競馬を楽しもう、一緒に競走馬をつくっていこうという気持ちになれるんです。
ボクたちに対してもそうなので、調教助手さんや厩務員さんに対してもそうであるのだと思います。
もちろん自分の経験や培ってきたことがあるので、譲らない部分もあります。そういったバランスがすごくとれているし、
意外なほどにリーダーシップがあると感じています。今後は、今までと同じようにやっていってほしいと思っています。
関西リーディングという素晴らしい地位に立ったわけですが、これを通過点として、これまでと同じ気持ちで、仕事も人生もやっていってもらいたいと思っています」
667小田切総統 ◆Q1ExssOilE :2006/02/08(水) 00:17:35 ID:UIzG8MyQ
橋口弘次郎調教師
「彼とはいつも同じ場所で調教を見ているし、同じ宮崎出身ということもあって、通じるものがある。
何でも言い合える仲だね。ライバルでもあるけど、彼がリーディングを獲ってくれたのはうれしいよ。
(橋口厩舎は開業9年目に全国リーディング)リーディングのトップにいると、“いつ抜かれるか”と不安でね。
ボクは、夏の小倉競馬が終わったころから、かなり意識したよ。だから、昨年は彼が今、どんな心境かって手に取るように分かった。
リーディングは“厩舎全体の力”だからね。一世代だけ成績が良くてもダメだし、緻密な計算が必要。
それに、厩舎スタッフのムードも大切。まぐれでは絶対にできないよ。ボクもあの時、リーディングを獲っていなかったら、今の自分はないと思っている。
今年は注目度も上がってプレッシャーもあるだろうけど、今まで通りやれば結果は出るはず。これからも音無厩舎は安定した成績を残すと思うよ」

田中章博調教師
「ジョッキーになったのが遅かったし、体も硬かったから、騎手としてはあまり上手ではなかったけどね(笑)。
でも、この世界に飛び込んで、頑張ってジョッキーになったし、調教師としてもマジメに仕事に取り組んでいるという印象ですね」

生野賢一騎手
「関西リーディングは先生を中心に厩舎のスタッフみんなが頑張った結果で、すごくうれしく思っています。
先生はすごく研究熱心で、仕事熱心です。競馬に対しての情熱はすごいですね。ボクについても、なんとかチャンスを与えてくれようと頑張ってくださっています。
それだけに、先生の期待に応えられる騎手になるように努力しなければいけないと思っています」