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名無しさん@お腹いっぱい。:
「関東表、武人の有志御座候はば、早々上京致候様、お頼み申上候。兵は東国に限り候と奉存候」
新撰組は相次ぐ手柄で幕府にその実力を大きく評価され、勇の申請で増員が認められたのである。
この手紙で勇は、剣客である養父に人探しの依頼をしている。しかし「兵は東国に限り候」とは、よくぞいったものではないか。
上方者が兵にむかないのは当然なことで、奈良朝以前から、上方の防衛のための兵は、もっぱら関東、日向、薩摩(隼人)からつれてきていた。
この大昔の東国の強兵は「佐伯」とよばれる異人種で、アイヌの一派らしい。とにかく騒ぐのがすきで、しかも言葉が異語である。
畿内の者にはそれが叫んでいるようにきこえ、「叫び」が「佐伯」になった。
この異人種の子孫がのちに坂東武者となり、頼朝を擁して上方侍である平家を追っぱらった。さらに七百年の後世、幕末の暗殺団長、近藤勇をして
「兵は東国に限り候」といわせているのだから、血はあらそえないものである。
八連隊というのは大阪の町人連隊で、日本最弱の軍隊といわれ、日露戦争以来「またも負けたか八連隊」という唄がはやったほど。
日華事変のとき、中国兵が、八連隊が進軍してくるとマイクでそうからかったそうだから、国際級の名声があったわけだ。
断わっておくが、私は本籍は大阪だが、八連隊ではなかった。速成士官になってから、戦車第一連隊という九州兵の部隊に赴任した。
私はここで、敗戦の日まで、部下に大阪出身であることをうちあけたことがなかった。
それがわかれば、勇猛な九州兵のことだから、大阪の「またも負けたか」に指揮されるのをいさぎよしとしなかったにちがいない。
(新潮文庫『司馬遼太郎が考えたこと』司馬遼太郎・大阪市出身)