沖縄は複雑
昭和末期:第3のテレビ局を作る動きが財界で起きる
平成元年:新しい時代に新しいテレビ局をと「南西放送」発起人会。キー局を
日本テレビに絞る。
テレビ朝日が系列倍増計画を立て、沖縄も進出予定地に入れる。
平成3年:琉球朝日放送計画浮上。
既存2局の新局開局阻止工作始まる。
同年より:郵政省に新規割り当ての要請あるも却下。
平成5年:琉球放送が琉球朝日放送計画に参加。
日本テレビが態度硬化。「番組出すが金は出さない」
沖縄に2ch同時割り当て。
8件申請。(7件琉球朝日に1本化、南西放送も申請)
平成6年:琉球朝日放送に予備免許。
日本テレビと南西との交渉難航→決裂
・日本テレビが南西の経営計画に難色
・副社長日本テレビから派遣→拒否
琉球新報が経営難に。
平成7年:RBCのAC・JARO作戦(広告市場の苦しさアピール)開始
琉球朝日放送開局
平成8年:郵政省が新局開局打ち切りを示唆
地銀3行が不良債権化を恐れ資本金準備中止。
平成9年:地上デジタル放送化決定、新局開局は不可能に。
南西が申請取り下げ
平成11年:1ch削除。