白井隆二 著「テレビ創世紀」紀尾井書房1983 p.5〜9
焦熱地獄の15分間
日本でテレビの放送が始ったのは昭和28年ということになっている。だが、それ以前にテレビの
放送はなかったかというと、決してそんなことはない。ヨーロッパやアメリカでテレビの研究が早く
から始っていたのと同じように、わが国でもテレビの研究は大正末期から始っていた。ヨーロッパや
アメリカとほぼ同じ時期である。戦前にはすでにNHK技術研究所で実験放送も行われて、本放送開
始の一歩前で戦争になった。もし、戦争がなかったらアメリカとほぼ変らない時点で、テレビの本放
送が実施されただろうという技術者もいる。これは決して誇張された意見ではないと思う。
戦前のテレビ研究は急ピッチで進められ、昭和10年代の前半には、実用化に向けて技術はどんど
ん進歩していた。特に昭和15年には東京でオリンピックが開かれることになっていた関係もあり、
これを目指して研究には一層のはずみがついていたのだ。
テレビの研究をしている技術者たちの頭には、昭和11年のペルリン・オリンピックでドイツが公
開したテレビの放送の晴れがましさが、脳裏に焼きついていた。東京ではベルリン以上の成果をと秘
かに期していたという。
しかし、技術者の期待にもかかわらず、不幸にして昭和15年の東京オリンピックは流れてしまう。
中国大陸の戦乱は拡大の一途だったし、これをめぐる国際情勢は騒然としていて、オリンピックどこ
ろではなくなっていた。このため東京大会は遂に辞退という羽目になった。オリンピックを目標に進
められたテレビの研究は、ここに大きな失望を味わうことになる。
だが、オリンピックは流れても、テレビの研究は続き、NHK技術研究所はドラマの実験放送を公
開するところまで到達した。このわが国初めてのテレピ・ドラマが伊馬春部(そのころは伊馬鵜平と
いった)・作の「夕餉前」だった。放送時間にしてわずか15分たらず、登場人物もたった三人とい
うミニ・ドラマだったが、これがテレピ放送史に記録されたテレビ・ドラマ第一号で、しかも、のち
に猖獗をきわめるホーム・ドラマのこれが第一号でもあった。すなわち、テレビのホーム・ドラマは
昭和15年、伊馬春部・作「夕餉前」にはじまったのである。
わが国ではじめてのテレビ・ドラマが放送時間にして15分に満たない短い作品だったのは、制作
費が限られていたとか、放送時間がそれくらいしか与えられなかったという理由ではない。出演して
いる俳優たちが、強烈なライトの熱に、やっと耐えられる時間が15分、こういうことだった。現在
から考えると滑稽な気がするが、当時にしてみればこれは悲愴な15分だったに相違ない。
やはリ「飯食いドラマ」が出発点
作者が伊馬春部になったのは、そのころ彼がラジオに「ほがらか日記」というコメディを書いて、
これが評判だったからである。伊馬春部は映画の脚本も書いていて、映像にも馴れていた。その点か
らも都合がよかった。
演出をしたのは、NHKの文芸課にいた川口劉二と坂本朝一の二人である。坂本朝一はNHKに入
ったばかりで、現在の呼び方をすれば、川口劉二がディレクターで、坂本朝一はADということにで
もなろうか。昭和15年3月に二人は文芸課長の小林徳二郎に呼ばれ、テレビ・ドラマをやれといわ
れて、世田谷の砧にあるNHK技術研究所に通いはじめる。東京の内幸町にあった放送会館から砧へ
通勤、当時これを「砧通い」といっていた。
脚本を依頼された伊馬春部はいろいろと想を練った。ラジオと異なって音だけでなく、絵が出るの
だから、たとえばすき焼きのテーブルを囲んで、家族が食事をするなごやかなひとときもいいじゃな
いか。肉が焼けるジュウジュウなんて音も入り、おいしそうな湯気のたつ鍋、楽しそうな家族の表情、
実にテレビ向きだと考えた。このあたり、昭和15年の実験放送時代と、昭和57年のホーム・ドラ
マと発想は大して変っていないことがわかる。「飯食いドラマ」と酷評されるテレビのホーム・ドラ
マは、そもそも出発点が、家族の食事というシチュエーションだったのだ。
しかし、すき焼きの食卓を囲んで、家族の団欒という光景は実現しなかった。とにかく、放送時間
が15分である。これでは肉が煮えはじめる前に、放送時間は終ってしまう。これでは親と子が食事
をしながら語り合うところまでもたないではないか。団欒以前でドラマは終りだ。
こう考えた時、伊馬春部の頭にひらめくものがあった。団欒の前、つまり、「食事前のひとときだ。
これがいいじゃないか。これをドラマにすればいい」。窮余の一策とはこのことである。
ライトで頭の毛が焼ける
わが国ではじめてのテレビ・ドラマは、こうして家族が夕食前のひとときを語り合うというシチュ
エーションの作品に決った。題名は内容をそのままに「夕餉前」、出演者は母親と息子、それに娘の
三人だけ。娘が嫁にいく前のある日、家族は食卓を囲んでしみじみとこれまでを振り返る、情感たっ
ぷりの「嫁ぐ日を前に」でもあった。辛辣にいえば、さながら現代のホーム・ドラマを縮小した原型
版のようである。
出演者は母親が原泉、息子が野々村潔、娘は関志保子だった。野々村潔は岩下志麻の父親で、ここ
に原泉、関志保子とならんでテレビ・ドラマ出演第一号の俳優となった。関志保子は宇野重吉の夫人
である。
NHK技術研究所にセットが組まれた。セットといっても、30坪ばかりの床に板きれで台を作り、
薄べりを敷いて茶の間の形だけに見せたもの。小道具は技術研究所の小使い室から借りてきた。テレ
ビ・カメラは二台だけで、一台はクローズ・アップ専門、もう一台はロング用だった。
問題はライトである。カメラにはとにかく光量が必要だった。このために、猛烈に強力なライトを
出演者たちの頭上と側面から当てる。この白熱電球の熱が大変なものだった。頭の毛がチリチリにな
ってくるというのだから凄まじい。仕方がないから、テスト中はパラソルをさしてライトの熱を防い
だなどという話があるくらいだ。この熱の下では芝居を続ける限度がせいぜい15分だったというの
ももっともな話である。
「夕餉前」の放送は昭和15年4月14日だったが、その前々日、12日からカメラ・リハーサルが
行われ、いよいよ本番。技術研究所からの映像は東京の内幸町にあった放送会館、愛宕山(現在の放
送博物館、元東京中央放送局)、日本橋の三越の三カ所に設置された受像機に送られ、一般に公開さ
れた。放送は大成功だった。
放送が無事に終了、スクッフ一同がやれやれという時に、放送会館から電話が入り、逓信大臣がき
たからもう一度やってくれという注文、エライ人は昔から無理をいう。ライトの熱でぐったりしてい
た俳優たち、仕方がないからやるかと重い腰をあげ、「夕餉前」を再演、本番を二度繰返すとはテレ
ビ・ドラマ第一号からとんだ珍記録だった。