【イ】高柳健次郎 

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1通行人さん@無名タレント
テレビを発明したのは日本人!
2通行人さん@無名タレント:03/01/28 10:39
高柳健次郎は全電子式テレビを発明した日本人なら知っていなければならない人物。

昭和14,15年のテレビ実験放送は純国産技術で行なわれている。

高柳健次郎著「テレビ事始め イの字が映った日」有斐閣1986 P.142

 私たちはNHKの砧の技研にスタジオを作ってそこにカメラなどをおき、500
ワットという小型の超短波の送信装置を作って、高さ100メートルの鉄塔の上か
ら、東京一円へ放送できるようにした。オリンピック返上、本放送中止と続いてすっ
かり落胆していた研究員達もようやく元気をとりもどし、また懸命に努力を重ね、
昭和14年5月に、実験局が完成した。そして第一回の電波の発射実験を、ちょうど
その時東京の内幸町に完成した放送会館の開館式当日に実施し、会場で受信して、
参加者に見ていただいた。
 これが電波を使ってテレビジョンを公開実験した最初である。もちろん私は既に
浜松で短波を使った実験を行なっていたが、50ワットくらいの弱い出力であり、浜
松市内だけの非公開実験でしかなかった。
 さて実験放送は、さまざまな内容のプログラムを組んで一週間に一、二回の割合
で行なわれた。そして、東京市内のどこでもきれいな画像が得られるように受像機の
感度を上げること、操作しやすくどんなものでも映せるカメラを作ることなど、具体
的な点について改良が加えられた。そしてこのころの日本のテレビ技術は、世界のど
の国と比べても決して劣らない第一級の水準にまで達したのである。


(昭和12年に出来たテレビの標準方式は「走査線441本 画像は毎秒25枚」)
(現在の標準方式は走査線525本毎秒30枚)
3名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 10:56
>>2
> 高柳健次郎は全電子式テレビを発明した日本人なら知っていなければならない人物。

うーん。
現状では無名すぎ。
当時の日本人って特にアピール下手だし。
今じゃ、たまに知ってるつもり系の番組のネタになる程度ですよね。


俺は家族がテレビの技術に詳しかったから知ってるが。
秋葉原って昔はテレビの組立キットが有ったらしい...?
4名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 11:11
今日のプロジェクト・エークスは、高柳健次郎。
5名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 11:27
とりあえず今日のプロジェクトXを録画しる!
白井隆二 著「テレビ創世紀」紀尾井書房1983 p.5〜9

 焦熱地獄の15分間
 日本でテレビの放送が始ったのは昭和28年ということになっている。だが、それ以前にテレビの
放送はなかったかというと、決してそんなことはない。ヨーロッパやアメリカでテレビの研究が早く
から始っていたのと同じように、わが国でもテレビの研究は大正末期から始っていた。ヨーロッパや
アメリカとほぼ同じ時期である。戦前にはすでにNHK技術研究所で実験放送も行われて、本放送開
始の一歩前で戦争になった。もし、戦争がなかったらアメリカとほぼ変らない時点で、テレビの本放
送が実施されただろうという技術者もいる。これは決して誇張された意見ではないと思う。
 戦前のテレビ研究は急ピッチで進められ、昭和10年代の前半には、実用化に向けて技術はどんど
ん進歩していた。特に昭和15年には東京でオリンピックが開かれることになっていた関係もあり、
これを目指して研究には一層のはずみがついていたのだ。
 テレビの研究をしている技術者たちの頭には、昭和11年のペルリン・オリンピックでドイツが公
開したテレビの放送の晴れがましさが、脳裏に焼きついていた。東京ではベルリン以上の成果をと秘
かに期していたという。
 しかし、技術者の期待にもかかわらず、不幸にして昭和15年の東京オリンピックは流れてしまう。
中国大陸の戦乱は拡大の一途だったし、これをめぐる国際情勢は騒然としていて、オリンピックどこ
ろではなくなっていた。このため東京大会は遂に辞退という羽目になった。オリンピックを目標に進
められたテレビの研究は、ここに大きな失望を味わうことになる。
 だが、オリンピックは流れても、テレビの研究は続き、NHK技術研究所はドラマの実験放送を公
開するところまで到達した。このわが国初めてのテレピ・ドラマが伊馬春部(そのころは伊馬鵜平と
いった)・作の「夕餉前」だった。放送時間にしてわずか15分たらず、登場人物もたった三人とい
うミニ・ドラマだったが、これがテレピ放送史に記録されたテレビ・ドラマ第一号で、しかも、のち
に猖獗をきわめるホーム・ドラマのこれが第一号でもあった。すなわち、テレビのホーム・ドラマは
昭和15年、伊馬春部・作「夕餉前」にはじまったのである。
 わが国ではじめてのテレビ・ドラマが放送時間にして15分に満たない短い作品だったのは、制作
費が限られていたとか、放送時間がそれくらいしか与えられなかったという理由ではない。出演して
いる俳優たちが、強烈なライトの熱に、やっと耐えられる時間が15分、こういうことだった。現在
から考えると滑稽な気がするが、当時にしてみればこれは悲愴な15分だったに相違ない。
 やはリ「飯食いドラマ」が出発点
 作者が伊馬春部になったのは、そのころ彼がラジオに「ほがらか日記」というコメディを書いて、
これが評判だったからである。伊馬春部は映画の脚本も書いていて、映像にも馴れていた。その点か
らも都合がよかった。
 演出をしたのは、NHKの文芸課にいた川口劉二と坂本朝一の二人である。坂本朝一はNHKに入
ったばかりで、現在の呼び方をすれば、川口劉二がディレクターで、坂本朝一はADということにで
もなろうか。昭和15年3月に二人は文芸課長の小林徳二郎に呼ばれ、テレビ・ドラマをやれといわ
れて、世田谷の砧にあるNHK技術研究所に通いはじめる。東京の内幸町にあった放送会館から砧へ
通勤、当時これを「砧通い」といっていた。
 脚本を依頼された伊馬春部はいろいろと想を練った。ラジオと異なって音だけでなく、絵が出るの
だから、たとえばすき焼きのテーブルを囲んで、家族が食事をするなごやかなひとときもいいじゃな
いか。肉が焼けるジュウジュウなんて音も入り、おいしそうな湯気のたつ鍋、楽しそうな家族の表情、
実にテレビ向きだと考えた。このあたり、昭和15年の実験放送時代と、昭和57年のホーム・ドラ
マと発想は大して変っていないことがわかる。「飯食いドラマ」と酷評されるテレビのホーム・ドラ
マは、そもそも出発点が、家族の食事というシチュエーションだったのだ。
 しかし、すき焼きの食卓を囲んで、家族の団欒という光景は実現しなかった。とにかく、放送時間
が15分である。これでは肉が煮えはじめる前に、放送時間は終ってしまう。これでは親と子が食事
をしながら語り合うところまでもたないではないか。団欒以前でドラマは終りだ。
 こう考えた時、伊馬春部の頭にひらめくものがあった。団欒の前、つまり、「食事前のひとときだ。
これがいいじゃないか。これをドラマにすればいい」。窮余の一策とはこのことである。

 ライトで頭の毛が焼ける
 わが国ではじめてのテレビ・ドラマは、こうして家族が夕食前のひとときを語り合うというシチュ
エーションの作品に決った。題名は内容をそのままに「夕餉前」、出演者は母親と息子、それに娘の
三人だけ。娘が嫁にいく前のある日、家族は食卓を囲んでしみじみとこれまでを振り返る、情感たっ
ぷりの「嫁ぐ日を前に」でもあった。辛辣にいえば、さながら現代のホーム・ドラマを縮小した原型
版のようである。
 出演者は母親が原泉、息子が野々村潔、娘は関志保子だった。野々村潔は岩下志麻の父親で、ここ
に原泉、関志保子とならんでテレビ・ドラマ出演第一号の俳優となった。関志保子は宇野重吉の夫人
である。
 NHK技術研究所にセットが組まれた。セットといっても、30坪ばかりの床に板きれで台を作り、
薄べりを敷いて茶の間の形だけに見せたもの。小道具は技術研究所の小使い室から借りてきた。テレ
ビ・カメラは二台だけで、一台はクローズ・アップ専門、もう一台はロング用だった。
 問題はライトである。カメラにはとにかく光量が必要だった。このために、猛烈に強力なライトを
出演者たちの頭上と側面から当てる。この白熱電球の熱が大変なものだった。頭の毛がチリチリにな
ってくるというのだから凄まじい。仕方がないから、テスト中はパラソルをさしてライトの熱を防い
だなどという話があるくらいだ。この熱の下では芝居を続ける限度がせいぜい15分だったというの
ももっともな話である。
「夕餉前」の放送は昭和15年4月14日だったが、その前々日、12日からカメラ・リハーサルが
行われ、いよいよ本番。技術研究所からの映像は東京の内幸町にあった放送会館、愛宕山(現在の放
送博物館、元東京中央放送局)、日本橋の三越の三カ所に設置された受像機に送られ、一般に公開さ
れた。放送は大成功だった。
 放送が無事に終了、スクッフ一同がやれやれという時に、放送会館から電話が入り、逓信大臣がき
たからもう一度やってくれという注文、エライ人は昔から無理をいう。ライトの熱でぐったりしてい
た俳優たち、仕方がないからやるかと重い腰をあげ、「夕餉前」を再演、本番を二度繰返すとはテレ
ビ・ドラマ第一号からとんだ珍記録だった。
>>6-10
すばらしい!!!
12名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 21:18
キタ━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━━!!!
ご存知、懐かしテレビ板

      『 イ 』 
http://tv.2ch.net/test/read.cgi/natsutv/1023907591/
14名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 22:12
いまの人は知らないのかな?
せめて戦後ならノーベル賞ものの研究発明なのにな
でも、NHKはクソ、テレビの基礎を築いた人なのに、あんな作り方しかできないのか?
制作スタッフは浜松に土下座してあやまれ
15名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 22:59
>>8
坂本朝一氏って初の生え抜きNHK会長になった人でしょうか?
16名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/28 23:43



2ちゃんの糞スレの皆様に、作曲家・岡田克彦ファンクラブからのご案内です。
ご高承のとおり、岡田克彦氏の卒業した早稲田大学政治経済学部と、ひろゆきの卒業した中央大学文学部夜間は
比較にならないほど差があります。中央大学文学部夜間のようなヘボい大学に共通しているのは、文化水準が
低いということ。18歳から22歳をヘボい大学で過ごすということは、感受性において致命傷と言えます。
2ちゃんねらーの大半は岡田克彦氏に比べて、著しい低学歴で頭が悪いだけでなく、感受性も愚鈍で腐っている
という、取り返しのつかない状態なのです。
せめて、http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5933/で、岡田氏の作品に触れましょう。
また、学歴至上主義は、学歴がないか、東大のような高学歴であっても学歴に相応しいだけの自分の特技
等を持っていない人が不愉快に思っているだけのことです。2ちゃんのひろゆきの卒業した中央大学
文学部夜間のようなものは、学歴と言えるようなものではなく、これは、拭うことの出来ない、生涯つきまとう
汚点で、絶対に取り返すことは出来ません。2ちゃんの皆さんの大半は、波風を立てずにその場限りの平穏無事を保守する
という、下らない事なかれ主義にうつつを抜かしていますが、私共は心優しい仲間なので、はっきり申し上げられます。
ひろゆきは、感受性において、まさに取り返しのつかない状態にある、ということです。
従って、阿呆のひろゆきのやっている2ちゃんは阿呆の危険集団だということです。
全電子式(撮像も受像も電子式)テレビを発明したのはアメリカのツヴォルキンだよ。
高柳も視察のため渡米してるよ。
20名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/30 03:08
1934年にウラジミール・ツヴォリキン(Vladimir Kosma Zworykin 1889-1982 ロシアのち米国に帰化)
がテレビの機械的走査方式に対して電子式走査方式の研究を行う中からアイコノスコープ(蓄積型の撮像管
でギリシャ語のeiken(像)+ skopin(見る)から造語)を発明し商品化しました。現在のテレビ技術の基
礎を築いたのは、ツヴォリキンによる電子式テレビカメラの実用化によるものと言えます。

21名無しさん@お腹いっぱい。:03/01/30 03:16
1842年に、ベイン(イギリス)が伝送写真法を考案する。
1884年に、ニプコウ(ドイツ)が機械的な走査方式のテレビカメラを発明。
1889年に、ワイラー(ドイツ)がプリズム鏡車による走査方式を考案する。
1897年に、ブラウン(ドイツ)がブラウン管を発明する。
1907年に、ロージング(ロシア)が受像にブラウン管を使用する。
1925年に、ベアード(イギリス)が機械式テレビジョンを使って静止画像伝送を行い、翌年動く画像の伝送に成功。
1926年に、高柳健次郎(日本)が走査線36本のブラウン管を使った装置で「イ」の字の撮像・受像に成功。
1928年に、ベアード(イギリス)がカラーテレビの実験に成功。
1931年に、イギリスでBBCがテレビジョンの実験放送を開始。
1934年に、ツヴォルキン(ロシア→アメリカ)が電子撮像管発明。
1935年に、ドイツでテレビ放送が開始。

間違ってませんか?
保全
>>10
<訃報>野々村潔さん88歳=俳優、女優岩下志麻さんの父
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030203-00001045-mai-peo

「夕餉前」に出たのは25才ぐらいのときか・・
話が聞きたかったな
この人、実はスゴかったりする?

・CRT式テレビジョンを世界で最初に実演、「イ」の送受信に成功
(まあ、この人がゼロから発明した装置やアイデアは
ないから平賀源内のエレキテルのような感じかな)

・戦後、日本ビクターに入社、国内テレビの礎を築く
(海外では本格的に放送が始められていたけどね)

・ミスターVHS、高野鎮雄氏も高柳先生の下で指導を受ける
(ベータマックスに先を越されたけどね)
保全
>(まあ、この人がゼロから発明した装置やアイデアは
> ないから平賀源内のエレキテルのような感じかな)

全電子式テレビは高柳健次郎の発明
なぜか日本人の発明だという事を素直に信じられない人が多い。
GHQの洗脳おそるべし

高柳が発明したテレビ用の高真空多極ブラウン管は、
物理の実験で使うブラウン管とは構造がかなり違う。
世界初の「イ」の字の実験は、いくつもの高柳のアイデアと発明があって成功したもの。
受像機の特許と、受像機と構造が似ている撮像管の特許を高柳が取得していたから
戦前の実験放送は純国産技術で行なわれていたということ。

『私は昭和2年10月に最初の特許申請をしてから今日までに,国内特許
 121件,実用新案(国内)33件,外国特許数10件を取得したが,その
 中で特に重要なものを下にあげる。』

(特許番号・出願日・「名称」)
77293・昭和2年10月・
「陰極線波形管用鋸歯状波形電圧を得る装置(同期方式)」
79488・2年10月・
「送像所に機械的の分解器を用い.受像所に「ブラウン管」を使用する遠視法」
90593・5年3月・
「テレビジョン用プラウン管」
93465・5年12月・
「積分法を利用せるテレビジョン送像器」
100037・7年6月・
「テレビジョン用電路開閉装置(電子スイッチ)」
104120・6年9月・
「テレビジョン用光電流増幅器」
104569・8年8月・
「積分法テレビジョン送像装置の改良」
118980・10年12月・
「管内に電極を封入する方法」
120943・11年1月・
「飛越走査用同期信号発生装置」
177935・21年9月・
「電子またはイオンの加速方式(リニア・アクセレレーター)」
314912 ・34年10月・
「磁気記録再生方式(VTR)」
546791・39年7月・
「磁気記録再生方式(VTR)」
・実用新案
248379・12年7月・
「飛越走査の同期信号発生装置」
59198  ・34年1月・
「テレビジョン映像信号の磁気記録再生装置(VTR)」
(高柳健次郎「テレビ事始」p.167)

戦後、昭和28年の本放送開始までに導入された技術は、
感度が10倍になった新しい撮像管と
戦前高柳が基礎実験に成功していて完成しないまま戦争で研究が中止された
ブラウン管を明るくする技術だけ
 
『 私たちは、実験放送を行なうにあたって、戦時中から戦後にかけての技術的な穴を
 埋めなけれぱいけないというので、この二つについて積極的にアメリカから技術導入
 を図った。そして、放送に実際に使えるイメージ・オルシコン管と、メタルバック式
 ブラウン管の製作を急いだ。
  開戦時の日本のテレビ技術の世界での高い位置を考えると、この二つの技術導入
 は、戦中・戦後の研究の空白がいかに大きなものであったかを我々に痛感させるもの
 であった。しかし、逆にいうと、日本がアメリカから導入した技術は、細かなものを
 除くと、この二つだけであった。基本となるその他の技術は、戦前に私どもが培養し
 ていたものが使われたので、実用化に当って技術的にそう困った事態は生じなかった
 のである。日本が世界で、アメリカを除けぱ比較的早くにテレビ放送の実用化を実現
 させえたのも、こういう土壌が存在したからなのである。』
(高柳健次郎「テレビ事始」p.170)
>・戦後、日本ビクターに入社、国内テレビの礎を築く
>(海外では本格的に放送が始められていたけどね)

当時本格的にテレビが普及していたのは1949年に放送局が107局もあった
アメリカぐらいでしょう。

東京オリンピックが昭和15年に開催されていればその時に本放送は開始されていた。
戦前の実験放送のレベルは本放送に近い。
したがってGHQが禁止しなければもっと早い時期に本放送になっていたはず。
昭和27年、本放送開始にあたって
高柳健次郎はアメリカの方式では近い将来のカラー放送では画像がなまるとして、
NHKと共に、より高画質な日本独自の標準方式を採用するよう働きかけていた。
しかしNTVを設立中の読売新聞社主 正力松太郎の
コストも技術もアメリカの方式の方が有利という思い込み主張で、
日本独自の標準方式は実現しなかった。
ちなみにヨーロッパのPALやSECAMはNTSCよりも高画質な標準方式。
>・ミスターVHS、高野鎮雄氏も高柳先生の下で指導を受ける
>(ベータマックスに先を越されたけどね)
先を超されたというのはちょっとひっかかるな

1955年 ビクターは高柳健次郎のもと、VTRの開発に着手する。
1956年 アンペックス社が世界初のVTR(4ヘッド)の開発に成功する。
それを受けたテレビの父 高柳健次郎は意地でアンペックス社とは違う方式の開発をめざす。
1958年 回転2ヘッド・ヘリカルスキャンの「KV-1」、1959年カラー化した「KV-2」
を開発し、特許を取得する。
1960年に発売されたKV-1は小型で扱いやすく値段の安い高性能な放送局用VTRだったが、
まったく売れなかった。
東芝の澤崎憲一が発明したヘリカルスキャンは画期的だったのだが、
すでに多くの放送局で使われていたアンペックス社のVTRとの互換性がなかった。
高野鎭雄はこの失敗から互換性の重要さを知る。
ちなみにベータマックスは1975年のβ?沂K格と1977年のβ?�規格に互換性がない 。
ベータと競ったVHSは、乱立した多くの規格をVHS陣営に取り込み、
1976年の1号機HR-3300以来、厳格にVHS規格を守っている。
33名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 06:34
テレビの歴史を語る上で、機械式とはいえベアード(イギリス)の動画の送受信は無視できませんね。

電子式も、ニプコー(ドイツ)が発明したニプコー円板と、ブラウン(ドイツ)が発明したブラウン菅が無ければ、
高柳氏の「イ」の字の静止画像も無かったわけです。
完全な電子式の動く映像はツヴォルキン(ロシア→アメリカ)の方が先だった。

まるでゼロからテレビを発明したみたいな言い方をするバカがいるけど、これは史実と違うだろう。
八木アンテナの八木博士とともにテレビ普及の功労者には違いないけど、数ある1人に過ぎません。
テレビは1人で発明した物ではありません。

http://www.nhk.or.jp/strl/aboutstrl/evolution-of-tv/p05/index.html
http://www.ssc.slp.or.jp/faq/24-faq.htm

34名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 06:38
テレビ研究には先駆者が大勢いる。
この人がいなくてもテレビの普及は多少早まった程度。

35名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 06:50
こんなこと言ったら、また自虐だGHQの洗脳だなんてぎゃーぎゃー言い出すバカが出るかな。
36名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 07:04
37名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 07:15
大戦で痛手を受けのは日本だけではありません。
ドイツ、ソ連、イギリスも大打撃を受けた。ソ連はツボルキンに亡命された。
戦後のテレビ放送をリードしたのがアメリカなのは当たり前です。
38名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 07:39
>34
>この人がいなくてもテレビの普及は多少早まった程度。

訂正↓

この人がいなくてもテレビの普及は多少遅れた程度。

まあ当時の国際競争では3年でも泥沼の違いだろうけどね。
>>37
イギリスだって戦時中はテレビ放送が中断された
40名無しさん@お腹いっぱい。:03/02/13 16:28
>>35
歴史を歪曲してるのはどっちの方かと小一時間(略
ヤバイ。またポチホシュが出てきてしまう。
保全
hozen
ほぜん
保全
保全
46昭和19年の電波兵器:03/03/24 03:48
 ともあれ私は、海軍技研電波兵器部長の名和武少将の下で研究に従事した。そして
名和さんが中将となって新設の第二技術廠長となられ、私も横須賀に近い六浦の広大
な技術廠で航空用レーダーの担当部長として単身赴任することとなった。この間、飛
行機にテレビ・カメラを載せて敵艦を偵察し、その画像を後方の基地に送って迅速な
作戦立案に役立てようという研究を行なった。実用化はできなかったが、飛行機に搭
載できるような小型のテレビ・カメラや受像機を試作したりして、貴重な成果を得た
のである。
 また、今日でいうスター・ウォーズを思わせるような研究にも関与した。つまり、
強力な極超短波の発信という海軍の特別研究があり、静岡県島田市で装置の研究が行
なわれていた。当時としては大変有力な研究者たちが集まって、強力な電波を発生さ
せることがでさるようになり、ある程度の成果を収めていた。しかし、飛んでいる飛
行機を落とすためにそれを実用化するところまでは行かなかった。
47昭和19年の電波兵器:03/03/24 03:51
 昭和一九年、研究の指導をして欲しいという依頼を受け、島田へ行って装置を拝見
した。そこでは、五キロワットぐらいの持続電波を出して、それを障害物に当ててそ
の中の電気配線をこわしたり、人を傷害したりするということが考えられていたが、
私は、それではあまりに力が弱くて長い時間をかけないと効果は全然出ない、と助言
した。そして、電波砲のように衝撃を与えて機器を潰したりするためには、その強さ
を一千倍も一万倍も強くしなくてはならず、それには瞬間的に出力するものでなくて
はいけないと提案した。すなわち、五キロワットよりずっと強い電気を使い、それを
蓄えておいて、一〇分の一秒か一〇〇分の一秒かの瞬間だけパシッとエネルギーを放
出してしまうようにすれぱ、ちょうど写真のストロポのように、いきなり雷が落ちた
ような状態になり、燃え上がったり壊れたりすると考えたわけである。しかし、これ
もいかんせん研究着手が遅すぎて実現しなかった。
高柳健次郎 著「テレビ事始 イの字が映った日」有斐閣1986 p.146〜148
保全
49名無しさん@お腹いっぱい。:03/04/06 17:29
age
50山崎渉:03/04/19 23:09
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
保全
52今日は何の日:03/05/13 12:33
昭和14年5月13日
東京砧のNHK技術研究所より内幸町の放送会館へ無線によるテレビ放送を実施
53名無しさん@お腹いっぱい。:03/05/13 12:43
日本初のテレビ出演タレント
昭和14年(1939) 9月にビクターが日本橋高島屋で1週間にわたり
公開受像展覧会を開いた時に出演したビクターの専属歌手の小唄勝太郎
だそうです。(佐藤正明「映像メディアの世紀」より)
54山崎渉:03/05/28 09:05
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
保全
56名無しさん@お腹いっぱい。:03/06/17 03:20
テレビ誕生の最大の功労者は、ドイツのニプコウではないだろうか。
彼が1884年に発明したテレビカメラを使って、世界中のテレビ研究者が成果を出している。
健次郎の「イ」の字も、ニプコウのテレビカメラを使ったものだ。
プロジェクトXでは、高柳がフランスの雑誌を見ただけでゼロからテレビ発明したように、
恣意的に情報操作していたが、ブラウン管もテレビカメラも映像伝送の技術も多くはドイツで
発明されたものである。テレビ誕生の貢献度なら、ドイツのほうがずっとでかいだろう。

それにやはり、スコットランドのベアードの機械テレビは無視できない。
科学史的には世界初のテレビはベアードの機械テレビということになるだろう。

1925   テレビの発明(ベアード)
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/world/w-nenpyo.html

ブラウン菅方式のテレビも、高柳のブラウン管テレビは半電子式だった。
アイコノスコープを発明して、世界初の電子式テレビシステムを発明したのはツヴォルキンだった。
ニプコウやベアード、ツヴォルキンの名前が日本でまったく知られていないのは、
健次郎の偉業を美化したい思惑があるような気がする。
57山崎 渉:03/07/15 14:04

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
保全
60名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/30 12:09
>>14
>せめて戦後ならノーベル賞ものの研究発明なのにな
>でも、NHKはクソ、テレビの基礎を築いた人なのに、あんな作り方しかできないのか?

いてもいなくても同じだよ。あれでノーベル賞なんてお笑い。
ドイツで発明されたブラウン菅を使って、ドイツで発明された機械式撮影機を使ってのものだし、
寄り合わせの発明じゃん。
電子式テレビの構想も、ブラウン管をテレビの受像機に使うアイディアもパクリ。
http://www.nhk.or.jp/denno/rekishi/n/043.html
http://www.nhk.or.jp/denno/rekishi/n/044.html
http://www.nhk.or.jp/denno/rekishi/n/046.html

しかしプロジェクトXも嘘が多い。「テレビの歴史はここから始まる」なんて言っていたけど、
このへんの情報操作には反吐が出る。世界のテレビ研究の先駆者たちに失礼な話だ。
61名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/30 12:15
62名無しさん@お腹いっぱい。:03/07/30 12:38
やっぱり動画の電波放送ができなきゃテレビを発明したとは言えないね。
テレビ誕生の貢献度から言えば、

ドイツ>イギリス>アメリカ>ロシア>日本 の順だろう。

電子式テレビの構想自体も、アメリカやイギリスの方がずっと先だし、
実用性のあるブラウン管テレビで実験放送したのも欧米の方が先だしね。
63山崎 渉:03/08/01 23:40
(^^)
64山崎 渉
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン