予備知識として、年表を貼っておきます。
8月6日午前8時15分 原子爆弾が、B-29によって広島に投下される。
8月8日午後11時 ソ連が対日宣戦布告。
8月9日午前11時2分、原子爆弾が、B-29によって長崎市に投下される。
8月9日 ソ連軍が北緯50度の国境線を越え南樺太に侵攻。
8月10日 南樺太国境付近にて日本側の約100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、
ソ連軍主力を一昼夜にわたって食い止める(峯木中将の第88師団及び配属部隊)。
8月11日〜18日
日本の歩兵第125連隊約3千人による抵抗作戦。
ソ連軍に足踏み状態を続けさせ、老幼婦女子を列車で南に避難させ、なおかつ
主要な鉄橋を次々と爆破して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。
18日、15日の終戦詔勅公布、17日の陸海軍への勅諭(終戦命令)をもち、ソ連に降伏。
ソ連、なおも南下。
8月14日 宮城事件発生。玉音盤奪取クーデター未遂・近衛師団長刺殺事件が起き、皇居が叛乱軍に攻め落とされる。
8月15日 未明から午前にかけて都内数箇所が炎上するも正午前には乱を鎮圧。
正午 玉音放送にてポツダム宣言受諾による終戦を公表。
同日 ソ連司令部は千島・南樺太への侵攻作戦を下令。
千島最北端の占守島(しゅむしゅとう)へは「奇襲上陸の後、攻略せよ」と戦闘行為を容認している。
8月16日 樺太南部の真岡町に配備されていた部隊は師団命令を受け、降伏の使者を送るも射殺される。
同日 大本営陸軍部、大陸令一三八六を発令。戦闘行動の即時停止、 しかし自衛のための戦闘は容認している。
これによると、18日午後4時が全戦闘の完全停止日となっている。
同日 占守島守備隊第91師団、連合軍軍使が到着したときに速やかに武装解除に移れるよう、武装解除準備を命令。
同日午前 島北端国端岬にソ連偵察機来襲。午後三時、偵察機再び来襲。
同日午後10時 ソ連軍、ソ連領ロパトカ岬より国端岬沖合の沈船に対して砲撃。
8月17日午後1時 ソ連軍戦闘機五機、占守島竹田浜周辺の陣地を爆撃。
8月18日午前0時 ソ連軍、ロパトカ岬の砲兵隊と海軍艦艇で、占守島竹田浜周辺へ砲撃開始。
第91師団、自衛戦闘を開始すると同時に、第五方面軍司令部に対しその旨連絡。
同日午前1時 ソ連軍、占守島竹田浜に夜間上陸を開始。同刻、第五方面軍
司令樋口季一郎中将、占守島守備隊に対し正式に自衛戦闘開始を指令。
8月18日〜21日
占守島守備隊の第91師団をはじめとする約2万5千、決死の覚悟で防戦。
21日まで戦いが続き、日本優位のまま戦闘が終結し停戦交渉が決まりかかるも、
本土からの命令により、降伏。この島の守備隊はカムチャツカやシベリアへと抑留された。
日本側民間人は奇跡的に全員本土へと撤収。
8月19日 南部の真岡町より、この日までに邦人6千人が本土へ向けて出航。
乗船を待つ避難民がまだ1万5千〜8千人。
8月20日 真岡への艦砲射撃開始。
真岡電信電話局9乙女による樺太最終電文打電後自決(真岡9乙女自決殉職)
8月21日 ソ連軍、真岡より樺太庁の庁舎所在地がある豊原を目指す。
真岡9乙女からの情報によりソ連軍より逃れた真岡近郊の将兵、これを阻止すべく、
23日2時ごろまで抵抗。
この間、ソ連軍は赤十字マークのついたテントや、白旗を掲げた豊原駅を爆撃する
などして100名以上が落命。
8月22日 ソ連軍の北海道侵攻予定地(この時点でスターリンは北海道侵攻の野望を捨てていない)
である留萌沖で樺太からの引き揚げ者でいっぱいの日本船3隻(1隻は日本軍艦)のうち、
軍艦を除く2隻を撃沈。
浮上した潜水艦と砲撃をかわすなどした最後の生き残りの海軍の特設砲艦はかろうじて
留萌港に到着。1700名死亡。
8月22日 スターリン、トルーマン宛に北海道侵攻の断念を通告。
8月23日 日本軍将兵、投降。
8月24日 豊原陥落。旧大日本帝国旧樺太庁、滅亡。
8月28日 この日までに、ソ連は日本軍将兵をつれ、千島列島を降伏させていく。
択捉島陥落。
9月1日 ソ連、国後島へ上陸。
9月2日 大日本帝国政府、連合国に正式に降伏。(8月15日は大日本帝国陸海軍の降伏)
9月4日 歯舞諸島陥落