第一章
万俵銀平は、東洋銀行本店ビルディングの正面玄関を出ると、初夏の暮れなずんだ
神戸の街並みに目をやった。
「万俵課長、お疲れ様でした」
同じ様に玄関ドアを開いて現れた行員たちが、会釈をしながら通り過ぎざまに
挨拶をしてゆく。
「ああ。お疲れ様」
銀平が労わるように声を掛けると、彼らはそのまま階段を下り、思い思いの方角に
歩み去っていく。週末の仕事を無事に終え、ビアホールで乾杯でもしようというの
だろう。楽しげに言葉を交わしながら歩み去っていく行員たちを見ている銀平の表情
にも穏やかさが漂い、そのまま彼は神戸居留地の方へ向かって歩き出した。
シャンデリアの内装がきらめく2階建ての喫茶店に足を踏み入れた銀平は、約束の
時間よりも20分も早くやって来た自分に、いささか気恥ずかしさを覚えた。
しかし、店内の奥のテーブルに目をやった時、約束の相手が自分よりもさらに早く
来ていたのを知り、彼は早足でテーブルに歩み寄ると、声を掛けた。
「義姉さん」
コーヒーを飲みながら手持ちの文庫本に目を落としていた万俵早苗は、清楚な
ワンピースに身を包み、涼やかな目で銀平を見上げた。
「…早かったんですね。お帰りなさい」
2年前、丹波篠山で猟銃自殺を遂げた兄・万俵鉄平の妻、早苗は、一時、長男の
太郎を連れて大川の実家へ戻っていたが、義父・大介の誘いに応じ、ふたたび
万俵家へ戻ってきていた。
自分を見上げた早苗が優しく微笑すると、銀平は、明らかに自分がこれまでの
人生で感じたことのない感情に囚われるのを感じ、戸惑った。