【ネタバレ禁止】チャングムの誓い9【ヨリは腹黒杉】

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108奥さまは名無しさん
李氏朝鮮時代の仏教弾圧

韓国では、骨董屋を覗くと首のない仏像が売られていることが多い。李朝の斥仏政策のもとで、仏
像の首が切り落とされたからである。それに今日でも韓国では、平地に仏教の寺がない。寺をたず
ねようとしたら、山を奥深く分け入ってゆかねばならない。

李朝では代を重ねるごとに、儒教による仏教に対する締めつけが、いっそう強められるようになった。
儒教という怪物が時とともに大きく成長してゆき、儒教唯一絶対主義といわれる体制が固まっていっ
た。仏教は目の敵とされた。李朝三代目の国王となった太宗(在位1400年〜18年)の治世になると、
仏教にさらに苛酷な弾圧が加えられた。高麗朝が倒れたときには、全国に1万以上も寺があったと
いうのに、寺の数を242にまで減らし、寺が所有していた土地や、奴婢(ノビ)と呼ばれた奴隷を没収
した。

その後も、仏教へのパンチが次々と繰り出された。仏教はよろめき続け、ついにマットに沈んだ。
四代目の国王の世宗(在位1418年〜50年)は、全宗派を禅教2宗に統合して、それぞれわずか18
寺院だけを残して、他の寺を廃した。世宗はハングルを創製した名君であったのに、仏教には好意
をいだいていなかった。
続く
109奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 06:39:32 ID:slY9uxgt
続き
儒教は、個人が自らを磨くことによって完成することを目指したので、宗教を軽蔑した。仏教の輪廻
の教えは、根拠がなく、天国や地獄は、人々の利己心や恐怖心から生まれた空想の産物であると
みなした。九代目の成宗(在位1469年〜94年)は、出家することを全面的に禁じた。

李朝時代は、そのまま仏教を苛めた歴史であるといってよい。十一代目の中宗(在位1506年〜44年
)は、全国にわたって仏像を没収して、溶かしたうえで武器に鋳造した。また僧侶を土木工事に使う
ようになった。僧侶は使役されるとき以外は、漢城(ソウル)に出入りを禁じられるようになった。仏教
は、山のなかに逃げ込んで細々と命脈を保った。僧侶は、奴婢と同じ賤民の範疇に組み入れられた。
110奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 06:41:35 ID:slY9uxgt
>>107
李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者で
もあったホーマー・ハルバートは著書「朝鮮亡滅」(「醜い韓国人」朴泰赫 1993年 光文社より)の
中で、『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれに
もないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかり
の金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で
人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声
を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮人特有
のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起
こる、ごたごたの原因の一つなのである』と述べている。
111奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 06:49:45 ID:slY9uxgt
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm
位置:ソウル地下鉄8号線ソクチョン駅下車->8番出口

『三田渡碑』、またの名を『大清皇帝功徳碑』、韓国人には『恥辱碑』。
丙子胡乱で朝鮮が負けた時に、朝鮮王が清国皇帝に9回地面に頭を擦り付けて服従を誓った記念碑。

それに刻まれている文章を要約すると
『大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった』
『清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった。
良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、
偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った』
『我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、
また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする』
112奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 06:51:00 ID:slY9uxgt
さらに1637年1月30日に朝鮮が清国に結ばされた和約の内容は、

1.朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと
2.朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと 
3.王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること 
4.清が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること 
5.内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること
6.城郭の増築や修理については、清に事前に承諾を得ること 
7.清に対して黄金100両・白銀1000両と二十余種の物品を毎年上納すること 
8.清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること 
9.清が鴨緑江の河口にある?島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること 
10.清からの逃亡者を隠してはいけない 
11.日本との交流を許すこと

『二十余種の物品』の具体的には、清国に毎年処女を献上。

丙子胡乱の時に清に敗れて屈辱的な強化協定を結び、清大祖の要求によって清の王の公徳を刻んだ碑石だ。
朝鮮仁祖17年(1639)に建てられた碑石で、高さ3.95m、幅1.4m。題目は「大清皇帝功徳碑」である。朝鮮戦記ま
で朝鮮に効を捧げてきた女真族は、明の国が乱れた隙に急速に成長して後金を建国し、一層勢力を拡張して
朝鮮を侵略するなどの圧力を行使した。しかし朝鮮との関係は円満ではなかった。

国の名前を清と換えた女真族が、朝鮮に臣下としての礼を尽くすように求めると、二つの国の関係は断絶した。
結局、仁宗14年(1636) 清太宗は10万の軍事を導いて直接朝鮮に攻め込んで丙子の乱を起こした。
113奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 07:10:13 ID:slY9uxgt
妓生(キーセン)とは。
簡単に言えば官営売春婦、主に宗主国である中国からやってくる朝鮮担当官僚
に対し、夜のお供をするための職業。

ただし、朝鮮王より地位の高い中国の官僚を相手にしないといけないため、子供
の頃から非常に高度な教育を受け、詩歌管弦の道に秀でていて中国語も話せる。

また、両班ならば金を払って買春する事もでき、一夜をともにすることを「守庁」
(スチョン)といった。庁は役所のことである。役所を守るといって、せっせとセックス
していたわけだ。

妓生を愛人として生まれた子は、庶属(ソージョク)となった。庶属は常人扱いだった。
両班は、妓生との間にできた娘が年ごろになると、親しい友人に贈ったり、自分の上司
の長官に貢ぎ物として棒げた。「肌の若いのがよいだろう。君、持っていって遊ベ」とい
うようなことを言って、友人に進呈したから、もう人間扱いではない。
114奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 07:38:38 ID:???
史実に即してるからドラマが面白くなるわけじゃないんだよ。
そんな世情も理解できないなら本の知識だけ学んでなさい。
115奥さまは名無しさん:2005/07/27(水) 07:42:38 ID:slY9uxgt
かっての主人明人を虐殺した朝鮮人

明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、 2回の羅禅(ロシア)
遠征と明の征伐に従軍した。

父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。
3回にわたる明征伐では、 朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。
満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まさ
れていた。

しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して
漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。

清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。
「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、
ここに至るかと…」(恒屋益服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。

明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢
になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。

日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争
いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。
満州では、 朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm#shinryaku