音楽戦士 MUSIC FIGHTER 6

このエントリーをはてなブックマークに追加
4名無しでいいとも!@放送中は実況板で
>>3の続き。


1995年、友達に誘われ(最後には裏切られたが)沖縄アクターズスクールのオーディションを受ける。
スーパースペシャル審査員賞(グランプリ・準グランプリの次)をもらい、沖縄アクターズスクール入り。
14歳のとき沖縄アクターズの一員として東京武道館で歌い踊ったこともある。

中学卒業と同時に、ダンス・ポップ・ユニット「y'z factory」の3人で上京。つらい下積み時代を送る。
ホームシックでしばしば実家に電話を入れたが、家族の「応援してるからね」の一言が励みになった。

東京では、電車のドアが閉まるのに間に合わず、電車に乗れるようになるまで時間がかかる。
沖縄は「うちなータイム」な土地柄で、たとえば9時に待ち合わせをするとメンバーが揃うのは11時。

16歳のとき、渋谷でファッション雑誌「CanCam」のスカウトを受ける。
スカウトの人が黒ずくめの男3人組だったのを怪しみ、当初は断るが、
名前と沖縄出身であることを伝えたため所属事務所経由で再度オファーされ、モデル活動開始。

2004年、パリコレのモデルになり、母親との約束を果たす。

青木も「ロンドンハーツ」のドッキリ企画で「ほぼコレ」をパリでやった経験あり。
(そのオンエアを山田が見ていた)
ファッションショーの裏側はパンツ一丁のモデルばかり。それを聞いて梶原大興奮。

小さい頃からの約束や夢を次々とかなえてきた山田の今の夢は、ライブを開くこと。
梶原に共演を誘うが、事務所のスタッフらしき人が首をかしげたのを見て
山田「じゃあ、梶原さんってことを伏せて、バックダンサーとして出ては?」
梶原「それ、ナイナイの岡村さんが『めちゃイケ』でやってたオカザイルのパクリですやん」

母の日を前に山田の告白。
「ママ、ママが毎日ためていた500円玉貯金から、よくお金を盗んで、
 学校にタクシーで登校したりパンを買ったりしてたの」