細木数子総合 3

このエントリーをはてなブックマークに追加
146名無しでいいとも!@放送中は実況板で
1977年になると、細木数子は、当時数億円の借金を背負っていた歌手の島倉千代子の後見人となる。
しかし、なぜ細木と島倉は結びついたのか。それには、暴力団「二率会」の元相談役だった、堀尾という人物が関係している。
細木は堀尾との関係を、「夫婦以上、親子以上」だと語っている。2人の関係を否定したことは一度もない。

細木によれば、77年に債権者に追われて島倉が泣きついたのが、堀尾の知人だったという。この知人から相談を受けた堀尾が、
自らを担保に1億5000万を作って債権者に返済した。
そして島倉の興行権を手に入れた堀尾と細木は、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。
細木数子は「光星龍」という名前で社長に就任する。島倉は、毎月数百万円ずつ返済することになった。

本来なら、これで懸命に働けば借金は完済できるはずだった。しかしそうはならなかったのである。
いつまで働いても、借金は完済できなかったのだ。
嫌気がさした島倉は知人の助けを借り、1981年に「コロムビア」(現・コロムビア ソングス)に移籍する。
この際、残っていた1億円の借金はコロムビアが肩代わりしたという。

当初、島倉が抱えていた負債は「4億3000万円」(※注1)で、それを債権者側に三分の一の「1億5000万」で納得させた、
というのが初めの話だった。だがこの後、借金の額がころころ変わっていくのである。

※注1  当初は2億4000万といわれたが、後に4億3000万円と判明。

まず『週刊平凡』(1980年5月8日号)の記事では、細木は取材に対し「16億円」あった借金を、
「6億円」にしてやったのだという話に替えていた。
しかし、1982年に出した初の占い本『六星占術による運命の読み方』(ごま書房)では、
「4億数千万」の負債だと書き、1988年に出版された『女の履歴書』(廣済堂)では、後に判明した金額は「13億円」で、
それを三分の一の4億3000万円で債権者に納得させたという話に替わっていた。
さらに『週刊現代』(2005年3月5日号)の取材に対しては、「12億円」だった負債を「2億4000万」で債権者に納得させたと言っている。
どれも細木本人が語った金額だ。なのに、この金額のバラつきは何なのだ?これでは島倉が不審を抱くのも無理はないだろう。