ここシベリアの地は、日本軍将兵だけではなく、現在のロシア人にとっても、
また帝政時代のロシア人にとっても地獄の流刑地であった。
我々はシベリアという所に来て、見たものは、それはとても逃げ出せるような生易しい所ではない、
天然の牢獄といえる恐るべき所であることであった。
荒涼とした荒野がどこまでも果てしなく続き、
列車は走れども、走れども次なる駅には到着しないという大平原である。
食料や装備もなく歩いて逃げることは先ず不可能であろう。
そして歩き疲れて、ついには精神に異常をおこし狂い死にするほどの広さと、
人跡未踏の荒野がまわりをとりまいている、恐るべき真空状態とも言える脱出不能の地である。
その上シベリアは冬ともなれば気温は零下四十度を下回り、
体感温度(体にて感ずる寒さ、風速一メートルにつき一度寒さが加わる)は実に六十度をこす寒さである。
生きて逃げおおせることはまずできない。
しかし露助が言うのには、ロシア人であれば、何とか逃げてロシア人の中に紛れ込んでしまえば、
何パーセントかは逃げおおせることができ、毎年少しずつではあるが成功者が出ていると言われている。
それは収容所や輸送途中で自国内に逃げるのであって、顔かたちが違い言葉も全然話せない日本兵の場合、
その成功率はほとんどゼロに近いものであろう。
我々抑留兵のほとんどは、とても逃げられるような場所ではないと観念しつつも、
日夜逃亡を考えるのであった。
「欣求浄土 遠離穢土(ごんぐじょうど おんりえど)」という念仏宗の言葉があるが、
とにかく今いるこの苦界から逃げ出し、自由の天地に行こうという、やみがたい思いにとりつかれるのであった。
それは先にあげた我々が抱えている身体や生命の危機と精神上の不安や悶えから、逃げ出そうと逃走を夢見るのであった。
逃亡は絶対に不可能と考えつつも、慢性的に常に逃亡を考え、漠然とであるが頭の中ではいつも逃亡の計画を練
っている、という状態が続くのであった。
理性では不可能であると思いつつも、何とか出来るのではないかと、悶え苦しみ、『煩怨』するのであった。
632 :
最低人類0号:2010/12/13(月) 21:52:34 ID:m3W2w3o20
『ヒステリカ・シベリアーナ』と言うシベリア特有の精神異常の話を聞いたことがある。
貧しく苦しい辛い現在の苦境から逃げ出そうということが根底にあるのであろうが、
一時的な精神の空白や、思考停止などの異常な精神状態により、ついふらふらと我を忘れて夢中で行動し、
どこかに行ってしまうというものである。
それは・・・・・・
633 :
最低人類0号:2010/12/20(月) 22:18:05 ID:O58ttQIm0
それは・・・・・・シベリアの広野を耕す朴訥な農夫、
彼はシベリアの地に生まれ、
何十年ものあいだ純朴一途に畑を耕し、家族を養ってきた。
その老農夫がある日の畑の仕事の最中に、
西の空を茜色に染めながら遥か彼方の地平線に夕陽が沈まんとする日没の壮大な情景の、
その異常なまでに美しいたそがれ時の光景に魅せられて、
異常な興奮と感激に身も心も恍惚感に包まれてしまい、
今まで何十年ものあいだ、大地を耕してきた鋤をハラリと手から放し、
何者かに招かれるように暮れゆく夕映えのなかを、トボトボと、遥か彼方の地平線に沈みゆく夕日に向かって、
いつまでもどこまでも歩み続けると言うのである。
彼は沈む夕日に吸い込まれるようにして果てしなきシベリアの広野を、それから幾日もいくにちも、
恍惚状態で命果てるまで歩き続け遂には死に場所もわからぬ人となるということである。
それは、何の兆候もなくある日突然に起こり突然に歩き始めるのだという。
地元の人はこれを「ヒステリカ・シベリアーナ」と称し、多くのシベリアの人々から恐れられているということである。
人の願望の中には『どこか遠くに行って見たい』という幸せを求める潜在的な希望と、
ここから逃げ出したいという押さえがたい衝動の魔が一緒に住んでいるのではあるまいか。
そして人は誰でも、この魔が動き出す時があるのではなかろうか。
魔の瞬間、魔の時が人をとりこにし、理性を越える衝動が人を思わぬ方向へつき動かすのであろう。
悪魔が来たりて笛を吹くということであろうか。
私は、この到底不可能と考える逃亡について毎日真剣に考え続けた。
そして、シベリアに来て一年経った頃であったろうか、
どこからともなくイルクーツク第一収容所以外の他の収容所で起きた事件として、次のような噂が囁かれ始めた。
634 :
最低人類0号:2010/12/27(月) 22:31:51 ID:R6rlHJvz0
噂の概要はこうであった。
・・・・・・ある収容所の三人の兵隊が収容所から逃亡した。
収容所側は捜索隊を編成し、脱走の三人を追いかけ、ある密林の中に彼らを発見した。
時はちょうど朝で彼らは焚き火を囲んで暖をとりつつ朝食を始めていた。
傍らには携帯天幕が広げてあった。
天幕の上には何か肉らしきものがあり、彼らはそれを火で焼いて食べている様子であった。
不思議なことに焚き火のまわりには日本兵の姿は二人しかいなかったと言う。
捜索隊は静かに前進し、彼ら日本兵を包囲し、銃を構え突然に日本兵の前に躍り出て降伏を迫った。
その瞬間二人の日本兵は露助の捜索隊に向かって奇声をあげながら手に持ったタポール(手斧)を振りかざして突撃して来たという。
二人の日本兵は、周りを取り囲んだ露助のマンドリン型自動小銃の一斉射撃によりその場で焚き火の中に撃ち殺されたという。
露助の捜索隊はもう一人の日本兵を探したがそのあたりには、もう一人の逃亡兵は見つからなかったが、
携帯天幕の中の肉片を見てすべてを了解したという。
もう一人の日本兵は殺されて肉片となり二人の日本兵に食糧として料理されたうえ二人の戦友に食べられていたという話であった。・・・・・・
635 :
最低人類0号:2010/12/27(月) 22:32:32 ID:R6rlHJvz0
当時我々は来る日も来る日も逃亡を考えていた時期であったが、
この三人の兵隊は、はじめから食糧として戦友を連れて行くことを計画したのであった。
我々の収容所で、脱走を考える者は大勢いたが、誰も戦友を食糧として連れ出し、
途中で殺して食べる事を考えた者は一人もいなかった。
全く夢にも考え及ばなかった計画であった。
しかし、この当時は上手いことを考えたもんだなと、その着想のよさに感心したのであった。
この戦友を殺して食べた話については逃亡を考える会?のうち誰一人賛同する者はいなかった。
この噂は逃亡を諦めさすための露助側の流した噂であろうと、誰も本気にする者はいなかった。
そのうち噂は時と共にいつしか消えて我々の間で話す者もいなくなってしまった。
(この三人の、噂話は復員後、文藝春秋昭和四十五年八月号において加藤九ぞう、という人の手記として発表され、
実話であったことを知った。
・・・・・・『それは、一九四五年五月の末、ブラーツク市第二十八収容所において、
波川八郎という伍長と宮野大三郎という上等兵と丹野吾一上等兵が起こした逃亡事件で、
丹野上等兵が一緒に逃げた仲間の日本兵に殺されたと言う痛ましき事件であった。』・・・・・・
私は二十五年も経ってから、この噂が実際にあった事件であることを知った。三人の人名はおそらく仮称であろう?
なお、この事件の詳細については上掲文藝春秋の加藤氏の手記、
または昭和五十五年発行の同氏著・潮出版社『シベリア記』を参照されたい。)
636 :
最低人類0号:2011/01/04(火) 12:19:33 ID:fzkSP5N+0
三人の逃亡兵の噂が消えて暫くたった頃、我が第一収容所からも一人の逃亡兵が出た。
収容所側は早速捜索隊を出して逃亡兵を追った。
逃亡した兵隊は次の日に発見され収容所に連れ戻された。
彼は街外れの橋の下に立っていたところを発見されたという。
彼の場合は単独脱走であって同行者はいなかった。
彼はついふらふらと歩いて、いつの間にか逃亡者になっていたという。
『ついふらふらっと』と言うことがあるであろうか。
先にヒステリカ・シベリアーナの話で述べたように、ちょっとした心の隙間に魔がさし『ついふらふらっと』行動し、
気がついたときには、取り返しの付かないとんでもないことになってしまっていることがある。
そうなった時点で気の弱いものは立ちすくみ、気の強いものは前に進む。
そのうちにいずれも進退に窮し、自殺や、あるいはやぶれかぶれの凶悪行為に出る可能性があった。
幸いにも、彼は帰るに帰られず一晩中、収容所の近くを流れる川の橋の下に立っていたという。
彼はどんな気持ちであったろうか、たぶん『しまったことをしでかした』と後悔し一晩中座ることも寝ることも出来ず、
ただ夜の明けるのを待ったであろう。
連れ戻された彼は逃亡兵としてどんな処罰を受けたか我々には一切知らされなかった。
637 :
最低人類0号:2011/01/04(火) 12:20:48 ID:fzkSP5N+0
逃亡、このあこがれにも似た行為は絶対に成功する見込みはなかった。
しかし多くの抑留兵にとって、『逃亡を考えること』はまだ何とかして生きようという意欲のあらわれであり、熱気であった。
夢見ることは抑留兵が持ちえる数少ない自由であった。
『人はパンのみにて生きるにあらず』という言葉があるが、人はパン(食糧)なくしては生きて行けないのが現実である。
しかし、ただ単に食糧があるだけでは生きて行くのは難しいというのだ。
人間はこのようにかなり難しい贅沢な生き物である。
精神的な活動と精神の満足がともなわなければ、食べるだけでは、生きた屍に等しい。
人は食べ物を食べるが、それと同時に生きて行くためには夢が必要なのだ。
シベリアの抑留生活は文字通り夢も希望もないどん底の生活であったが、
抑留兵たちは心の中にいろんな期待や願望をそれぞれの夢として持つことで、苦しい辛い生活に耐えることが出来たのである。
それは、ほとんど実現不可能な期待や願望即ち『夢』であったが、そんな夢があったればこそ、辛かったシベリア抑留を無
事に生きながらえることが出来たのであろうと考える。
非現実であろうと、なかろうと、あれこれと思いを巡らすという行為は部外者には愚かな行為と思えるが、
その当人にとっては非常に大切なことであった。
心の中に想い描く情景、それは部外者にとっては現実不可能な笑うべき『夢』であっても、
当人にとっては、その夢はまさに現実であり貴重な生活の一部なのだ。
腹いっぱい食べたい。
胃が張り裂けるぐらい食べてみたいというのは、シベリアに抑留された多くの日本兵の念願であった。
餓鬼という言葉があるが、飢えに迫られると人は遂には一切の道徳的な人格をかなぐり捨て餓鬼と呼ばれる鬼に近づく。
あまりにも少ない食事では体が持たないと同時に人間らしい心や考えは次第に失われて行く。
そんな食糧事情の中で、日本兵がつかんだものは
『食べ物というものが、人間にとってこんな大切なものであったか』と言う、当たり前のことについての新たな認識であった。
食べ物の有り難さを心から知ったということである。
飢えたる人、抑留兵は『消化する機関の胃袋』の命ずるままに、
食べることについて色んなことを考えいろんなことを実行する者が出始めた。
多くの兵隊が実行したのは、先ず朝食が済み、その後すぐに携行するはずの昼弁当を食べてしまうことである。
当時は、とても朝食だけの量では胃袋が承知するはずがなかった。
朝食と昼飯と一緒に食べてもうこれでおしまい、あとはもう無いと諦めた時、初めて腹の虫がおさまるのであった。
その結果当然昼飯は無しというのが普通であった。
では昼飯の時はどうするのか、昼飯の時は水などを飲んで(幸いに水があればの話であるが)我慢するのであった。
639 :
最低人類0号:2011/01/11(火) 21:58:20 ID:kr9hSiYo0
我々が寝起きしていた収容所の、出入り口近くの兵室にいた他中隊の兵隊が、朝の作業の整列を待っている間に、我々に向かって
『今日で三日朝飯と昼飯抜きだ』と得意げに?話しかけてきた。
朝飯と昼飯を同時に食べてしまうために昼飯抜きは、全員実行なので珍しくはなかったが、
朝昼三日抜きという話には一同驚いて一斉にその兵隊の顔を見た。
『なんして、やー』と聞いたところ、その兵隊は得意げに
『わしらは、朝飯が配られた時、隣同士でくじをするんだ。
くじに当たれば隣の兵隊の朝飯と昼飯と、それに自分の飯をあわせていっぺんに食べられるんだ、
くじに負けると朝昼抜きになるんだ、今日で三日朝昼抜きだ』と言うのだ。
聞いていた我々は腹一杯食べたいというこの兵隊の執念に敬服した。
同時に『もう、ここまで来たのか』と、我々がこれから先たどる餓鬼道の鬼気迫るものが見えた感じがして、慄然とした。
(昔読んだ難破船漂流記に、くじびきで次に食料となる者を決める話に似通う精神状態に、我々の仲間も段々と近付いているようで嫌な気がした)
『おめーら、そだらこと、続けておれば死んでしまうぞ』と言うと、
その兵隊は『いや、腹一杯食べられると思えば、楽しいんだ』と答えた。
聞いていた我々一同は唖然とした。
同時にこんな賭けを(乏しい食糧を賭けての命の取り合いとも考えられる丁半勝負を)してはいけないと思った。
隣同士で命の食い合いをしているようなものであった。
そして、これらのことを平然と語り、楽しいと答える彼と、聞いて慄然とする我々であった。
640 :
最低人類0号:2011/01/18(火) 21:54:24 ID:8zBYsJRK0
イルクーツク第一収容所の多くの兵隊は、昭和二十年八月十九日から始まったソ連軍の侵攻戦以来の数ヶ月、
殆ど食料らしき物を食べておらず、体力は極度に衰弱していた。
迫り来るシベリアの寒気と劣悪な生活事情は何から何まで、衰えきった体にこたえた。
この時期収容所では病気になる者死亡する者など大勢の脱落者が出た。
『シベリアの食料はよかった。ロシア人以上の豊かさであった』とソ同盟を礼賛する人がシベリア抑留経験者の中にもいるが、
私はシベリアの食料は決してそのように豊かであったとは思えない。
それは死なない程度のものであったと思う。
当時の収容所の食料の中心はワデー(水)であった。シベリアでは、
『食料の成分のうち70%は水で構成されている。少しの食料であっても水をたくさん飲めば
食料の構成要素の70%にあたる食料の大半は補充したことになる』という科学的理論が語られていた。
食物と人間の体の70%は水で出来ていると言うことは多分事実であろう。
わが国日本においても『水呑み百姓』『茶腹も一時』などと言う言葉がある。
食料不足と水との関係を物語る言葉である。その通り水もれっきとした食料品である。
『水なしでは生きて行けない』事実植物の花などは根元から切り離しても水に挿しておけば半月ぐらいは生きておる事が出来るが、
水なしではせいぜい三日かそこらの運命である。
まことシベリア収容所の食事の主成分はワデー(水)であった。
今日的にいえばノーカロリー無栄養人畜無害のヘルシー食と言えよう。
641 :
最低人類0号:2011/01/18(火) 21:55:07 ID:8zBYsJRK0
本来シベリアの地は食料栽培など農業には不向きな寒冷地帯で、気温の高い時期はごく短く、
イルクーツク地方では雪の全く降らない月は一年のうち、真夏の八月ただ一月だけという寒冷地帯であり、
農業生産には向かない土地柄であった。
イルクーツク地方の農産物の主なものは、穀類では燕麦・蕎麦・粟・玉蜀黍・ひまわりの実、
野菜ではキャベツ・人参・豌豆、山菜ではキノコ・松の実・スグリの実などで、
人参・豌豆は野菜というよりフルーツとして扱われる。
燕麦は主食の黒パンの原料となる。
ロシア人の主食は黒パンとジャガイモである。これらを食べ、大量の水を飲む。
こんな質素な食事ではあるが、彼らロシア人の体格を見るとまるで仁王のような雄偉な体格をした大男が多い。
そのうえ彼らは若い時からラボーター(仕事、労働)で鍛えているため、大変な剛力、力持ちが多い。
(普通の日本人と比べると腕の力などは三人力ぐらいの強さの者が、ざらにおるように思える。
その上大男が多いので体重計などは百キロ秤では役に立たず、二百キロ秤が必要とされている)
この事から考えると、栄養豊富な美食が必ずしも優れた体力をもたらすとは限らない。
しかし『パンなくしては生きられない』こともまた明白な事実である。
シベリアのような農業生産物に恵まれない寒冷地において、万民にもれなく食料を配ろうとすれば、
少数の限られた人たちによって農業生産物が独占された場合、万民にもれなく食料を配ることが出来なくなる。
それゆえに共産主義体制の下では利益を独占することは許されないという事になるのである。
共産主義は個人や少数の特定の階層の独占を極端に嫌うのである。
642 :
最低人類0号:2011/01/25(火) 01:10:51 ID:QjBVAVge0
ここでシベリア食というのか当日のスターリン給与の主立ったメニューについて語りたい。
まず我々の食べる主食としては、有名な黒パンを挙げねばならない。
次いではカーシャ(雑炊状に炊いた糊状の雑穀)その次にはスープこれはワデー(水)の中にキャベツや動物質を入れ塩味や酸味で味付けした汁物があった。
それらが食事の主力であった。
ジャガイモはロシア語でカルトウヘルまたはカルトウチカ(お芋ちゃん)と呼ばれ、パン並みに主食として扱われた。
ロシア人は『リース(白米)、ネハラショウ(良くない)。カルトウチカ、ハラショウ(良い)』と言って、
白米の炊いたのよりジャガイモのゆがいたのを好むようであった。
副食としては北洋産の鰊(にしん)が樽詰めされて送られてきた。生魚の鰊が一人に一匹あてつくことがしばしばあった。
一匹付きの鰊は豪勢であった。鰊は決して焼かないで生のまま丸かじりするのが常であった。
ロシア人は魚は絶対に焼く料理はしないようであった。
ロシア人は鼻が大きいためか、あるいは密閉された室内で冬ごもりの生活をするためか、とにかく魚を焼く匂いには参ってしまうらしく、
魚を焼いたりすると血相を変えて捨ててしまえとわめく始末である。鼻持ちならぬという事であろう。
(わが国では魚を焼くのは料理として一般的であるが、ロシア人は魚を焼く煙とその匂いを極端に嫌う。
・・・・・・日本では節分の日に鬼払いのために、豆を撒き、柊(ヒイラギ)のとげとげの葉と鰯の焼いたのを供える風習があるが、
それは魚を焼く匂いがたまらなくて鬼が近づかないと言う謂われによるものであるが、・・・・・・・ロシア人にとっては、魚を焼く匂いは、臭くて我慢出来ぬのであろう。)
私たちが驚いたのはスープの中身であった。
スープであるから水が多いのは当たり前であるが、中に浮かんでいる物、中身には珍しい物が多かった。
まずはプカプカというものであった。
バイカル湖の中にプカプカと水死体が浮いているように見えるスープであった。
643 :
最低人類0号:2011/01/31(月) 04:01:38 ID:zeCUkrcG0
ほ
箸で中をかき混ぜてみると汁の底に沈殿していたものが浮き上がり、スープは少し濁った汁となる。
汁の底には箸に触るものは何もなく、当初浮かんでいたプカプカしているものが汁の実であった。
それは丁度薄汚れした灰色がかった豆腐の切れ端のようであった。
汁の表面には動物性の黄色い脂が玉状になったものがプカプカとともにわずかに浮かんでいた。
何であろうかと最初は薄気味悪かったが、プカプカと浮かんでいるものをとにかく食べてみた。
それは生臭いような変な味がし、ぐにゃぐにゃした得も言えない舌触りの食べ物であった。
急いでスープの汁を飲んで、そのぐにゃぐにゃしたしたものを飲み下した。
汁も生臭い味がして旨いものではなかった。
一つ二つプカプカを食べた後、このけったいなプカプカの正体は何であろうかと、
ハンゴウの中に浮かんでいるものを箸の先でつまんで子細に眺めた。
豆腐のように一寸角ぐらいに切ってあるところから考えると、元の材料はかなり大きなものであろう。
スープの表面に脂が浮かんでおることや、生臭い匂いから動物質の食べ物であることは間違いなかった。
しかし何であるのかわからないこのプカプカしているものについて、色々と詮索してみた。
その豆腐のようなものには、不規則な虫が食ったような穴があいていた。
大きくてプカプカと柔らかい内臓で不規則な穴があるといえば肺であろう。
何とも言えない味のするスープの中身、プカプカの正体は動物の肺臓であると断定できた。
しかしながら食べている我々としては肺臓を食べているとは思いたくなかった。
このプカプカスープの味については、一同名状しがたい味を覚えたが、このスープを肺臓スープと呼ぶものは誰一人いなかった。
このプカプカは来る日も来る日も続いた。
馴染めない味であったが、二つ三つと浮かぶプカプカを貪り食べ、濁った塩味のスープを飲むのであった。
今は旨いの、不味いの、好かんのと、言うておる段階ではなかった。
口に入るものは何でも食べるという時期であった。
捨てるような部分であっても貴重な食べ物であった。
645 :
最低人類0号:2011/02/16(水) 00:32:27 ID:GjxokWp+0
プカプカスープに続いてよく食べたものは山羊のひづめのスープであった。
これはプカプカとは違って、汁の上に浮かぶものはなくスープの実はハンゴウの底に沈んでいた。
箸でスープの中をかき混ぜ、底に沈んでいるものと汁に溶け込んでいる物をおだてあげて、
その汁を吸ってからハンゴウの底に残ったものを、箸で挟んで取り出して左の指に持ち直してよく見る。
それはどうやら山羊のひづめのようであった。小さい黒いひづめの先は二つに分かれている。
小振りなひづめの格好から判断して、それは牛のひづめではなく、山羊のひづめであることがすぐにわかった。
ひづめは人間で言えば爪と同じ成分でできている。
従って噛めば何とか食べられる柔らかい部分が少しではあるが存在する、しかし、ひづめ全体は固くて食べられない、歯がたたない代物である。
無理やりに噛み砕いて飲み込めば食べられない物でもなかろうが、その堅さからして腹痛の原因になることは確実であった。
それが為ひづめをすべて食べる勇士は一人もいなかった。
だが、ひづめが元の足にひっついている部分には、やや柔らかい部分があって、その柔らかい部分はよく噛めば食べることが出来た。
その味は子どもの時分にかじった自分の爪と同じような味がした。
ひづめを靴に例えれば丁度靴の履き口、足の入る部分が、靴と同様に穴となっていた。
そのひづめの穴を箸で掘るようにしてかき混ぜると、少しではあるがどろっとした栄養部分が出てきた。
それを箸の先で書きだして口で吸って食べるのであった。
そのひづめスープと同じ時期に山羊の足先の骨であろうか、骨がスープの実というのが何日も続いた。
その骨は機械の継ぎ手を思わせるような、両端に円形の堅牢な関節を持った骨であったが、ハンゴウの底に沢山入っていた。
それらの食べられない骨をのけると肝心のスープは僅かしかハンゴウに残らないのである。
山羊のひづめと足の関節の骨といえどもスープにする前には、いくらか皮や筋などの肉質の部分が付着していて、
いくばくかの栄養があるものと判断して、薄く濁ったスープの汁をすするのであった。
動物性の蛋白質とは言え、プカプカもひづめも足先の骨も屠殺場では捨てるものであったのではなかろうか。
646 :
最低人類0号:2011/02/18(金) 21:17:47 ID:OLloQwqf0
あほですか?
キャベツのことをロシア語で『カポスター』と言う。
日照の短いシベリアでは農作物として出来るものは燕麦とジャガイモとそしてキャベツである。
シベリアではキャベツは保存用として酢酸漬けにして年中食べているようである。
この酢漬けの酢酸漬けキャベツも『カポスター』と呼ばれる。
その酢の味の酸っぱいのにはまこと閉口するほどの酸味である。
この酸っぱいカポスターもスープの原料として重要であった。
水とカポスターと酢酸のスープはシベリアの四年間を通じて最も多く食べた副食であった。
酢酸漬けはロシア漬けの基本であろうか、私はシベリア抑留中このカポスター漬けのほかに茸漬け、胡瓜のロシア漬けを食べたことがあるが、
味は保存するための酢酸味が主であり旨味はいずれもなかったようである。
この酢漬けのキャベツのスープも、はじめのうちは飲んでいるもののあまりの酸っぱさに胸が湧くようで、
ハンゴウの底まで飲み干す者はいないようであった。
考えて見ればロシア人の常食している黒パンの味もやや酸い味を帯びているようであった。
酸味はロシア人の好みの味であったのではなかろうか。
半年の間に十五日程度食糧の配給が途絶えることがあった。
それは日本兵の体力が少しは持ち直してきたかなぁ―、という時期を的確に選んでいるかのように不定期的にやってきた。
食糧の配給が来ないと言う情報が流れたその日から食糧事情は一変し、
一日一切れの黒パンの他はすべてこの『酢酸漬けのカポスター』が主食となり、副食のスープとなるのであった。
三食カポスターの毎日は、酢酸の酢の味が腹の底までしみ渡り、胸が焼け、吐き出すゲップまで酢酸の匂いがし、
食欲が減退し、酢酸漬けのキャベツを見るだけで胸一杯になり酸っぱいものが腹の中からこみ上げて来るようであった。
648 :
最低人類0号:2011/03/03(木) 01:30:02.56 ID:hT5gPWQW0
この配給の来ない期間に、体は見る間に元のやせ細った体に戻ってしまい、青息吐息の虚脱状態になるのであった。
これは配給が来ないという口実のもとに、計画的に抑留日本兵の虚勢を行っているのではないかと疑いたくなるほど、
このカポスターの酢酸漬け攻勢は続くのであった。
(こんなことがあってか、私はキャベツや酸っぱい物が嫌いになったようです。
ロシア人の中にも手製の刻み煙草『マホルカ』を指して『カポスター、ホイニャー(カポスターか、いらねー)』とか、
副食に上がったキャベツやそのスープを指して『カポスター、ニホヤー』と嫌うような者もいた。
この酸っぱいだけの食べ物を食べ続けることにより、日本人だけでなく当のロシア人も拒否症をおこすのか『カポスターか』と言って、
酢酸漬けのキャベツを下級品として軽蔑するのである)
しかしこの嫌われものの酢酸漬けカポスターのほかに、生のキャベツこれもカポスターと呼ばれるのであるが、
生のキャベツもまたスープの実としてよく使われるのである。
大量に取れるカポスターはシベリアの寒気のためにコチコチに凍り、
冷凍キャベツの状態で炊事室の大釜の横に山積みして凍結をいくらか戻しているのをよく見かけた。
二日か三日暖めてから冷凍が戻ったものから順次タポール(ロシア製手斧)で叩き切り小さく刻んで大釜に入れスープにするのである。
凍ったキャベツを刻むのも大変な重労働である。
生のキャベツのスープは酢酸スープと違いほんのりとした野菜の味がし旨かったが、
肝心の実のキャベツはとろとろにとけて正体が掴めないようになっていた。
キャベツの味がするスープだけということが多かった。
兵隊の中には物知りがいて
『スープには三種類のスープがあって、純粋に汁だけのスープ、お粥のようなどろっとしたスープ、
日本の味噌汁のように実の浮かんでいるスープがある』とか
『うちのババちゃんなんか、おいしいスープと言って汁だけのスープを美味しそうに飲んでいた』などと高尚ぶる兵隊もいた。
スープとは正確にはどんな食べ物を言うのであろうか。主体はワデー(水)であろうが、食べるものであろうか飲むものであろうか。
この一連のスープのなかでの圧巻は山羊の目玉スープであった。
649 :
最低人類0号:2011/03/09(水) 23:23:17.59 ID:AGkbdnB+0
ヒヅメ、プカプカ、骨とカポスター、それぞれのスープが数日間ずつ続いたあとに、
汁の中に何やら得体の知れない大粒の葡萄ぐらいの丸い物が一つ二つ浮かんでいるスープが出てきた。
その新顔スープの中身の丸いものは何であろうかと思って、箸でハンゴウの中をかき混ぜてみると、
スープの中から二つほど同じ丸いものが浮かんできた、
それは比重が水と同じためか、汁の上に浮かんでいるものやスープの中に沈んでいるものがあった。
この丸いものは何であろうか、箸でつまみあげてよく見ると、どうやらそれは山羊の目玉であることがわかった。
今まで食べた一連のスープの実は、どれも胸の悪いけったいな味のするものであったが、
山羊の目玉には胸の悪さを越えた真実ギョッとするものがあった。
その目玉は、葡萄の実の皮をむいて中身だけにした時のようで、
炊かれた目玉は表面が白い粘膜で覆われていてまことに気味の悪い様相をしていた。
そのため、すぐに口に入れるのがためらわれた。
箸で挟んだ目玉を一旦スープの中に戻して、他のをつまもうとハンゴウのなかを眺めた。
ハンゴウのなかの目玉はあの柔和な山羊の目と違った何とも言えない無念そうな目付きで、こちらを睨んでいるようであった。
白くただれた眼球の表面に、かすかに金色の縁取りを持った黒目の部分が、半月状に見開いているようであった。
黒い瞳は力なくその中心部にあった。
不気味ではあったが、私はひるんだ心を励まして、ようやく目玉を口に入れた。
しかし目玉を前歯で噛み切る直前になってもなお、目玉が口の中で気味悪くブチュンと音を立てて潰れ、
変な味が口中に広がるのではないかと噛むのをためらった。
これではならじと意を決して目玉を噛んでみた。
目玉はブチュンと潰れると思ったが、案に相違して或る種の弾力を持っていた。
弾力はこんにゃくよりも固い歯ざわりをもっていた。
その上目玉は予想を裏切る旨さを持っていた。
山羊の目玉スープは量が少ない割には骨やヒヅメスープと違って捨てる部分が全く無く、
当初考えた不味さ不気味さ胸の悪さとは全く違ってイルクーツクで我々が食したスープの実のうちで最高のものであった。
650 :
最低人類0号:2011/03/17(木) 00:30:51.87 ID:Jm7mevrw0
先日テレビを見ていたら『食のルーツを訪ねる旅』という題名で、日本人の料理人が蒙古を旅して、
ある蒙古人のパオを訪ね、蒙古人のごちそうを食べる場面があった。
パオの主人が料理人に出した料理に山羊の目玉の蒸したのがあった。
料理人は目玉に辟易したのか一瞬尻込みして目玉料理に手を出すのを控えた。彼も目玉にはギョッとしたのであろう。
そこでパオの主人が皿より目玉をつまみ上げ、あたかも茹で卵の殻を剥くように目玉のまわりの薄皮をくるくると剥いて、
一つ、二つ、と口に入れて食べてみせた。
そして『旨いんだ、食べてみな』という仕草で料理人に食べるように進める場面を見た。
実際大きな山羊であっても一匹から取れる目玉は僅か二つであるから、
遊牧で生活している蒙古人にとっては山羊の目玉料理は、貴重この上ない珍品料理と言わねばならない。
客をもてなすための最高の料理は、一頭につき僅か二個という目玉料理こそが、
来客とかパオの家長などごく限られた者しか食べられない、とびきりのご馳走ということになるのである。
それもパオの主人が食べた目玉は二個だけであるが、料理人にも進めた目玉を合わせると、何頭もの山羊を料理したことになる。
そしてこのことは、このパオの主人の財力と来客をもてなす誠意が伺えるのである。
こうしたことから考えると露助が我々抑留者に与えたスープは、当時のソ連の状況では精一杯のもてなしとは言えなくとも、
虐待のためのものではなかったと言える。
生活習慣の違いを考えなくてはならないであろう。
戦友たちが作業に出ての見聞では
『露助は黒パン二百グラムに対して水筒一本、約一リットルの水を飲むということだ』『水こそ主食だ』
ということに見解が一致した。水こそ生命の源であった。
それは無限と思えるアンガラ川の水であり、バイカル湖の水であった。
(シベリアの多くの収容所では水汲み作業が大変であったと言う記事を見受けるが、
イルクーツク第一収容所では水道の設備があったため、水汲みの苦役はなかった。
この点食べるための水の他に、大都会における大工場の水道設備による『水』の利便、即ち『アンガラ川の水』の恩恵を受けたと言える。
651 :
最低人類0号:2011/03/29(火) 02:29:11.19 ID:bM7dZIdO0
シベリアに捕虜として移送され、抑留生活を余儀なくされた関東軍の将兵は、
生きるために各人色んな姿態と行動と言動をとった。
或る者は体力の衰えから身体の自由な動きができなくなったり、
悲惨な環境から人間らしさを無くした行動をする者も多かった。
お互いのアラを探しソ連側に密告したり、ソ連側の権力や制度を背にして、あたかも自分こそが権力者であり、
逆らうものは生きてシベリアを出ることが出来ないようにしてやると脅迫めいた言動をする者、
旧軍隊の制度や特権を振り回し、生殺与奪の実権を握る者であるかのような行動をする者もいた。
飢えと不安と絶望は、心身の荒廃を招き、抑留生活はその底流に、狂乱の渦と沈滞の淀みを含みながら過ぎていった。
『貧すれば鈍する』と言うが、戦争に負けたというショックは大きかった。
かつて満州の地に威容を誇った関東軍も、ここシベリアでは『死を恐れず』の堂々の軍隊から
『命大事』の痩せ衰えた乞食集団に転落して行った。
日本降伏の後占領軍の総司令官として来日したマッカーサーは、若き日、
日露戦争の観戦武官として当時の明治の日本軍将兵に会った時の印象と、
第二次大戦終了後の日本軍将校の印象を比べ『これが同一の民族かと目を疑った』と述懐したと言う。
戦い破れてソ連領内に暮らす日本軍抑留軍人を眺めたソ連人も
『これが、あの精鋭を謳われた関東軍か』と半ば疑い、半ば嘲笑の眼差しで眺めたことであろう。
652 :
最低人類0号:2011/04/09(土) 07:27:25.37 ID:A+AWw6+k0
保守
653 :
最低人類0号:2011/04/25(月) 07:25:31.73 ID:XBRiQtYa0
ほす
654 :
最低人類0号:2011/04/26(火) 00:22:19.00 ID:9EQGE1v70
ここが日露戦争のスレですね?
655 :
最低人類0号:2011/04/26(火) 05:12:41.87 ID:Gx0gskb10
656 :
最低人類0号:2011/05/07(土) 14:38:47.14 ID:CjTpykbx0
ほ
657 :
最低人類0号:2011/05/24(火) 23:42:04.04 ID:OUsrC4ov0
す
658 :
最低А:2011/05/29(日) 19:19:25.94 ID:q9KHMcsV0
あと1レスだったのに・・・バイカルでバイサルorz
一度に4行しか書き込めないし、しばらく2chから遠ざかってただけなのにこの仕打は・・・
●持ちなんだから優遇しねーか運営!
659 :
最低人類0号:2011/06/11(土) 03:30:33.19 ID:wu+PAJyG0
660 :
最低人類0号:2011/06/16(木) 18:10:27.64 ID:UiRhV3AN0
あ
661 :
最低人類0号:2011/06/25(土) 00:30:07.25 ID:fX2mRJju0
れ
662 :
最低人類0号:2011/07/04(月) 20:51:35.04 ID:JY8gqo190
663 :
最低人類0号:2011/07/17(日) 03:49:21.68 ID:BUruiNPR0
664 :
最低人類0号:2011/07/24(日) 14:44:00.38 ID:00jYU15T0
大阪府島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校で暴力やいじめを受け続けて、心も身体も
壊されてしもうた僕が言うんやから、まちがいないで。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
ドラマの中の教師はカッコええけど、
実際の教師は、無責任と事なかれ主義者の
集まりや。
665 :
最低人類0号:2011/08/08(月) 20:54:35.27 ID:/4fVHRLR0
666 :
最低人類0号:2011/08/24(水) 02:54:53.42 ID:JfyoG4qT0
おっとあぶねえ、保守!
667 :
最低人類0号:2011/09/03(土) 20:31:02.40 ID:220c1Kki0
668 :
最低人類0号:2011/10/08(土) 22:52:47.30 ID:ceEq3J1s0
ほ
(,_´ゞ`)実際問題こうやって人の尻追いかけまわしてるじゃん
(,_´ゞ`)こっち見んなよ、バカチョン
670 :
最低人類0号:2011/10/11(火) 21:00:57.01 ID:haBJNqNu0
671 :
最低人類0号:2011/10/13(木) 04:40:50.17 ID:dxSF8h3c0
,,r-─- 、r-─- 、
/_______ \
/ キンタマ命 \
.} ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ
{ ノ =≡=-、 ,r=≡=i
| / `ー=・-、 (r=・-'(
ノ {ヽ ノ / | ヽ l
ノ ノヽ/ ,、_) ノ
.フ | ゙i 「 ト /
) | ヽ \二=- ノ
`ゝ.| ヾ /
|  ̄ ̄ ̄,
672 :
最低人類0号:2011/12/19(月) 15:42:30.18 ID:E8+l9VZQ0
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/ ィ ,ノ'ヾ ヽ
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ノ ,‐‐,) 丿,‐‐,) ┼ヽ -|r‐、. レ |
(,∠/ (,∠/ d⌒) ./| _ノ __ノ
673 :
【8.4m】 :2012/01/26(木) 15:09:00.61 ID:tpewi6ra0
t0iwwdbwy5swbuk5nuab@d
674 :
犬竹:
永らく赤潮とありましたが、その後如何お過ごしになりますか?
この前に文案の答礼がきましたがこのようにはやくしなくても良くコ考えました。
完全に良くなられてから楽しい気分祝儀金としてすることで罠あることでするだろうか?
病気が病気ぐらい弱気になっていりませんか? 私は下手な同情(動静)でも、
慰めになれという出来ないので病気で疲れてこらえるのか、絶対に勝って完治を
解雇考えてくれればと思うと始まるだけです。 久し振りのメールなのに自分勝手に
したのを使ってしまいました。 感情を傷つくようにすれば申し訳ありませんですね。
答礼して下さいます。 ありがとう墓でわ