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最低人類0号:
さらに、明治維新およびその後の政治が、日本の社会体制を「地域社会型」から「都市集中型」に切り替えたことも、アイヌ民族のアイデンティティーに対して重要な影響を及ぼすこととなる。
当初、明治政府は戊辰戦争で賊軍になった諸藩に開拓団を出させていたが、これが軌道にのると、
北海道そのものが内地(本州)で起きていた人口流動の最も重要なはけ口となったからである(後に満州開発が始まると、人口流動の最も重要なはけ口は満州へと移っていった)。
この時期のアイヌを、アイヌの側から見てみると、非文明的という受け入れ難い理由により伝統的な狩猟や医療(シャーマニックな祈祷)が禁止されたばかりか、和人入植者である「新土人」の対語として作られた「旧土人」という分類に勝手に区分され、
居住地区を勝手に用意されて強制移住させられたりするなど、土地に関して極めて人権侵害的な扱いを受けていたと言える。この「土地の所有に関する問題」は、北海道地券発行条例から始まり、
北海道旧土人保護法に至る流れで確定的となった。段階的に土地に関する法令が生まれていった背景にも、アイヌに対する日本人側の御都合主義的な考え方が反映されていると考えられている。
なお、家族主義的な家制度と江戸時代の身分差別の残滓(ざんし)が大いに残っていた当時の日本では、「未開人」あるいは「弱者」であるアイヌとの婚姻をことさらに忌避(きひ)する者がいた。
アイヌの場合はこれが戦後もしばらく残っていたという点で、より深刻と言える。こうした傾向から、「アイヌ」という呼称そのものが差別的に用いられる事例もあらわれ、ますます差別的な流れが確定していった。
このことから、アイヌ語で「親戚・同胞」を意味する「ウタリ」を民族呼称として用いるケースが増えていき、後に北海道アイヌ協会が北海道ウタリ協会へと改名することにもつながった。今現在も「アイヌ」と「ウタリ」を意識して使い分ける者がいるのは、こうした理由による。