また、八〇年代以降の生殖技術関連の女性運動の中核を担うこととなった阻止連は、八二年の優生保護法改悪反対集会基調報告で、「私達は、産む産まないの選択の自由は女の基本的人権であることを主張します」(5)と述べる。
このように、八〇年代以降の女性運動は、「基本的人権」や「女性の自己決定権」の問題として、人工妊娠中絶を位置付けていく。
そしてそれは、七〇年代に様々な形で議論された論点を、より広いメディアの中で再定立する試みであったとも言える。
2 フェミニズムが積み残した問題
さて、このような議論の積み重ねのなかで、フェミニズムは、テクノロジーと生命にかかわる多くの問題提起を行なった。
それらのいくつかは、女性学の内部で議論が深められていったが、しかし、九〇年代の現在まで積み残されてしまった問題もある。
それらを、以下の四点にまとめてみた。
第一点は、中絶が女性の権利であると言うとき、それはいったいどのような「権利」なのかという問題である(6)。
我々は社会の中で、ある物体や財を所有したり、譲渡したりする権利をもっているのだが、「生命を処分する権利」というものは、そういう物体や財に適用される権利と同じなのか。
受精卵や初期胎芽は「人格」ではないにしても、生物学的な人間の生命であり、それが物体や財と類比的に扱われてよいのかという問題とも関連する。
第二点は、胎児の生存権についての考察である。
欧米の生命倫理学で、女性の権利を主張するとき、それはかならず「胎児の生存権」の主張と衝突する。
そして彼らは、女性と胎児の権利の衝突に関する議論をしつこいまでに繰り返してきた。
ところが、日本の女性運動は、「胎児の生存権」については、それほどつっこんだ思索と議論を行なってこなかった。
私がこのように主張すると、優生保護法改悪反対運動に関わってきた女性たちは、「我々は深く議論した」と反論する。
しかし、七〇〜八〇年代の活字資料と私が入手した一次資料を読んだ限りでは、やはり欧米の生命倫理学でのような緻密な議論は見受けられない。
彼女たちの議論がそれほど深まらなかった原因のひとつは、おそらく生長の家の粗雑な「生命の尊重」論にあると思われる。
あのような浅薄な胎児の権利論が相手では、それほどの対抗理論も必要なかったのであろう。
しかし、胎児の生存権の議論は、やはり一度は徹底して詰めておく必要があると思う。
第三点は、胎児の生命を処分して今日まで生きながらえてきた人間とは、人類とはいったいどういう存在かという問題点である。
ごく少数の例外を除いて、いつの時代、どこの地域でも、人類は中絶を「文化」として維持してきた。
この事実が意味するところのものを、我々はもういちど立ち止まって深く考えなければならない。
中絶とは、フェミニズムが言うように、「悲しいけれど必要なこと」である。
だとすれば、そういう悲しいことをしなければ生きてゆけない人間とは、いったい何者なのか。
ここを問いつめてゆくことこそが「倫理学」のテーマではないのか。
すなわち、受精卵や胎児をスマートに選別するテクノロジーが進展するとき、「産む産まないの権利」と「受精卵や胎児を選別する権利」を、分けて考えなければならなくなるかもしれないのである。
そして、もし後者のような「権利」が本当に存在するのなら、それは女性と男性のカップルに等しく帰属されるような権利となるであろう。
そしてそれは、我々の「内なる優生思想」を、肯定する権利となるはずである。
3 「内なる優生思想」の問題
残された枚数の中で、この第四の「内なる優生思想」の問題を、いくつかの角度から吟味してみたい。
もちろん私はこの難問に対して、まだ答えをもっていないが、それでもしつこく追求していくつもりである。
七〇年代にウーマン・リブが、人工妊娠中絶を「女性の権利」だと主張しはじめたとき、障害者団体から鋭い疑問をつきつけられた。
つまり、人工妊娠中絶というのは親の意向によって胎児を一方的に処分することであるが、そのなかには、「胎児に重い障害があるから」それを処分するというケースが含まれているはずだ。
そこにある「障害者抹殺」の思想こそが問題なのであって、それを助長するような女性の権利論はおかしい、というわけである。
日本脳性マヒ者協会「青い芝」の会は、「健全者のエゴイズム」ということばを使って、我々の内にある「優生思想」を告発する。
一九七二年の文書「「障害者」は殺されるのが当然か! ―優生保護法改正案に反対する」のなかで、彼らは次のように言う。
障害児殺しの事件から明らかになってきたのは、「障害者(児)の存在を認めようとしない、障害者が産れる事を「悪」とする「親」の姿」であった。
我々の存在を「悪」と考え抹殺していく、しかもそれが「障害者にとって幸せ」なんだと断言してはばからない「親」に代表される「健全者」のエゴイズムこそ、実は国家権力、或いは大資本勢力の策動を助挙する以外の何物でもない事を指摘しなければなりません。
<中略>
[障害者の]生き方の「幸」「不幸」は、およそ他人の言及すべき性質のものではない筈です。
まして「不良な子孫」と言う名で胎内から抹殺し、しかもそれに「障害者の幸せ」なる大義名分を付ける健全者のエゴイズムは断じて許せないのです。
<中略>
私達は「障害児」を胎内から抹殺し、「障害者」の存在を根本から否定する思想の上に成り立つ「優生保護法改正案」に断固反対します。
(同文書より)
青い芝の会からのこのような問いかけは、優生保護法改正を狙っていた政府を批判したものであるが、しかし同時に、人工妊娠中絶を女性の権利として確立しようとしていた一部の女性運動家たちにたいするきびしい問いかけでもあった。
すなわち、女性の権利としての人工妊娠中絶と言うとき、そこには、障害児はいらないという健全者のエゴが潜んでいるのではないか、という問いかけだったのである。
このような批判の背景には、羊水を採取して胎児の障害の有無を検査する「羊水検査」というものが、当時、現実化しはじめていたことがある。
もし、羊水を検査して胎児に重い障害や遺伝病があることが分かったときに、親は胎児を中絶するかもしれない。
そういう選択が社会に公認されたとき、その社会は、現に生きている障害者に否定的なまなざしを注ぐ社会となり、障害者はそういう視線におびえて、とても生きにくくなるのではないかという危惧が生じたのである。
現に、このような選択的中絶が八〇年代以降急増したのではないかと疑わせるデータが最近報道されている。
神奈川県の五二万人の出産のデータを分析した結果によると、八〇年代の一〇年間に、手足の奇形やダウン症の新生児の数が、四割以上減っているというのである。
これは、八〇年代に急速に進歩した出生前診断によって、胎児の障害や先天性異常が判明するケースが増え、中絶を選択した親が増えたからではないかと推論されている(7)。
多くの親が、障害児を中絶するという選択肢を選ぶようになったときに、現にこの社会に存在する障害者たちは、ほんとうに生きやすく生きていけるのだろうか。
「かわいそうに」「生まれてこなければよかったのに」という視線をあびたり、そういうふうに言われたりすることはないだろうか。
障害胎児を処分するのは、そもそも自分の子どもには障害があってほしくないという思いを、親がこころのなかに抱いているからである。
親のこころのなかにある、そのような「優生思想」をみずから克服することなしに、どうして障害者が生きやすい社会ができるというのか。
「内なる優生思想」を克服することなしに、弱者との共生なんて達成できるのか。
そういう問いを突きつけられたときに、我々はどうすればいいのか。
この点を、さらに別の例で見てみたい。
我々の多くは、「重い先天的障害や奇形がない子どもがほしい」と思っている。
五体満足な子がほしいという思いは、誰のなかにもある。
だから、赤ちゃんが生まれたときに、わが子が「無事に」生まれたことを確認して、親はほっと胸をなで下ろすのである。
しかし、まさに、こういう考え方こそが「内なる優生思想」なのだ。
だから、もし「内なる優生思想」を克服するべきだというのなら、我々はまず「五体満足な子がほしい」という我々自身の考え方を批判しなければならないことになる。
これは、けっこう難しいことだと思う。
が、かりにこれが克服できたとしよう。
つまり、「私の子は、別に五体満足でなくってもかまわない」と、本心から思えるようになったとする。
それはそれで、すばらしいことかもしれない。
そこでは、自分の子どもに対する優生思想は、たしかに克服されているように見えるからである。
しかし問題は、それを、他人に向かって強制できるのかという点にある。
たとえば、いまここに、「わが子は五体満足であってほしい」と願い、「もし障害があったらかわいそうだが中絶を選択したい」と思っているカップルがいたとする。
彼らに向かって、きみたちの考え方は「優生思想」であるから、自己批判してそれを捨て去るべきだと言えるのか。
あるいは、君たちのような考え方は「間違っている」と言えるのか。
現代の市民社会で、そのようなことが言えるのは、ひとつにはその「優生思想」やその思想から導かれる行為が、直接的に、他者の生命や身体や財産に危害を加える場合である。
障害があるから胎児を処分するという思想が、直接に誰かに危害を加えることがあるとすれば、それは、まず殺される胎児に対してであろう。
たしかに、この点がひとつの論拠にはなる。
優生保護法で認められている期間の中絶は違法行為にはならないのだが、しかしそれは道徳的に考えれば危害を加えていることになるという反論はあり得る。
もうひとつの立論の可能性は、「五体満足でないから中絶を選択したい」という思想をもった人間が主流の社会というのは、老いて五体満足ではなくなった人たちや、
なんらかの理由で弱者の立場にある人たちや、障害者たちを、具体的に「施設」や「病院」に隔離して、保護という美名のもとに社会の中心部から捨ててしまうような社会になる。
だから、そういう思想はただちに克服しなければならい、というものだろう。
つまり、「五体満足な子どもがほしい」という思想は、その人の日常的慣習行為を経由して、弱者を排除する社会作りに積極的に貢献してしまう。
だから、そういう考え方をもつことは間違っているし、そういう考え方をもっている人たちには、考えをあらためてもらわないと困る、ということになる。
� 他人に対して、その「優生思想」を改めろと強制する、このふたつの理屈、すなわち「胎児の権利」論と、「社会浸透」論を、我々はどう評価すればいいのだろうか。
このうち、とくに第二の「社会浸透」論は、先端医療技術の倫理問題が議論になるときに、かならず出てくる論法である。
たとえば、脳死からの臓器移植が問題になったときにも、脳死の人から使える臓器を全部取り出して利用し尽くすようなことを平気でするような社会は、結局、
人の身体を交換可能な部品の集合体とみなして、生命の尊さを風化させていくような社会になっていくのだという反論があった。
この種の議論は、字面だけ見ていると、単なる屁理屈のようにも思えるのだが、しかしそれにもかかわらず生命と自然に対して無遠慮にどこまでも介入してくる現代テクノロジーと科学文明のアキレス腱を、
どこかしっかりと捕まえているようにも私には感じられるのである。
さて、「優生思想」に戻れば、そもそも我々が「優生思想」をもつことがどうして悪いのかという疑問が出されることもある。
すなわち、人類はいままで、置かれた環境に適応して、その中で強く生き抜いていける人間たちの集団を中心に子孫を残してきたのであり、それは現在まで綿々と続いている事実である。
言い換えれば、我々がいろんな形の「優生思想」を守ってきたからこそ、人類はいままで生き延びて来られたのだ。
それに、「優生思想」と「社会福祉」は両立しないわけではない。
生まれてしまった弱者に対しては福祉をしつつ、将来生まれてくる子孫の生命の質に対しては「よりよき生」を選択していくことは可能だ。
現代のテクノロジーは、そういう人間の生をよりよきものにしていくために、積極的に使っていけばいいのだ・・・・。
このような考え方を、こころの底でもっている人は、意外に多いんじゃないかと私は推測している。
これに対しては、そういう考え方こそが、現に存在する弱者を差別し、生きにくくさせるのだという反論があるだろうが、しかし彼らは「弱者が生きにくいのは仕方ないのだ」という基本的な考え方をもっているので、通用しない。
そのうえで、弱者は弱者なりに生きる意味を見つければいいなどと思っていたりする。
これに対して、「弱者が生きにくいのは、仕方なくないのだ!」と言える論拠がどこにあるのか。
運動している障害者の団体の人たちが、「生きにくいのがいやだから、こうやって運動しているのだ」と言ったとしても、それはあなたたちが実は周囲との軋轢にもかかわらず運動を続けられるという意味でもはや「弱者」ではないのであって、
ほんとうの弱者はそういう運動さえできないのだ、と言われたらどうするか。
このように、「内なる優生思想」の問題は、現代社会とそこに生きている我々ひとりひとりを、とことんまで追いつめてしまう難問である。
フェミニズムが優生保護法改悪反対運動のなかで出会ったこの難問は、我々の社会の根幹に突き刺さった未決の大問題である。
議論を続けるためには、そもそも「優生思想」とは厳密には何なのかを詰めないといけない。
したがって、ここで述べたことは、その作業のためのラフスケッチにすぎないのだが、それでもこの問題の奥深さだけは理解していただけたと思う。
七〇年代以降のフェミニズムが足を突っ込んでしまったこの泥沼は、実は、我々ひとりひとりがけっして避けて通ることのできない大関門なのである。
要約
代理母や精子バンクのような最新の生殖技術は、われわれの生命観や人間観、家族観に大きなインパクトを与えるであろう。
子どもを持ちたいというわれわれの欲望は、具体的な下位欲望へと分節化されてきた。
そして、近代家族規範はそれらの分節化された欲望によって揺るがされる。
それら分節化した欲望とは、たとえば、(1)「どんな方法でもいいから子どもがほしい」(2)「血のつながった子どもを持ちたい」(3)「自分の身体で妊娠出産をしたい」
(4)「こんな子どもならほしいが、こんな子どもならほしくない」(5)「誰かと同一の遺伝子をもった子どもがほしい」などである。
これらのうちいくつかは近代家族にとって既知のものであるが、他のいくつかはまったく新しいものである。
借り卵、借り子宮、クローンなどは近代家族規範を新しいものへと変容させるかもしれない。
【21】
1 親子関係から見た近代家族
代理母、精子バンクなどの生殖技術は、われわれの生命観や人間観を大きく揺さぶるインパクトをもっていると言われる。
それは、親子関係を複雑にすることによって、われわれの家族観まで変容させてしまうのではないかと予想される。
生殖技術の進展は、われわれの家族形態や家族観に、どのような影響を与えるのであろうか。
この論文では、親子関係に焦点を当てることで、その問題に迫ってみたい。
まず一方に現代の生殖技術がある。
子どもを産みたいというわれわれの欲望に突き動かされて、この技術は従来存在しなかったような「子産み」のパターンを創出しつづけている。
他方には、われわれの家族形態がある。
親密な感情で結ばれた父と母のあいだに、血のつながった子どもが生まれ
、同じ家の中で生活するという、いわゆる「近代家族」は、社会の変動によって多様化の危機に直面している。
子産みのテクノロジーの進展と、近代家族の多様化のあいだのダイナミズムを、注意深く見ていかなければならない。
落合恵美子は、近代家族の特徴として次の八項目をあげている。
すなわち、「家内領域と公共領域との分離」「家族構成員相互の強い情緒的関係」「子供中心主義」「男は公共領域・女は家内領域という性別分業」「家族の集団性の強化」
「社交の衰退とプライバシーの成立」「核家族」の八つである。
このような特徴を持つ近代家族は、普遍的に存在したわけではなく、ある時期に特殊に存在したものである。
落合は、第二次世界大戦後に日本で成立した近代家族を、「家族の戦後体制」と呼んでいる。
われわれが「核家族」ということばによってイメージするものが、ほぼそれに合致する(1)。
木戸功は、「家族の多様性」と言うときに、実体としての家族形態の多様性の次元と、家族はこうあるべきだという規範次元における家族イメージの多様性を慎重に区別すべきであると述べている(2)。
離婚の増加や人口流動によって実際に核家族が減少するということと、「核家族でなくても立派な家族である」という考えが勢力を伸ばすということは、
とりあえず別次元のこととして把握すべきであるというわけだ。
なぜなら、実際に核家族が減少するにつれて、逆に、「核家族こそが理想の家族」という言説が幅を利かせるようになることもあり得るからである。
私はこの論文において、この両次元に目を配りながらも、とくに規範次元における家族イメージの変容に焦点を当てていくことにしたい。
生殖技術の観点から「近代家族」を見るときに、もっとも問題となるのは、親子関係である。
精子や卵を他人から調達して子産みをすることができるわけだから、近代家族のなかで新しい親子関係がどのように処理されるのかがポイントとなる。
親子関係からみた「近代家族」とは、とりあえず、「父と母の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを、生物的な母が妊娠し、出産し、
生まれてきた子どもを父と母が家庭内で育てる」というような家族を意味する。
子どもは、このような仕方で誕生すべきであり、育てられるべきであるというのが、「近代家族」イデオロギーのひとつの顔であろう。
ここに、生殖技術が楔を打ち込む。
生殖技術がひんぱんに登場するのは、不妊治療の場面においてである。
子産みを目的とした性関係があるのに長期間子どもが生まれないカップルは、不妊というラベリングを受ける。
不妊とされたカップルが、それでも子どもをほしい場合、養子を取るという選択肢と、不妊治療を受けるという選択肢がある。
日本の場合、きびしい認定制度があって、養子は簡単には成立しない。
これに対して不妊治療では、まずミクロなテクニックをもちいて、カップル双方の遺伝子を受け継いだ子どもを妊娠させようと努力する。
この点に注目して、「生殖技術は一見、血の原理のような古い価値観を破壊するもののように思われがちだが、実は、カップル双方の遺伝子を残す道を執拗に模索するという意味で、逆に血の原【22】理を補強するイデオロギーである」という見方がなされたことがあった。
たしかに、AIH(夫の精子をもちいた人工授精)やIVF−ET(カップルの精子と卵の体外受精と子宮への移植)は、そのようなイデオロギーと親和的であると言える。
しかしながら、現在から将来にかけて続々と可能になると思われる生殖技術を考えると、このような単純な図式のみで事態を把握するわけにはいかない。
以下、それについて検討してみたい。
2 子産みの欲望の分節化
生殖技術の進展を支えているのは、われわれの「欲望」である。
どうしても子どもがほしい、できることならばかくかくしかじかの性質を持った子どもがほしい、というような欲望があるからこそ、それをかなえるべく新たな生殖技術が開発され応用されてゆく。
ところが、「欲望」があるから生殖技術が進むという事態の裏側では、生殖技術が進むことによって、われわれの「欲望」が新たな形へと「分節化」されていくということが起きている。
すなわち、「とにかく子どもがほしい」という欲望の塊が、生殖技術によって、「このような子どもがほしい」とか「これこれは犠牲にしても子どもがほしい」というふうに「分節化」されて意識され始めるのである。
それら「分節化」の例をいくつか挙げてみよう。
(1)「どんな方法でもいいから子どもがほしい」
「子どもがほしい」という親の一念は、近年の生殖技術が登場する前から存在する。
しかしながら、生殖技術が多様化する現代においては、これに独特の意味が付与される。
すなわち、漠然と願っているだけではなく、「手に入る生殖技術のどれを用いてもいいから、子どもがほしい」という具体的な技術の選択肢を想定した親の一念になるのである。
子どもがほしいという強い思いは、まだ生まれぬ将来の子どもにのみ注がれるのではなく、目の前に具体的なメニューとして示される様々な生殖技術ひとつひとつへと注がれる。
子産みの欲望は、目の前の生殖技術への欲望として分節化されるのである。
技術への欲望は、ときとして患者たちを、不毛な技術ショッピングに駆り立てるだけに終わる結果となることもある。
(2)「血のつながった子どもを持ちたい」
通常の性交では子どもができないのだが、血のつながっていない養子を取るのもいやだ。
そういう場合に出てくる欲望が、これである。
なんとかして、「自分自身の遺伝子・血を残したい」と思ったり、あるいは「好きな相手の遺伝子・血を受け継いだ子どもがほしい」と思ったりする。
現代の生殖技術は、それを様々な方法で可能にする。
まず、「AIH」は、夫の精子を採取して、妻の子宮内に人工的に挿入するものである。
この手法で子どもが生まれた場合、その子どもは父と母の双方の遺伝子を引き継いでいることになる。
「顕微受精」は、卵の内部に精子を一個だけ人工的に挿入する技術である。
夫婦の精子と卵を使った場合は、同じように双方の遺伝子を引き継いでいる。
「IVF−ET(体外受精)」は、妻の卵を採取して、夫の精子と受精させ、その受精卵を妻の子宮に戻すものである。
この場合も、双方の遺伝子を引き継いだ子どもが生まれる。
「代理母」は、夫の精子を、契約した第三者の女性の子宮に挿入して、妊娠させるものである。
生まれた子どもは、夫の遺伝子と、第三者の女性の遺伝子を引き継いでいる。
この場合、カップルにとってみれば、夫の遺伝子しか子どもには伝わらないことになるのだが、それでも、少なくとも夫の遺伝子は引き継がれているわけだから、養子よりはましだということになるのだろう。
代理母には、無償のボランティア、たとえば妹の子どもを姉が代理で生むというような場合と、金銭契約を結ぶ商業的代理母の二種類がある。
米国では商業的代理母が解禁されている州もあるが、世界的に見れば規制のある国のほうが多い。
「借り卵」は、第三者の女性から卵を採取して、それを夫の精子と体外受精し、その結果得られた受精卵を妻の子宮に挿入するというものである。
妻は、自分の子どもを妊娠出産することができるが、生まれた子どもの遺伝子は、夫と、第三者の女性から来ている。
妻は、自分の遺伝子がまったく入っていない子どもを妊娠し、お腹を痛め、出産するという体験をすることになる。
ただ、夫の遺伝子は含まれているわけだから、夫の遺伝子・血は残すことができる。
米国では、卵子販売ビジネスが話題となっている。
インターネットでカタログショッピングすることもできる。
モデルの卵も高値で販売されているが、実際には、妻に似た人種・容貌の女性の卵を購入することが多いようだ。
「借り子宮(借り腹)」は、夫の精子と妻の卵を体外受精させてできた受精卵を、第三者の子宮に挿入して、子どもを産んでもらうことである。
代理出産の一種であるが、この場合、生まれてくる子どもの遺伝子は、父母双方のものを引き継いでいる。
この意味では、一〇〇%血のつながった子どもを手に入れることができる。
「AID」は、第三者の男性の精子を採取して、妻の子宮内に挿入するものである。
日本では慶應義塾大学を中心に、不妊治療に長く使われてきた。
米国では、いわゆる「精子バンク」があり、カタログで購入することができる。
生まれた子どもは、第三者の男性の遺伝子と、妻の遺伝子を引き継いでいることになる。
以上の生殖技術は、何らかの意味で、夫あるいは妻の遺伝子・血を引き継いだ子どもを作る技術である。
たとえこのような技術を使ったとしても、自分自身の遺伝子あるいは好きな相手の遺伝子を受け継いだ子どもがほしい、という欲望があるのである。
やっぱり養子ではだめなのだ。
(3)「自分の身体で妊娠出産をしたい」
これは女性の側に顕著な欲望であるが、他人に産んでもらったのではダメで、どうしても自分のお腹を痛めて子どもを産みたいという欲望である。
すでに述べた例で言えば、「AIH」「顕微受精」「IVF−ET」「借り卵」「AID」などは、妊娠出産が妻の身体の中で行なわれる。
養子を取るよりも、これらの生殖技術を選択したいという気持ちの裏側には、自分の身体で妊娠出産したいという欲望が隠されている可能性がある。
これがさらにラディカルに現われるのは、次のような場合である。
すなわち、第三者の精子と、第三者の卵を体外受精させ、得られた受精卵を妻の子宮に挿入して妊娠出産させるというケースである。
第三者の精子と第三者の卵を使うのならば、その第三者の女性に産んでもらって、生まれた子どもを養子として引き取ればいいはずだ。
しかし、それではダメで、その受精卵は自分の身体を通して産みたいと思う女性(カップル)がいたとすれば、その女性(カップル)は「自分の身体で妊娠出産したい」という欲望をかなえたいと強く思っているのである。
日本で現在提案されている素案は、このようなケースを実際に想定している。
第三者の夫婦が不妊治療のために作成した余剰胚を、不妊の夫婦が譲り受けて子どもを産むケースも、これと同じである。
代理母になりたいと思っている女性も、このような欲望を口にすることがある。
すなわち、自分は子どもを持って育てたいわけではなく、誰かの子どもを「産んでみたい」だけだのだと言う。
妊娠して出産するという、女に与えられた至福の体験を味わいたいだけなのだと。
そして、自分はまだ子どもはほしくないから、妊娠出産することで、誰かの役に立てればそれでよいと言うのである。
代理母には、それほど飛び抜けて高額の契約金が支払われるわけでもないから、彼女たちに金銭以外の動機があると考えてもおかしくはない。
(4)「こんな子どもならほしいが、こんな子どもならほしくない」
一九六〇年代後半に羊水検査が登場したことによ【24】り、生まれてくる子どもの生命の選択の時代が本格的に始まった。
胎児の段階で羊水検査をすれば、ダウン症や二分脊椎のような障害があるかどうかが分かる。
それらの障害がなければ産むが、障害があれば産まずに中絶するという選択肢が開けた。
これは深刻な倫理問題を生みだしたが、出生前診断と選択的中絶は、その後どんどんと広まった。
ヒトゲノム計画の進展により、将来は、出生前診断できる先天的な障害が格段に拡大されると予想されている。
たとえば、アルツハイマーになる危険性の高い子どもは中絶するというようなことが、可能になるかもしれないのである。
さらに、受精卵の遺伝子操作や、胎児治療も考えられている。
受精卵の遺伝子をあらかじめ操作しておけば、子どもの目の色を青くしたり、頭のよい子どもを産むことができるかもしれない。
あるいは胎児の段階で整形手術をしておけば、美人が生まれるかもしれない。
このように、親が望むような性質を持った子どもを、選択的に産んでいく生殖技術がますます進展するだろうと予想されている。
「子どもが生まれてくれればそれでいい」という時代から、子どもの性質をあらかじめ親のプランに沿って細かく指定してから産むという時代に移り変わりつつある。
(5)「誰かと同一の遺伝子をもった子どもがほしい」
哺乳類クローン技術が登場して、人のクローンも一気に現実味を帯びるようになった。
人のクローンが話題にのぼったとき、世界中で次のような三つの声があがった。
第一に、不妊治療の最後の切り札としてクローン技術を使いたいということ。
つまり、どんな不妊治療を行なっても子どもを得られなかったカップルの最後の手段として、父母どちらかの体細胞を、第三者の卵を使ってクローンし、父あるいは母と遺伝的に同一な子どもを作ろうと言うのである。
第二に、若くして死んでしまった子どもの体細胞から、その子と同じ遺伝子をもった受精卵をクローンによって作り、それを子宮に戻して妊娠出産したいというものである。
生まれてすぐに死んでしまったような場合、クローンで生まれた子は元の子にかなり似ている可能性はある。
第三に、自分自身のクローンの赤ちゃんがほしいというものがある。
不慮の事故などで自分の思っていた人生を生きられない人が、自分のクローンに望みを託したいと思うことがある。
これらの欲望、とくに第二と第三の欲望は、死んでしまった子どもや自分自身と同一の遺伝子、つまり、誰の遺伝子とも混ざっていない遺伝子をもった子どもがほしいという欲望である。
これは、哺乳類のクローン技術が登場してはじめて、人間が本気で自覚した欲望であると言える。
生殖技術のもと、以上のような五種類の欲望へと、われわれの「子産み」の欲望は、「分節化」する。
もちろん、以上の個別の欲望は、従来からも存在した。
たとえば、「血のつながった子どもがほしい」という欲望や、「自分で妊娠出産したい」という欲望は、それ自体としては従来より存在するものである。
「血のつながった子どもを得ることができるのならば、たとえ自分で生まなくてもよい」という欲望や、「自分で妊娠出産できるのならば、たとえその子が自分の子どもにならなくてもよい」という欲望すら、従来より存在した。
だが、婚外子のケースを見ても容易に分かるように、ごく最近までの社会においてそれらの欲望を満たすということは、われわれが前提としてきた「近代家族」規範の外部に追放されても仕方がないということを意味したのである。
「近代家族」規範をそこなわずに、それらの欲望を満足させることはできにくかったはずである。
ところが、現在進行しているのは、それらの欲望を、新たな「家族規範」の内側へと内部化し、家族規範を侵犯せずにそれらを「分節化された欲望の選択肢」として任意に選び取ることができるようにしようという流れなのである。
このあたりのことを、さらに検討してみたい。
【25】
3 近代家族規範の動揺
� 先に述べたように、親子関係からみた「近代家族」とは、「父と母の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを、生物的な母が妊娠し、出産し、生まれてきた子どもを父と母が家庭内で育てる」というような家族のことであった。
生殖技術を、この「近代家族」規範の視点から位置づけてみよう。
第一に、「近代家族」規範の枠内で処理可能なものがある。
それは「AIH」「顕微受精」「IVF−ET(体外受精)」などである。
それらは、父の精子と母の卵を用い、生物的な母が妊娠出産することになる。
だから、「近代家族」規範は完全に守られている。
これらの生殖技術は、先に述べたように、「近代家族」規範をかえって強化するはたらきをするとも言える。
これはカップルに、なんとしてでも一〇〇%血のつながった子どもを産むことを追求させるテクノロジーなのである。
第二に、「近代家族」規範の枠からはみ出してしまうものがある。
まずは、父母子が形成する家族の中に、第三者の遺伝子・血が混入することを許すような生殖技術である。
たとえば、「代理母」「借り卵」「AID」「第三者の精子と卵による妊娠出産」などである。
これらは、第三者の精子あるいは卵、あるいは両方が、父母子の形成する家族に混入してしまう。
混入することは覚悟のうえで、子作りをするわけである。
次に、生物的な母が妊娠出産することを放棄するような生殖技術がある。
「代理母」「借り子宮」などがそれである。
父あるいは母の遺伝子は引き継がれているものの、子どもを生むのは第三者の女性であり、母はそれに関与しない。
・自分で産まなくてもいいから、子どもがほしいという願いをかなえるわけである。
さらに、父母いずれかの遺伝子のみで子どもを作るような生殖技術がある。
「クローン」がそれである。
クローン技術の応用には様々なバリエーションが考えられるが、父あるいは母の体細胞をクローンして受精卵を作る場合、生まれてくる子どもの遺伝子は、いずれか片方の親の遺伝子と同一になる。
クローン技術は、同性愛カップルにとっても朗報となる。
いずれかの体細胞をクローンして受精卵を作って第三者(女性同性愛の場合はいずれかの女性)に産んでもらえば、片方の人間の遺伝子と同一の子どもが生まれる。
以上のバリエーションを、別の観点から、以下の三つに再整理してみたい。
(1)「近代家族」規範に沿ったもの
「AIH」「顕微受精」「IVF−ET(体外受精)」など。
(2)「近代家族」規範がかつて切り捨てたもの
「代理母」「AID」など。
歴史を振り返って考えてみれば、これらの生殖技術と同等の行為は、かつて社会的に承認されていたり、実際に広範に行なわれていたりした。
たとえば、父が母以外の女性とのあいだに婚外子を作った場合、その子どもを様々な理由で父が引き取って育てるということが存在した。
妾が公認されていた時代では、妾の子どもに家を継がせるということもあった。
あるいは、母が他の男性とのあいだに子どもを作り、それを父母が自分たちの子どもとして育てるということもあった。
ただ、それらの行為は、「近代家族」規範によって、望ましくない行為へと明確にラベリングされた。
婚外子を家庭の中に引き取って育てることは、「近代家族」規範から見れば、眉をひそめるべきことである。
違法性はないとしても、規範レベルでは不道徳的なこととみなされる。
これが、われわれの縛られているイデオロギー装置である。
ところで、「代理母」「AID」は、「近代家族」規範から見れば、婚外子を家庭の中で育てることと同等の行ないである。
それは、かつては公然と存在していたのだが、「近代家族」規範によって追放されたはずの、不道徳な行ないに他ならない。
「AID」に関しては、日本では昭和二四年より実施されており、すでに一万人以上の子ど【26】もが誕生している。
これについて大きな問題は生じていないとされるが、「AID」で生まれた子どもが、みずからの出自を公然と心理的負担なく公言することができるような社会状況があるとは考えられない。
この公然化を抑圧しているものこそ、「近代家族」規範ではないのだろうか。
(3)「近代家族」規範にとっての新事態
「借り卵」「借り子宮」「第三者の精子と卵による妊娠出産」「クローン」など。
これらの生殖技術は、「近代家族」規範にとって、まったく新しい事態である。
なぜなら、これらの技術は、卵や受精卵の移植、体外受精、クローン技術など、一九七〇年代後半以降にはじめて実現した技術体系を基盤としており、かつ、それ以前にはけっしてあり得なかったような形の「遺伝子」と「妊娠出産」の組み合わせを可能にしているからである。
ふたたび解説することはしないが、それらと同等の行為が、従来は不可能であったことを確かめてみていただきたい。
以上のように、生殖技術の進展による欲望の「分節化」は、「近代家族」規範に対して、これら三通りの事態を突きつけていると言える。
「近代家族」規範は、これらに対して、どのような答えを出そうとしているのだろうか。
ひとつの答えは、米国の一部の州で可能になっているように、これらの技術を積極的に取り入れて、「近代家族」規範そのものを脱構築しようというものである。
これらの生殖技術のなかで唯一禁止されるのは、「クローン」である。
これはまだリスクが高く、生まれてくる子どもへの発ガン性の危険などが指摘されており、国際的にも禁止のコンセンサスが成立している。
できる限り生殖技術を認めようとするこのような方向性は、「近代家族」規範がかつて切り捨てたものを貪欲に回収し、さらに新事態に対してもまた規範の内部へと組み入れていこうとするものである。
おそらく、その結果として、「近代家族」規範はその意味内容を大幅に変容させられることになるか、あるいは別の形の「家族規範」へと脱構築されることになるであろう。
これに対して、日本では、ある種独特の解決が模索されようとしている。
二〇〇〇年一二月に、旧厚生省の厚生科学審議会先端医療技術評価部会生殖補助医療技術に関する専門委員会は、「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療のあり方についての報告書」を発表した。
これは、精子や卵を提供する生殖医療についての基本的な考え方を審議したものであり、今後の法制化作業の叩き台になると目されているものである(3)。
専門委員会は、この問題を考えるに当たっての基本的な考え方を以下のように定めた。
「生まれてくる子の福祉を優先する」「人を専ら生殖の手段として扱ってはならない」「安全性に十分配慮する」「優生思想を排除する」「商業主義を排除する」「人間の尊厳を守る」。
� そのうえで、生殖技術の可否について議論し、結論を出した。
それをひとことで言えば、「代理母」「借り子宮(借り腹)」は禁止するが、それ以外は条件付きで承認するというものである。
「クローン」人間作成については、すでにクローン規制法で禁止されているので、これを加えた三つ、「代理母」「借り子宮」「クローン」を禁止するというのが結論である。
� その理由として、委員会は次のように述べる。
「人を専ら生殖の手段として扱い、また、第三者に多大なリスクを負わせるものであり、さらには、生まれてくる子の福祉の観点からも望ましいものとは言えないものである」から、代理母と借り子宮は禁止する、と。
しかし、この理由よりもさらに重大なのは次の規定であると思われる。
すなわち、親子関係の確定に関して、「提供された卵子・胚による生殖補助医療により子を妊娠・出産した人を、その子の母とする」と法律に明記すべきであることを、委員会は宣言しているのである。
妊娠出産した女性が、子どもの母親であるという断固とした姿勢がここにはある。
代理母と借り子宮が禁止された真の理由は、それが、妊娠出産【27】した女性を、子どもの母親としない生殖医療だからである。
ここに見られる「子どもは母親の身体を通って生まれてこなければならない」という規範意識を、どのように考えればよいのであろうか。
ちなみに、米国では、卵を与えた母親が子どもの母親であり、代理母の場合はその親権が契約者の夫婦のもとに移行するわけである。
ただし、この専門委員会の答申に対して、日本でも代理母を解禁すべきだとする産婦人科医たちが反対運動を開始しており、その中には有力者もいることから、この答申の方針がそのままの形で法制化されるとは限らない状況である。
古くから、「産みの親」と「育ての親」という言葉がある。
生殖技術の進展に伴って、いまやそれに加えて「遺伝上の親」という言葉を付け加えなくてはならなくなった。
つまり、親子関係もまた「遺伝上の親」「産みの親」「育ての親」の三つへと「分節化」が進んだと見ることもできる。
母子関係の確定において、妊娠出産という「産みの親」の側面に特別の地位を与えるという発想について、それを支えるものが何であるのかをさらに考察しなければならない。
これは、上記委員会だけの思想ではなく、広く一般にも見られる思想だと思われるからである。
4 子どもを産まないという価値
最後に、子産みの欲望の分節化と、近代家族規範について、ひとつだけ述べておきたいことがある。
親子関係からみた「近代家族」とは、「父と母の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを、生物的な母が妊娠し、出産し、生まれてきた子どもを父と母が家庭内で育てる」というような家族であった。
この背後には、「結婚した男女は子どもを産んで育てるべきである」という「子産み」規範が存在していることに注意しなければならない。
「近代家族」規範とは、父と母が子どもを産み、その子どもがまた子どもを産み、そうやって近代家族という装置それ自体が絶えず再生産され続けることを求めるイデオロギーである。
だから、どのようにして子どもを産むかということ以前の問題として、そもそも男女は子どもを産むべきだという暗黙の規範命令があると考えなければならない。
それこそが、歴史のある時期に形成された「近代家族」規範の根本にある思想である。
この暗黙の規範命令が、「結婚したら子どもが生まれて当然」「女は子どもを産んで一人前」という大衆的な常識を作り上げたと言える。
この大衆意識はきわめて強力である。
今日でもなお、結婚式の挨拶で、あるいは会社の上司から、何度も「次は元気な赤ちゃんを」「子どもはまだか」と言われ続けなければならないのである。
そのような親族・世間からの圧力に負けて、不妊治療に奔走しなければならなくなるカップルが出現する。
この子産みに関する暗黙の規範命令が、子産みの欲望の分節化をさらに加速する。
子どもを産むためには、遺伝子の連続性を犠牲にしてもいい、自分自身で産まなくてもよい、第三者の精子や卵と体外で受精させてもいいというふうに、欲望を具体的に分節化させて実現しようとする。
分節化された欲望は、分節化された生殖技術を進展させる。
逆に、分節化された生殖技術は、われわれの欲望を分節化する。
この二つは、コインの両面である。
このようにして分節化された欲望=技術は、近代家族規範を攻撃する。
すなわち、近代家族規範によって排斥されてきたもの、あるいは近代家族規範が取り扱えなかったものを、新たな家族規範へと内部化して、「何ら後ろめたいことではないもの」へと変更するように要求する。
それが後ろめいたものではなくなれば、さらに多くのカップルが、この分節化された欲望=技術を利用することができるようになる。
そのような突き付けを受けた近代家族規範の動揺が、いま生殖補助医療に関する法整備の問題として現われているのである。
近代家族規範が、この新たな状況を内部化してゆけば、それはふたたび、子産みに関する暗黙の規範命令を強化することにつながるだろう。
そうやって、ここに「子産みへ、子産みへ」と走る自己目的的な渦が形成される。
その渦の形成に【28】よって、「子どもを産まなくても立派な家族」という考え方が疎外されていく。
したがって、近代家族規範の変容が、それとは異なった新たな「家族規範」を生み出すのか、それとも単に近代家族規範を拡大するだけに終わるのかという瀬戸際に、われわれは立たされているのかもしれない。
「子どもを産まなくても立派な家族」という規範が、単に建前だけではなく、大衆の日常的な規範意識の中に根付く形で近代家族規範の変容がもたらされるのならば、その変容は、新たな家族規範の到来へと接合されていくことになるはずである。
ところが、生殖技術の新展開を、近代家族規範の内部へと単に繰り込むだけに終わってしまえば、逆に、近代家族規範は強化されるだけになってしまうであろう。
生殖技術だけではない。
いま叫ばれている少子化対策や、家庭崩壊の危機が起きるという理由で夫婦別姓が成立しないという状況など、近代家族規範強化の動きは至るところに見られる。
生殖技術の新展開が、それらの状況にどのように交差することになるのか、われわれは注意深く見守っていかねばならない。
266 :
最低人類0号:02/06/06 14:09 ID:DoXfiMoU
勉強になりますな。
全くですな。
また荒らされてるよ・・・。
てか、1煽るの下手すぎ。
>プラトニックでドキドキしてろ
とか、言い同しがなんかかわいくて笑えるんだけど。
似合わないことはやめけって感じ?
>269
やめけ→やめとけ でした。。。。逝ってきま−す
当時、いわゆる生命倫理というものが紹介されはじめていたので、それを調べてみたのだが、いろんな点で不満があった。
だから、生命倫理学を超えるような「生命学」とでも呼ぶべき学問が必要ではないかと考えた。
それは、単なる机上の学問なのではなくて、いまここで生きている私の生そのものへと直接にかかわっていくような学でなければならないと思った。
そして『生命学への招待』という本を一九八八年に出版した。
その当時、男女産み分けや、脳死・臓器移植、遺伝子操作などが新たな倫理問題を生み出すというので話題になっていた。
このような難問を学際的に考える学問運動として、バイオエシックス(生命倫理学)というものがアメリカにあることが、学者たちによって紹介されはじめた。
英語で書かれた論文や書物を翻訳する作業が開始され、一九八九年には日本生命倫理学会が設立された。
そういう雰囲気のなかで、「日本の生命倫理学はアメリカからの影響のもと、一九八〇年代半ばに開始された」という考え方が、関係者たちのあいだに浸透していった。
実は、私も最初はそのように思っていたのである。
『生命学への招待』を書いたときには、生命倫理学というものを、アメリカで一九七〇年代にできて、その後日本に輸入されたものだというふうに考えていたのだ。
というのも、生命倫理学は、一九七〇年代初頭にアメリカを中心に成立し、七〇年代後半から八〇年代にかけてヨーロッパや東アジアに伝播したと言われていたからだ。
ところが、それは、私が足元の日本の歴史をまったく知らなかったことによる無知がもたらしたものだということに、やがて気が付くことになる。
女性史研究者の山下悦子に依頼されて、日本のフェミニズムと生命倫理について調査をはじめたとき、私ははじめて七〇年代ウーマン・リブによる「優生保護法改悪反対運動」というものを知った。
そして、それが、まさに草の根でくりひろげられた「生命倫理とジェンダー」にかんする思索と実践の巨大運動であったことに気付くのである。
目から鱗が落ちる思いがした。
そのときの衝撃と感動が、本論文を書きはじめたいちばんの理由である。
ウーマン・リブは、優生保護法や人工妊娠中絶や経口避妊薬などをめぐって、独自の主張を繰り広げた。
彼女たちの運動は、散逸しやすいパンフレット・ビラ・ミニコミなどの形をとっていたため、その議論が有機的に蓄積されて、社会の各層に広がってゆくことにはつながりにくかった。
しかし、一九九二〜九五年に松香堂から発行された『資料・日本ウーマン・リブ史T・U・V』によって、当事者ではない我々が、はじめて七〇年代のウーマン・リブの主張を系統的に知ることができるようになった。
これらの文献を読むと、はっきり分かることがある。
それは、日本の生命倫理の議論は、少なくとも一九七〇年代初頭には、ウーマン・リブによって明確に開始されていたということである。
日本の生命倫理の歴史は、一気に一五年もさかのぼるのだ。
もちろん、「学問」としての制度化がなされるのは、九〇年代に入ってからである。
しかし、生命倫理の視野をそなえたうえで、その枠組みをはるかに超える議論・言説群が、一九七〇年代初頭の女性たちによって量産されていたという事実は、特筆に値する。
� すなわち、日本の生命倫理の議論は、女性たちによって開始された可能性が高いのだ。
もちろん、それ以前の薬害・医療過誤解明運動が、現在の生命倫理の源泉のひとつではある。
しかし、中絶をめぐって「生命・人間・ジェンダー・社会」の関連性をラディカルに問題提起した七〇年代ウーマン・リブの議論をもって、今日的な生命倫理のあけぼのと考えるのも、それほど間違ってはいないであろう。
たとえば、女ひとりひとりが自ら胎児を<殺害>する可能性を秘めているという個の実存の地点から、みずからの生の意味と、社会を変革してゆく道筋とを考え抜こうとした点において、
体制対抗型社会運動の色彩が強かった以前の医療過誤追及運動とは一線を画しているように見える。
そればかりではなく、「生きる意味」の思索と行動へと執拗にこだわっていくその深さにおいて、リブは、今日的な意味での生命倫理学をはるかにしのぐ達成を行なっていたと考えざるを得ない。
私は、そこに、私が希求する「生命学」のひとつの原型を見出す思いがするのである。
さて、目をアメリカに転じてみよう。
アメリカの生命倫理学は、六〇年代の公民権運動や女性の権利運動などの強い影響を受けて成立した。
それはたとえば、「中絶」を「女性の権利」として擁護しようとするアメリカの生命倫理学のメインストリームの主張のひとつにも反映されている。
しかしながら、アメリカの生命倫理学は、七〇年代後半から八〇年代にかけての制度化の時期において、七〇年代フェミニズム、とくにマルクス主義フェミニズムやラディカルフェミニズムからの問題提起を、いわば切り捨ててしまった。
たとえば、家父長制の問題、資本主義の問題、ジェンダー間の権力関係、性支配のポリティクス、性別役割規範の内面化(とくに医師−看護婦のあいだの)などの根本問題が、アメリカの生命倫理学においては排除されたのである。
そのことに異議を唱えるフェミニストたちは、九〇年代にはいってから本格的に従来の生命倫理学批判を始めた。
彼女たちの、いわゆる「フェミニズム生命倫理」は、今後大きなトレンドになって生命倫理学の世界を席巻するきざしを見せている(1)。
振り返って日本のことを考えてみれば、そもそも日本の生命倫理の議論は、七〇年代初頭に、女性たちによって「フェミニズム生命倫理」という枠組みで語り出されたのである。
このことは、強調してもしすぎることはない。
しかしその流れは、八〇年代の日本の生命倫理学のメインストリームとはなり得ず、また、女性運動の領域から外に出ることは少なかった。
しかしながら、後にくわしく述べたいのだが、八〇年代後半から九〇年代にかけて、主に生殖技術をどう考えればいいかという話題をめぐって、フェミニズム運動や女性学からの、生命倫理学へのアプローチが本格的に始まってきた。
そして、それに対応するように、生命倫理学の内部からもフェミニズムへの関心が芽生えつつある。
たとえば、女性が直接のターゲットとなる体外受精や不妊治療について考えてきた女性運動は、必然的に生殖技術の倫理問題に突き当たらざるを得ない。
たとえば不妊治療の女性たちのグループである「フィンレージの会」は、はやくからフェミニズムの視点から生命倫理の問題をとらえてきた。
九五年頃からの第三次優生保護法改正劇をめぐっては、女性運動グループも生殖技術の生命倫理という視点を組み込みはじめた。
生命倫理学の側からは、日本生命倫理学会の一九九四年の総会で、はじめて「女性と生命」というセッションが開かれていた。
このように、日本においても、フェミニズム・女性学と生命倫理学が急速に接触をはじめたのだ。
このように、「生命とジェンダー」という問題領域が、いま急浮上しはじめている。
本論文は、私の提唱する「生命学」という視点から、これらの問題に切り込んでいく試みなのだ。
そして、そのときには、やはり七〇年代のウーマン・リブの試みを再検討することから始めなければならないと思う。
なぜなら、そこにこそ、これらの問題群に「生命学」の視点から切り込んでいくときの原点が存在しているからである。
私にとってリブとは、あとから発見した生命学の産みの親である。
では、ウーマン・リブとは何だったのか。
ひとことでいえば、ウーマン・リブとは、女性たちが、国家や男性からの束縛を解き放ち、自分自身の人生のために、女であることを自己肯定して生きはじめる、その生き方のことである。
そしてそれをささえあうために、女から女たちへとつながってゆき、社会を変えてゆくことである。
リブの核心は、「生き方」にある。
いまの自分をまずありのままに肯定し、そこから自分自身のことばを発して、世界へとかかわり、他者と出会ってゆくその生き方にある。
「女にとって革命とは、日々自己肯定できる場をつかみとってゆくことじゃないかと思う。
日常の中で、日々、生きている実感をもちつつ斗うこと(2)」。
>>1 俺前から思ってたんだけどさ、何でここでこういう話題ふるの?
板違いだよ、
い た ち が い
前のスレもそうだったみたいだけどさ、
あれちゃんと読んだか、「ガイドライン」。
>差別・蔑視 *
> 地域・人種などの差別発言は人権問題板で、蔑視的思想発言は政治思想板で、
>それ以外は削除対象になります。
> 上記2板を含めて、差別・蔑視の意図がある地域名または苗字等の書き込みは、
>その真偽を問わず削除対象になります。
それ以外の書き込みに関しては議論となることを前提に静観します。
俺親切だから次スレ立ててきてやったよ。
だからもう、
こ こ に は く る な
次スレ
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/rights/1023378261/
4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 メェル:sage 投稿日:02/06/07 04:19 ID:rpHjKUya
で?
5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 メェル:sage 投稿日:02/06/07 04:23 ID:rpHjKUya
>1は何が主張したいのか分からない。
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 メェル:sage 投稿日:02/06/07 04:33 ID:rpHjKUya
もしかして、自分が男だってことが何かの自慢になるとでも?
たまたま、偶然、女じゃなく男に生まれてきただけのことが?
わざわざ何本もレスを立てて主張するほどのことか?
そんなことしか主張することがないのか?
戦場と言っておきながら自分は何も武器がないじゃねーか。
今度からは、よーく考えてからレスを立てろよ。
正直いって君たちほんと阿保だねえw
記念カキコ
/ミヽ /ミヽ ミミミ /川川川\ミミミ
|||@ノハヽヽ@||| ミミ〇川||/ ヽ|||||〇ミミ
ミ/川 \l||||彡 |川\ / 卅川
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|⌒|(|| ‘ , ‘ l|) |⌒|ヽ" ε "ノ(⌒ヽ
ヽ ⊃ゝ" з "ノ| ヽ ⊃入ノ| ⌒ ⊂ 丿
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