沖縄観光情報-その50

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851列島縦断名無しさん
不起訴の在日米軍人には

【朝日新聞】(2008/02/13)(2008/03/02)
★許しがたい性犯罪がなぜ、こうも繰り返されるのか。強い憤りを覚える
★沖縄県民は、旧日本軍によって集団自決に追い込まれた住民も出るなど筆舌に尽くしがたい体験をした
★戦後は米軍基地に苦しめられている
★米兵のしたことは決して許されない
★米兵と一緒にいたときの恐怖は、どれほどだったろう

一方、中国人花嫁が幼稚園の園児2人を刺殺した事件では

【朝日新聞】中国人花嫁、滋賀園児殺害―心の内が知りたい (2006/03/11 )
★個人の気持ちや都合より集団を優先しようとする日本人の考え方をよく理解できなかったのだろう
★夫は妻のつらさや悩みをどこまで分かち合っていたのだろうか
★鄭容疑者は一時期、精神的に不安定にもなっていた
★彼女を親身に支え、適切な助言をすることができる相談相手がいたら、と思うと残念でならない
852列島縦断名無しさん:2008/03/02(日) 12:05:04 ID:ccUNzIjz0
■第五章 戦後、中国人がやって来た(日本人はとても素敵だった 楊素秋/著 )
http://www.sakuranohana.jp/book_suteki.html
前述したように、私は子供の時、自分は日本人だと固く信じていました。だから悲しかったのです。
突然、「君は今日から中国人だ」と言われた時に。私も多くの人と同じように「なぜなんだ!?」と言って泣きました。
私は父に、どうして中国人でなければいけないのかと聞きました。
父は返事に窮して「中国人だから中国人だろ…」と口を濁していました。それ以上私も聞きたくありませんでした

それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと
思っていました。それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて
こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。
女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。
その時はまだ日本人の先生が学校で教えてはいましたが、日本人の先生は出迎えに来ていませんでした。
これからどうするの?と思いました。酷くなるとか酷くならないとか、そんな問題ではないのです。
こういう人たちが来て一体どうするのか…と。
853列島縦断名無しさん:2008/03/02(日) 12:06:08 ID:ccUNzIjz0
■第七章 想い出は永遠に…『日本人はとても素敵だった』http://www.sakuranohana.jp/book_suteki.html

私が四十二歳の頃のことです。トマトペーストと竹の子の缶詰を作っている商社の出張で、初めて日本の土を踏みました。
初めて日本に行った時は嬉しかったものです。東京でも大阪でも税関で日本人だと思われ、
「お帰りなさい」と言われたのが懐かしく想い出されます。
「ずいぶん長いことこちらに留学なさったんですか?」、「大学はどこですか?」と聞かれました。
私は「初めてお国の土地を踏みますの」と言いました。日本の皆さんは皆親切でとても良くしてくれて大変助かりました。

この時、私はずっとずっと行きたいと思っていた靖國神社に、いの一番に行きました。
なぜなら、国のために惜しげもなく命を犠牲にした霊に少なくともありがとうと言いたかったのです。
また、戦死した教生の竹田先生に一度手を合わせたいという想いもありました。
 表参道を通って、玉砂利を踏んで、台湾の阿里山の檜で作った鳥居をくぐりました。それはもう本当に感激でした。
そして、瞑目し手を合わせながら竹田先生を偲びました。

日本は私の故郷です。私には日本と台湾、祖国が二つあります。
どちらが私の心を余計に占めているかというと、どちらとも言い難い。どちらも同じです。半分半分です。
だから、日本で事件があったと聞いたらやはり悲しいし、
今、何かの試合で日本の選手が外国と対戦していると、日本を応援してしまいます。
日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。
私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。
私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻とはためいています