279 :
列島縦断名無しさん:
東垣内、西垣外にある神社が大きな意味を持つと思います
また、西垣外から、その神社までは、坂道を登ります
水難の多かった木津川の周辺、都が高台に作られたとしたら、自然です。
連投タン的には、恭仁神社→恭仁京→海住山寺が重要なポイントだとおもいます
つまり、地層が大事だとおもいます
連投タン的には、西垣外の向こう
163号線沿い、現在、山城郷土資料館のある石山の連なるあたりになんとなく石屈古墳があるような気がします
西垣外には、かつて貴族に仕えた人々や、貴族を庇護した人々が住んでいた、あるいは、動乱の世に難を逃れた貴族が身を寄せた農民(昔、宮家に仕えた人々)の家がある可能性はないでしょうか?
恭仁神社と周辺に廃絶した寺院がないか?
それが、連投タンの気になるところです。
山城国一揆は南山城地域で起こりました。貴族と農民が良好な関係であったり、貴族に仕えた農民が武家社会に反感を潜在的に抱いていたら、どうでしょうか?
恭仁神社、都の名を持つこの神社が恭仁京の謎を解く一つの鍵だとおもいます。