【連投用】関西をマターリ語るスレッド2

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276列島縦断名無しさん
海住山寺を以前にあげましたが、一度廃絶されて、復興したお寺
貴族ゆかりの寺だったため、廃絶されたのかもしれません
あのあたりには、口畑、奥畑という辺りは、外れるかもしれませんが、例弊、登大路(恭仁京はここにあります)井平尾、岡崎といった辺りが気になります
また、垣外と呼ばれる東垣外、西垣外は恭仁京の外にあった地元の農民や豪族のいた地域だと思われるため、恭仁京とは関係ないと思われます
つまり、この垣外が、恭仁京の垣の内と外を示し、大仏鉄道のルートは奈良→恭仁京への道を元に作られた可能性はないでしょうか?
また、東垣外、西垣外と呼ばれる地域は恭仁京の垣の外、口畑、奥畑と呼ばれる地域は、ここからは、畑の口、ここからは、奥の畑ですよということを意味しないでしょうか
それを意味するかのように、東垣内、西垣外と呼ばれる地域の境目には、今は主を失った神社があり、農民たちの信仰を集めた神主がいたとされています
また、ちょうどそこを分断するところに大きな鳥居が建っています
加えて、この地域は知恩院の特別信徒と呼ばれる方たちが多い地域です。村の人々は、昔は栄えていたから、知恩院に寄進して特別信徒にと言っていますが、いくら貧に窮しても、知恩院ほどのお寺が金で地位を売るでしょうか?
知恩院特別信徒とは、菊の間、鶴の間、竹の間という非常に格式のある部屋(襖の絵柄から)に入れる高い地位の人々をいいます。
寺には、先祖代々の系譜があり、ゆかりのない人に特別信徒という地位は与えないはず
また、その西垣外には、海住山寺より、小さい智恩院の末寺(新しい)があります
当時、川に橋がなければ、人は船を使った可能性があります
貴族と農民が同じ船に乗った可能性もあり、乱世に農民が貴族を助けた可能性もあるかもしれません
連投タンの考えとして、現行恭仁京は狭い!と思います
考えるべき範囲として西垣外は掘る必要はないでしょうが、恭仁神社〜恭仁小学校〜口畑の手前を恭仁京の範囲、海住山寺とその神社をゆかりの神社と仮定し、年代や建物の時代を検証する必要はあるかもしれないと思います
また、加茂町西垣外にある知恩院末寺の本尊や建物の時期をみることも大切です
南山城村の恋志谷神社には、身分違いの恋の伝説が残ります
連投タンが気になるのは、寺の建築年代です