メッセージ復帰30年(下)・告白
宮城晴美『母の遺したもの』高文研
「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノート(手記)を私(宮
城)に託し、半年後(一九九〇年)、六十九歳の生涯を終える。字数にして
四百字詰め原稿用紙約百枚。自らの(沖縄戦での)戦争体験の日々を具体的
につづっていた。しかも、手記は過去の記述を、根底から覆す内容を含んで
いた。
・・・同著の要旨を追うことにする。当時の(日本軍の)座間味島駐留軍
の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという「住民は男女を問わず軍
の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」が、事実と
違う記述であった。以後、「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命
令」が根拠とされてきた。
事実は、部隊長の命令は下されず、村役場の伝令が飛び交い、次々と集団
自決へ走った。手記発表後、(著者宮城の)母は、自分の“証言”で梅澤
(旧日本軍部隊長)を社会的に葬ってしまったと悩んでいた。事実を公表す
れば、島の人々に迷惑が及ぶ(偽証で国から軍属年金をだまし盗っている島
民仲間が、罰せられる)。板ばさみの心痛を一人で背負っていた。
一九八〇年、那覇市内で梅澤と再会。そして母初枝が告白した。「命令を
下したのは梅澤さんではありません」。この一言に、梅澤は涙声で「ありが
とう」を言い続け、嗚咽(おえつ)した。だが、告白をきっかけに事態は急
変。さらに波紋を広げていく・・・。
<沖縄タイムス2002年9月21日朝刊6面より>