配給・試運転・回送ダイヤ part89

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10でってぃう太田◇TAKAYUKI
<b>Age.0〜6</b>
私は昭和61年10月に大阪府吹田市に生まれた。ちょうどこの年は青函トンネルが開通、ハレー彗星が地球に接近するなど日本は活気に溢れていた。
生まれ育った街の第一印象は夕日がとてもきれいだったことだ。自宅最寄の阪急電鉄のS駅は後に起こる阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けたが、現在も震災前と変わらない佇まいである。
駅前にはいつも夕方になると何処からか鳩や猫がうろつき始めた。その駅に勤務する職員が残りの夕食をこうして野良猫達に与えていたためだった。
駅前の商店街を抜けると小高い丘を越えて国鉄吹田操駅にたどり着く。そこが、父親の職場だった。夕方、ママと父を迎えに職場まで行くことがあった。
日が西へ傾くと操車場構内に並んだレールが一斉に光を放った。それはまるで、大河を流れていく淡い金剛石を見るような情景だった。
父親とママが知り合ったのは同市内にあるテレフォン倶楽部だった。国鉄職員だった父は社の同期会で酔ったついでにテレフォン倶楽部へ立ち寄り、偶然にもここで今のママと知り合ったとよく口にしていた。
その頃から私は、幼稚園に通いだし、それと同時に無性に怖くなったものが2つあった。その1つは誰もが思うであろうお化けである。物心が付いた頃から既にお化けという存在に恐怖心を覚えていた。
この頃のお化けのイメージというと藤子・F・不二夫著作の「オバQ」のようなイメージを描いていたと思うのだが、夜になるとどうも怖くて仕方が無かった。お化けはもとより面識の無い他人が怖いという所がこれ共通していたかもしれない。
幼稚園にママが迎えに来るのはいつも夜だった。ママはキャバレーでパート従業員として家計を支えていた。昼間は活気に賑わっていた商店街も夜になると一様に店じまいし、赤提灯の下がる飲み屋街と変化していった。
夕方までの商店街とは打って変わり、黒服を着たサラリーマン達が4,5人肩を並べて軒先から出てきた。そして、更に2つあるうち、もう1つの怖いものが家へ帰る際に通らなければならない山道のトンネルだった。
11でってぃう太田◇TAKAYUKI:2011/05/28(土) 22:43:19.16 ID:Lud3/UdH0
丘を貫く全長100mも無い小さなトンネルだったが、商店街を抜けてしばらく坂を上ると鬱蒼とした林の中に存在していたそれは、幼心ながらも異界へ続く通路のように思えたのかもしれない。
幼稚園から歩いて帰るとき、トンネルが近づいてくると妙に身震いし、ママの右手を決して離そうとはしなかった。トンネルを抜けると道は開け、自分の住んでいる街が一望できた。坂を下った線路際に私の家はあった。
父の勤める国鉄が用意したカ簡易社宅だった。やがて、国鉄が分割民営化になるやいなや父はパージの対象となりリストラされてしまう。まだ、6歳の私にその辛さなど到底理解できるはずもなく、毎日が同じことの繰り返しに思えた。
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<b>Age.7〜12</b>
父が国鉄を退職し、私たち家族は祖父母の家に転がり込むことになった。二世帯住宅にするにもちょうど良い広さで、私はすぐに住み慣れた。小学校3年生の冬、私は大地震を体験した。阪神淡路大震災である。
夜明けと共に鳴り響いた地鳴りに気付いたときには家は大きな音とともに軋み始めていた。日が昇り自宅裏山の高台から町を見下ろすと至るところから火の手が上がっていた。
奇跡的にも家族全員は無事だったが、自宅前の道路を挟んで斜向かいの八百屋と隣家は全壊し、私の自宅も半壊した。幸いなことに祖父母は前夜のうちに自宅に泊まっていたのが家族全員の命を救ったのかもしれない。
一瞬のうちに瓦礫の山と変化した街中では至る所で強奪や強姦が相次いだ。ボランティアに来ていた女子大生も「ちょっとそこのお姉さん」という声掛けに応じれば裏路地に引き釣り込まれ娼婦のごとく強姦された。
ボランティアに名を借り、観光気分で当地を訪れる者に対し被災者の多くは気分を害していたことも強姦行為に拍車を掛けた。
府県は、今後の復興計画をする上でこれら実態が公になることで街の名誉を保つこと。更には震災に次ぐ二次的な市町の風評被害を懸念し、これらはマスコミやその他報道機関には一切公表しなかった。
震災から復興の兆しを見せ始めた頃、小学校で授業が再開された。生徒の間では「ウチはかあちゃんもとおちゃんも地震で死んだのになぜあんなヤツの家族が―」と、他人の幸福を逆に否定する動きが強まった。
12でってぃう太田◇TAKAYUKI:2011/05/28(土) 22:43:32.86 ID:Lud3/UdH0
それらやり場の無い感情は後にいじめへと発展を見せた。いじめそのものも時代と共に陰湿化を見せ、体育館裏など人目のつきにくい場所に呼び出しては集団暴行を嗾けるリンチが横行した。
学校は“イジメ行為は我が校の名誉に関わる”という方策を取っために、よりいじめの温床を与えてしまった。
震災で打撃を受けた人々にとって家族・親族の安否から起こり得るイジメなど想定内にあり、被災者は自分の家族を失った辛さをどこにも向けられないやっかみはイジメに及ぶ自我の行動を良心が咎めることはなかったのである。
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<b>Age.13〜18</b>
小学校を卒業すると同時にママと父と私の三人は神奈川県横浜市に転居した。祖父母にも転居を奨めたが、生まれ育った吹田の街に残りたいという希望を尊重し我々家族だけで転居を決めた。
引越し当日、天気は予報に反して雨だった。「春の嵐だね」と引越し業者のトラックドライバーが呟いた。横浜という街は繁華街が華やか過ぎる分、住宅地に入れば人の歩く足音もはっきり聞こえるような静けさがあった。
中学校に上がった。男子生徒も何人かは小学校卒業と同時に大人の恋愛思想に早く馴染もうと奮って女子に声を掛けていた。
「A組の○○っているだろ?あいつ、大人しそうに見えて裏ではどんだけ激しいか、お前ら想像付くか?」
チャラけた行動が印象強いAは行く当て知れずにナンパ行為を繰り返していた。中学3年にもなると、周囲もそれぞれの恋愛思想を持つようになり、独自のデートコースを持つようになった。
夕方の喫茶店で待ち合わせてあとはホテルでインするか駅前でアウトするかなんていう会話も囁かれた。『援助交際』という言葉が俗世間に広まり、次第に生徒間では『エンコー』と略されるようになったのもこの頃からだった。
私はこの街で夏の夕立が降った後に西の空がパーっと明るくなる本の数分間が好きだった。生まれ故郷を連想したのだろう。こんな夕日の差し込む昭和40年代の街並みを歩く。そんな個性的な思想がいつの間にか理想のデートコースを固定していたのかもしれない。
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13でってぃう太田◇TAKAYUKI:2011/05/28(土) 22:44:10.59 ID:Lud3/UdH0
高校生になった私は部活も入らずぷー太郎のような毎日を過ごした。男子校の専門学校を受験し、周囲も今までの生活に比べると堕落の一途を辿ったように思えた。
幾月かたったある日、自宅近くの商店街で中学校の友人と呼べる友人に会った。喫茶店に入るや否やいきなり話し出した。
クラスでは男女を問わずイジメが横行し、学校も事なかれ主義だから一向に解決する兆しさえ見せないという。教師も数人は生徒の親からの苦言苦情に耐えかねて精神疾患を起こす者までいるという。
「ヤンキーにボコられて大怪我とか昔のようにイジメが顕在化しないんだよ。ノートに落書きして相手を精神的に陥れたり相手の肉体が標的ではなくて相手の心・精神が標的になってるから質が悪いんだよな。」
そういってポケットから大胆にタバコを取り出し火をつけた。その後、彼は付き合っていた彼女に暴力を振るう癖が付いてしまい学校を退学になったと聞く。今でも連絡が取れない以上、どのような生活を送っているかは分からない。
私は、タバコの吸い方が今でも分からない。けれど、仕事を始めてこういう時に吸いたいのかな。と勝手に想像するようになった。無論、そんな時は珈琲は飲むことはあってもタバコは吸ったことはないのだが。
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あれは高校3年の秋だった。夏休みを終えて教室に行くと見慣れない女子が1人窓辺にポツンと座っていた。
「お前がサボってる間、とっくに転校してきてるよ」
そう言って友人は私を鹹かった。左手には大きなリストバンドがしてあり、その端からは無数の切り傷が垣間見えた。リストカットという類だろう。
大人たちはそれら自傷行為を見ると理由も聞かずに静止する傾向があるが、自傷行為を行う者にとってリストカットは自分が生きていることを実感する行為である。その行為を制止させてしまうと当人は心の葛藤をガス抜きできなくなってしまうことを後から知った。
その女子は校風に馴染めず2ヵ月半で学校を去っていった。生まれは私と同じ関西地方で、彼女もまたあの夕暮れになずむ街を歩いていたのだろうかと勝手な妄想にふけていた。
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14でってぃう太田◇TAKAYUKI:2011/05/28(土) 22:45:59.77 ID:WwSYAJOfO
<b>Age.19〜Present</b>
高校を卒業した私は、関西に戻り、日本全国をネットワークする貨物鉄道会社に就職した。当初は運転士の希望を出していたが、精神面のケアと喘息持ちであることが発端となり適正が認められなかった。
配属先は関西屈指の巨大貨物ターミナル駅の操車係だった。一日の間に無数の列車が昼夜を問わず着発し、ひたすら到着する貨車を仕分け線に転線していく入換業務に就いた。
周囲の友人らからは私に似合った仕事でうらやましいと賞賛をされたが、他人の思うほど労働環境は良くなく、むしろ劣悪だった。
『お前は勉強が足りないんだよ―』と漠然とした回答を繰り返しては自分の考えをゴリ押しする上司。自分の性格に少しでも当てはまらなければ拒絶する上司など、ある意味じゃ動物園で飼育されている無能な下等生物の檻同様であった。
社員には基本動作を学ばせるはずの養成駅でありながらも安全対策は完全に形骸化していた。基本動作を破ってでも仕事が出来る上司を敬う。これが駅としての在り方だった。
国鉄解体により中高年代の社員が居らず、1年先輩の若手上司達はたった1年でしか違わない癖して先輩の名に託けて自分は全て勝っているという固定概念を持っていたことが駅の安全管理崩壊に拍車を掛けていた。
入社2年目にして私は会社を退きフリーターとなったが、退社を一週間前に控えた頃、ある切欠で知り合ったH機関区の運転士より
「お前、なりたいんだろ?運転士に。来年はお前の同期も何人かウチのクラに来るし、なんなら俺の力でなんとかしてやったっていいんだぞ。大丈夫。俺に任せてみろって!」
その誘いを言下に断り、以降関係を濁してしたまま私は退社した。
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