<b>Age.19〜Present</b>
高校を卒業した私は、関西に戻り、日本全国をネットワークする貨物鉄道会社に就職した。当初は運転士の希望を出していたが、精神面のケアと喘息持ちであることが発端となり適正が認められなかった。
配属先は関西屈指の巨大貨物ターミナル駅の操車係だった。一日の間に無数の列車が昼夜を問わず着発し、ひたすら到着する貨車を仕分け線に転線していく入換業務に就いた。
周囲の友人らからは私に似合った仕事でうらやましいと賞賛をされたが、他人の思うほど労働環境は良くなく、むしろ劣悪だった。
『お前は勉強が足りないんだよ―』と漠然とした回答を繰り返しては自分の考えをゴリ押しする上司。自分の性格に少しでも当てはまらなければ拒絶する上司など、ある意味じゃ動物園で飼育されている無能な下等生物の檻同様であった。
社員には基本動作を学ばせるはずの養成駅でありながらも安全対策は完全に形骸化していた。基本動作を破ってでも仕事が出来る上司を敬う。これが駅としての在り方だった。
国鉄解体により中高年代の社員が居らず、1年先輩の若手上司達はたった1年でしか違わない癖して先輩の名に託けて自分は全て勝っているという固定概念を持っていたことが駅の安全管理崩壊に拍車を掛けていた。
入社2年目にして私は会社を退きフリーターとなったが、退社を一週間前に控えた頃、ある切欠で知り合ったH機関区の運転士より
「お前、なりたいんだろ?運転士に。来年はお前の同期も何人かウチのクラに来るし、なんなら俺の力でなんとかしてやったっていいんだぞ。大丈夫。俺に任せてみろって!」
その誘いを言下に断り、以降関係を濁してしたまま私は退社した。
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平成17年。山崎貴氏を監督とする映画「ALWEYS 三丁目の夕日」が公開された。昭和30年代の東京下町に暮らす人々の交流を忠実に描いた作品の内容は、かつて、自分が思い描いていた夕日の暮れなずむ街が好きだという感情と妙に合致した。
数年前まで働いていた駅も思えば夕日がきれいだった。夕方16:00過ぎに入ってくる列車を迎えに行くとき、着発線のレールが一斉に光った。「あぁ、あの時と同じだ・・・」ママに抱かれ父親の職場へ行ったときと変わらない光景がそこにはあった。
幸せって、意外と近くにあるのに人間は無情にもその有り難味に気付かない。私が今日まで生きてこれたのも、そんな当たり前の毎日が積み重なっているからこそのことなのは相違ない。
フリーター生活で土方仕事に甘んじる今でもふと夕日に染まる空や茜雲を見ると心が和む。夕日、それはあたりまえの日常が平和に送れている印なのかもしれない。