配給・試運転・回送ダイヤ part76

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418でってぃう太田◇TSUBUYAKI苦労
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大阪から転居して間もなく、私は中学入学を果たした。市内の郊外住宅内にひっそりと建つ公立中学校だった。大阪も横浜も同じ日本の土の上に存在する街なのにこっちは人も物もロボットのように見え、なんか違うなぁと一人で感じていた。
授業でも、野外学習でも生徒は先生の期待した答えを要求され、どこへ行っても当たり前のように「楽しいな〜、面白いな〜」という学ぶことに対する探究心を求められたことから、無理やり感情を捻じ込まれているようにも思えた。

ある日の夕方、家でとある民法放送を見ていると大学教授を名乗る大柄な男が急増する核家族と深刻化する中高年世代の無縁社会現象を軸に熱弁を振るっていた。
「今の日本は完全に腐敗しているのです!男女共々自らの足で独裁的な駒を進め、行き詰れば自殺!これが現代社会の・・・」
始めは耳も傾けなかった私だったので詳しくは覚えていないが、現代社会を生きる20〜40代の生き様を根本的に否定しているようで私は妙に“可笑しかった”。
そんな無縁社会の原因が自分の送る身近な学校生活で束縛されていることと関連性を持っているように思ったのだろうか。
私の通っていた中学校には当時の公立中学校としては珍しく鉄道研究部が存在した。
スポーツ系の運動部と比較すると一部活としての在り方をやや斜に構え、心の許す仲間同士での拠り所を作ることをコンセプトとして設立されたささやかな部だった。が、居心地は良くても周囲から見れば全体的には暗い印象を持たれる部だった。
ある日、部室を訪れると入部希望の女子が1名来ていた。
「これ、165系って言うんですよね!私、この電車大好きなんですよぉ!」
窓辺に目をやると、そこには確かに実物の1/160スケールで製作された鉄道模型が飾られていた。
部員達の大半は陰気臭い部に光を見つけたように錯覚したのか、はたまた独自の幻想の虜になっているのか定かではないが、ラリッたように彼女を歓迎した。
419でってぃう太田◇TSUBUYAKI苦労:2011/02/02(水) 21:29:38 ID:R2HrYaWN0
その部員の中に同じクラスの筋金入り鉄道マニアが1人居た。現代的なファッションに身を包み、髪を茶色に染め、サングラスを掛けた男がアルバム片手に写真を自慢する立ち振る舞いは何故か不釣合いで“可笑しかった”。
彼は、現代のの波に乗り遅れまいと、誰でも良いから彼女を欲しがっていた。
「俺だって彼女1人や2人欲しいぜ!あ、2人はまずいか。ハハッ。別にネズミが棲んでいるお伽の国とかじゃなくたっていいからデートしてさ、街角の喫茶店に入って珈琲1杯飲むだけだっていい!なあ、これだって立派なD・A・T・E、そう!デートだよな!?」
やたらとせっかちに話を進めては自爆論を繰り返す彼の言動には正直苦痛を伴い、八割方恋愛小話の会話には大抵相槌で打ち交わしていたように思う。
<img src="http://dl7.getuploader.com/g/8%7Cryo0303/139/koi.jpg">
ある日、私は唯一無二の女子部員である彼女にこう言ってしまった。
「この部活はさ、単に学校に馴染めない奴らの駆け込み寺なんだよ。キミも早い所立ち去った方がいいよ。学校・・・いや、社会の偏西風を受ける前にさ・・・」
ちょうどその頃、世間では何かに熱中する人物を蔑むように『オタク』という言葉が流行した。今では意味合いの変わりつつあるこの単語も当時はもっと差別的かつ暴力的な意味がとても強かったように感じた。
彼女をこの部活から解放することは自分の中では正しかったと自負していた。しかし、数日後に私は部長から退部勧告を突きつけられ、呆気なく部から身を引くことになってしまった。
蜘蛛の糸掴むよ思いでせっかく訪れた女子を辞めさせたことが気に食わなかったらしい。
でも、部員の多くは彼女を人間としてではなく、部内の和やかさを生み出すロボットのように見ていたような感じがし、私自身妙に厭な気がしていたのは確かであった。
420でってぃう太田◇TSUBUYAKI苦労:2011/02/02(水) 21:30:39 ID:R2HrYaWN0
国鉄に169系が誕生したのは1967年のことだった。1960年代前半に中央本線全線が電化され、この頃から国鉄は長距離優等列車を従来の客車から電車に変遷させる計画を立てていた。
先立って製造された165系は169系の兄分に当たり、169系は信越本線横川〜軽井沢間におけるEF63との協調運転を可能にした165系の派生形式で、試作車4両と量産車29両が製造された。
いずれも、登場当時は各地の本線で準急・急行列車に充てられていたが、日本新幹線網が完備されるやいなや、急行という種別は快速、もしくは特急に改められ徐々に姿を消していった。
中学3年の時に修学旅行で使った形式も165系だった。朝ラッシュも一段落した横浜駅10番線ホームにやってきた車体はやつれたように錆を浮かせ、急行列車衰退で活躍の場を狭められた凋落の道を歩む姿のようにも写った。
黄色くくすんだ蛍光灯のせいか暗い車内だった。それでも、生徒らは卒業前に最後の思い出作りに勤しみ、かの同じクラスだったチャラけた鉄道マニアも女子を見つければ手当たり次第声を掛けていた。
鉄道研究部設立後、初の女子部員となった彼女も同じ仲良しグループの輪にすっかり馴染んでいたように見えたが、時折車窓に顔を近づけ何を考えているのか過ぎ行く景色を追っていた。
私は、客室通路に立ち、横一列に並んだ窓から外を眺めた。ドアの無く開放感のある室内からはまるで、映写式の幻灯を見るように流れていく外の景色が強く印象に残った。
421でってぃう太田◇TSUBUYAKI苦労:2011/02/02(水) 21:31:26 ID:R2HrYaWN0
2003年秋、165系列はJR線上から全て姿を消し、うち何両かは地方私鉄に売却された。
富士急行では2001年に当時の三鷹電車区に所属していたジョイフルトレイン「パノラマエクスプレス・アルプス」を買取り、自社線内では2000系を名乗り運行を始めた。
既にジョイフルトレインとして先頭車両を展望車に改造されていたため、原型往時の姿を想像することは難しかったが、富士吉田にある車両基地にはたった1両だけ169系の原型を留めたクモハ169-27が置かれていた。
売却時には既にJR線上から近々全廃させることが決定していたため、部品取り用に原型の種車を1両買取っていたものだった。
この場所を訪れたのは日曜日で、線路に接するバス会社の駐車場は伽藍堂のごとく門前雀羅が張っていた。
『ヨシ!誰も居ない!』
敷地内から無断撮影などご法度もいい所だが、これ1枚を撮りにここまで足を運んだ自分からすると手ぶらで帰ることなど許されない気がして堪らなかった。小走りで駐車場に入り込み1枚だけ撮影して大急ぎで帰りの電車に乗った。

帰ってから写真を見ると雄大な山麓に敷かれたレール上に置かれた車体の姿が写し出されていた。淡雪を被った山の稜線が日光連山を思い起こさせ、あの日の修学旅行がふと思い出された。
もう、あの恋愛理論にチャラけたマニアも社会人になり、鉄道研究部唯一の元・女子部員もお母さんになる頃だろう。“鉄子”というキーワードが世間に浸透した今、自分の子供には熱心に電車の知識を叩き込んでいるかもしれない。
-END-