小林一三,今西林三郎,金森又一郎,大塚惟明,太田光熈
1 :
名無しでGO!:
これら関西大手私鉄の基礎をつくった創業者たちについて語ろう。
小林一三(阪神急行電鉄(現阪急電鉄)第3代社長 1927〜34)
今西林三郎(阪神電気鉄道専務:事実上第3代社長 1907〜17)
金森又一郎(大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)第4代社長 1927〜37)
大塚惟明(南海鉄道(現南海電鉄)第4・6代社長 1910〜17,23〜24)
太田光熈(京阪電気鉄道第4代社長 1925〜36)
2 :
名無しでGO!:03/05/21 16:23 ID:H++rxx/A
早見優で2ゲット
小林一3ゲット
井内彦四郎(関西急行電鉄代表取締役)はだめですか?
5 :
名無しでGO!:03/05/21 19:59 ID:ysXFZpol
1の客を獲得しました。どうもありがとさん。
南谷昌二郎でした。
6 :
名無しでGO!:03/05/21 21:21 ID:hSPN/yW8
>>4 『東への鉄路 近鉄創世記』(木本正次著)を読まれましたね。
7 :
名無しでGO!:03/05/22 02:14 ID:/699L0Rq
小林一三(こばやしいちぞう)1873〜1957
明治6年山梨県に生まれ、明治25年に慶應義塾大学を卒業後、三井銀行入行。
三井銀行の上司の岩下清周(箕面有馬電気軌道初代社長)の薦めにより阪鶴
鉄道の監査役となり鉄道業界に足を踏み入れる。その後、阪鶴鉄道は国有化
され、箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)の創立発起人として名前を連ねる。
明治40年専務取締役に就任。梅田−宝塚と石橋−箕面間を開通させた後も旅客
誘致に取り組み、沿線の池田に大規模な分譲住宅地を販売した他、娯楽施設
「宝塚新温泉」を開園、同温泉の娯楽サービスの一貫として現在の宝塚歌劇の
前身である「宝塚唱歌隊」を結成させた。大正6年には灘循環電気軌道の特許を
譲受し、念願の神戸に進出。これが現在の阪急神戸線となった。これを機に社名
も「阪神急行電鉄」と改め(大正7年)、昭和2年には平賀敏社長の後を受けて
第3代社長に就任。昭和4年には日本初のターミナルデパートを梅田に開設し
(現在の阪急百貨店梅田本店)、その最上階に設けた食堂のライスカレーは大好
評だった。この創業期における多角的経営手法はその後全国各地の私鉄経営の
モデルとなった。
●参考文献
「逸翁自叙伝 青春阪急を語る」 小林一三
「わが小林一三 清く正しく美しく」 阪田寛夫
「阪神急行電鉄25年史」 阪神急行電鉄
8 :
名無しでGO!:03/05/22 02:15 ID:/699L0Rq
今西林三郎(いまにしりんざぶろう) 1852〜1924
嘉永5年愛媛県に生まれ、のちに上京して三菱商業学校を卒業後実業家として
海運業、石炭業に従事する。やがて重化学工業の進展に伴い阪神間が発展す
ることを見越して、大阪−神戸間を結ぶ鉄道の計画を推進し、阪神電気鉄道説立
の発起人の一人として名を連ねる。明治38年に阪神電気鉄道が開業、大阪神戸
を結ぶ高速電気鉄道の先駆けとなる。その後、同社専務取締役に就任、外山脩造
初代社長退任後、空席となっていた社長に代わり代表権を継承する。その間、旅客
収入を増加を図るために小冊子「市外居住のすすめ」を発行し、沿線各地に賃貸住
宅を建設する。一方、灘循環軌道を巡り小林率いる阪神急行争うが敗北、阪急の神
戸進出を余儀なくさせるが、北大阪電気軌道を設立させ天神橋に進出しのちの阪神
国道線の基礎をつくる。また、それまで豊中で行われてきた全国中等学校野球大会
を沿線の鳴尾に誘致に成功し、これが甲子園球場のルーツとなった。この時始まった
阪神と阪急のサービス合戦は今でも語り草となる。
●参考文献
「阪神電気鉄道八十年史」 阪神電気鉄道
9 :
名無しでGO!:03/05/22 02:15 ID:/699L0Rq
太田光熈(おおたみつひろ) 1874〜1939
明治7年山口県で生まれる。31年に東京帝国大学を卒業後逓信省鉄道局に入省するが
京阪創業のひとりである渡辺嘉一専務(のち会長)の誘いにより京阪電気鉄道に総務課
長として入社する。その後、出世街道を進み大正6年に第4代社長に就任。日本初の色
灯三位式自動閉塞信号機を導入したのも彼であった。また、京阪間を越え各地に雄飛を
試み京津電気鉄道(現在の京津線)を併合し滋賀県に進出したほか、和歌山軌道線をも
手中に収めた。その最たるものが淀川右岸を走る新京阪線(現阪急京都線)の建設であ
った。この路線に関してはゆくゆくは名古屋までの延伸を計画していたそうである。
しかし、奈良電気鉄道および東大阪電鉄を巡る5大私鉄疑獄事件にも巻き込まれ、多額
の負債を抱えることとなりその計画も頓挫する。その一方で旅客誘致策として枚方駅(現
枚方公園)で菊人形展を開催したり、公共性の高い施設である学校を沿線に誘致したり
するなど特色のある沿線開発を行う。
●参考文献
鉄道ピクトリアル No.695 「【特集】京阪電気鉄道」
「鉄路50年」 京阪電気鉄道
「京阪七十年のあゆみ」 京阪電気鉄道
10 :
名無しでGO!:03/05/22 02:16 ID:/699L0Rq
金森又一郎(かなもりまたいちろう) 1873〜1937
明治6年大阪市に生まれ、小学校中退後大阪府に出仕するが後に退庁し実業界入りする。
府庁時代の上司だった七里清介の誘いにより大阪電気軌道の設立発起人に名を連ねる。
明治43年に大阪電気軌道(以下大軌)が発足、同社取締役兼支配人に就く。難関であった
生駒トンネルの開通にも尽力し、大正3年の上本町−奈良間の開通にこぎつけた。
生駒トンネルは工費がかさみ、一時は会社存続の危機に苛まれたが、そのときの逸話として
金森支配人が生駒宝山寺で賽銭を借りて社員の給料を確保したという話は今でも語り草である。
その後、片岡直輝(南海鉄道や大阪瓦斯社長を歴任)や大林芳五郎(大林組社長)の援助など
により、経営は軌道にのり、大軌は転じて積極策に乗り出す。昭和2年第4代社長に就任してか
ら半年後、子会社、参宮急行電鉄を設立し伊勢方面への進出に乗り出す。参急は同社支配人
井内彦四郎(のち参急専務取締役)の尽力もあり伊勢電鉄を併合、関西急行電鉄の設立により
名古屋へ進出した。彼こそ現在の「近鉄帝国」の基礎をつくった社長であったと言えよう。
●参考文献
鉄道ピクトリアル No.727 「【特集】近畿日本鉄道」
「東への鉄路 近鉄創世紀」 木本正次
「80年のあゆみ」 近畿日本鉄道
11 :
名無しでGO!:03/05/22 02:16 ID:/699L0Rq
大塚惟明(おおつかこれあき) 1864〜1928
元治元年に熊本県に生まれ、東京帝国大学を卒業後逓信省鉄道局に入省する。
その後、山陽鉄道、讃岐鉄道に転じ、阪堺鉄道(後の南海鉄道 現南海電鉄)に
入社。讃岐鉄道時代は女性列車給仕を採用するなど斬新なアイデアを展開し、
「旅客吸収策の天才」とまで謳われた。そのアイデアを活かし、それまで非電化
だった南海鉄道の難波−和歌山市間の電化複線化工事を推し進め、明治44年
には完成、当時としては最も長距離の電化工事を完成させた。また南海にとって
悩みの種だった競合区間を走っていた阪堺電気軌道を併合し、同一地域内にお
ける競争状態を解消させた。鉄道事業以外でも浜寺海岸を整備し海水浴場を開
設したり旅客誘致を図った。明治43年以来5年にわたって社長の座にあったが、
その席をかつてのライバルだった片岡直輝(元阪堺電気鉄道社長、南海に移って
からは専務取締役)に一度譲るが、8年後の大正13年に再び社長の座に返り咲く。
彼もさまざまなアイデアによって南海を発展させた社長であった。
●参考文献
「南海電気鉄道百年史」 南海電気鉄道
「阪堺百年」 阪堺電気軌道
12 :
名無しでGO!:03/05/22 17:42 ID:OZ2MBslt
age
13 :
名無しでGO!:03/05/23 12:22 ID:7XMGbsPD
14 :
名無しでGO!:03/05/23 17:52 ID:/vk+SzN2
JR酉社長
このスレに出る資格は無い。
スマソ
逝ってくる
17 :
名無しでGO!:03/05/23 20:41 ID:eSBO1HJS
小林一三以降の阪急の社長の名前を教えれ。
18 :
名無しでCO!:03/05/23 22:15 ID:pF4Usqve
>>1 関西系鉄道会社功労者スレは立てて欲しかった。お疲れ。
それにしてもこの人たち地元関西出身の人が少ないなぁと
>>17 百三と不公平しか知らんなぁ
昔から近鉄は三菱とのつながりが強いね。
でもなぜ関西で三菱なんだろうか?
阪急と南海は三和系だし
京阪と阪神は住友??
関西の企業って三和と住友系列が多いのに
20 :
名無しでGO!:03/05/23 22:53 ID:dUIgCRQD
>19
電気部品の供給の関係。
>>18 岩下→平賀→一三→上田寧→佐藤→太田垣→米三・・・柴谷→公平→菅井→大橋
ここまでは知っとる。
・・・の部分がようわからん。
>>17 1927年に小林一三が就任し、1934年まで在任。
小林退任後、暫く社長は空席だったが、1936年に副社長だった上田寧が昇格し、
1ヶ月後、小林一三が後任に選んでいた佐藤博夫にバトンタッチさせる。
1946年、追放令を前に佐藤は辞任し、再び小林の眼鏡にかなった太田垣士郎が
就任。
1951年、太田垣は乞われて関西電力の社長に就任し、後任は、これまた生え抜き
の和田薫が就任。
1959年に、小林一三の三男、小林米三が就任したが、1969年に急逝。
急遽、生え抜きの森薫が就任。
1978年に、柴谷貞雄に交代。
1987年には、小林米三の女婿である小林公平が社長に就任。
1993年に菅井基裕にバトンタッチ。
1999年から大橋太朗となり、バブルの後始末を付けて、大幅な赤字の
責任を取って退任。
今年から角和夫となるらしい。
>>22 なるほど、米三さんと柴谷さんの間にはひとりしかいなかったんですね。
社史で調べたんですけど50周年までのしかなくてね・・・
どうも有難うございました。
>>22 ちなみにその森薫氏とは確か北大阪急行電鉄の初代社長をされた方ですよね?
連続カキコすまそ
>>8 北大阪電気軌道、北大阪電鉄,それに北大阪急行電鉄とどういうわけか似たような
名前が出てくるな。
●北大阪電気軌道(明治43年10月1日創立)
明治44年1月に阪神電気鉄道に吸収される。 阪神北大阪線(野田阪神−天六)
阪神国道線(野田阪神−上甲子園)とともに昭和50年5月5日廃線。
●北大阪電気鉄道(大正7年11月24日創立)
現阪急千里線。
昭和3年3月1日、京阪電気鉄道に吸収。
昭和18年 阪神急行電鉄と京阪が合併。
京阪分離後、新京阪とともに阪急に残る。
●北大阪急行電鉄(昭和42年12月11日創立)
江坂−千里中央間、昭和45年2月24日開業。
大阪市営御堂筋線に乗り入れ。
阪急系。
27 :
名無しでGO!:03/05/24 21:28 ID:ySeOSe8Q
age
>>26 北大阪電鉄と北大阪急行電鉄はどちらも阪急が絡むのは面白いな。
しかもどちらも千里地区に大いに関係深いし。
29 :
名無しでGO!:03/05/25 00:32 ID:+Img+Fd/
>>26 北大阪の車両が信貴生駒電鉄に譲渡されてたわな。あと同線の使用車両の製造元は阪急の池田工場だったらしい。
ちょうどこの頃は京阪のバブル的経営政策であちらこちらの事業を買収拡大していた時期だね。
30 :
名無しでGO!:03/05/25 10:35 ID:LRXaNjko
北大阪電鉄は一時京阪土地という会社になっていたわな。
京阪電鉄和歌山市内線とかあったね。
>>31 太田社長時代の話だね。
その後和歌山軌道線は和歌山水力電気、合同電気、和歌山電気軌道と数奇な運命を
辿り南海電鉄の傘下に入り、昭和46年に廃止。しかしそれにしても何で京阪があんな
ところに路線をもっていたんだろうね。
>>32 電力事業や副業の拡大が関係あったと思われる
34 :
名無しでGO!:03/05/25 21:11 ID:6p8tmqiz
age
35 :
名無しでCO! :03/05/25 21:57 ID:2i+om+iw
何か昔京阪っていろいろ手出しまくってたんだな
まあここで損してたからこそバブルでひどい目見なくて済んだし
まさに塞翁が馬ってやつですな
>>35 その辺に関してはピクトリアルの京阪特集に詳しい記事があったはず。
結局、太田社長時代の拡張主義が裏目にでて、ドル箱路線といわれた新京阪を阪急にとられた。
37 :
名無しでGO!:03/05/25 23:12 ID:1Sahkxvu
>>36 はっきり言って新京阪線はドル箱路線には程遠い経営状況だったよ、創業当初から。
子会社でスタートさせたものの惨憺たる経営状況の為親会社に合併(似たパターソは千葉急→京成?)されたぐらいだから。
で後に京阪・阪急合併するもお上の強制的な推奨に折れただけで必然性はなかった。
>新京阪を阪急に盗られた
国鉄と競合する関係上、淀川東岸の本線を重点的に設備投資したい京阪は新京阪線を阪急に渡した方が得策と考えていたみたい。
また新京阪線は路線単体で見ると大幅な不採算路線だったので、とばっちりで本線系の経営状況も悪化させかねんとの判断で旧京阪系の幹部から分割を提唱した訳。
実際に「儲かる路線」になるのは昭和39年以後の高度成長期からだから>京都線
某掲示板で「阪急は泥棒」というタイトルには笑ったなぁ(w
>>37 新京阪の分離は組合の行動などが影響したと何かで読んだような気がする。
本当の理由が良くわからないが、線路がつながっているのは大きいと思う。
近鉄・南海の分離のときは綺麗にもとのまま分離したのに対し、阪急・京阪の
分離は今でも何か不可解な部分ってあるよね。前者が昭和22年という戦後、
結構早い時期の分離だったのに対し後者は昭和24年まで一緒だったのだからね。
場合によっては近鉄・南海の分離に際しては同じ狭軌だった旧大鉄の路線が南海
についていってもよかったのにね。
終戦直後の航空写真を見てみるとわかるけど京都線沿線は田畑ばかり。
ドル箱というには程遠い状況だったと思われ。
42 :
名無しでGO!:03/05/26 19:15 ID:8JdBg94y
age
43 :
名無しでGO!:03/05/27 00:40 ID:UIiknT0m
奈良軌道 河陽鉄道
│ │
大阪電気軌道 河南鉄道
│ │
│←天理軽便鉄道 参宮急行鉄道 大阪鉄道
│←生駒鋼索鉄道 │ . 南大阪電鉄→│
│←城東電気鉄道 │←伊勢電気鉄道 .│
│←長谷鉄道 │←関西急行電鉄 .│
│←伊賀電気鉄道←伊賀軌道 . │←養老電鉄 .│
│←吉野鉄道 │ │
│←──────────-───┘ │
│ │
関西急行鉄道←─────────────────────┘
│
│←南和電気鉄道
│←信貴山急行電鉄
│←南海鉄道
│
近畿日本鉄道
44 :
名無しでGO!:03/05/27 00:41 ID:UIiknT0m
近畿日本鉄道
│
│──(南海鉄道分離)─→南海電気鉄道
│←奈良電気鉄道
│←信貴生駒電鉄←──大和鉄道←──田原本鉄道
│←三重電気鉄道
│←東大阪生駒電鉄
│
↓
45 :
ト○×:03/05/27 05:00 ID:4gJFx6iW
46 :
名無しでGO!:03/05/27 21:58 ID:njO6dc+g
阪神の今西林三郎専務は何で社長にならなかったの?
当時、社長職は空席だったのに。
47 :
名無しでGO!:03/05/27 23:48 ID:6EpnV6LW
で、ここにはしRの社長は入れるの?
入れない。それ程の大人物がいない。
完全な民間会社になってからどうぞ
申告漏れを「他もやっているやん」と正当化する社長じゃぁね…
その前にJRは歴史がまだ浅いよな。かといって大鉄局等を語るにもいささか(ry
51 :
1:03/05/28 01:06 ID:yibEroeG
JRファンの方、誠に申し訳ありませんがご遠慮ください。
JRグループに「創業者」と呼ばれるような方がおられるかどうかも疑問に思いますし・・・
但し、現JR路線でも戦前の阪和電気鉄道、阪鶴鉄道などこれら私鉄創業者に関連する
話ならOKだと思いますよ。
>>29 その北大阪電鉄の一部車両,愛宕山電鉄を経て京阪にも逝ったな。
確か大津線系統で使われてたと思われ。
最初四宮車庫火災の補充車かと思ってたけど,入線したのは意外と戦前だったらしいね。
53 :
山崎渉:03/05/28 08:39 ID:BbSFvh1O
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
JRの創業者は中曽根康弘。
腐れ銀行の経営者どもは阪急の公平さん、菅井さんを見習って退職金を辞退しる!
とくにりそな、お前だよお前。
57 :
名無しでGO!:03/05/28 21:37 ID:ZlghsBts
age
58 :
名無しでGO!:03/05/29 21:35 ID:xv9raLJh
「君よ日に新たなれ 鉄路を走り続けた男佐伯勇伝」は「東への鉄路」の続編として読めば面白い。
奈良電の合併を巡る京阪電鉄の村岡社長とのかけひきが非常に興味深かった。
60 :
名無しでGO!:03/05/31 16:47 ID:Zfx8SaK3
厨房消防
>>44 正確にはこう。
近畿日本鉄道 高野山電気鉄道
│ .│
│─────────(南海鉄道分離)───────→南海電気鉄道
│←奈良電気鉄道 │
│←信貴生駒電鉄←──大和鉄道←──田原本鉄道. │
│←三重電気鉄道 │
│←東大阪生駒電鉄. .│
│. │
↓. ↓
ピク増刊号か。
63 :
名無しでGO!:03/06/01 01:33 ID:H5/Qyb0S
高野山電気鉄道と高野大師鉄道、大阪高野鉄道とはどう違うのですか?
>>63 最初は、堺と橋本の間の堺橋鉄道として出願したが、1894年6月に高野鉄道と
して資本金150万円で会社を設立し、1898年に大小路(堺東)〜狭山〜河内長
野を結ぶ。
しかし、南海鉄道に接続するのは種々の状況から出来ず、1900年に道頓堀
(汐見橋)〜堺東を結んで、大阪に直結。
ところが、不況で経営が思わしくなく、長野以南は一旦放棄し、減資を二度に
わたって断行。
1906年に高野登山鉄道を設立し、高野鉄道の事業一切を引き継ぐこととなる。
1910年に漸く、延長申請を提出し、経営権が地元資本の寺田一族から根津
嘉一郎に渡り、根津嘉一郎社長、早川徳次のラインで積極経営を展開。
1915年までに狭山から河内長野を経て、橋本、更に紀ノ川口まで延長。
1915年4月に大阪高野鉄道と社名変更。
続き。
一方、橋本から高野山への路線早期建設を目指し、1917年9月に高野大師
鉄道を設立し、橋本〜高野山麓の免許を持つ。
1922年、南海鉄道と大阪高野鉄道は合併し、建設中の高野大師鉄道も南海鉄道に
吸収され、1925年までに高野下まで開業。
1925年3月、京阪電鉄から高野下〜高野山への敷設権を譲渡してもらい、高野山
電気鉄道を設立し、1930年に開業。
で、この子会社が戦後まで存続し、南海電気鉄道の母体となる。
66 :
名無しでGO!:03/06/01 17:29 ID:9yi89yDq
age
67 :
名無しでGO!:03/06/02 22:05 ID:It2/2jx5
大阪堺間鉄道 紀泉鉄道 紀阪鉄道
│ .│ . │
阪堺鉄道 └──┬───┘
│ 紀摂鉄道
│ │ 高野鉄道
│ 南陽鉄道 .│
│ │ ↓
│ 南海鉄道 高野山登山鉄道
│ │ │
南海鉄道←───────┘ 大阪馬車軌道 .│
│ ↓ │
│←───浪速電気軌道←─大阪電車軌道 . │
│ │
│ 阪堺電気軌道 .│
│ │←───阪南電気軌道 │
│←──────┘ ↓ ↓
│←────────────────大阪高野鉄道
68 :
名無しでGO!:03/06/02 22:05 ID:It2/2jx5
│←────────────────高野大師鉄道
│←────────阪和電気鉄道
│←─────加太電気鉄道←─加太軽便鉄道 関西急行鉄道
│ │
│─────→国鉄阪和線 │
│ │
└─────────────┬───────────┘
.↓ 和歌山水力電気
高野山電気鉄道 近畿日本鉄道 │
│ │ ↓
南海電気鉄道 .│ 京阪電気鉄道(和歌山営業所)
│←──────────-.┤ │
│ │ ↓ 山東軽便鉄道
│ ↓ 合同電気 ↓
│ (近鉄) .│ 山東鉄道
│ ↓ ↓
│←──────────────和歌山電気軌道←和歌山鉄道
│
│──────────────→阪堺電気鉄道
69 :
名無しでGO!:03/06/03 23:06 ID:yZX4nMMA
70 :
名無しでGO!:03/06/05 00:01 ID:sQs2loGB
阪鶴鉄道と阪急ってどういう関係があるの?
>70
1891年に開業した尼崎〜伊丹を結ぶ、1067mmの川辺馬車鉄道が起源。
その免許線を一部使って、1893年に宝塚〜池田を結ぶ、762mmの摂津鉄道の営業が好調であった
ことから、関西財界の雄である岩下清周が介入し、1897.2.16にこの鉄道を譲渡してもらい、1067mm
の軌間に改軌して1897.12.27に、池田〜宝塚まで延長したのが阪鶴鉄道。
これは、小刻みに延長し、1904.11.3に尼崎〜福知山に達し、福知山から舞鶴まで、鉄道作業局の路線を
借り入れた。
今も昔も舞鶴は軍港。
で、国策上、これを国が買収して福知山線とした。
買収した資金を元手に、岩下等関西財界の人々が新たな投資先として選んだのもまた鉄道。
大阪〜宝塚及び、石橋〜箕面の路線免許を軌道で取得し、1910年に開業したのが箕面有馬
電気軌道で、1918年に神戸線の免許を取得したのを機会に、阪神急行電鉄と改名。
1920年に神戸線を開通させ、各支線を開業し、京阪を併呑して京阪神急行電鉄となり、1973年に
阪急電鉄となる。
なるほど、福知山線と阪急宝塚線はそういう関係にあったのか。
しかし、現在大阪−(西)舞鶴間の直通列車がないのが何とも寂しい。
73 :
名無しでGO!:03/06/07 00:02 ID:028Lyaxm
age
小林一三は日比谷に東宝系の映画館群を作る際に、
最寄りの有楽町駅を利用するサラリーマンをターゲットにしたといわれている。
これと同じことは阪急の沿線でもやっていたろう。
75 :
名無しでGO!:03/06/08 12:42 ID:GXoYmh3C
東宝って東京宝塚の略称だったんだね。
知らんかった。
ちなみに元テニスプレイヤーの松岡修造って一三翁のだってな。
>74
スレ違い気味になるけど、郊外に延びる住宅地に住む人々に娯楽を提供するため、
有楽町駅の乗降人数、日比谷から銀座への人の流れから換算して、日比谷交差点を
通る通行人が20万人/日あることを把握し、銀座に近くて丸の内のオフィス街に近い、
日比谷に目を付けた。
一三は、乞われて、1927年に東京電灯の再建に注力するため、取締役に、1933年には、
その社長に就任している。
そして、実業の拠点を東京に置くため、1934年に阪急の社長を辞し、会長に就任したが、
その前の1932年に浅草とは違った、家庭本位の朗らかで明るく清新な娯楽を提供する
アミューズメントセンターを作るため、(株)東京宝塚劇場を設立。
東電の副社長時代に、その東電の日比谷の土地1200坪を購入し、此処を中心とした一円
の土地に、1934年に東京宝塚劇場、日比谷映画劇場を開場、同時に東宝劇団も設立。
1935年に日本劇場を傘下に治め、有楽座を開場、1937年に東宝映画を設立し、その年には
帝国劇場も買収している。
また、1935年には横浜、名古屋、京都に東宝劇場を建設し、東宝劇場チェーンを確立した。
その後、1938年に、山手層の中流サラリーマン階級だけでなく、ブルーカラーとその家族を
対象に、しかも、その家庭は深川、千葉方面に多く点在していたことに目を付け、工場センター
娯楽街として、錦糸町に江東楽天地を設置している。
>>76 一三さんの三人の息子さんのうち次男の松岡辰朗氏が東宝グループを継ぎ、
三男の米三氏が阪急を継いだみたいだけど長男の人は何をしてた人なの?
>77
小林一三の長男冨佐雄は、一三の後の東宝社長(1955〜1957)、
東洋製罐社長などをしていたが、病身で1957年、東宝社長在任中に死去。
長女春子はサントリーの創業者鳥井信治郎の長男吉太郎に嫁ぐ。
ちなみに、この前辞めさせられた小林公平は、三菱財閥の金庫番の孫で、
三菱銀行取締役を父に持ち、母は緒方洪庵の孫娘だそうな。
弟は三菱商事の元会長。
80 :
名無しでGO!:03/06/08 19:01 ID:orFVfEVJ
一三と米三各氏には男女合わせてそれぞれ何人子供がいたんだろう?
逸翁の息子は3人でその三男に子供はいなかったってのはわかったけど
>80
小林一三の息子は3人(冨佐雄、松岡功、米三)、娘1人(春子)。
米三には子供がおらず、松岡功の娘、喜美子を養子に貰いました。
春子は鳥井家に嫁ぎ、息子が1人、これが鳥井信一郎。
松岡功の子供が、例の松岡修造。
喜美子の入り婿が小林公平。
82 :
名無しでGO!:03/06/09 12:24 ID:dHdOA5Wa
age
83 :
名無しでGO!:03/06/09 21:18 ID:qPXoKU/A
>>81 どうもです
なるほど、公平夫妻ともに父や祖父と血が全くつながってないのね。
そりゃ阪急グループをめちゃめちゃにしたんもわかるわ(w
84 :
名無しでGO!:03/06/09 21:30 ID:Veohoerr
「小林一三,今西林三郎,金森又一郎,大塚惟明,太田光熈」が創始者だとしたら
「小林米三、野田誠三、佐伯勇、川勝傳、村岡四郎」はそれぞれの中興の祖だと思うんだけど如何でしょう。
85 :
名無しでGO!:03/06/09 21:36 ID:/PP+RVq2
>>83 いあ、喜美子は、一三の次男の娘ですから血が繋がってない訳じゃない
でする。
ま、女婿の方は鉄道経営などどうでも良かったのかも知れませんが、寧ろ、
堤清二の様な感じの経営者タイプなのでしょうかね。
>>86 米三氏は三菱銀行の三村家ということで公平氏に目をつけたのではないでしょうか?
88 :
名無しでCO!:03/06/10 23:51 ID:4kwBej0x
89 :
名無しでGO!:03/06/12 12:29 ID:+xUu+yj9
age
>87
どうだろうね。
こういうのは結構、色々な思惑が絡む訳ですからね。
ただ、大三菱銀行とは言え、取締役ですからねぇ。
91 :
名無しでGO!:03/06/14 18:53 ID:CUE3Q+ZY
age
92 :
名無しでGO!:03/06/17 12:29 ID:W0+3tXOB
大喜橋
93 :
名無しでGO!:03/06/19 01:32 ID:S9qiOeyU
厨房消防
94 :
名無しでGO!:03/06/20 12:16 ID:pMQOmBAa
>>94 元々は国立大阪第42銀行(不吉な名前や)。
と言っても、国が作ったんや無く、National Bankの邦訳やから、詳しくは
国法銀行と言うべきものやったらしい。
これらは兌換紙幣の発行が可能と言うことで設立が許されたが、第四国
立銀行までで後が続かず、設立を促進するために、不換紙幣の発行も可
能にした…と言うことで、北浜銀行は後者やね。
資本は藤田組とか大阪の新興商人の方から出たみたい。
大正3年に取付騒ぎが起きて、その銀行は三和に吸収され、今はUFJ銀行
になっている。
>>95 ちょっと横道に入るかもしれないんだけど、
藤田組って大倉組などといっしょに明治の鉄道建設に
関係なかった?
>>96 関西私鉄における鉄道建設に関しては大林芳五郎(大林組)の名前なくして語ることは出来ないな。
生駒トンネルの建設は大林組によるものだし、片岡直輝らとともに大軌の危機を救ったのも彼だったし。
中上川彦次郎は駄目ですか?
>>96 藤田組は藤田伝三郎(略して藤伝)が作り上げた会社ですね。
藤田伝三郎は、長州の造り酒屋で、明治2年に上阪し、まず革靴の製造から
入ります。(日本で初めて革靴を作ったのが、藤伝だったりする)
その製靴業を足がかりに、兄と共に藤田組を設立し、兵部省に兵隊用の革靴
を納めるようになり、また大阪府とも革靴の納入を通じて関係が生まれ、やがて、
食い詰めた士族などを活用して、橋、建物の建設請負業に進出します。
西南戦争では、軍夫の調達などで資本を蓄え、藤田組の基礎を固めます。
で、その資本を元手に、官営の小坂鉱山の払下げを受け、これを経営し、その
効率化を図った上で他にも、石見の大森鉱山、台湾の瑞芳金山の開発に努める。
一方で、児島湾干拓も彼の事績であったりする。
建設請負業では、大阪〜京都間の官営鉄道、天神橋などの大阪五大橋梁、琵琶湖疎水
の開削、佐世保、呉の軍港建設も彼の会社によるもの。
続き。
実業界では大阪紡績(今の東洋紡)、大阪毎日新開(毎日新聞)、北浜銀行(三和銀行)、
湊川改修会社、汽車製造(川崎重工)、宇治川電気(関西電力)の設立や経営に参加して
いる。
鉄道界では、先程の小坂鉱山の積出し用に敷設した小坂鉄道もあるが、何と言っても、
阪堺鉄道の発起人で、路線敷設は藤田組、また最初に敷設した釜石鉄道の鉄道施設払
い下げ陳情にも積極的に関わっている。
にも関わらず、阪堺の経営前面に出ることはなかったが、阪堺の後身の南海鉄道が、
浪速電車軌道を合併する際に、調停に活躍している。
更に、山陽鉄道の設立委員にもなり、こちらは常議員となっている。
藤田組自体は大倉商事破綻の際、大倉組を救済して、建設部門は日本土木会社(大成
建設)となり、鉱山部門は同和鉱業となり、その観光部門は藤田観光になっている。
>>98 "Mr. One Hundred"(藁ですね。
藤伝について補足すると、台湾阿里山の森林鉄道も藤田組の手に
よるものです。
102 :
名無しでGO!:03/06/21 19:55 ID:oHaQzcxn
大電鉄の創業者ではないけれど,
各地で手広く鉄道事業を興した雑賀藤吉はどう?
尤もこのお方実業家というよりは山師みたいな気もするが…
103 :
名無しでGO!:03/06/21 23:43 ID:8JAnlto7
わお、大成が元は大阪の会社とは知らなかった。
104 :
名無しでGO!:03/06/21 23:45 ID:xdHYQDx8
>>102 どちらかというと雨宮敬次郎とかと一緒に
やると面白そうですな。
105 :
96:03/06/22 10:40 ID:HCxmwBd8
眠い人 、Thank you
藤田と大倉にそんな関係があったって知らなかった。
107 :
名無しでGO!:03/06/22 21:35 ID:45XK2gCn
age
>103 >105
大成建設については、漏れのMisreadだわ、スマソ。
1887年に渋沢栄一、藤伝の出資で、大倉組商会の土木建築部門を継承した
有限会社日本土木会社を設立しただけで、藤田組の会社組織とは関わりが
ないみたい。
それは後に解散して、再び大倉組に戻り、1946年に分離独立したのが大成建設。
>102
才賀藤吉は、1870年大阪生まれ。
商家の小僧から電気技師になり、京都電気鉄道の電気工事を担当して鉄道業界と関わりを持ちます。
1909年、和歌山水力電気の取締役となり、市内線の開業に一役買いました。
王子電気軌道の資金援助も彼によって行われ、1910年にその初代社長に選任されています。
他に、彼が手がけたのは、磐城軌道、信濃鉄道、成宗電気軌道、立山軽便鉄道、美濃電気軌道、岩村
電気軌道、三河鉄道、伊勢鉄道、松坂軽便鉄道、一畑軽便鉄道、防石鉄道、鞍手軽便鉄道、宮崎軽便
鉄道、沖縄電気軌道と多方面にわたっています。
松山では伊予水力電気を経営していましたが、伊予鉄電化と市内線建設のため、伊予水力が、その伊
予鉄の路線を借り受ける話も出ていました。
そして、彼は伊予鉄の監査役になり、1908年に愛媛県から代議士に当選、1912年に再選されています。
彼のやり方は、雨宮敬二郎と違い、「資金調達力のない地方の中小電灯、電鉄会社への販促手段として、
工事代金の相当部分を新設会社の株式で賄う」という自転車操業。
だから、一旦崩れると崩壊は早く、1912年に幹の才賀商会は砂上の楼閣となり、倒産。
1915年には失意のうちに没しています。
ただ、この人、甲南学園の創立者でもあったりします。
110 :
名無しでGO!:03/06/24 12:48 ID:U247sVI/
>>109 京阪創立に関わっていた田辺貞吉も甲南学園に関係してたよね。
>>110 住吉村に住んでいた関西の実業家が、自分の子弟を通わす、私立の幼稚園、
小学校を作ろうとしたものです。
田邉貞吉・才賀藤吉・弘世助太郎・平生釟三郎・生島永太郎・岸田杢・阿部
元太郎・野口孫市・山口善三郎・中島保之介・小林山郷の実業家が資金を出し
合いましたが、間もなく、才賀藤吉が破綻するなど、経営的に苦しくなり、
久原房之助、進藤嘉三郎の援助を得て漸く軌道に乗せました。
更に、安宅弥吉や伊藤忠兵衞の尽力により、高等教育機関の7年制中学校を
作り、安宅弥吉が中心となって、子女教育のための甲南女学校を創設してい
ます。
平生釟三郎は、東京海上を経て、日本製鉄会長となり、平沼内閣の文相ですし、
田辺貞吉は京阪などに関わった人、阿部元太郎は雲雀ヶ丘の開発者、弘世助太郎
は日本生命の中興の祖、岸田杢は日本総合貯蓄銀行の専務、阿部元太郎は住吉
の開発者で船主、野口孫市は住友の建築部技師長、小林山郷も実業家だったようです。
また、久原房之助は日立銅山を皮切りに日立製作所の創設者、進藤嘉三郎は大阪ロー
タリークラブの創設者、安宅弥吉は安宅産業の、伊藤忠兵衛は伊藤忠商事のそれぞれ
創設者です。
112 :
名無しでGO!:03/06/25 22:46 ID:NGAjF8wR
113 :
名無しでGO!:03/06/25 23:27 ID:/GE08GCM
なるほど
そういう関係がもとで伊藤忠が安宅産業を吸収したのか
114 :
名無しでGO!:03/06/27 22:19 ID:0/vIwe+u
age
115 :
名無しでGO!:03/06/28 10:08 ID:kgLHuamX
五島慶太は問題外ですか?
一緒に三越乗っ取ろうとした仲じゃん。
116 :
名無しでGO!:03/06/28 13:36 ID:yk84pjY+
>>115 以前、「小林、五島、堤、根津スレ」ってあったよね?
強盗慶太
118 :
名無しでGO!:03/06/28 20:48 ID:XgELwshU
五島慶太はガチ。早川徳次はヤオ。
119 :
名無しでGO!:03/06/28 21:10 ID:5wnH+Mvn
意味がわからん
120 :
名無しでGO!:03/06/28 22:07 ID:FcQM5Rfn
ゴ ッ チ ン L O V E
121 :
名無しでGO!:03/06/30 12:14 ID:/5VJberr
age
122 :
102:03/06/30 16:41 ID:WpfjzKxE
>眠い人殿
遅まきながら詳細な御教示多謝。
雑賀も必ずしも山師って訳じゃないですね。
ワタシの田舎(大糸沿線)では開業を前に破綻し
信濃鉄道そのものを頓挫させかけた雑賀を良く言う人は皆無なもので。
123 :
名無しでGO!:03/07/01 23:25 ID:R+JCKrkg
「さては地獄を乗っ取りにいくのか」(新聞各紙)昭和34年、強盗慶太とあだ名された東急グループの総帥:五島慶太の訃報の見出し。
124 :
名無しでGO!:03/07/01 23:26 ID:R+JCKrkg
鉄道を敷設する用地を買収するために“こえだめ”をぶちまけて地主に対するいやがらせをしながら、路線を延長していた“強盗・慶太”(五島慶太・東急電鉄の創業者)
125 :
名無しでGO!:03/07/01 23:29 ID:R+JCKrkg
●なによりの健康法は新たな仕事を考え出していくことだ【五島慶太】
親父が生きていたときから撤収作戦は考えていた 【五島昇】
126 :
名無しでGO!:03/07/01 23:34 ID:ziKUR+DF
根津家や不公平みたいにその強盗家の3代目が出てこないねぇ。何してるんだ(それ以前に3代目はいるのか)?
>126
哲は不肖の息子で、不動産の社長を既に解任されていますね。
128 :
名無しでGO!:03/07/04 02:03 ID:g453RAEb
厨房消防
129 :
名無しでGO!:03/07/08 22:02 ID:Dcza957B
阪神マジック49点灯で今西林三郎age
>>130 129 名前:名無しでGO! 投稿日:03/07/05 01:35 ID:Zy+4OQZt
oh Yeah !
130 名前:名無しでGO! 投稿日:03/07/06 22:33 ID:uJRpkgL8
保守
一応、このようなカキコがありますた。
132 :
名無しでGO!:03/07/11 23:28 ID:8/RXoHKS
山陽電鉄と神鉄ではどちらが大きいの?
>132
山陽電気鉄道
◆設 立 昭和8年6月6日(創立/明治40年7月2日)
◆資本金 100億9,029万158円
◆従業員数 1,127名
◆事業内容 ◎ 鉄道事業 営業キロ 70.4km (第1種鉄道事業 63.2km 第2種鉄道事業 7.2km )
車両数 222両 (客車221両、その他1両)
◎ 自動車事業
・乗合事業(一般乗合バス、高速バス) 営業キロ 796.1km(うち高速路線 743.7km)
車両数 146両(うち高速バス12両)
・貸切事業
車両数 10両
◎ 索道事業(須磨浦ロープウェイ)
◎ 遊園事業(須磨浦山上遊園)
◎ 土地建物事業(不動産の賃貸・売買等)
◆営業収益 21,634百万円(平成14年度)
◆輸送人員 不明
神戸電鉄
◆設 立 大正15年3月27日 (営業開始 昭和3年11月28日)
◆資本金 111億1,581万8,088円(平成15年6月末日現在)
◆従業員数 622名
◆事業内容 ◎ 鉄道事業 (営業キロ69.6km)
◎ 不動産事業(土地建物の販売、賃貸および仲介)
◎ 注文住宅・リフォーム事業
◎ スーパーマーケット(神鉄一番街・食彩館)および駅売店の経営
◎ 飲食業
◎ 賃貸ビル、駐車場・駐輪場の経営
◎ 介護サービス事業、保育事業
◎ 植木管理・造園事業
◎ シロアリ・害虫駆除事業
◎ 携帯電話ショップ、コイン洗車場の経営
◆営業収益 19,081百万円(平成14年度)
◆輸送人員 52,641千人(平成14年度)
昔から電気鉄道会社は、電力需要の大口受入先(当時は電化製品と言っても、電灯程度)だったから、電力会社は
その取り込みに結構必死だった訳で。
何しろ、電鉄会社を買収してしまえば、電力を効率的に利用できるだけではなく、路線に沿って電線を張り巡らすこと
が出来、電力供給事業を沿線に展開できるからだったりする。
山陽電鉄沿線は元々、瀬戸内海航路が発達しており、大阪〜兵庫〜明石〜高砂〜飾磨〜岩見〜室津〜坂越と言う
航路は、瀬戸内海の海運業者によって設立された大阪商船の第14本線として一日一便運航されていた。
しかしながら、山陽鉄道が開通すると、スピード、頻度共に太刀打ちできなくなり、1897年に廃止されている。
しかし、山陽鉄道は駅間が長く、1907年7月、兵庫電気軌道が地元資本によって設立された。
1910年3月15日に兵庫〜須磨が開業し、その後、1912年7月に須磨〜一ノ谷、1913年5月に塩屋迄延長し、1917年4月に
明石に達した。
それ以降、姫路まで延長する予定だったが、第一次大戦後の不況により、兵庫電気軌道としては延長を断念し、別会社の
神戸姫路電気鉄道が、1919年に設立され、新たに資本を集めて1923年8月に、
明石〜姫路まで達する。
ちなみに、兵庫〜明石までは軌道線、明石〜姫路までは電鉄線だった。
一方、神戸電鉄は有馬温泉の観光誘致と、1943年に廃止された国鉄有馬線を利用しての山陰方面
短絡路線として、山脇延吉他7名の発起人により、有馬電気鉄道として上三條町〜有馬の鉄道敷設
免許を1922年に申請したのが最初。
1923年に発生した関東大震災の不況に伴い、設立が遅れたが、神戸有馬電気鉄道となり、起点は
湊川に変更された。
ちなみに、山陽水力などの社長で、後に川西航空機の社長となる川西清兵衛が予約していた10,000株を
発足直前に取消すという事態もあったが、何とか乗り越え、朝鮮半島で鉄山を経営し、建設事業もやっていた
日本工業合資会社社長の小林長兵衛が路線の建設工事を引き受けることになった。
この発起人代表の山脇延吉と言う人は、富農出身で、実業としては神戸有馬電気鉄道の創立しかしていないが、
兵庫県農会長、帝国農会副会長となっており、農村恐慌が起きていた1931年には、関西2府17県の農会連合会
理事長となり、「農民の神様」「農民の父」と呼ばれている人物。
神戸有馬電気鉄道の初代社長、5代社長、初代会長に就任している。
1927年5月に神戸〜有馬間、1928年1月に三田〜唐櫃間の工事に着手。
その建設工事は難渋を極め(地方鉄道規程第15条に規定されている1000分の35を越えるところが多々あったのは
当然のことだが)、工事進行中に二度の大規模争議があり、路線進捗は尺進を余儀なくされた。
一方、路線開発の一環として、1925年10月に山田電灯を創立し、沿線に配電を行い、小部駅(鈴蘭台)を中心とした
132万平方メートルの土地を買収して、「関西の軽井沢」として1928年9月から分譲開始。
1928年11月28日に湊川〜有馬間が開業し、12月18日に三田〜唐櫃が開業した。
1929年10月には、長田〜京阪神急行六甲間の延長線申請が出されたが、却下
され、東西連絡は、神戸高速鉄道まで待つことになる。
一方、小部(鈴蘭台)〜三木の間は、資金調達が難しかったため、1936年に三木
電気鉄道を設立し、1936年12月に鈴蘭台〜広野ゴルフ場までを非電化で開業、
1938年1月に鈴蘭台〜三木福有橋までが開業した。
なお、この会社は設立に当たって、広野ゴルフ倶楽部の会員に出資を仰いだので、
展望車付のゴルフ電車を走らせている。
また、開業と同時に乗合自動車事業を行い、有馬〜神戸と三田〜下唐櫃の路線を運行。
1931年、摂丹自動車、摂北三田自動車運輸、摂北丹波自動車を傍系会社とする。
これらは、摂丹自動車に合併され、1943年に、神姫合同自動車(今の神姫バス)に合併された。
このほか、1929年に有馬町から有馬ラヂウム温泉を10年無償貸与され、温泉と旅館を経営したが、
1939年の大水害で消失している。
さてさて、小さな電灯会社は、より大きな電力会社に飲み込まれて行っている。
当時、日本には一三も絡んでいた関東を中心とした東京電灯、福沢桃介、松永安左ヱ門が絡んでいた、中京、北九州を地盤とする
東邦電力、その売電事業の核となっていた木曽川水系の大同電力、そして、関西地方が地盤の宇治川電気とその売電元の日本電力
の五社が中核。
その中で、宇治川電気の初代社長は、大阪商船の中橋徳治郎であり、その関係で、大阪商船より幹部社員が多数送り込まれていた
が、林安繁が中興の祖とも言うべき人。
大阪商船の神戸支店長から、宇治川電気に出向し、営業課長、取締役支配人、常務、副社長を経て1924年に社長となる。
この人の時に、琵琶湖東岸をテリトリーとした近江水力電気を傘下に納めたが、この会社は近畿進出を目論む東邦電力も狙っていた
会社だった。
1925年、近江水力電気の余剰電力活用のために、資金不足に悩んでいた近江鉄道を傘下に組み込み、1927年には神戸より西に進出を
目論んで、明石付近で配電事業を行っていた兵庫電気軌道と、鉄道専門ながら姫路にまで線路を延ばし、神戸〜姫路間の交通を独占
できる上、それに要する電灯電力の供給と、沿線地域への進出を目論んで、神戸姫路電気鉄道を買収している。
しかし、その二つの会社は片や電気鉄道、片や電気軌道で、電圧も違う、更に明石の駅の場所も違っていたので、鉄道線の電車を複電圧
対応とし、線路をつなげて直通を果たした。
1933年6月に、再び電鉄事業は分離独立して、山陽電気鉄道となり、林安繁が初代社長、会長を勤めた。
あ、>138の中橋徳治郎⇒中橋徳五郎
一方、神戸有馬電気鉄道は、開業当時、日本電力が電力を供給していた。
しかし、山脇社長が政友会兵庫県支部長であった関係から、当時の商工大臣、中橋徳五郎(宇治川電気初代社長、
ちなみに、この人、原敬、高橋是清両内閣で文部大臣を務め、党勢拡張のために小川平吉のように、各種学校の
認可権を振り回し、「二枚舌」という言葉を人口に膾炙した人物として有名)の力添えで、日本電力の借入金を宇治川
電気に肩代わりさせ、小部の経営地区を宇治川電気に引き渡した。
1930年、宇治川電気から山崎主計を社長に迎え、山脇社長は会長に退き、同時に監査役は興銀から送り込まれ、
日本電力派遣の役員は辞任した。
しかし、昭和の大恐慌で経営成績は振るわず、宇治川電気に対し、電力料金の値下げ、興銀に対しては借入金利息の
引き下げを願い出たが、却って事態は悪化し、宇治川電気と興銀の間に運賃収入の争奪戦が起きている。
結局、1933年、山崎社長は退陣、興銀から青柳一太郎を社長に迎え、1936年に漸く業績安定を見、元神戸市長の黒瀬
弘志を社長に迎え入れ、積極路線に転換。
三木線の開通、阪神大水害の復旧に努め、1939年12月に再び山脇社長となる。
彼は、1941年に死去し、興銀から推挙された清水時好が社長となったが、すぐに退陣し、日本工業合資会社社長の小林
長兵衛が社長に就任した。
彼は1943年に死去し、清水時好を中心に、小林秀雄(小林長兵衛の息子)、白井秀吉のトロイカ体制となった。
140 :
虚飾の小林一三:03/07/12 08:37 ID:UQOQucyX
近鉄の礎を築いた金森又一郎さんはやっぱり偉い。
金森又一郎さんは中卒だが、その子供の乾次さんも孫の茂一郎も東大卒。
小林一三は金森又一郎さんの足元にも及ばない。
金森又一郎>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>小林一三
小林一三も小林一三、阪急ヲタも早く氏ね。
って小林一三はとっくの昔に死んでる(W
141 :
名無しでGO!:03/07/12 14:48 ID:Pmi+ECpt
>>135 >別会社の神戸姫路電気鉄道が、1919年に設立され・・・
お尋ねしますが、明姫電気鉄道という会社もあったと思いますがそれは神戸姫路電気鉄道の前身なのですか?
神明急行電鉄なんていうのもあったような気がしますが。
あと神戸高速鉄道が出来るよりもずっと前の兵庫電軌時代、神戸市電を通じて阪神軌道線と線路が繋がっていたって本当ですか?
>141
明姫電気鉄道は、大正8年8月29日に設立されています。
これが、後に神戸姫路電気鉄道と改称しています。
また、神明急行電鉄は、その明姫電気鉄道に免許権を譲渡しています。
当時は、免許権だけ取得して、それを本当に線路を敷設しようとした会社に売りつけると言うことが、
広く行われていました。
また神戸市電とは、1922年に神戸市電が上沢線を延長し、長田神社前から南下する兵庫電軌の
建設によって、尻池北町付近で平面交差が発生しました。
この時、新湊川西詰めにあった長田駅を交差点に移設しますが、山陽と市電の乗り換え客が多く、
1944年に新湊川東詰の専用軌道部分に島式乗降場を設けて移設しています。
もう一つ、旧線の須磨駅西外れは、市電の須磨駅に極めて近接していたため、1944年、市内市場向
生鮮野菜を明石から神戸中央市場に輸送するのと、逆に市内で処理に困っていた汚物を明石近郊
に輸送し、肥料として役立てるために、市電東行き線と山陽電鉄の下り線を接続しています。
ただ、前者は山陽の電動貨車を用いる予定だったが、車輪輪縁寸法の都合で実施されず、汚物輸送
用には市電の散水車を改造して林崎まで試運転をしましたが、これも散水車の固定軸距の都合で実施
されませんでした。
いかんなぁ。書いた後から資料が出てくるか(苦笑。
もっかい、山陽の始めの頃から書き直し。
1905年8月、神戸市兵庫〜明石郡明石町の敷設を目論んで、兵庫電気鉄道として出願されたのが最初。
兵庫の部分は、神戸電気鉄道(後の神戸市電)の出願範囲から漏れ、兵庫地区内の循環も考慮されていました。
同じ時、ほぼ同じ区間を明神電気鉄道が出願しており、1906年3月に両者が合同して再出願を行っています。
この時には、神戸市内循環は神戸電気鉄道の絡みもあって削除し、本当に都市間インターバンとなっていました。
1906年11月に特許状交付、1907年7月に兵庫電気軌道が設立され、1910年3月に第一期線として兵庫〜須磨間の
路面軌道が開業します。
しかし、第一期線は営業不振で、神戸電気鉄道への経営委託も取りざたされ、12月に役員刷新となり、明石延長を
延期しました。
この時に、川西清兵衛が社長となり、小林一三が兵庫電気軌道の取締役に就任したりしています。
また、兵庫駅から神戸電気鉄道に乗り入れる交渉も不調に終わり、1911年12月に塩屋延長、次いで明石まで再延長
を決定し、それは1917年に開業しました。
明石延長後、姫路延長が視野に入ってくる訳ですが、一部株主が強硬に反対し、その延長事業は別会社で行うことに
なり、1918年6月に明姫電気鉄道を設立します。
ところが、明石〜姫路は既に、播磨の素封家である伊藤英一(後の播州鉄道(JR加古川線)二代目社長)が播州鉄道
として出願しており、彼は明姫電気鉄道を脅威と見なして、兵庫電軌の株を買い占めようとします。
しかし、事態は急転し、1918年6月に川西清兵衛らの旧経営陣は退陣し、伊藤が社長となって、改めて10月に明姫電気
鉄道が明石〜姫路の鉄道敷設の認可を受けた訳です。
で、その退陣した川西清兵衛はと言うと、神戸湊川から山側を通って姫路に抜ける神明急行電鉄を出願します。
伊藤率いる兵庫電軌はこれに対抗しようと、1920年3月に既設線の複々線化を申請しますが、これは1922年12月に却下、
それに先立つ1920年8月に、伊藤社長は退陣し、神戸の財界のドン、岡崎藤吉が社長となり、電灯供給事業に進出して
いきます。
此処に、配電事業との関わりが出来、宇治川電気との合併の布石に成っていくのです。
神戸〜姫路間二社並立は流石に差し障り有りとして、1921年6月に鉄道敷設免許権は明姫電気鉄道から神明急行電鉄
に譲渡され、1921年11月に許可を得、12月に神戸姫路電気鉄道と車名を変更しました。
で、1923年8月に開業したものの、東京地下鉄道と東京高速鉄道の対立と同じく、兵庫電気軌道と神戸姫路電気鉄道とは、
歩み寄らず、直通運転も、連絡運輸も出来ていませんでした。
偶々、電力供給事業絡みで、宇治川電気が兵庫電気軌道と合併交渉を進める際に、神戸姫路電気鉄道を巻き込んで合併
を進めています。
そして、宇治川電気鉄道部が、両者の直通運転の素地を整えた訳です。
しかし、世界恐慌の波は此処まで押し寄せ、宇治川電気は減配状況に陥り、リストラを進める意味で、鉄道部を山陽電気
鉄道として分離独立していった訳です。
ついでに、此処に出てくる岡崎藤吉という人は、佐賀鍋島家中出身の石丸藤吉と言う人で、兵庫県庁に勤めて
いたところを、兵庫の素封家に認められ養子になったので、岡崎藤吉となりました。
1894年に財産をはたいて、英国の中古船を購入し、船舶業岡崎汽船を設立します。
日清戦争後領土となった台湾に、この船舶会社の船が定期航路を就航させましたが、大手に食われ、北洋漁業の
釣果を輸送するカムチャツカ〜函館航路を開拓します。
日露戦争時には傭船を4隻に増やして陸軍に提供。
1907年には神戸・北海道間日本海経由西廻航路の権利を、日本郵船から譲渡してこれを辰馬、岸本と共同運航する
日本西廻汽船商会を設立し、その後、岡崎汽船と日本西廻汽船商会を継承して岡崎汽船を設立。
直後に、第一次世界大戦によって日本は未曾有の好況になり、会社は躍進。
その後、1917年に神戸岡崎銀行(神戸銀行、太陽神戸銀行、さくら銀行を経て、今の三井住友銀行)、神戸海上運送
火災保険会社をそれぞれ設立し、社長も就任。
1923年に岡崎汽船は、横浜〜大阪〜神戸〜門司〜天津航路と、大阪〜神戸〜門司〜博多〜営口航路を開設し、1937年に
岡崎汽船とそのほかの業務を行っていた岡崎合資会社を合併して、岡崎本店となり、1943年に三菱汽船に吸収されるまで
存続しています。
ちなみに、岡崎本店汽船部は、今の日豊海運(川崎汽船系)になっています。
>>146 眠い人、いっつもサンクス
おれはあんまし知識内から、
もうちょっと勉強したら、
質問しまくるから、
よろしくね。
148 :
名無しでGO!:03/07/13 22:43 ID:0EtKdJUu
良スレあげ
149 :
名無しでGO!:03/07/13 22:50 ID:zyetxjt8
阪神の今西だけ何で専務?
>>111 甲南は旧制7年制高等学校です。中学じゃありません。
我が武蔵同様、設立に鉄道人が関わっているとはしらなんだ。
武蔵が大正12年設立、甲南高校は大正13年設立だが、
武蔵が尋常科1年生から順に募集、としたのに対し、甲南は高等科の募集も設立当初からしたので、
帝國大學への卒業者を出したのは甲南の方が早い。戦後学制改革の時、新制高校・中学に移行したのは
我が武蔵と甲南のみだったのだが、甲南はすぐ大学を設立し中高を大学付属にしてしまった。
武蔵も武蔵大学を設立したが、旧制武蔵高校の正当な後継者は新制武蔵中高であって武蔵大学ではない。
武蔵中高はキャンパスを大学と共有するも武蔵大学付属ではない。よって旧制高校を母胎とする新制高校が
我が武蔵のみとなってしまったのは残念だ。GHQは旧制高校を英国のパブリックスクールのような
一部の階級にのみ開かれたエリート養成機関と勘違いして潰してしまったが、そのことが残念でならない。
戦前の社会では旧制高校の入試さえ突破すれば無試験で帝國大學に入れたのだから受験戦争は1回で済んだのだよ。
今じゃ中学高校大学で3回も受験戦争をしなきゃならんし、旧制中学5年間の内容は今の中高6年の内容+αだったから
現行制度は1年無駄だ。ゆとり教育とか馬鹿なこと行ってないで旧制高校を復活させなさい、文部省の役人ども!!
すれ違いな内容でスマソ。
芦原義重氏=元関西経済連合会会長
電力会社9社で初の原子力発電所となった美浜原発(福井県)の建設など電力業界の発展に尽くす
一方、関西経済連合会会長として大阪万国博覧会の成功などに努めた関西電力名誉会長(元社長)の
芦原義重(あしはら・よししげ)氏が、12日午後10時45分、肺炎のため、入院先の関西電力病院で死
去した。102歳だった。
近親者のみで密葬を行い、後日関西電力主催の「お別れの会」を行う。自宅は兵庫県尼崎市塚口町
3の29の1。
1924年に京大工学部を卒業し、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に入社。関西電力の前身である関西配
電を経て、51年に関電常務となった。戦後のエネルギー不足を補うため、火力発電所で石炭と重油を
混焼する技術の開発を進めた。黒部ダムの建設で知られる太田垣士郎氏の後を継いで59年に社長に
就任してからは、他社に先駆けて美浜原発の建設に踏み切った。
財界では66年から10年6か月間、関経連会長を務めた。70年の大阪万博では、経団連の石坂泰三
氏を万博協会長に迎えるなど、東京の政財界を巻き込んで開催資金の手当てに尽力し、成功に導いた。
また、関西国際空港の建設推進運動の先頭にも立った。
70年に関西電力会長となり、83年には代表取締役名誉会長に就任。その後も社内外に強い影響力
を保ったが、87年2月の関電取締役会で解任動議が出されて取締役を退いた「関電二・二六事件」以
降、経営から遠ざかっていた。
http://www.yomiuri.co.jp/obit/news/20030712zz22.htm
>153
淡交会って、淡路交通の関係だったかな。
あっこの社長も文化人だったですからね。
ついでに言うと、兵庫には郷土出版社が殆ど無くて、淡交社くらいしか
無いんだよね。
だから、郷土史とか探すのにいつも苦労するのよ。
155 :
150:03/07/16 08:08 ID:OvIkwibF
>>151 本当は新制武蔵中高の卒業生で現在某大学在学中。
でもあの学校出ると、本当に旧制高校出た気分になっちゃうんだよね。
>>154 淡交会と淡交社は京都なんだけど。淡路交通とは関係ないよ。
>156
そうなのか?
どっかで淡路交通の社長が云々って言う記事を見たような。
>>157 これが淡交会のサイト。
http://www.urasenke.or.jp/textc/tan/index.html > 淡交会は、宗家の直轄団体として、それまで全国に既存していた裏千家茶道のいろいろな会や団体
>を まとめる形で、昭和15年(1940年)に結成され、昭和28年に文部省から社団法人の認可を受けました。
> 宗家の指導のもとに、茶道文化に関する種々の研究調査を行い、同門の相互協力と親睦をはかり、現
>代に適応した 真の茶道人の育成を目的としています。
>
> 「淡交」とは、十四代家元淡々斎宗匠の斎号からの命名されました。荘子の「君子之交淡若水」 (君
>子の交わり、淡きこと水の若し)に依っており、淡々としてあたかも水が流れるようになにごとにも執着せ
>ず、 どんなときにも感情に流されない平常心の交わりをいいます。
だって。
159 :
名無しでGO!:03/07/18 12:14 ID:BWluOpeu
昔、淡路島には鉄道があったんだね。
橋が出来て本土と繋がった今、淡路島に鉄道を再建しようとする動きはないのかな?
>159-160
津名−洲本なんかにそこそこ高規格の路線引いたら儲かりそうなもんだけどねぇ。。。
川島本に書いてあったんだけど南海が紀伊水道に海底トンネルぶち抜いて和歌山から
淡路経由して徳島に至るルートってどうよ?
163 :
名無しでGO!:03/07/19 08:56 ID:oyBiGp7+
>158
ああ、すまね〜。今の今まで、淡路交通と関係があると思っていたよ
首吊って(AA略)。
>159
バブリーな頃、淡路島北端辺りで観光鉄道を走らせる計画はあったみたいだけどね。
淡路鉄道(淡路交通)は、1911年、賀集村の有力者、賀集新九郎他29名が発起人となって
地方鉄道敷設免許申請を行い、1912年に免許を交付されます。
1914年に資本金45万円の淡路鉄道が設立され、社長に賀集新九郎が就任し、線路を起工
しますが、第一次大戦による、資材の高騰などの要因で工事は停滞し、津名郡、三原郡、
洲本町からの援助と、賀集社長の尽力による銀行からの借り入れで、洲本口〜市村までの
路線が1922年に竣工、ところが、其処で資金が尽き、再び株主を募集し、1923年に市村〜賀集
が、1925年に洲本〜宇山と賀集〜福良が全通します。
当時は、輸送人員/日1,836名、輸送貨物21.3t、収入430円だったそうで。
賀集新九郎は、1942年1月に死去するまで社長を続け、次の社長は国鉄から1938年に天下った
土屋恒治となり、その後全淡自動車を合併し、淡路交通となり、1948年に電車運転を開始、1966年
廃止という道筋を辿っている。
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
166 :
名無しでGO!:03/07/23 20:14 ID:SzTZcOG6
緊急浮上
167 :
名無しでGO!:03/07/25 12:51 ID:92oi8SO3
age
168 :
名無しでGO!:03/07/28 20:17 ID:ZXgbzkrl
ここは人が少ないな・・・
保守あげ。
169 :
名無しでGO!:03/07/31 23:11 ID:2KOWfJP9
保全age
170 :
名無しでGO!:03/08/03 10:55 ID:4zR7vA5F
age
171 :
名無しでGO!:03/08/05 23:18 ID:oxIckMDP
戦前、南海と近鉄が合併したときプロ野球の南海ホークスのオーナーは当時の近鉄(関急)の社長が就任したの?
172 :
名無しでGO!:03/08/07 12:58 ID:kESOkWLc
戦後、近鉄が分割され、南海と現在の近鉄が誕生したわけだが、その際に、
近鉄の前進の参宮急行に合併されていた伊勢電気鉄道(現名古屋線)や、関西
急行に合併されていた大阪鉄道(現南大阪線)の元役員や社員に独立の動きは
なかったのだろうか。
伊勢電気鉄道も名古屋ー桑名間をもらって、名古屋ー伊勢間の私鉄として独立
できたはずだし、大阪鉄道も、大軌に合併されていた吉野線を同じ軌間ということで
貰い受けて独立でウマーということになっていたのでは。
戦後、大東急から小田急、京王、京急が元役員や社員の手で次々と独立していった
ことと対照的で興味深い。
173 :
名無しでGO!:03/08/07 13:22 ID:inb/6m14
伊勢電や大鉄は、南海や大東急各社と違って、戦時調整と無関係に、経済的に
敗北して大軌系に合流した性格が強いので、独立の空気はなかったんじゃない
だろうか? とくに伊勢電の独立は、名古屋資本の再乱入でもない限りは無理
だろう。戦時中に伊勢までの狭軌路線もなくなっているし。これを復活させた
としても、津以南(東?)の路線は立地が悪すぎる上、伊勢のターミナル位置も
中途半端で、おそらく津あたりで近鉄に乗り換える客が続出したと思われる。
「二度目の廃線」になったかも?と思う。
ただ、確かに大鉄だけは南海に移しておいたほうが、路線網的には便利だった
ような気もするな。河内長野でも接続してるわけだし。…もちろん、現実的には
旧吉野鉄道部分を大軌が押さえてしまったので、この処理が問題になるけどね。
先記したとおり、交通調整とは関係なく買収したものなので、分離の際に新・南海
(大鉄)へ…という処理は難しかったはずだ。
174 :
名無しでGO!:03/08/08 21:04 ID:erqSdIjw
ageとこうかな〜 こういう硬派スレ好きだし。
175 :
名無しでGO!:03/08/08 22:34 ID:ePz1YIT7
>>173 >ただ、確かに大鉄だけは南海に移しておいたほうが、路線網的には便利だった
俺も同意。
軌間も南海の1067ミリと同じだからね。
しかし、何で近鉄は南大阪線も標準軌にしなかったのかな?
佐伯社長時代に名古屋線の改軌やったのに。
>>175 昭和30年代、天鉄局管内は貨物輸送やってたからね。
>>176 天鉄局、じゃ国鉄です(w 天王寺営業局、ね。
貨物の問題は今以上に大きかったでしょうね。名古屋線の改軌も、実はその点
で調整が必要だったくらいで。養老線の貨物を残す関係で桑名の配線を海側
山側で振り替えたりしたしね。いまから思うと、無駄にも思える投資なわけだ
けれど。
178 :
名無しでGO!:03/08/09 02:09 ID:ev8J+CKB
改軌するなら、橿原神宮前以南のみで良いと思う。
179 :
172:03/08/10 09:46 ID:IQFGhi8D
財閥解体(GHQの「過度経済力集中排除法」)がもっと厳密に適用されて
近鉄が南海+近鉄のレベルではなく、大軌+参急、伊勢電、大鉄レベルにまで
分割されていれば鉄趣味的にもっと面白かったのに、と思う。
大軌+参急も分割されて参急は大阪線の桜井以東の大阪側をもらって独立。
というのも面白かったかも。
180 :
172:03/08/10 09:47 ID:IQFGhi8D
>参急は大阪線の桜井以東の大阪側をもらって独立
桜井以西の間違い。
181 :
173:03/08/10 10:19 ID:LIkkBhg6
何度も反論するようで申し訳ないんですが(w
交通に関しては、分割してもしょせん会社間競争にならない部分が多いので、
むしろ経営面を重視したものと思われます。おそらく分割も検討はされたと
思いますが、伊勢電・大鉄の両者とも、過剰な路線拡大策がたたって財政破綻
を来たし、大軌系に合併されたわけですから、いくら戦後のどさくさでその
負担をちゃらにする、とは言っても、分割は危険、という判断になったので
は? 大鉄はまだ南海に組み入れる手があるでしょうが、伊勢電はあの段階で
分割してももう独り立ちは出来ず、メインバンクもすでになく…。あとは、
名古屋資本の参入ぐらいしか手がありません。しかし、名古屋との棲み分けは、
伊勢電救済の段階である程度暗黙の諒解があったとも言われていて、終戦処理
とはいえそれをもう一度混ぜるとパンドラの筺…という危険もあったでしょう。
また、いかに強制的な分割であっても、旧関急電部分に大きな投資をした旧大軌
系が、あの区間をみすみす名鉄系に渡すとは思えず…というより、近鉄がそこ
まで解体されるなら、名鉄も怪しいですから、結果的に誰も支援者がいない、
という状態になったと思います。
当然、経済当局もそのあたりを勘案して分割を避けたのでしょう。この点が大東急
とは決定的に違うところだと思いますが、どうでしょう?
182 :
172:03/08/10 15:28 ID:IQFGhi8D
>>181 別に妄想を書き連ねているので反論されても困るのですが(W
戦後、GHQにより、財閥解体がなされたわけだが、その私鉄への適用を
考えて見ると、確固たる基準(例えば資本金、売り上げ高、路線長ベース等)
等は極めて曖昧で、いかにも恣意的な感じがしないでもない。
この財閥解体は、戦時中の陸上事業調整法により、統合されたものをもとに
戻すというよりも踏み込んだ内容になっている場合がある。例えば、このス
レにもあるような京阪神急行の現在の阪急と京阪への分割の場合にもその経
緯はともかく旧新京阪線(現阪急京都線)は阪急へと譲渡されたし、京王の
独立の際にも、その経営が危ぶまれたので、小田急系の旧帝都電鉄線(現井
の頭線)を小田急から離して京王側につけたとある。(京王帝都電鉄の帝都
の由来。)
京阪の場合も、京王、小田急、京急の場合も元役員や社員が分離独立に積極的に
動いたといわれるから、GHQの意向や経営的な面よりも元役員や社員の意思の方が
強かったとも思われる。
183 :
172:03/08/10 15:29 ID:IQFGhi8D
近鉄の場合も伊勢電はともかく大鉄の合併は昭和18年のことだから、大鉄当た
りには分離独立の動きはあったのかな。と推測してみる。ここら辺は近鉄につ
いて書かれた「東への鉄路」にも、「南海だけの分離にしましょう。」云々と
いうくだりがあるので他の伊勢電や大鉄の元役員、社員の中にも分離独立を
目指したものがいたのかなと推測した次第。それを近鉄上層部が潰したと考え
るなら一種の近鉄の戦後史の暗部となるのかなと思う。
>交通に関しては、分割してもしょせん会社間競争にならない部分が多いので、
>むしろ経営面を重視したものと思われます。
もちろん、鉄道の場合、基本的には地域独占であるので、おっしゃるとおりです
けど、近鉄大阪線と南大阪線は結構並行して走っているから分割して競争させた方が
いいという考え方もできますね。
後、大東急が分割してできた東急、小田急、京王、京急はほとんど地域競合してま
せんが。
まあ、東京ー横浜は東急VS京急という考え方も無理やりならできますが。
184 :
173:03/08/10 16:27 ID:LIkkBhg6
妄想なら、まあ、止めません(w それはそれで個人の趣味ですので。
ただ、私の認識では、このスレは妄想系よりは歴史系だったものですから。
消された歴史の暗部、というよりは、ちょっと激しいめの妄想に思えたので、
絡ませていただきました。すみませんです。
大鉄を南海に、というのは、173でも書いたようにそれなりの合理性があった
と思います。伊勢電が出てくるから「そんな無茶な」と思ってしまったのですね。
大東急との比較については、私の書き方がわかりにくかったでしょうか? この
部分では、地域競合云々、とは書いていないと思います。経営的に独立できるか
どうかが結果の差として現れた、という意味で書きました。帝都や新京阪の扱い
を見ると、方針は東も西もそれほど違っていないと思います。
185 :
173:03/08/10 16:27 ID:LIkkBhg6
何度も書きますが、大東急各社は、東横系に入っていたものも多いとはいえ、
最終的には戦時調整による統合で、各社の機能もほぼ残っていました。その東横
系入りも、今日のM&Aどころではない、五島慶太によるかなり厳しい株式買収
などによるものでした。それこそ、「解体の対象」そのものです。また、京阪や
南海は、戦争遂行目的の明らかな強制結婚です。
この点が、経営的に敗北して救済的に合併された伊勢電・大鉄をめぐる例とは、
まったく違うと思う、というのが私の主張です。
これ以上は創業者論を期待するみなさんのお邪魔かと思いますので…
失礼いたします。 ども、でした。
>>173 確かに、ここのスレで求められてるのとは違ったけど、
面白かったYO!
187 :
172:03/08/12 08:11 ID:7C5tzK4A
>経営的に独立できるか
>どうかが結果の差として現れた、
経営的に独立できるように、大東急の分割がなされたと考えるべきでしょう。
そうでないと
>>182のことが説明できません。
>地域競合云々、とは書いていないと思います。
>>181で
>交通に関しては、分割してもしょせん会社間競争にならない部分が多いので、
と書いておられませんか。
伊勢電の場合は経営的な敗北は否定できないですが、大阪鉄道の場合は
そうとも言い切れないでしょう。
188 :
173:03/08/12 19:16 ID:EzK743Dg
172さん。これ以上やるのはこの板に迷惑ですよ。あなたは「妄想」とおっしゃって
いるのだから、私はこれ以上お付き合いできません。私も私の歴史認識がありますが、
それをあなたの「妄想」と統合することには(どちらがどちらに合わせるにせよ)
意味を感じませんので。あなたは「鉄趣味的に面白かったのでは?」という視点で
語っておられたはずですので、その姿勢のままでよいはずです。
ひとことだけ申し上げれば、地域競合の部分に関しては、あなたの読解力か、私の
文章力か、どちらかの不足です。私の本意とまったく逆にとっておいでのようです
から。このままでは延々繰り返しになりそうですので、私が引かせていただきます。
また、大鉄は「収支」としては不振ではなかったかもしれませんが、大阪延長線に
対する過大な投資を回収出来ずに、経営が行き詰まっていたのは事実です。一度
お調べになってみてください。
申し訳ありませんが、これにて失礼します。
189 :
173:03/08/12 19:32 ID:EzK743Dg
ひとつだけ訂正。「この板」じゃなくて「このスレ」ですね。失礼。
190 :
172:03/08/13 23:59 ID:wVc6V0+Q
>>188 うん、わかった。
でも質問には答えようね。反論しようね。反論できないからといって、
>172さん。これ以上やるのはこの板に迷惑ですよ。
はやめようね。
でも、私とあなたしかこのスレにはいないみたいだし。
迷惑といわれてもね(W
>>190 しつこい方ですね(w なかなかご立派です。
あなたが私を論破したと思い込むのは勝手ですが、相手が引くのは、「反論
出来ないから」だけではないことも、本当の大人なら理解出来ますよね?
ふたりしか書き込んでいない状況だから迷惑ではない…のですか?
もともと住人さんがおられたスレなのに、みなさんどうされたのでしょう?
なぜそうなったと思いますか? …私とあなたのせいではないのですか?
だからこそ「これはいかん!」と思って引くのです。このままでは、埋め厨や
荒らしと変わりませんよ。AAやコピペの代わりに、結論の出ない話を延々と
続けているだけ。討論は大事ですし、私も好きですが、もう少し客観的な状況も
考えましょうよ。もともと、若干スレ違いの話題だったわけですし、そこまで
やりたいなら、「鉄的歴史妄想スレ」でも立てて、この場所を明け渡すのが仁義
だと考えます。…もう遅いのでしょうけれど。
これ以後は、いかなる挑発があっても、このスレには一切書き込みません。
本来の住人のみなさま、御迷惑をおかけしました。 本当に失礼しました。
192 :
名無しでGO!:03/08/14 01:34 ID:T6pYWbHz
age
193 :
名無しでGO!:03/08/14 10:22 ID:v7PvkmNO
五島は戦時中運輸大臣を務めた(当時は違う省庁名だったかも)ので、
その五島の経営する東急が
「旧体制の一掃」を目指したGHQのターゲットになったのでは?
194 :
山崎 渉:03/08/15 08:52 ID:YDCkV8QA
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
195 :
名無しでGO!:03/08/17 03:26 ID:QUbrTPbI
age
196 :
190:03/08/17 08:29 ID:B8fky5Dd
>しつこい方ですね(w なかなかご立派です。
褒めていただいてありがとうございます。
ところであなたも「失礼します。」とかいいながら、また
書き込んでますね。あなたもしつこいですよ。
>>193 なるほど、大東急解体もそういう視点から見れば妥当性がありますね。
GHQの恣意的な運用は私が前に述べた
>>182の考えとも一致しますね。
197 :
名無しでGO!:03/08/17 08:58 ID:hvlo4v4s
>>188 大鉄の経営が苦しくなったのは大阪延長線でなくて大和延長線以後では?
その点、173は間違い。
ただ、大鉄が窮地にあったのは事実だな。172の「独立」はもっと妄想(w
198 :
名無しでGO!:03/08/20 00:15 ID:ihCnLRxo
急にタイムリーな話題になって申し訳ないけど、今日京阪で踏み切り事故があって
8000系特急が大破しちゃったね。それに関連して昭和50年代にあった置石事件で5000系
列車が脱線、大破した事件を憶えている人ってここにいる?
199 :
名無しでGO!:03/08/20 08:01 ID:3TFPhoQL
200 :
名無しでGO!:03/08/20 13:58 ID:fh/gdFpX
>>193 大東急解体は財閥解体や集排法とは関係ないと思ったが。
ついでに200
>>200 財閥解体は無関係として、集中排除法は独立運動の理論的後ろ盾になったと思うけど。
当の東急のHPにだって「〜集中排除法の精神にのっとり、各社を分離〜」みたいなことを
書いてるところがあったはずだ(勘違いだったらスマソ。確認してね)
五島が公職追放中で独立運動を阻止出来なかった、ていうのが定説だと思うが、
おそらくそれを
>>193は「五島が公職追放され、大東急が解体されたのはGHQの
恣意的な攻撃」ととったんだろう。・・・GHQって、そこまで指定したっけか?w
五島が運輸大臣やろうがやらなかろうが、いずれ大東急は解体しただろうと
思うけど。あんな無茶な所帯、持つはずねえべ。五島がいなくなりゃ、それこそ
鬼の居ぬ間に・・・状態だったろな。
連カキスマソ。
上記の東急の話、ここね。「精神」じゃなくて「趣旨」でした。
ttp://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/kaisya_fram.html 余談だが、ちょっと気になったので、
>>193へのレス(
>>196)から
リンクをたどってさかのぼってみた。すると・・
>>182 >戦後、GHQにより、財閥解体がなされたわけだが、その私鉄への適用を
>考えて見ると、(中略)恣意的な感じがしないでもない。
財閥解体が適用された私鉄、ってどこよ?
疑問に思ってさらに「172」のカキコをたどるとさらに・・ はあ???
>財閥解体(GHQの「過度経済力集中排除法」)がもっと厳密に適用されて(略)
どうやら誤解の元はこの辺だなw
財閥解体と集排法の両者は、密接に関係してても別物。
大東急解体とはもっと別物。まして伊勢電や大鉄の分離独立は・・・・?
妄想してもいいが、もうちょっと勉強してから妄想してくれ〜、頼むからw
こりゃ相手が逃げたのも気分わかるナー。 余談だから連続sage
203 :
名無しでGO!:03/08/25 14:22 ID:c0JoCOHL
保守しとく
保守乙!
にしてもこのスレ、逃げ出した住人さんたち帰ってこないね〜。
本題に関係ない妄想に固執してた香具師もいなくなったみたいだし、
本来のネタだった鉄道史の話をまた読みたいんだがな。
>>190 >でも、私とあなたしかこのスレにはいないみたいだし。
>迷惑といわれてもね(W
いや、ROMってるほうは大迷惑だったんだ、ってw
>>204 禿同。ホントに誰もいなくなってしまって・・・。でも、このまま沈めるのも惜しいので。
>206
只今避暑中…(ぉ。
いあ、ROMってはいるのですが、ここんとこ公私ともに忙しくて、ネタを触れないのでつ。
も少ししたら、某板の某スレが一段落するはずなので、戻ってこようかと(ぉぃ。
208 :
203:03/08/26 00:09 ID:w+A2XRIF
>>207 復活お待ちしております。
それにしても、世界の航空機メーカーとか、日本の企業史とか、どうしてあれだけの資料を
お持ちなのか?
209 :
名無しでGO!:03/08/26 08:03 ID:E1S2hcpX
こんなシケたスレ、興味持つヤシはそうはいない。
>>209 断定はよくない。
歴史が好きな鉄は、けっこう多いんだよ。
いまは…まあいろいろ事情があってシケてるだけだから(w
211 :
名無しでGO!:03/08/27 21:39 ID:8Eo41JJQ
湿気すぎ。
こういうすれの住人って、
>>191のような異常者多し。
212 :
名無しでGO!:03/08/28 00:13 ID:Su9qH8B4
それは短絡的過ぎる
213 :
名無しでGO!:03/08/28 00:18 ID:t8kKKH7p
>>211は、近鉄分割妄想の顛末を読んでいないと思われ
214 :
名無しでGO!:03/08/28 23:02 ID:EiI0fzBN
相変わらず人いないな・・・。
一応保守。
215 :
名無しでGO!:03/08/29 12:42 ID:etfBMU+a
age
216 :
名無しでGO!:03/08/30 08:35 ID:kD7yJqxC
>>214 ああ淋しい。(W
では、近鉄分割妄想の別バージョンをも1つ。
参宮急行の伊勢進出が失敗し、参宮急行が伊勢電に身売りしていたら、
参宮急行狭軌化の上、大阪鉄道、参宮急行、伊勢電で近畿日本鉄道成立。
他の近鉄線は奈良線、橿原線、大阪線の一部(桜井以西)等、後奈良電鉄
(現近鉄京都線)線で奈良急行電鉄なんてね。なったかもしれないね。
実際、佐伯勇元会長は、伊勢電が伊勢側ではなく名古屋側を先に造っていた
なら参宮急行の方が伊勢電に身売りすることになっていただろう。といって
たのをどこかの本で読んだことがある。
217 :
216:03/08/30 08:36 ID:kD7yJqxC
近鉄奈良線の馬鹿高い運賃がもうちょっと安くなっていることでしょう。
218 :
名無しでGO!:03/08/30 09:19 ID:HquxqvMM
>>217 しかし近鉄南大阪線が今以上に馬鹿高くなる罠(w
219 :
216:03/08/30 10:11 ID:kD7yJqxC
近畿日本鉄道名古屋本社、大阪地域本社(W
220 :
名無しでGO!:03/08/30 11:24 ID:dic8rjAX
>>216 それは佐伯勇の謙遜、というか、経営に対する危機感の反映だろう。
実際のところは、上野結城氏の論文にもある如く、省線との完全並行路線
となる桑名〜名古屋間の免許は、伊勢への延長のあとでないと認められ
なかった可能性が高い。当の伊勢電自体が、出願文書の中でそういう
捉え方をしていた。
佐伯勇の談話は、そうしたことも勘案した上で、もしもそれが逆だったら…
という仮説を語ったものだと思う。あるいは、上野氏がさぐったような
史料のことを知らなかったか。
いずれにせよ、経営には常にそうした危機感を持って臨め、という教訓と
解釈するほうがよいのではないか、という気がするが。
どうも近鉄ネタをカキコする人には、こういう妄想系が多いな(w
悪いけど、妄想はお腹一杯です。150番あたり以前を読んでみて下さい。
そっちがこのスレの本筋。
221 :
名無しでGO!:03/08/30 11:37 ID:kD8onl/Q
伊勢電って名鉄も狙ってたんだろ?
あすこに名鉄が来てたら鉄道の歴史も大幅に変わっていただろうな。
222 :
名無しでGO!:03/08/30 12:28 ID:dic8rjAX
>>221 名鉄(というより名岐・愛電)が合併、東西連絡線、新名古屋乗り入れ
という大課題を抱えた時期でなければ、もっと大胆な作戦もあり得た
んだろうが、あの時期だからね。抱えたら、必然的に桑名〜名古屋間の
建設を背負い込むことになるので、よほど体力がないと無理。
「名鉄百年史」自身が、名岐も愛電も力不足だった、と書いてる。
趣味的には、名鉄と伊勢電って、車輌的にも似た系譜(日車系)だし、
別会社だったら新松阪〜大神宮前間が撤去の対象とならなかった可能性も
あるし、楽しい妄想ではあるのだけど、建設時期から考えて、仮に名鉄系
だったら、桑名〜名古屋が戦争終了前に開通しなかった可能性が高いとも
思われる。そうなれば楽しいどころか…。
まあ、結局これでよかったのかな、と思うんだな。妄想するほど、歴史は
楽しい方には転がらないもんだ。
223 :
216:03/08/30 12:56 ID:kD7yJqxC
>>220 ふーん、知らなかった。
>省線との完全並行路線
>となる桑名〜名古屋間の免許は、伊勢への延長のあとでないと認められ
>なかった可能性が高い。
伊勢延長線も省線との並行線ですよね。
伊勢電が名古屋延長を伊勢延長の後にしたのは、揖斐、長良、木曽川
の鉄橋建設の費用がなく、省線の新鉄橋架け替えの際、余剰になる鉄橋
を安く払い下げてもらおうという魂胆を伊勢電社長熊沢一衛が持っていた
ためということ、が主要な理由であったと「東への鉄路」には書いてます。
>伊勢への延長のあとでないと認められ
>なかった可能性が高い。
この理由がわからないですね。並行路線の免許は確かに取りにくいけど
上野結城氏はどのように述べているのですか???
224 :
216:03/08/30 13:21 ID:kD7yJqxC
昭和3年11月の桑名ー名古屋間の伊勢電への鉄道敷設免許は、この
省線の揖斐、長良、木曽川の鉄橋の払い下げ(木曽川鉄橋のみ、揖斐・
長良については貸与)の内定と同時に出されたとある。桑名ー名古屋間
の免許の遅れはこの鉄橋問題と無関係ではないだろう。
225 :
名無しでGO!:03/08/30 14:10 ID:dic8rjAX
>>223 出典となる「鉄道史料」が手元にないので、正確には引用出来ないんだが、
その原型とも言えるピク398号での論考は以下の通り。
すなわち、名古屋山田間をめぐっては、大正期より競願が多数あり、
どちらかというと土着中小私鉄との位置づけだった伊勢電は、現有路線
の延伸という形での細切れ免許なら認められやすかった。南勢の主要都市で
ある山田への延長を果たし、伊勢湾岸の基幹鉄道の姿を整えて初めて
「名古屋との連絡」を理由に名古屋延長線が免許された、ゆえに伊勢と
名古屋で順序を間違えた、という俗説は実現不可能だった、という分析だった。
「鉄道史料」での論文は、さらに各次の出願史料も引用してこの内容を補強
したものだった。伊勢電自身が、山田延長が認められなければ名古屋へは
出られない、と考えていたことを窺わせる内容だった。
上野氏自身、猛烈な伊勢電びいきで、仮に名古屋へ先に出ていれば…と
いう論の持ち主だったが、史料を精査していくうちに、それが幻想に
過ぎなかったことを悟った、というようなことを書いていたはずだ。
226 :
名無しでGO!:03/08/30 14:10 ID:dic8rjAX
つづき
また(これは一般論だが)、省線並行線は、成業見込みを厳しく問われていた。
名古屋山田間も、各社から何度となく出願されるものの、その点で却下されて
いる。当然、膨大な建設費を要する架橋については、建設の成否や、開通後の
償還など、厳しく見込みを問われる対象になるわけで、それも名古屋出願が
遅れた一因ではあるだろう。しかし、伊勢電の場合、山田延長線ですら、
競願の中でようやく得たものであり、その前に名古屋というのはあり得な
かったはずだ。
それと、「東への鉄路」は名作だし、聞き書きも歴史調査の一手法では
あるが、小説は小説で、論文でも史料でもない。そこは峻別しよう。
若干補足。
>山田への延長を果たし、伊勢湾岸の基幹鉄道の姿を整えて初めて
>「名古屋との連絡」を理由に名古屋延長線が免許された、
と書いたが、ここでいう「延長」は、現実の路線延長ではなく、
概念としての路線(営業圏)のこと、ね。概念上、桑名〜山田間の
基幹鉄道となって初めて、名古屋への乗り入れを言い出せた、という
ほどの意味です。その段階では桑名への路線もまだ工事中だったはず。
自分のカキコをあとで読むと、免許と開業の順序を知らない人には
わかりにくい書き方だな、と思ったので、素直にお詫びしておく。
伊勢電は同時進行で北へ南へと延びているので、免許の出願書類も、
既免許線への連絡、という視点で、未開業線の開業を前提に話を進めて
いることが多くて、読む方も、さて、これはどこまで開業した時点の
話だったか?と結構混乱する。
228 :
216:03/08/30 17:15 ID:kD7yJqxC
>それと、「東への鉄路」は名作だし、聞き書きも歴史調査の一手法では
>あるが、小説は小説で、論文でも史料でもない。そこは峻別しよう。
「東への鉄路」は確かに小説であるが大筋では史実に基づいている。
小説だという理由で資料性がないというのは間違いではないのですか。
参考のため、免許、開通の年月を書いておくと、
桑名ー名古屋間の伊勢電への鉄道敷設免許、昭和3年11月
伊勢電四日市ー桑名間開通、昭和4年1月30日
伊勢電の伊勢大神宮前までの開通、昭和5年12月25日、
(参宮急行桜井ー宇治山田間全通昭和5年12月20日)
となる。
>ここでいう「延長」は、現実の路線延長ではなく、
>概念としての路線(営業圏)のこと、ね。
ということなら、名古屋ー桑名間を先に建設してもいいことになりますね。
免許的な制約は無いはずですよね、
(津ー伊勢間は免許だけを保持しておく。)
229 :
216:03/08/30 17:54 ID:kD7yJqxC
資料性の低い?「東への鉄路」では、この揖斐、長良、木曽川
の鉄橋の払い下げ運動には政治が絡むため、秘密にやらなければならない。
そのためにも、伊勢方面を大声で宣伝しながら先にやろう。という
ことらしいです。と、この当時、金森又一郎さんのライバルだった伊勢電
社長熊沢一衛は考えたらしいです。
いずれにしても、熊沢一衛の大軌・参急に対する単にライバル意識から伊勢方面
の建設を先に行ったわけではないのが事実のようです。
230 :
名無しでGO!:03/08/30 18:33 ID:dic8rjAX
>>228 あんた、歴史については素人かな? こんなことは大学史学科2回生レベルの
常識だと思うが。
資料性がない、などとは言ってないぞ。一次史料ではないので、たとえば登場
人物の語り口とかについては、作者(と語り手)のフィルターがかかる。作中
引用した史料は正しいだろうが、二次使用であって、孫引きである。また、熊沢の
意図にしても、作者が熊沢に直接取材したものではないので、聞き書きとしても
一次資料ではない(ちなみに、熊沢の心情に関する著述は、作中ではもっとも
歯切れが悪い)。そういう意味で、史料で検証された論文とは峻別しよう、と
言っている。
「東への鉄路」が、小説とはいえかなり正確に検証されたものであることはこっちも
異論がない。名作だ。それでも、論文での資料に使えないのは、作品の正確さとは
まったく別の、歴史研究の作法の問題だ。
これはオレに文句言われても困る。そういうことになってるんだから。史学科に
入れば、購読の最初に教えてくれるよ。
231 :
名無しでGO!:03/08/30 18:34 ID:dic8rjAX
後段。
名古屋を先に回したら、建設費や工期の関係から、伊勢にも名古屋にも
届かない最悪の事態になる、という判断をした可能性は? あるいは、伊勢電が
出願書類に書いたことが、役所向けの立て前ではなく本心だったら?
このあたりは史料が少なくて想像を脱しないが、名古屋が先、というのは、いわば
歴史の後出しジャンケンだ。後世の人間は簡単に「こうすればよかった」というが、
歴史を作る当事者の視野は限られている。すべては見渡せない。
これについても、
>>225でカキコした内容はオレの見解ではなく、上野結城氏の
論文や論考による。オレに訊くより、上野氏の論文に直接あたってくれ。仮に
手元にあっても全文引用はとてもできないし。
これまた歴史研究の初歩の初歩だ。先人がどういう史料でどういう研究を
まとめたか、まずしっかり確認して勉強する。それを批判するなら、上野氏の
史料解釈の間違いを探すとか、新史料を発掘するなどしてやるのがスジだよ。
「私はこう思う」だけで新説が立てられないのは常識。
…てか、なんでこんな初歩的な解説せにゃならんのだ? 疲れるわ。
やべ、誤変換してる(w
×購読
○講読
233 :
名無しでGO!:03/08/31 01:34 ID:MgOkG0Ib
太田社長による京阪版「東への鉄路」(=新京阪の名古屋延伸計画)が何故頓挫したのか教えれ。
234 :
名無しでGO!:03/08/31 06:06 ID:x/jSRali
235 :
名無しでGO!:03/08/31 07:24 ID:x/jSRali
>>230 >>231 この男は文脈から見ると文学部史学科に在籍しているのかな。
男のクセに文学部(プププ
人間のクズだ!!!
君はもうちょっと論理的な思考を身に付けたまえよ!!!
237 :
235:03/08/31 10:24 ID:x/jSRali
>>236 >>235で書いたことは真実かな???
まあ、どーでもいいが、君も何らかの話題でも提供したらどうだ。
人の意見にケチ付けることなら猿でもできる。
自分の意見が認められない
→相手を「異常者」扱い 批判を「人の意見にケチ付ける」と逆恨み
1時間半足らずの間に2回も一方的人格攻撃(=内容の反論なし)
それを批判されたら、そのカキコの主を昨日の論戦の相手として即カラむ
論理的でないのはいったいどちらだろう?
こっちも感情的な言葉遣いをした部分があった点は詫びよう。
ただ、現在のあんたのやりかただと、史料に基づく歴史学の世界では
一生認めてもらえない。その方面の専門家じゃなくても、史料で事実に
迫ろうと考えている人なら、オレと同じ答えを返して来るはずだ。
なぜあんたの妄想が批判に遭ったのか、ここでじっくり考えた方が、
今後の人生に有効だと思うんだが。(嫌味じゃなくて、真剣に)
ところで、
>>237の質問は、236に訊いてもわかるわけないよ。
だって、オレが昨日の「ID:dic8rjAX」だから(w
勘違い・思いこみも甚だしい。236氏に迷惑だぞ。謝れ。
内容が下らないので、sageておく。あんたも、しょうもないカキコはsageて書け。
239 :
235:03/08/31 20:42 ID:x/jSRali
史料とはなんですか。
史料にも色々ありますよ。
史料とは、そこに書いてあるということしか事実でない。
史料が歴史の真実だと思っていたら、歴史の嘘は見抜けないんじゃないかな。
史料は時の為政者によっていかようにも変えられてしまう。
その上田氏の論文をあなたは鵜呑みにしているけど、誰が正しい学説
と認めたの。
君は多分受験もすべて丸暗記で過ごしてきたんだろう。
だからなんでも史料とか論文を鵜呑みにし、正しいと思い、
他の意見を罵倒するんだね。
後、言っておくが、俺は「東への鉄路」を鵜呑みにしても、正しいともいっていない。
ここにはこう書いている。と言ってるだけ。
>どうも近鉄ネタをカキコする人には、こういう妄想系が多いな(w
>悪いけど、妄想はお腹一杯です。150番あたり以前を読んでみて下さい。
>そっちがこのスレの本筋。
「お腹一杯だって」さ。勝手に言論の自由を制限しないでください。この妄想は金森又
一郎時代の ものだからここに書く権利はある。
君ははっきりいってファッショだよ。
>内容が下らないので、sageておく。あんたも、しょうもないカキコはsageて書け。
俺はお前に命令される筋合いはない。
240 :
235:03/08/31 20:48 ID:x/jSRali
>>237 >まあ、どーでもいいが、君も何らかの話題でも提供したらどうだ。
ところでこれに対する反論は。
君が高尚な話題を提供するなら俺は素直に出て逝ってやるよ。
後、亀レスだけど、
>>228の
>>ここでいう「延長」は、現実の路線延長ではなく、
>>概念としての路線(営業圏)のこと、ね。
>ということなら、名古屋ー桑名間を先に建設してもいいことになりますね。
>免許的な制約は無いはずですよね、
>(津ー伊勢間は免許だけを保持しておく。)
に対する反論は。
自分の都合のいいところだけ反論するのはやめようね。
241 :
235:03/08/31 21:32 ID:x/jSRali
>>233 ずっと、無視されているようですね。(かわいそう)
新京阪は過剰の設備投資と、昭和大恐慌のおかげで、危うく倒産しそうに
なって京阪本体に合併。名古屋急行の夢はそのときに消え去りました。
(この京阪が戦時中に阪急と合併、戦後、分割されるときに新京阪線(現
阪急京都線)が阪急側に残った経緯については他スレで結構もめてます。)
ただ、順調に行ったとしても、全線が省線のしかも東海道線との平行線にな
るので免許が降りたかどうかは疑問です。
川島令三さんの本では近鉄名阪間の成功は、伊勢へ名古屋へと少しずつ線路を
伸ばしていった大軌・参急のゲリラ戦法にあるといってます。
242 :
235:03/08/31 22:12 ID:x/jSRali
まあ、今までの主張を整理すると、
上野結城氏の論文による説:
山田への延長を果たし、伊勢湾岸の基幹鉄道の姿を整えて初めて
「名古屋との連絡」を理由に名古屋延長線が免許された、
(これは鉄道省の方針、通達???)
(ここでいう「延長」は、現実の路線延長ではなく、概念としての路線
(営業圏)のこと、ね。)()内は「ID:dic8rjAX」の意見???
俺の説:それを認めたとして、それはあくまでも免許上のことで、実際建設
する順番は名古屋側を先にしても良かったんじゃないの。
それを制限するような鉄道省の通達みたいな史料はあるのですか。
これは比較的有名な話だけど、伊勢神宮を目指して省線、参宮急行線
伊勢電の3者が人口希薄な南伊勢でせめぎ会うことは過剰競争ということで
大和鉄道(参宮急行)の桜井ー宇治山田間の鉄道敷設申請に対して、鉄道省の
与えた昭和2年4月19日の免許条件の1つとして、「伊勢電気鉄道が車両乗り入れ
を申し出た場合にはこれを拒否してはならない。」というものがある。
実際は標準軌・狭軌の三線化の難しさや独自に乗り入れたいという伊勢電の
希望により伊勢電に免許が下りたとある。
このこととは鉄道省の方針として矛盾しないのかと思う。
>233
上まぁ、>241で触れているのも一因ではありますが、元々京阪は政友会系の会社であり、
利権会社の一面を持っていたことも確かです。
即ち、阪急や阪神のような沿線開発を行わず、線路敷設とその買収にのみ期待を抱いて
いた節があります。
なお、この名古屋急行電鉄の免許は、1929年4月に実際に免許されています。
(民政党に政権が移る直前の小川鉄相のバラマキによるもので、他に阪神電気鉄道の
京都〜神戸を結ぶ京阪神高速度電鉄、東京〜鎌倉間の鎌倉急行電気鉄道、東京〜
越生間の東京西北鉄道というのがありました。)
しかし、1929年の世界大恐慌と金解禁に伴う浜口内閣失政の為に金融引き締めが行われ、
1930年に事業の整理が行われ、結局放棄されました。
つまんない
245 :
235:03/08/31 23:08 ID:x/jSRali
246 :
235:03/08/31 23:26 ID:x/jSRali
>>243 ところで
>線路敷設とその買収にのみ期待を抱いて
>いた節があります。
新京阪買収論って他スレでもみましたが、どこに買収されることを
期待していたんですか。当時の弾丸列車計画の一部に組み込んでもらう
ことを期待してたんでしょうか。
新京阪は標準軌だから、阪和電鉄のようにすんなりと鉄道省に買収(南海山手線時代)
とはいかなかったと思うんですが・・・
>246
あ、免許は6月で、工事施工認可申請は1931年7月ですね。
最終的に1937年に免許延長を断念していますが。
新京阪についても、鉄道省による買収を期待していたようですが、それ以上に名古屋急行
電鉄についても買収を期待していました。
要は、従来の東海道線の別線としての(時代が下れば弾丸列車になり得たでしょうが)
買収です。
太田社長自身が政友会の支持者ですので、この辺は政友会内閣であれば何とでもなり
ます。
ご存知とは思いますが、改主建従か建主改従の大論争が当時有った訳で、軍関係者に
もこうした標準軌別線が有れば良いなぁと言う考えもありましたので、買収実現の可能性も
十二分にあったかと思います。
おとといの「ID:dic8rjAX」だけど。この時間なら話題も動いてないと思うので、
こちらもちょっと整理及び反論を残しておこうと思う。長文連投、予め「スマソ」。
現在、話が転々としてとりとめ付かなくなってしまっている観があるのだが…。
もともと今回の話は、もし参急が伊勢進出に失敗していれば、という「伊勢電勝利妄想」だった
わけだよね? その傍証に、佐伯勇の「伊勢電が名古屋進出を先に回していたら、参急が伊勢電
に身売りしていたかも知れない」という談を用いたわけだよね? それに対し、上野結城氏が
すでに「巷間伝えられる“名古屋を先にしていれば”という説は、伊勢電を取り巻く事情から
すれば俗説に過ぎない」という論を発表している、と指摘したわけだ。
では逆に訊ねるが、あんたは伊勢電の勝利を、どういうプロセスで導こうとしてるのだろうか?
歴史のどういう歯車が狂ったら伊勢電が勝利したのだろう? もっと具体的な説を聞きたい。
場合によっては「現実にそうなった可能性と紙一重だな」ということもあるかも知れないが、
>>216の持って行き方だけでは、
>>172の伊勢電独立妄想みたいな「ただの空論」に過ぎない。
もちろん「だから名古屋に先に進出して…」なんて無限ループ突入は、最初から却下だよ。先に
名古屋進出するべきだったなら、その方策を聞きたい。それがない限り俗説の上に乗っかった
妄想でしかない。
>>228後段のように思うのなら、なぜそれが実行されなかったか、をまず自分で
検証してから、「そうでないもうひとつの歴史」を考えるべきではないの?
そういう補強がないから、この話、単純に妄想としても魅力がないんだよね。
>>242後半にもひとこと。
鉄道省の方針も時代によってころころ変わってる。省線並行線に対する厳しさも、眠い人氏が
>>243で触れている「サービス免許」の時期に緩くなったりしてるし。「成業の見込みなし」と却下
された区間が「官線の混雑緩和に寄与する」と免許になったりする。研究課題だろうね。
大和鉄道の件は、当初は狭軌での免許だったためにあの文言が付いたはず。しかし、役所自身が
一度そう言ってしまった手前、大和鉄道の軌間が変更された、という話になれば、立て前として
伊勢電独自の免許を認めざるを得ないんじゃなかろうか?と考えるのだが。
ちなみに、
>>242前半と、ほぼ同じ内容を問うている
>>240だが、
>>231で「考えられる可能性」を
すでに提示してあるぞ。あとは竣工期限の問題くらいか。残念だが、不勉強にして、これ以上は
断言出来る材料を知らない。もし見つけたらみんなに教えてくれ。
訂正依頼。
そちらの整理で、「()内は「ID:dic8rjAX」の意見???」となっている部分は、きっぱり上野氏の
論考にあるままだ。前レスでの引き方が悪かったので補足した。ピクでの論考の原文を引用すると、
「巷間、伊勢電鉄は手順を誤った.名古屋乗入れを先にすればよかったと伝えられているが,山田まで
認可を受け,次いで,山田-名古屋間直通運転するという計画で名古屋延長申請が出来たのである.
大正の中頃から,他鉄道の名古屋進出計画もあり,山田延長を何度も申請したように,「まず山田から」
は,伊勢電鉄にとって宿命のようなものではなかっただろうか.」となっている。
悪意に満ちた罵倒の部分はなるべくスルーしたいが、以下の点だけは触れておく。
まず、これを読んでる若い人が誤解するといかんので一応書いておくが、
史料や論文は暗記する必要なんてありません。歴史が暗記の教科だなんて、中高生レベルの認識だ。
実際は史資料を探す能力、要点をまとめて、意味(内容だけでなく歴史における意義)を理解する能力
が求められるんだ罠。オレ、暗記が嫌いだから歴史好きになったのに。ボケた攻撃、ありがとう(w
もひとつ。論考の紹介・論文の引用と、「鵜呑み」はまったく違う。オレのレスのどこをどう読んだら
「鵜呑み」に思えるのかな? 大変不思議なのだけど。現在の有力な論を否定したければ、オレに噛み
付いてないで批判論文を書こう。オレが仮に「上野氏信奉者」だとして、ここでそれを撤回したとして
も、あんたが溜飲を下げるだけで、研究の大勢は何も変わらない。
そして、
>>239の後段は噴飯ものだ。アホらし過ぎて、もう笑いが止まらない。
ファッショだって? 誰が自由を制限したよ? 「おもろないからもう要らん」と言っただけでしょ?
そもそもはあんたの能力不足が原因。カキコする自由は誰にもあるが、それは批判される覚悟と表裏
一体のものだ。匿名でも、意見の公表にはそれなりの責任がある。あんたこそ、自説を批判する奴に
徹底粘着で、「批判の自由」を制限してるぞ。よっぽど「ファッショ」的じゃないのか?(w
自説を自由に展開したければ自分で「妄想鉄道史」とかいうサイト作ればいい。
やりあってて不思議なんだが、あんたって、「どんな歴史にもただひとつの真実がある」とか
思ってないかい? (違ってたらスマンけど ←決めつける気はないので、ヨロ!ね)
オレは違うと思ってる。同じ事象にもいくつもの面がある。それを総合して、どうやらここが実態だぞ?
というところに近付いていく。それが歴史研究だと教えられたし、実際そうだと思う。
歴史は、残されて、調べられて、書かれて、評価されて、初めて「歴史」になる。どこかに「真実」が
あって、それと「定まった歴史」が違うこともあり得る。昭和史なんかでも、新しい史料が出ると評価が
変わることを目にするよな? 「歴史」とはそういうあやふやな部分を多く含んでる。
史料がなければ「わからない」としか評価出来ないこともある。時間は必ず流れていて、人が生きていて、
物事が動いていたはずなのに、ね。古代史なんか、謎だらけだ。
きっとあんたは、そういうあやふやな「歴史」なんかじゃなく、「真実」はどこにあるのか?を一所懸命
探ろうとしているんだろう。その態度自体は悪いと思わない。ただ、だからと言って、定説の批判や新
史料の提示、検証作業を抜きに評価を変えることもまた許されないんだ罠。それは暴走になってしまう。
戦争や災害が悲惨なのは、いま生きている人を死に追いやるだけでなく、史料や研究の損失によって、
過去の人たちに「二度目の死」を与えることにもある。けれど、わからないから、と言って、正確でない
歴史を割り振ることは、過去の人たちに対してもっとひどい犯罪だ、とも言えるわけだ。プロの歴史屋
さんたちは、わかっていることとわかっていないことを峻別する。わからんことはわからんと言う。
(あ、古代史、とくに古墳時代以前は現在のところ「妄想言いたい放題」だから、これは除くけどw)
史料の捏造が、特定の被害者がいなくても大犯罪なのは、そういう理由だ罠。手順をすっ飛ばした妄想が
妄想としか評価されないのも同じような理由だ。面倒だろうが、手順を踏もう。
最後に、「眠い人」氏へ。
行きがかりとはいえ、スレ汚しのような状態で申し訳ありませんです。
時間があればこっちに本腰据えて、また鉄道史を語って下さい。
お帰りになられたら、またROM生活に戻りますので(;;;;
253 :
235:03/09/01 19:24 ID:7gjpV7PH
>>251 お前、本当に異常者だな!!!
まず
>>240、
>>242に反論しろ!!!
それから自分の意見を言え!!!
>やりあってて不思議なんだが、あんたって、「どんな歴史にもただひとつの真実がある」とか
>思ってないかい? (違ってたらスマンけど ←決めつける気はないので、ヨロ!ね)
違うよ。
>後、言っておくが、俺は「東への鉄路」を鵜呑みにしても、正しいともいっていない。
>ここにはこう書いている。と言ってるだけ。
と
>>239に書いてます。
約2名の方へ
ROMってる人間もいるので、言葉づかいは丁寧に、他人に不快感を与えない範囲で
議論してください。
255 :
235:03/09/01 19:58 ID:7gjpV7PH
>>248 >上野結城氏が
>すでに「巷間伝えられる“名古屋を先にしていれば”という説は、伊勢電を取り巻く事情から
>すれば俗説に過ぎない」という論を発表している、と指摘したわけだ。
それどこに書いてるの。今日、国立国会図書館で、あなたのいう 「鉄道史料」の上野結城氏の
「伊勢電気鉄道史」を全部調べたけど、そんなことどこにも書いていないんだけど。
上野氏の論文は非常に客観的だ。君の非論理的なわけのわからない意見とは雲泥の差だね。(プッ
さて、
>>220の
>実際のところは、上野結城氏の論文にもある如く、省線との完全並行路線
>となる桑名〜名古屋間の免許は、伊勢への延長のあとでないと認められ
>なかった可能性が高い。当の伊勢電自体が、出願文書の中でそういう
>捉え方をしていた。
の珍説の元ネタを紹介しておこう。
256 :
235:03/09/01 20:01 ID:7gjpV7PH
>>242で述べているとおり、伊勢電の松阪ー伊勢間の免許が許可されなかった
とき、伊勢電は大和鉄道が大阪と伊勢の間を結ぶのなら、名古屋ー伊勢を結ぶ
鉄道も必要なはずだ(伊勢電のことね)といって、伊勢の免許を取得し
ているとある。(1988.5 鉄道史料、伊勢電気鉄道史(XZ)のP13、原文は文
語調で難しく書いてある。) 要するに免許を認めてもらうために、かっこいい
こといったわけだね。
ちなみにここでの免許条件に名古屋延長は伊勢方面を造ってからにしろ。という
免許付帯条件は一切書かれていない。
まあ、別のところで上野結城氏が「巷間伝えられる“名古屋を先にしていれば”という説
は、伊勢電を取り巻く事情からすれば俗説に過ぎない」といったとしてもそれは上野氏
の個人的見解だ。その裏づけとなる論拠を俺は鉄道史料から見出だせなかった。
意見と事実を混同しないように。
257 :
235:03/09/01 20:59 ID:7gjpV7PH
>>248 上野結城氏の「巷間伝えられる“名古屋を先にしていれば”という説
は、伊勢電を取り巻く事情からすれば俗説に過ぎない」という意見は
伊勢電社長熊沢一衛の心情を勘案して、という視点に立てば理解でき
ないことでもない。
熊沢は伊勢電を大きくし、名古屋ー伊勢間の鉄道を造ることを目標に
掲げた。そこに三重に進出(侵略)してきた参宮急行が存在した。
当時の熊沢はやはり、「伊勢に大阪商人どもに最初の電車を付けられて
たまるかと思ったのであろう。」そこで伊勢の方を優先して建設した。
(東への鉄路より)
ただ、真実の歴史は誰にもわからない。熊沢の本当の気持ちは永遠の謎
だろう。
今、事実としてあるものは、
@参宮急行には、伊勢方面の免許が下りたが、伊勢電には下りなかった。
(鉄道省は過当競争を戒めていた。)
A伊勢電は伊勢方面への免許を取るために、再度免許申請をして(
>>256)
免許を手に入れた。
B名古屋方面は木曾川、揖斐・長良の鉄橋問題がありそれが伊勢電に払い下げ
られる昭和5年まで名古屋方面の工事はできなかった。
ということだ。
258 :
235:03/09/01 21:01 ID:7gjpV7PH
ここで大事なのは、名古屋方面への建設の障害には物理的条件(大河、地盤の軟弱性)、
法律的条件(免許)、資金的条件(伊勢電の財政状態)そして心理的条件(熊沢の)の
4つの障害があるが前の3つの条件は史料等で、比較的事実確認ができるものであるが、
最後の、熊沢の心理は一番把握できないところである。俺は「熊沢の心情が名古屋
延長の最大の障害であるといえるのではなかろうか。」と考えている。人の
心の弱さかな。
もし、このとき、もう少し熊沢が時節を見れる男で、一時の苦渋をしのぎ、
伊勢方面への建設を一時凍結し、内部留保を確保して、昭和5年まで待っても、
名古屋方面を建設するということは十分可能であったと考えている。
スレタイちゃんと読めよ!
近鉄と伊勢電の経緯の詳細を語りたいのなら別に「東への鉄路」というタイトルで別スレ立てれ。
これじゃ京阪と阪神と阪急と南海がかわいそうじゃないか。
260 :
名無しでGO!:03/09/01 21:33 ID:iZjUbKdK
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 鉄ヲタは包茎!!! |
| 鉄ヲタは童貞!!! |
| 鉄ヲタは知障!!! |
| 鉄ヲタは悪臭!!! |
| 鉄ヲタは汚物!!! |
|________|
二二 ∧ ∧ ||
≡≡(,, ゚Д゚)⊃ キモイ...
三三〜(, /
| ) )
∪
261 :
235:03/09/01 21:38 ID:7gjpV7PH
>>259 >これじゃ京阪と阪神と阪急と南海がかわいそうじゃないか。
そうだね。
では、あなたが話題を提供してください。
262 :
名無しでGO!:03/09/01 21:49 ID:KRQ0rRVG
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|
>>235は包茎!!! |
|
>>235は童貞!!! |
|
>>235は知障!!! |
|
>>235は悪臭!!! |
|
>>235は汚物!!! |
|________|
二二 ∧ ∧ ||
≡≡(,, ゚Д゚)⊃ キモイ...
三三〜(, /
| ) )
∪
263 :
235:03/09/01 22:52 ID:7gjpV7PH
>>249 >大和鉄道の件は、当初は狭軌での免許だったためにあの文言が付いたはず。しかし、役所自身が
>一度そう言ってしまった手前、大和鉄道の軌間が変更された、という話になれば、立て前として
>伊勢電独自の免許を認めざるを得ないんじゃなかろうか?と考えるのだが。
その史料を示してよ。そんなこと上野結城氏の論文には書いてないよ。
俺もしつこいとは思うけどね。
大正10年 11月 大和鉄道、桜井ー名張間免許申請
大正11年 6月 免許認可 (当然狭軌)
大正14年 4月 大軌、大和鉄道傘下へ
大正14年 10月 大軌が大和鉄道の名義で名張ー宇治山田の免許申請
(史料はないが、このときに標準軌で申請しておかないと、大軌への乗り入れが
できないでしょう。狭軌で申請する意義はない。)
大正15年 4月 名張ー宇治山田の免許認可。同時に大軌にも八木ー桜井間の
免許認可
が年表です。ここのところは鉄道省側の、省線ー参宮急行ー伊勢電の三つ巴の
過当競争を戒めてのことだと思うけど・・・
ところであなたは経済という視点からものを考えることはできないの。
南伊勢の人口希薄な地帯での省線ー参宮急行ー伊勢電の三つ巴の
過当競争を避けるというのは常識的な考えだと思うよ。
264 :
235:03/09/01 22:54 ID:7gjpV7PH
>大正14年 4月 大軌、大和鉄道傘下へ
大正14年 4月 大和鉄道、大軌傘下へ
逆でした。
265 :
名無しでCO!:03/09/02 00:38 ID:+FZ/525a
もう何が何やらわからんようなってしまったので一言。
>>243の、
>即ち、阪急や阪神のような沿線開発を行わず、線路敷設とその買収にのみ期待を抱いて
いた節があります。
ならもっと真っ直ぐに線路作っとけや(w
あんなカーブだらけ&沿線誰もいない路線誰が買うのかと小一時間(以下略)
266 :
名無しでGO!:03/09/02 00:50 ID:mX7pdqvx
このスレ、もうだめぽ。
>>265 旧来の宿場町を結ぶことによる集客増効果を狙う為に、集落毎に寄る格好となり結果として曲線部が多くなったと思われる。
旧阪急の2線のうち、宝塚線が上記と同じ意図だった模様。
で、ひなびた農村地と少しの温泉宿だった宝塚に娯楽施設を建て、数年前に開通した阪鶴鉄道宝塚駅共々栄えていった、と。
268 :
1:03/09/02 00:51 ID:oYsMCKve
先述したように、手元に当該の雑誌がなく、また当方は地方在住のため、正確で具体的な反論は今すぐ
には出来ない。何より、ROM住人の皆様から多数の批判が出ており、これ以上引っ張るのはどうかと
痛感している。ただ、明らかな史実や解釈の間違いだけは正しておきたい。お許しを願いたい。
>>257 (3)の「できなかった」というのは、「既定の事実」ではない。伊勢電自らの選択によるものだ。
最初の免許線は現在線よりずっと海岸寄りだった。弥富から現在の名鉄線に接続という案も検討されたが、
これなら資金を架橋だけに投下すればよかった。養老鉄道を確保していた伊勢電としては、多度〜佐屋間
程度の敷設で名古屋からの直通旅客を確保することも出来た可能性がある。こちらは官線にも並行せず、
免許も比較的得やすかったはず、と思慮されるが、なぜこれらを選択しなかったのか。
仮に、技術的に架橋不能(それによる免許の不下付)、あるいは資金の事情で独自架橋は困難、という
なら、「できなかった」はたしかに「既定の事実」である。が、そうすると当方の主張(「名古屋への免許
は山田への免許延長の後でないと…」)も意味を失う一方、熊澤の動きから推測する限り、払い下げの時期
も、疑獄の発生も、史実そのままになってしまうため、名古屋延長も叶わなくなる。235氏の最初の主張で
ある「伊勢電が名古屋を先にしていたら参急は伊勢電に身売りしていたかも」も同時に不成立である。その
場合、伊勢電は桑名〜津(新松阪?)で終わって結局窮地に陥る。その解釈でよろしいか。
逆に「独自路線での乗り入れにこだわった」ためとするなら、山田延長線にも同じ思想を当てはめること
が可能になる。山田へ独自路線を、という目標は(仮に参急がなくても)伊勢電自身から発生することに
なり、「桑名・養老方面からの参宮客誘致」が、免許申請の立て前ではなく営業上の本心だったことにも
なる。自動的に「なぜ山田を先にしたか」という問題の解答にもなってしまうが、如何か。
>>263 旧大和鉄道の軌間変更認可は昭和3年5月25日付(申請の日付は当方では未確認)。路線免許申請・
免許時は3-6軌間であった。よって、263での考察は前提の完全な間違いで不成立。参急が軌間を変更
して来るだろうことは誰もが予期していただろうが、表だった動きはおそらく免許譲渡前後からか
と思われる。これを受けて、伊勢電は松阪〜山田の免許を昭和2年8月26日に申請、12月27日に免許。
この段階ではすでに免許理由の中に「軌間の相違」「乗入れ困難」があったはずと記憶する。国会
図書館に通える環境なら、この史料の原典にも当たれるはず。ご確認を願いたい。
なお、
>>249前段は、上野氏の主張ではなく当方の見解。「〜考えるのだが。」と書いたし、「とくに
引用を断らない個所は筆者本人の意見」というのは常識であるはずだ。
戦前の「伊勢」が経済だけでは語れない(「経済を考えなくてよい」という意味ではないが)場所
だったことは御存知と思う。紙数(?)がないので、参急・伊勢電の両社とも、南勢地域の集客には大きく
期待せず、自社沿線からの参宮客誘致を主眼にしていたことだけ指摘しておく。
>>255-256 問題点の誤認である。当方が指摘したのは、名古屋延長線の免許申請時に、理由として「桑名-山田間の
既設・工事線に接続させたい。その開通に前後して(名古屋延長線も)開通させたい」と伊勢電側が述べ
ているもの(昭和3年1月24日出願)。山田延長申請のものとは関係ない。
名古屋延長は何度か却下されており、結果的に山田までの免許を得たあとに、その区間との接続を理由
として許可されたのは事実。鉄道省の毀誉褒貶?ぶりや、疑獄との関連も考慮すると、この理由での免許
下付にも怪しい部分は相当あるが、まったく表面的な文言、とまでは否定する材料がない
>>258 >もし、このとき、もう少し熊沢が時節を見れる男で、一時の苦渋をしのぎ、
>伊勢方面への建設を一時凍結し、内部留保を確保して、昭和5年まで待っても、
>名古屋方面を建設するということは十分可能であったと考えている。
それを「歴史の後出しジャンケン」だと申し上げている。そうならなかったことには、それなりの理由
がある。歴史は有能な個人に負うものではなく、さまざまな状況の「必然」が集成された結果である。
同じ「後出し」をするなら、参急との提携を蹴るべきではなかった、ということを主眼に据えた方がまだ
納得する余地がある。ここだけは誤りの指摘ではないが、言わせていただきたい。
「鉄道史料」での論文は、文字通り史料が主役のもので、上野氏は声高な主張をしていなかったと記憶
する。それに先行するのがピクトリアル398号での論考である。内容から見て、この段階で上野氏はのちに
使用した史料を把握・知悉していたと思われるから、両者は同じ論拠によって成立したものとして、
一体的補完関係になる。
>>249後半など、上野氏の主張の要旨は、現在手元にあるこちらに依った。
なお「別のところで(略)いったとしてもそれは上野氏の個人的見解」とあるのは、誠に理解に苦しむ。
それでは「論文や論考では、史料を解釈して発表してはいけない」ということになってしまう。しかし、
史料の紹介・引用と、それを解釈して論じることが合わさらなければ「論」は成立しない。
ROM住人の方々、スレ立て主様、「眠い人」氏など、多数の方々に御迷惑をおかけした点、遺憾である。
長々のスレ違い、心よりお詫び申し上げる。批判は甘受する。
272 :
235:03/09/02 20:35 ID:DzcVIsV4
>>271 長文ご苦労様。
ところで、あなた自身は話題を提供しないの。出来ないの。
多分創造性のかけらも無いから出来ないんだね。
人の話題にケチつけるのもいいがそれじゃ寄生虫だ。
まあ、このスレは元のように淋しくなるだけだ。
>>272 言葉には気をつけてほしい。他人もいるのだから、不快感を与えない表現を
心がけていただきたい。
274 :
235:03/09/02 20:43 ID:DzcVIsV4
>>273 こいつも話題を提供できない創造性のかけらも無い野郎か。(プッ
本当のこといわれたからってムキになるなよ。
275 :
235:03/09/02 21:19 ID:DzcVIsV4
>>270 >
>>263 >旧大和鉄道の軌間変更認可は昭和3年5月25日付(申請の日付は当方では未確認)。路線免許申請・
>免許時は3-6軌間であった。よって、263での考察は前提の完全な間違いで不成立。
事実誤認を認めましょう。但し、重箱の隅を突付くような指摘だね。
で、私の言い分は参宮急行への伊勢電乗り入れの理由は過当競争を避けたためという見方
であるし、あなたの言い分は軌間が同じだからという見方だよね。
どっちが正しいかは史料にでてこないのでわからないが当局が過当競争を意識していなければ
伊勢電側にも免許が下りると思うんですけど・・・
>「軌間の相違」「乗入れ困難」があったはずと記憶する。
それは
>>242で述べてます。後、鉄道史料にも書いてます。
276 :
235:03/09/02 21:23 ID:DzcVIsV4
>
>>255-256 > 問題点の誤認である。当方が指摘したのは、名古屋延長線の免許申請時に、理由として「桑名-山田間の
>既設・工事線に接続させたい。その開通に前後して(名古屋延長線も)開通させたい」と伊勢電側が述べ
>ているもの(昭和3年1月24日出願)。山田延長申請のものとは関係ない。
ということは、それが
>実際のところは、上野結城氏の論文にもある如く、省線との完全並行路線
>となる桑名〜名古屋間の免許は、伊勢への延長のあとでないと認められ
>なかった可能性が高い。当の伊勢電自体が、出願文書の中でそういう
>捉え方をしていた。
の珍説の元ネタですか。(W
これは、桑名ー山田線の既設・工事線の開通にあわせて、名古屋への新線も完成させたいという
伊勢電の免許申請時の目標(希望)をただ述べているに過ぎないよね。どこをどう解釈すれば
>実際のところは、上野結城氏の論文にもある如く、省線との完全並行路線
>となる桑名〜名古屋間の免許は、伊勢への延長のあとでないと認められ
>なかった可能性が高い。当の伊勢電自体が、出願文書の中でそういう
>捉え方をしていた。になるの。教えてください。
277 :
235:03/09/02 22:10 ID:DzcVIsV4
>>270 >名古屋延長は何度か却下されており、結果的に山田までの免許を得たあとに、その区間との接続を理由
>として許可されたのは事実。
俺は、名古屋延長却下→伊勢方面の免許を得た後にその区間との接続を理由として
名古屋方面の免許を得た。のつながりがわからない。
>結果的に山田までの免許を得たあとに、その区間との接続を理由
>として許可されたのは事実。
あなたの論説を例えば、こういう論理展開にしてくれるとわかりやすい。
@名古屋延長は何度か却下されていた。却下理由は名古屋ー伊勢間を結ぶ目的の鉄道でなければ
免許は与えられないから。(証拠はこの文献)
Aそこで伊勢電は伊勢方面の免許を先にとり先に建設した。(証拠はこの文献)
Bその上で、名古屋ー伊勢間を結ぶ鉄道として免許を申請し名古屋ー桑名間の免許を得た。
(証拠はこの文献)
っていう3段論法で話をして頂かないと。いつまでも堂々巡りだよ。
278 :
235:03/09/03 05:09 ID:20H+znWI
>>273 見ず知らずの人を「あんた」って罵倒する「ID:dic8rjAX」さんの方が
余程常識のない人に見えるよ。
279 :
名無しでGO!:03/09/03 05:38 ID:q7sc+zPJ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|
>>235は包茎!!! |
|
>>235は童貞!!! |
|
>>235は知障!!! |
|
>>235は悪臭!!! |
|
>>235は汚物!!! |
|________|
二二 ∧ ∧ ||
≡≡(,, ゚Д゚)⊃ キモイ...
三三〜(, /
| ) )
∪
280 :
名無しでGO!:03/09/03 05:42 ID:mwRHEboI
>>235は包茎、童貞、キモイ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧ ∧∧ ドドドドドド・・・・
(゚Д゚ ,,) (゚Д゚ ,,) ∧∧ (´´
⊂_⊂V⊂ ⊂ )⊂(゚Д゚ ,,)_/(´´
Y /⊃ | .L⊃∧∧∪ _⊃(´⌒(´
ドカ ∪∧∧J⊂(x _x⊂ノ(´⌒(´ (´´
ドカ ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
281 :
235:03/09/03 07:43 ID:20H+znWI
>>269 >熊澤の動きから推測する限り、払い下げの時期も、疑獄の発生も、史実その
>ままになってしまうため、名古屋延長も叶わなくなる。
昭和4年の鉄道疑獄事件ね。
このときに熊沢は東京地検に連行され、市谷に収容とある。
(この2ヶ月半後の11月27日に保釈出所)
9月26日に鉄道大臣小川へ閾値も起訴収容
大軌・参急社長の金森又一郎も逮捕、数日後に釈放
で、熊沢の裁判は10年も続き、結局は龍頭蛇尾で終わる。
で、これが名古屋延長のどれだけの障害になるのかはわからないが、
裁判中ずっと建設ができないというのであれば、関西急行電鉄
による名古屋延長もできないことになってしまう。伊勢電は関西急行
に鉄橋一式や名古屋の駅用地などを現物出資した。
ということで、
>名古屋延長も叶わなくなる。
の論拠はなんですか。
282 :
名無しでGO!:03/09/06 08:40 ID:zoppW+fi
age
283 :
235:03/09/06 09:03 ID:HlKD0j8W
>>272 の予言が的中。さびしいスレになってしまいましたね。(W
ところで、衝撃の近鉄妄想スレ第3弾があるんだけど、
「ID:dic8rjAX」のような人を罵倒する野郎がいるから
書くのヤーメタ。
284 :
名無しでGO!:03/09/09 12:35 ID:RlWglJDb
age
285 :
sage:03/09/09 13:19 ID:ueGW44Ir
sage
286 :
名無しでGO!:03/09/14 00:55 ID:UhW1mJtN
age
287 :
名無しでGO!:03/09/14 00:58 ID:pXn5oluN
熊沢の姉「うの」
288 :
名無しでGO!:03/09/14 01:30 ID:/tAFZkPf
伊勢電といえば、近鉄石切駅南側のガーター橋に伊勢電気軌道のプレートが貼られていた。
昭和5年製造というのも不自然だから(奈良線は大正3年開通)、昭和30年以降の生駒トンネル
付け替えの時に予備品となっていた橋梁を転用したと思われる。前世は不明。
289 :
235:03/09/16 08:11 ID:5yMLgXCM
どうした、「ID:dic8rjAX」
早く話題でも提供したらどうだ!!!
290 :
名無しでGO!:03/09/19 23:10 ID:l1p+WYRl
なかなか話題がみつからないので、話題を募集age
291 :
名無しでGO!:03/09/20 02:29 ID:G1LenPID
>>290 それでは、まえまえからのぎもーんというか妄想を一つ
大軌・参急は何時から名古屋進出を企図していたのか?で、
となれば時期的に伊勢電との衝突は避けられないでしょうから、この段階で、ゆくゆく
は現在のように伊勢電を吸収しての名古屋進出を考えていたのか、
伊勢電と競合線となっても独自乗り入れを考えていたのか、です。
もし伊勢電吸収案であり、参急としては津(江戸橋)まで繋げばよいと考えていれば、
中勢鉄道を傘下に入れ中川−久居間の免許を譲渡されて開業するわけですが、
それよりも川合高岡−久居間を買収したほうが、名古屋へは僅かですが距離的に
有利なのでは?
と、ULで中川短絡線を通る度に思うのです。
それとも当初から中川スイッチバックでの名古屋進出を考えていたのか?
292 :
名無しでGO!:03/09/20 02:31 ID:G1LenPID
>>291 続き
伊勢地方と県都津の連絡上、中川経由が必要だったとも考えられますが、
ゆくゆく伊勢電を吸収する腹づもりで、伊勢、名古屋方面共、対大阪方面との速達
を重要視するなら、三重県内連絡は新松坂(の北方の参急線との交差部に連絡線
設置)−江戸橋間を利用すればいいわけで。
つまり、中川のしょぼいデルタ線ではなく、
川合高岡−江戸橋−松阪で、大きなデルタ線を形成できなかったものか、
との妄想をネタフリさせていただきます。
293 :
名無しでGO!:03/09/20 02:34 ID:QvVrAAdC
伊勢電の大神宮進出と同時並行でしたから、成り行き任せの要素が充分にあると思います。
相手の姿が変化しつつあるわけですから、乗り入れ形態など先々の事まで周到な計画は
建てられないでしょう。伊勢電合併後の名古屋線の狭軌化が、シナリオの無い事を物語ると
思います。
294 :
235:03/09/20 06:33 ID:VREVjSvf
参宮急行は名古屋への独自路線の計画を持っていた。
現に参急中川ー名古屋間の免許申請をしている。(昭和2年12月)
但し、実際の免許は桑名までで名古屋ー桑名は不許可。(昭和4年6月)
省線ー伊勢電ー参急の過当競争を避けたためという見方がされている。
で、伊勢電の買収計画はそのときから始まり、四日市銀行の取り付け騒ぎ、
伊勢電の経営不振により紆余曲折があったものの合併が実現した。
>>293 >伊勢電合併後の名古屋線の狭軌化が、シナリオの無い事を物語ると
>思います。
伊勢電は元から狭軌ですけど。江戸橋ー中川間の狭軌化なら、それは
乗客の乗り換えの利便性を考慮してのこと。
295 :
235:03/09/20 06:41 ID:VREVjSvf
>>292 実際、伊勢へのルートは3つくらい案があったらしい。
久居を通り、津へ最短に抜けるルートも考えられたらしいが
工事費と工期の関係で現在のルートに落ち着いた。
戦後、短絡線の建設計画はあったらしいが、用地買収に失敗して没。
あぼーん
297 :
名無しでGO!:03/09/20 09:27 ID:QvVrAAdC
>>294 ですから、最初から狭軌で建設せずに改軌を繰り返してる所が計画性の
無さ、あるいはシナリオの度重なる破綻を示していると考えるのです。
改めて考えると工事したほうが便利だ、は計画性の無さの証明ですよね?
298 :
235:03/09/20 19:31 ID:VREVjSvf
>>297 だからさ、参急は名古屋線を独自に作る気があって、中川ー津間を標準軌
で作ったんですど。(その後、江戸橋まで延長)
やはり、経済的得失を鑑みて桑名まで独自に建設することを諦め、かつ名古屋
までの免許を伊勢電が持っていることから様々な経緯で伊勢電を合併したと
思いますよ。
>最初から狭軌で建設せずに改軌を繰り返してる所
中川ー江戸橋間は1回しか標準軌ー狭軌に改軌していませんが。
>改めて考えると工事したほうが便利だ、は計画性の無さの証明ですよね?
どんなことでも計画の変更というのは諸般の事情により存在するものであり、
それを「計画性の無さ」と言い切ってしまうのはどうかと思いますよ。
現に参急は名古屋までの延長計画はあったわけですしね。
とりあえず、流れを遮ってスマソが…。
太田垣士郎について、ちょっと触れてみる。
さて、この人は1946〜51年までの京阪神急行電鉄の社長を勤め上げた人物だけど、結構面白い人なので、
紹介してみよう。
太田垣は1894年に城崎郡に医者の長男として生まれる。
父親の医者、太田垣隆準は東京帝大医科大学選科卒業後、故郷に戻って医者をしていた人だが、急患と聞けば、
取るものもとりあえず駆けつけ、貧乏人からはある時払いの催促なしと言う「赤ひげ」で、1909年の城之崎の大火では、
「儂は医者じゃ!」と一言叫んで、頭から水を被って火の海の街に飛び出し、被災者の手当をして回った人だそうな。
こうした父の薫陶を受けて、太田垣少年は順調に育っていたが、1905年に通学途中、ノートを止める際に使っていた
割り鋲をふとした弾みで飲み込んでしまい、しかもそれが喉の途中に刺さってしまい出て来ない。
で、父の懸命の治療も功を奏さず、播但線まで50kmの道のりを人力車で走り抜け、姫路から山陽線、東海道線を乗り
継ぎ、京大病院で治療を施したが、余り好転せず、病弱な少年になってしまった。
それでも、学校の成績は一番で、豊岡中学に進学した。
ところが、1911年、咳き込んだ拍子に奇跡的に鋲が外れ、外に飛び出した。
これで、体調は快方に向かった。
さて、豊岡中学では、鋲のために一年休学する羽目になったが、一人の教師が
彼を迎え入れてくれた。
その教師は、下宿を持ちかけたが、この時の太田垣士郎の答えは、
「酒、煙草を認めること」
だったと言う。
教師は、その条件を認めただけではなく、一緒になって酒と煙草をやった。
この教師は、太田垣士郎の生涯の師となったと言う。
その後、彼は酒、煙草はおろか、女遊びにも精を出した。
その行動が学内で問題に成らないわけがなかったが、教師がその都度庇ってくれた。
余り、そう言った行動が過ぎるので、最終学年になったときには、校長から非行封じの
ために風紀係を命じられた。
この校長も、出来た人で、太田垣士郎の生涯の師の一人になっている。
その豊岡中学を卒業後、熊本の第五高等学校に進学、父は医者を願い、一時は本人も
その気になったが、結局は京大経済学部に進学し、高校、大学を通じて先輩であった人
の居る、大阪・北浜の日本信託銀行に1910年入社、翌年結婚する。
その妻は、赤穂浪士の一人、奥田孫太夫の血を引く人だったそうだが、結婚の際、士郎の
家には、京の舞妓からの手紙やプレゼントが山のようにあり、父子はそれらをせっせと焼却
処分したという笑えないエピソードがあったりする。
1925年、日本信託銀行入社の際に慕っていた先輩が、阪急に移ることとなり、彼もその先輩
に付いて、阪急に入社した。
その後、小林一三から、バス会社の経営、鉄道の車掌、切符切り、また宝塚少女歌劇団の
場内課長、百貨店のフロア課長など、有りとあらゆる職種を体験している。
1943年、京阪神急行電鉄の西部運輸局次長となり、沿線地域への学童疎開児童の輸送を
主任務に制服制帽姿で陣頭指揮を取っていた。
こういった努力が実を結んだのか、翌年取締役となったが、その担当業務は、西宮球場経営、
不動産経営、宣伝部門担当という大凡激化する戦局には合わない閑職だった。
1946年、プロ野球復興と共に、西宮球場にお客が戻ってくる。
それに併せて、10月には常務取締役に昇進した。
丁度その頃、GHQの命令で、政府は持株会社整理委員会を設け、審査を開始、
その生残りのために、前社長の佐藤博夫以下、副社長、専務の5名が先手を
打って退任し、会社の経営は、太田垣士郎が執ることになった。
社長就任当初は、労使交渉、特に最低賃金制の交渉で、賃金の三倍値上げと、
役員の総追放を掲げる、京阪神急行電鉄労働組合と何度と無く、直接交渉を
行なった。
特に、京阪神急行電鉄労働組合は、私鉄労働組合総連合が結成された時、
議長を送り込んでおり、必然的に労働攻勢の矢面に立った。
私鉄総連との交渉は、当初、東急の小林中が行なっていたが、暫くして、太田垣
士郎がその任に就いている。
この時、彼が行なったのは、電鉄と百貨店の労働組合分離で、
「電車が止まると、何故百貨店まで閉まるのか」
という株主の質問に答えられないとして、業種別組合を主張し、分離を強行している。
この交渉期間中、太田垣士郎は長男を失い、長女をもまた失った。
二人の子供を失ってから後、彼は、「怒るな、焦るな、恐れるな」という言葉を自分に
言い聞かせ、労組との交渉は膝詰めの正攻法でトコトン話し合ったという。
こうして、関西財界では「京阪神急行に太田垣有り」とまで言わしめ、その評判を伝え
聞いた公益事業委員会の委員だった松永安左ヱ衛門の懇請で、電力事業を分割して
誕生した関西電力の初代社長に就任したのであるが、松永が一三に、
「太田垣を譲ってくれ」と直談判した際、「大黒柱を抜かれるのは困る」と言わしめたそうな。
関西電力初代社長に就任する際、彼は京阪神急行関係の全役職を辞して乗り込んでいる。
一三が、阪急の取締役くらい残せばいいのにと苦言を呈したが、それを振り切って、移籍した。
その後、丸山水力発電所の建設を皮切りに、黒四ダムを建設するなど、電力の安定供給に
非常な努力を傾けた。
関西電力時代のエピソードも多々有るが、此処では板違いになるのでこれ以上は触れない。
304 :
291:03/09/21 01:45 ID:dWJQMeB1
いろいろTHXでつ
つまり、参急は名古屋進出の企図はあったが伊勢進出段階ではまだ具体的
な路線計画まで定まっているわけではなかった、伊勢電の動向もあるし、免
許が下りるかも不明だし、と。
それで、伊勢まで開通の後、大神宮前まで伊勢電まで来て津と伊勢を結んだ
ことへの対抗として、中勢鉄道から免許を取得して中川から久居へ、そして津
へと延伸した、というとことでしょうか。
その時に久居−津を中勢鉄道の岩田橋まではそのままに自力で津まで建設
したのは興味深いかと。
津市内の立地と、狭軌非電化単線を改軌電化複線化してまで買収することと、
新線建設を天秤にかけた結果なのでしょう。
ただ中勢鉄道が昭和19年に全線廃止してしまったのは近鉄にとっては少し
誤算だったのかも。戦後、川合高岡−久居で短絡線を企図したわけですし。
>>303 眠い人様、おつかれさまです。
君は阪急のことについて詳しいみたいなのでひとつ質問します。
現阪急電鉄の取締役のひとりである松岡功氏とは逸翁の次男松岡辰郎氏(東宝会長)
の息子功氏のことですか? 確か、功氏は父のあとを継いで東宝の社長になったはずでは?
また同じ取締役に小林庄一郎という人がおられますが、ひょっとしてこの人も
関電の社長をやった人ではないでしょうか?
>305
会社四季報とか、役員人事に関するプレスリリースを見なければ確かなことを言えませんが、
松岡功氏は多分同姓同名の別人だと思います。
一方、小林庄一郎氏は、社外取締役としての登用ですので、関西電力の社長を勤めた
小林庄一郎だと思いますね。
>>306 どうも、レスありがとうございます。
太田垣社長の話、興味深く読ませていただきましたよ。
308 :
名無しでGO!:03/09/25 18:39 ID:phHSgmiN
309 :
名無しでGO!:03/09/28 00:19 ID:UlIUs5GW
hage
310 :
名無しでGO!:03/09/28 00:22 ID:20kECeg0
「われわれから言へば、京阪神といふものは鉄道省にやつて貰はなくてもよろしい。
そんなことは大きにお世話です。われわれがどんなにでもして御覧に入れます」
311 :
名無しでGO!:03/10/01 01:40 ID:P8ZrwyL2
age
312 :
名無しでGO!:03/10/04 18:59 ID:5vSkdlp3
age
313 :
名無しでGO!:03/10/06 22:25 ID:vwY0a7bX
金森又一郎や小林一三があの世から今の近鉄や阪急を見て、何と言うだろう?
314 :
名無しでGO!:03/10/06 23:41 ID:kN6Ge6E/
近鉄、金森家って、又一郎(小学校も出ていない、事実上の創業者)、その息子の
乾次さん(東大卒)、その孫の茂一郎さん(東大卒)と3代続けて社長を出したのに、
その後はどうなってしまったのでしょう。
すごいよねー。小学校も出ていない親父から東大卒の息子と孫ができてしまうんだ
から。
それに比べて阪急、小林家はゴミ(プププ
315 :
名無しでGO!:03/10/07 00:08 ID:NXJ5dE2M
316 :
名無しでGO!:03/10/07 02:11 ID:iwZb48AA
近鉄 創業者=金森又一郎 中興の祖=佐伯勇
であってる?
317 :
名無しでGO!:03/10/07 13:13 ID:ynmHjqfi
金森又一郎は、厳密には創業者じゃないけどね。
318 :
名無しでGO!:03/10/07 17:38 ID:uX40Daf+
>>316 初代 廣岡恵三 明治43年9月16日〜大正元年12月15日
第二代 岩下清周 大正2年1月18日〜大正3年11月2日
第三代 大槻龍治 大正4年8月6日〜昭和2年3年10日
第四代 金森又一郎 昭和2年3月31日〜昭和12年2月9日
第五代 種田虎雄 昭和12年2月10日〜昭和22年4月25日
第六代 村上義一 昭和22年4月25日〜昭和26年12月24日
第七代 佐伯勇 昭和26年12月25日〜昭和48年5月25日
319 :
名無しでGO!:03/10/09 06:20 ID:fgSN9Z32
長年の疑問なんですけど、
近鉄信貴線を延長し、生駒トンネル並みの長大トンネルで生駒山地を王寺
へ抜け、王寺鉄道(現田原本線)と結んで、田原本、桜井へ出る方が現大
阪線の線形よりもかなりの短絡線になると思うのですが、そういった路線は
建設当時、議論の対象にすらならなかったのでしょうか。
議論の対象にはなったが、省線関西線との免許の関係とか、工事費の関係で
諦めたとか。
そこら辺の史料を見たことがないので知っている方いましたらよろしく
お願いします。
321 :
名無しでGO!:03/10/11 22:28 ID:w7Tgrq5S
>>319 細かい部分は端折りますが、
大阪線の前身大軌八木線は、大阪と桜井やそれ以遠とを直結する目的でつくられたわけではなく
先に建設された畝傍線(現橿原線)とつなげることで八木、橿原神宮への短絡ルートとするとともに、
足代(現布施)−西大寺−八木−足代と大きなデルタ線を形成することで大和平野に広く勢力圏を
形成することが目的だったようです。
さらに八木線と同時期に国分−王寺−郡山と建設することで路線網をさらに強化することも計画して
いましたが、これは実現せずに終わりました。
関西線と完全に並行ですし、1067mm軌間・非電化単線の大和鉄道(現田原本線)と結ぶことよりも
比較的建設の容易な高田、八木へのルートを自社で建設したのは自然なことではないでしょうか。
余談ですが奈良県はバブル時代に大和中央線と称して、
山本−(信貴線)−服部川−(長大トンネル)−平群−法隆寺−平端−(天理線)−天理〜名張?
という路線を妄想したこともあったようですが、これも実現することは永久にないでしょうね。
322 :
名無しでGO!:03/10/12 20:46 ID:37Dpgz+X
>大和中央線
冷蔵庫の妄想路線だとずっと思っていた。
323 :
名無しでGO!:03/10/12 23:21 ID:YYSUsluo
>>322 たしか都市計画審議会でも取り上げられていたと思いますよ。
その時は
>>321さんの言う奈良県の構想からはすでに変化していて、大阪市交
千日前線を延長、大阪市外の部分を東大阪線のような形態にする計画だったと
記憶してます(違っていたらごめんなさい)。
第三軌条でそんな長大路線作ってどうするんだ?と思ってました。名張まで
とろとろ最高時速70や75で走られたら、客もたまらんですよね(w
324 :
319:03/10/14 19:59 ID:3gWVf2Na
>>321 おっしゃるとおり、大軌八木線建設同時は、宇治山田延長計画は
なかったわけですしね・・・
ただ、大阪線の線形として高田、八木へのルートというのは
スピードアップの障害になっているかな・・・
ということを考えてみただけですが。
325 :
名無しでGO!:03/10/15 00:04 ID:d4Ep2rLY
>>324 今からは想像付かないのですが、計画当時の情勢としては、中和地区ではなんと言っても
高 田 の繁栄が圧倒的でした。繊維産業を背景に、中和第一(県内第二)の都市と
して君臨していました。地形的にも高田経由が自然ですし、おそらく大軌としても、余程の
メリットがない限り、高田を無視する気はなかったでしょうね。
元々、江戸時代の「横大路」という街道が高田〜八木〜桜井を貫いて通っていましたので、
大軌のコース(国鉄桜井線もですが)はこれに沿ったものとも解釈できます。余談ですが、
奈良と吉野を結ぶ街道が、八木でこの横大路と直交しています。あたかも大阪線と橿原線の
の如く(w 大軌の路線は、このトレースだったかも知れませんね。
>319で提示のコースだと、距離は縮まりますがトンネル建設で工費は間違いなく増えますし、
逆に高田を始めとする横大路沿いの旅客の動きを取り込めないデメリットも生じます。
>321氏同様、私も現コースは妥当な(というか自然な)判断だったと思います。
326 :
名無しでGO!:03/10/17 08:16 ID:qHsByl0S
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄
∧( ´∀`)<age
( ⊂ ⊃ \____
( つ ノ ノ
│(__)_)
(__)_)
保守。
そう言えば、今回の鉄道史料(であってましたっけ)は、阪和電気鉄道でしたな。
328 :
名無しでGO!:03/10/19 23:33 ID:ljXxa+o2
age
329 :
名無しでGO!:03/10/20 08:06 ID:VPlHSHoe
阪和電鉄の社長ってなんで自殺したんでしたっけ。
>>329 資金繰りに苦しんで自殺したという通説が流布していたが、
竹田氏は違う見解を示しているのではなかったか。
332 :
名無しでGO!:03/10/20 22:50 ID:KnMoOVD7
駅名と歴代社長の苗字
阪急 小林(今津線) 小林一三(3代)、米三(8代)、公平(11代)
近鉄 今里(奈良線) 今里英三(8代)
阪神 野田(本線) 野田誠三(12代)、忠ニ郎(14代)
京阪 土居(本線) 土居通夫(2代)
333 :
333:03/10/21 22:03 ID:swjlsY6D
Sun, Sun, SUN!
334 :
名無しでGO!:03/10/23 17:48 ID:DzfwVY8j
age
335 :
名無しでGO!:03/10/27 02:19 ID:a9QaKLlw
保全age
336 :
名無しでGO!:03/10/28 18:58 ID:oMADDJLE
上げとくか。
阪和電気鉄道の社長は何代あったかな。
このスレも、終わりか・・・・・・・。
339 :
名無しでGO!:03/11/02 09:57 ID:qb2r6S3k
大軌、大鉄、京阪、阪神、新京阪、阪急、関急、参急、南海、高野山、阪堺、阪和
昔はたくさんあったんだね。
>>340 たくさんあっても、傍系というのもあるからね。
342 :
名無しでGO!:03/11/03 01:46 ID:MdS9N2gm
大都市に限れば今のほうが多いかも
343 :
名無しでGO!:03/11/03 23:26 ID:5xW1U++A
宇治川電気age
344 :
名無しでGO!:03/11/05 21:48 ID:vnbZZny1
兵電age
345 :
名無しでGO!:03/11/05 23:07 ID:QO0gW7uo
明姫電鉄age
348 :
名無しでGO!:03/11/07 18:56 ID:OhfoHCM0
神有電車age
349 :
名無しでGO!:03/11/10 12:42 ID:XHxtc+Yi
三木電鉄sage
/||\ / | . / // | / | / // /. // /. | / /
/ :: || \ / /| | / // /| | / /| |. / // /// / /| | / /
/:::::::::::|| \ / /. | | / // ..'-' | / /. | |. / // ,../ / '-' | ./ /
\:::::::::/ヽ. / / /. | |/ // / ̄| | / / | |/ // / | | / / ̄| |. / /
\/ ヽ/ /_/. |__//_/ |_|/_/ |__//_/. |_|/_/ .|_|/_/
羽根に歯車の旧マークAAきぼんぬ
>>352 好きねえ。あなたも。
ソースも好きですか?
354 :
名無しでGO!:03/11/12 21:05 ID:7826830Y
近鉄の生駒聖天お賽銭物語って結構感動しちゃうよね。
>>354 金森社長に同行してお賽銭をもらいにいった仏の萬さんこと三好会長は私の大学の先輩です。
356 :
名無しでGO!:03/11/15 23:26 ID:lAWIBlSJ
あげ
種田虎雄
小林公一
359 :
名無しでGO!:03/11/23 13:01 ID:BSTv5HBF
age
360 :
名無しでGO!:03/11/27 22:08 ID:wWfuQA1a
北勢線問題で時の人になった熊澤誠一郎・近鉄専務兼名古屋営業局長(元)さんは
伊勢電の熊澤一衛さんの親戚筋なんでしょうか。
近鉄って、結構縁故入社が多いから(金森とか佐伯とか)・・・
前、上野結城氏も編集に携わっている「伊勢電、近鉄の80年」とかいう題名の本
(写真集?)を図書館で読んでたら、この熊澤誠一郎という人が寄稿していて、
なんと「近鉄名古屋線」は伊勢電の血筋ですなんてことが書いてあってびっくり
した記憶がある。
362 :
名無しでGO!:03/11/29 13:10 ID:U2hwfE7k
>>360 金森茂一郎第11代社長は金森又一郎氏のご子息。
363 :
名無しでGO!:03/11/29 20:17 ID:/us5OjYv
>>362 孫じゃなかったっけ。
金森又一郎、その息子の乾次さん(東大卒)、乾次さんの息子の茂一郎さん
(東大卒)だったよね。
364 :
名無しでGO!:03/12/03 17:42 ID:ChfWR8Vg
age
365 :
名無しでGO!:03/12/08 01:56 ID:ptSoJBH+
南海、阪神の社長に就任していた片岡直輝は北浜銀行事件で失脚した岩下清周
なきあとの大軌の危機を救い、新社長に大槻龍二を擁し実質的に大軌の経営を
携わったわけだが、もしアイデアマンの小林(阪急)や野心家の太田(京阪)
がいなかったら関西の5私鉄は片岡の手でひとつになっていたのだろうか?
367 :
名無しでGO!:03/12/09 11:43 ID:fHcqZH/J
片岡直輝と言えば阪堺が消えるって本当ですか?
368 :
P−6:03/12/09 13:52 ID:huMlQEUY
______
/|| ||\
d|_____|b
|| . ||
__凸__(○)_凸__
./ ̄ .|| ||  ̄\
| ̄(O) ̄ ̄..i=ニニ=i. ̄ ̄(O) ̄|
|_____|.|___|.|_____.|
| | ̄ ̄^.| | | | ̄ ̄| | | | ̄ ̄| | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | ...| | | | | |.| |(゚∀゚)| | < 小林一三マンセー!
| |____| | | |__| | | |__|..| \_________
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| .|.| i i..| | /特ヽ |
| 116. |.|..i______i...|| ヽ急ノ |
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─//──────\\─
370 :
名無しでGO!:03/12/09 21:30 ID:5yKDoeVi
>>368 P-6は新京阪の名車、阪急の業績ではない。
371 :
名無しでGO!:03/12/09 21:53 ID:HxVSzwdw
>>368 吹き出しのところは太田光熈まんせ〜にしなきゃ。
他でも見たけど、幕板が広杉(腰板が狭杉?)で窓位置が低杉、つう気がする
んだなー。P-6ってもっといかつい印象だよね?
>>371 …吹き出しは「名古屋まで逝かせろゴルァ!」でもよいと思われ。
375 :
名無しでGO!:03/12/11 17:46 ID:L1ptvjFL
岩下清周,外山脩造,廣岡恵三,松本重太郎,田辺貞吉
376 :
名無しでGO!:03/12/11 18:02 ID:/1sVRenK
>>348 ♪有馬に行くならトークトクトクトック 神鉄特急がトークトクトクトック
377 :
名無しでGO!:03/12/11 19:09 ID:subJNwYp
378 :
名無しでGO!:03/12/13 14:01 ID:EfAZMAiA
南海:松本重太郎(第百三十国立銀行頭取)
阪急:岩下清周 (北浜銀行頭取)
近鉄:広岡恵三 (加島銀行頭取)
私鉄創設者に銀行関係が多いのは何故?
379 :
名無しでGO!:03/12/13 14:30 ID:e5z/5UPu
>>378 そりぁ、鉄道は建設に巨額の金がかかるからでないかい。
当時の鉄道は、投資先として優良な企業だった(「と思われていた」という部分も
含め)こともあると思うよ。いまの銀行は土地を担保に取るだけで事業の将来に
賭けるような投資をほとんどしないけど、当時の銀行は、商売としていい投資先を
さがしていた。そのうえ>379が言うように巨額の資金が必要だから、結果的に
経営そのものに関わる形で管理する例が多かったと思われ。
また、他の株主からすると、仮に経営悪化したとき銀行が逃げないよう、銀行側が
経営に直接参加していれば安心、ということもあるかと。
小林一三も元々三井銀行出身だし、田邊貞吉(京阪初代社長)も住友銀行出身だったね。
382 :
名無しでGO!:03/12/16 22:17 ID:7E99PjRy
age
383 :
名無しでGO!:03/12/17 22:00 ID:mI/la3yi
阪急の社史には「阪神急行電鉄二十五年史」、「京阪神急行電鉄五十年史」と
「阪急電鉄75年のあゆみ」の3種類ありますがどれが一番充実した内容ですか?
聞くところによると灘循環電軌に関する阪神との抗争なんかは25年史には生々
しく記述されているそうですが、50年史においてはさらっと流している程度
とのことです。また、75年史に関しては記述編と写真編に分かれているそうです
が、記述編の充実具合は前2者に対して如何でありましょうか?
この件について詳しい方、よろしくお願いします。
384 :
名無しでGO!:03/12/20 23:53 ID:cE2WLI7o
このスレの住人なら路車板の今の看板萌えるだろ?
385 :
名無しでGO!:03/12/23 16:05 ID:9rk0t3aF
阪神 ジェットカー(5501形)
京阪 スーパーカー(2000系)
近鉄 ラビットカー(6800系)
南海 ズームカー (21000系)
阪急は?
>>387 阪急時代も現役で走っていましたが、なにか?
>385
同時代なら、阪急は電子頭脳を持つオートカー(2000形)でしょ。
「今西林三郎遺文録」今西林三郎著
「逸翁自叙伝」 小林一三著
「電鉄生活三十年」 太田光熈著
「金森又一郎翁伝」
391 :
名無しでGO!:03/12/25 17:05 ID:cQCBCk07
>>383 75年のあゆみは見たことあるけど、ほとんど写真のほうがインパクトある。
あと、まだバブリーだった阪急って感じがプンプン。
創業からの大まかな歴史を知りたかったらいいと思う。
>>391 (阪急の)詳しい歴史を知りたいのですが・・・
393 :
名無しでGO!:03/12/28 15:25 ID:IaMpB/pg
age
394 :
名無しでGO!:03/12/31 01:51 ID:KHg7UiTq
保全age
あぼーん
sage
●大軌→関急→近鉄 ●京阪電気鉄道
廣岡恵三(加島銀行) 田辺貞吉(住友銀行)
岩下清周(北浜銀行) 土居通夫(大阪控訴裁判所所長、大阪電灯、浪速電車軌道)
大槻龍治(農商務省役人) 岡崎邦輔(衆議院議員)
金森又一郎(大阪府庁) 太田光熈(帝国鉄道庁)
種田虎雄(鉄道省) 有田邦敬(大阪市助役)
村上義一(貴族院議員) 喜多市松(生え抜き)
佐伯勇(生え抜き) .村岡四郎(生え抜き)
●箕有→京阪神急行→阪急 ●阪神電気鉄道
岩下清周(北浜銀行) 外山脩三(第三十二銀行)
平賀敏(三井銀行) 杉村正太郎(北浜銀行)
小林一三(三井銀行) 今西林三郎(山陽鉄道)
上田寧(阪鶴鉄道) 片岡直輝(日銀、大阪瓦斯、阪堺電軌)
佐藤博夫(生え抜き) 三崎省三(生え抜き)
太田垣士郎(日本信託銀行) . 小曾根喜一郎(神戸市会議員)
和田薫(生え抜き) 島徳蔵(株式仲買人)
小林米三(生え抜き) 堀啓次郎(大阪商船)
.今西与三郎(大阪商船)
.小曾根貞松(神戸瓦斯、日本毛織)
.成瀬達(農商務省役人)
.野田誠三(生え抜き)
●阪堺鉄道→南海鉄道→南海電気鉄道
松本重太郎(第百三十銀行、大阪紡績)
鳥井駒吉(朝日麦酒)
田中市兵衛(第四十二銀行)
大塚惟明(山陽鉄道)
片岡直輝(日銀、大阪瓦斯、阪堺電軌)
渡邊千代三郎(北浜銀行、大阪瓦斯)
岡田意一(鉄道省)
寺田甚吉(岸和田紡績)
吉村茂(?)
小原英一(?)
壺田修(?)
稲次國利(?)
川勝傳(同盟通信)
400 :
名無しでGO!:04/01/08 22:48 ID:lsx6MvsT
age
401 :
sage:04/01/09 22:53 ID:N72zuCKu
sage
あぼーん
小林一族は、
南海鉄道時代のことでひとつ質問します。
片岡さんの番頭格であった渡辺千代三郎氏が社長を退任して元鉄道省神戸鉄道局長の岡田意一氏が
就任しましたがのちに会長となった根津嘉一郎氏によって追い出されてしまいました。
東武の根津氏が何で南海の役員会でそんな力をもっていたのでしょうか?
また、彼は岡田社長のあとを継いだ寺田甚吉氏の父であり南海の役員でもあった寺田甚与茂氏とも仲が
悪かったそうで、旧高野登山鉄道から寺田氏を追い出し大阪高野鉄道を新設したそうです。
>404
このスレの上の方で南海の話が出てきていますが、南海鉄道は、元々、沿岸部を走り、紀州まで路線が
伸びていた南海鉄道(浜寺まで結んでいた阪堺電軌を吸収)と、汐見橋から高野山参詣客を誘致しようと
していた大阪高野鉄道とが合併して出来たものです。
で、後者に出資して深く関わっていたのが、東武の根津嘉一郎で、後に南海と大阪高野鉄道とが合併する
際に、南海側の吸収合併に反対して対等合併を主張し、対等合併の後は、一方の会社の代表として取締役
に名を連ねます(勿論、南海の大株主になっています)。
これが、1925年のこと。
しかし、高野下から高野山極楽橋まではまだ路線が敷設されておらず、以後は高野山電気鉄道が工事を
行い、1932年に全線開業します。
確かに全線開業はしたのですが、時は昭和大恐慌の余波が残っている状況で、工事費負担で会社は苦しく、
根津が中心となって、従業員馘首と、旧南海線側の社内機構改革を目論み、競争に堪えうるようにしようと
します。
また、阪和電気鉄道の開業もあり、社内は沈滞、社員の不協和音も聞かれるようになります。
ところが、これに反根津派の役員が反対し、岡田意一がその反根津派に乗っかりました。
更にこの騒動の直接の原因は、元技師長の後藤佐彦取締役を、岡田社長が罷免したことで勃発したものです。
で、根津を中心とした派閥と株主団体である南海会が将来を危惧し、一度は根津が豪腕でもって岡田社長を
罷免しようとしますが、岡田社長の抵抗にあって失敗。
>405の続き。
今度は搦め手から、一旦、決算査定取締役会で、両者(岡田社長、後藤取締役)の取締役再任を決定した後、
定時株主総会でそれが認められますが、総会終了後に開催された臨時取締役会で社長選挙が実施され、
前々から各方面に手を回し、岡田を除いた秘密取締役会を数度行なった結果、寺田甚吉が当選し、岡田氏は
放逐された訳です。
寺田兄弟と根津嘉一郎との間には、確かに確執がありました。
東武のビジネスモデルである、既設路線と延長線を一気に電化しようとする積極姿勢を打ち出した根津に対し、
地元紡績資本で社業発展以外、特に関心のない寺田一族は、現状維持を望んでいたための対立です。
追い出した訳ではなく、最終的に根津側が寺田一族の株式を購入することで決着が付いています。
結果的にその根津のビジネスモデルが成功した為、寺田氏もとやかく言わなかったようです。
(でないと、次期社長に寺田甚吉氏を据える訳が無いと思いますけど。)
あぼーん
>眠い人氏
どうもレスありがとうございます。
なるほどそうですよね、根津さんが寺田一族と対立していたら甚吉氏を社長に据えるわけ
ありませんもんね。
ところで寺田一族といえばこの後も南海に大きな影響を残すんですよね。
例えば川勝傳氏などは寺田合名から南海入りしたし、副社長までなった中山隆吉氏
なんかも寺田甚吉氏の肝いりで鉄道省から南海入りしたと聞きます。
実は
>>397-399の一連の書き込みは私なんですが各会社の歴代社長の前職を
書いたつもりなんですが、百年史などの社史を参考にしてみたのですが、吉村茂氏
から稲次國利氏までの前職歴がわかりません。
以前、「南海ホークスがあったころ」という本で小原英一氏はプロ野球球団創設の
誘いを受けた阪神電鉄の細野某氏とは鉄道省で同僚だったと書いてあったと記憶し
ておりますがいまいち私の記憶も定かではありません。
一部の人の前職歴が不明な状態でこういうのは何ですが、阪神は別として阪急、近鉄、京阪
などの会社がこのスレタイにもなっている社長たちが生え抜きのトップを育てたのに対
して(例:阪急の佐藤氏、京阪の村岡氏、近鉄の佐伯氏など)、何で南海ではそういか
なかったのでしょうかね。いろいろ質問してすいません。
>408
ちょっと調べただけですが、吉村茂、壺田修、稲次國利の各氏については、よく分らないです。
小原英一氏は、鉄道省監察官から1934年に南海に入社し、支配人兼営業課長
に就任、1938年には取締役、1940年の阪和合併時に専務に昇格し、近鉄の成立時に
その副社長になっています。
その後公職追放になりますが、1950年の吉村茂の死去で社長に就任しています。
そして、1958年、南海丸事件で体調を崩し、壺田氏に社長を譲り、1959年に死去します。
生え抜きの人材が何故育たないかと言うのは企業風土の問題もあるでしょうね。
・関西で最初に鉄道を敷設したために、敷設費用が安く、技術的基盤が早期に確立
したために、生え抜きの人材が苦労しなかったこと。
・常に国家による買収の可能性があったので、天下りを受け入れることで、国からの
圧力をかわせるようにしたこと。
・償却が早く終り、それによる高配当もあって、地元以外の外部資本(根津なんかは
その好例だと思いますが)が入る余地があったので、生え抜きよりも株主の動向に
左右されやすかったこと。
・紀州、泉州の経済発達地帯を貫いていた為、貨物収入が好調で、かつ路線保守に
費用がかかった為、兼営事業を行なう余地が無く、それから伸びてくる人材、あるいは
その経営に宛てる人材がいなかったこと。
などが挙げられるでしょうかねぇ。
南海の話がでたついでにお聞きしますが「南海急行電鉄」ってご存知でしょうか?
私もちらっと何かの本で見た程度なんですが、どうやら今の南海電鉄よりも海側に
路線の申請をしたそうです。しかしながら何らかの不備等があって実現はしなかった
そうですが、京阪の勢力が主となって申請した山手の阪和電鉄にとって代わられた
らしいです。これも和歌山方面へと勢力を伸ばしたいと考えていた京阪の息がかかっ
ていたのでしょうかね。
保全
413 :
名無しでGO!:04/01/21 13:55 ID:USdU+S9n
age
南海が京阪に対抗してつくろうとしていた畿内電鉄ってどんなルートだったんだろうな。
あぼーん
>411
南海急行電鉄はどちらかというと阪堺電気軌道のライバル的な感じですね。
和泉電気軌道を改称したもので、1920年免許交付、1924年失効となっています。
もう一つは港南電気軌道を改称したもので、1922年免許交付、1924年失効になってます。
前者は、泉北郡佐野町(今の泉佐野市)〜浜寺町(今の堺市)、後者は浜寺町〜今宮町(今の浪速区)
を免許申請していました。
1920年は政友会が政権を取った年、1924年は憲政会が政権を取った年です。
ちなみに、京阪系は政友会がBackに、南海は憲政会がBackに付いていましたので、南海
と京阪の和歌山における争いというのは、政友会と憲政会の代理戦争でもあったわけです。
ついでに、1919年前後に南海買収問題がclose upされた時、それを南海が渋って
いるというのを発端に、資本金1000万円程度で、紀州の資本家が南海の並行線を
建設して、最終的に国に買い上げさせようと画策していた様です。
この線は大阪の築港を起点に、そこから斜めに大阪市を突っ切り、堺市に出て海草郡
山口村、直川村を経由し、紀州鉄道の起点であった中の島まで至るというものですので、
後の阪和電鉄に近いのかも知れません。
>414
天王寺〜七条だそうな。
何処をどう通るかは不明ですが。
田辺貞吉 (たなべていきち) 京阪電気鉄道初代社長
弘化4年11月4日沼津藩士田辺四友の長男として生まれる。藩校の明親館で学んだのち藩の参事となり、
廃藩置県後千葉県大属に任じられた。明治8年に文部省入りするが、14年に官を辞して住友入りする。
29年主人に勧めて住友銀行を設立、彼自身住友銀行支配人となる。その後汽車製造会社設立に際し、
渋沢栄一、松本重太郎らと出会い京阪電気鉄道設立の6人の発起人のうちの一人となる。
会社設立後、監査役に就くが一旦辞任する。当初の京阪は渡辺嘉一専務をトップに桑原政、佐分利一嗣
の取締役が補佐する建前になっていたが、この3人の相性は余りよくなく、社内はいわば三頭政治の観を
呈していた。渡辺は会社の定款を改定し、自ら取締役会長に就任し桑原も専務に就くが、諸般の事情で
二人とも辞職する。明治43年2月の臨時株主総会の議決により定款が改定され社長・常務制がしかれ、
元監査役の田辺が初代社長に総務課長の太田光熈が常務取締役に就任する。
ところが銀行畑を歩んできた彼は堅実というよりも寧ろ消極的で補佐役の太田常務の積極政策とは相容
れず、会社の業績低迷という状況も相まって次第に田辺社長に対する批判が高まった。
やがて、経営刷新を図る役員グループの間で協議が重ねられ大阪財界の有力者、土居通夫を担ぎ出す
工作が進められた。こうして大正元年10月の総会で古くからの役員である岡崎邦輔(のち第3代社長)が
提起した役員改造人事案件が承認され、その際選任されなかった田辺は退職して京阪を去り、第2代社長
に土居通夫が就任することとなった。
>>417 >憲政会と政友会の代理戦争
それは知らなかったな。
京阪の岡崎邦輔が政友会の国会議員だってことは知っていたが、阪和は和歌山出身の
彼が故郷に錦を飾る目的で推進されたとずっと思っていたよ。
外山脩造(とやましゅうぞう) 阪神電気鉄道初代社長
天保13(1942)年11月10日越後国古志郡小貫村(現在の新潟県栃尾市)に生まれた。父は安井伝と
いったが、彼は外山家を継いだ。戊辰戦争では長岡藩執政河井継之助に従って薩長軍と戦うが、
明治2年心機一転東京に行き慶応義塾に入り、開成学校入学するがが廃校に伴い共立学舎に移り
洋学を修めた。明治6年、秋田県の学校教員を経て大蔵省紙幣寮に入る。そこで外国の簿記を学び
その才能が認められ銀行課に転じ、大いに名声が上がった。明治11年、渋沢栄一との出会いにより
官を辞して、当時経営乱脈を極めた大阪の国立第三十二銀行の整理を任せられることとなった。
彼はそこで徹底した合理主義と堅実主義を貫いて経営建て直しに成功し、その名声は大阪金融界に
轟いた。15年、日本銀行大阪支店開設に際し、彼は理事兼初代支店長に命じられるが、ほどなく
日銀の富田総裁と経営方針を巡って対立し、約3年で大阪支店長の職から去る。二年間の浪人生活
を経て、明治20年9月商工業視察のために欧米へ旅立つ。ここでの主な目的は電気事業、ビール製造、
石油事業の調査研究であったが、ニューヨーク滞在中に電気鉄道の模型を見て、大いに興味を持ち、
これがのちに阪神電気鉄道敷設を計画する動機となった。
(つづき)
一方、阪神間では既に官鉄が通じていたが民間によって鉄道を敷設する動きがでてきた。そのひとつが
明治26年、兵庫の発起人たちによって申請された「神阪電気鉄道」(すぐ摂津電気鉄道に改称)であり、
もう一方は大阪商工会議所メンバーが中心となって申請した「坂神電気鉄道」であった。
後者は大阪-尼崎間の電鉄を計画し、尼崎で摂津電気鉄道と接続しようとした。しかし、大阪-尼崎間で
二つの路線申請は互いに不利だということから、外山がその両者の合併を図り、その結果28年6月に
合併が実現した。新しい社名は「阪神電気鉄道」と称し、その初代社長に外山が就いた。早速、外山は
電気技師の三崎省三にアメリカ出張を命じて電鉄事業に関して広範囲に調査させた。帰国後三崎技師長
の監督の下工事がすすめられて、38年4月12日阪神電鉄は大阪出入橋−神戸三宮間を我国初のインタ
ーバン(都市間連絡電車)として開業した。その間、軽い脳溢血で倒れた外山は開業後の予想外の好評を
見届けて同年12月28日に社長の職を辞し、杉村正太郎専務取締役が引き継ぐこととなった。
>>422 前から思ってたんだけど、
そういう話の醤油をキボンヌ
>>423 ●田辺貞吉
「鉄路五十年」京阪電気鉄道
「京阪七十年のあゆみ」 京阪電気鉄道
「電鉄生活三十年」太田光熈
「京都滋賀鉄道の歴史」宇田正他
「大阪商人太平記」 宮本又次
「通天閣−土居通夫の生涯」 木下博民
●外山脩造
「阪神電気鉄道八十年史 」 阪神電気鉄道
「大阪商人太平記」 宮本又次
「関西の鉄道史」 作間芳郎
>>424 サンクスコ
社史は建前というのか、都合のいいことばかり書いている可能性が高いので、
「大阪商人太平記」 宮本又次
「通天閣−土居通夫の生涯」 木下博民
↑
こんな本を探してました。
廣岡恵三 (ひろおかけいぞう) 大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)初代社長
明治9年小野藩主一柳末徳の次男として生まれる。東京帝国大学法科卒業後、廣岡信五郎の養子に入り、
養父の跡を継ぎ加島銀行の頭取となり、さらに大同生命保険の社長も兼ねた。
日露戦争後、経済界の企業熱に伴って、京阪神間では電気鉄道建設が数多く企てられた。そのような中、
明治39年には大阪-奈良間にも電鉄建設計画の機運が高まり、三派が特許を出願した。
.ひとつは土居通夫他13氏(のち31氏追加)による「大阪奈良電鉄」であり、もうひとつは竹内綱他17氏(のち
13氏追加)による「阪良電鉄」であり、最後のひとつは石川市兵衛他9氏(のち20氏追加)による「大阪奈良間
電鉄」であった。この三派は同年11月に合同し、12月に「奈良電気鉄道」の名称で改めて特許出願した。
そして翌40年4月に特許が下りたのだが、その特許された路線は大阪上本町から瓢箪山に至り、鋼索鉄道に
より暗峠を越え尼ヶ辻にでて奈良三条通りに達するというものであった。同年6月には社名を「奈良軌道」と改めた。
(つづき)
それから暫らく不況に陥り、ようやく明治43年春頃より経済界の回復をみせたので同年3月奈良軌道の発起人
総会を開いて10名の創立委員を選び、廣岡を創立委員長に、金森又一郎を常務にすることを決めた。
同年9月16日大阪商業会議所において奈良軌道株式会社創立総会が開かれ、社長に廣岡を、専務に七里清介
を、そして5名の取締役と3名の監査役を選出した。また同年10月16日より社名を「大阪電気軌道」と改めることも
決議した。上本町-奈良間の建設工事に際し、取締役である速水太郎の調査により三つの案がだされたが、鋼索線
で生駒山越えするという当初のルートに対して筆頭取締役の岩下清周が意義を唱えた。その趣旨は「都市間を最短
で結ぶためには生駒山はトンネルで通過するのが最良である」というものであった。しかし、トンネルの距離もさる事な
がらその工費には莫大な資金(当時の額で200万円)が必要となり、常識破りのことであった。いざ竣工してみると落盤
事故が相次ぎ空前の難工事となった。次第に廣岡の加島銀行そのものがこの計画から撤退してしまったので自然とそ
の担い手の中心は岩下の北浜銀行に移らざるをえなくなった。それと同時に廣岡は社長の職も辞し(大正元年12月)、
その後任に岩下が就いた。生駒トンネルの方は取締役のひとりである大林芳五郎の尽力もあり無事開通し、大正3年
4月30日には上本町−奈良間で開業の運びとなったが、残念な事に初代社長廣岡の姿はその場にはなかったのである。
岩下清周 (いわしたせいしゅう) 箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)初代社長
安政4年5月28日、岩下左源太の次男として信州松代代官町に生まれる。18歳で上京し東京商法講習
所および三菱商業学校に学ぶ。講習所所長矢野二郎の勧めにより三井物産の見学として就職する。
明治11年に正社員に採用されるが、それに到る間彼にはおもしろい逸話がある。
横浜支店の見学時代、支店長馬越恭平に10万円の為替を組むことを命じられた。当時為替を組むと千
分の一のブロークンレージが発生するのがその百円を自分に寄越せというのだった。それに対し「ブロー
クンレージは仲買人が取るもので為替主が取るものではない」と主張、これに怒った馬越はそばにあった
算盤で岩下を殴りつけた。その夜岩下は先祖伝来の短刀を手に馬越宅に殴り込みをかけた。幸い周りの
者の制止で刃傷沙汰には到らなかったが、馬越はその覇気と自尊心に大いに惚れ込んだというのであった。
やがて28歳の若さでパリ支店長になるが、当地滞在中に原敬、桂太郎そしてのち大阪瓦斯、阪神、南海
等の社長を歴任し、岩下の大軌社長時代に会社の危機を救うこととなった海軍駐在武官の片岡直輝ら
と知己になる。帰国後、翌22年三井物産を退社、三井銀行の頭取中上川彦次郎の誘いもあり同行に入行、
28年には大阪支店長に就任する。大阪支店長時代岩下は古い慣行を打破して積極政策で大阪商人を驚
かせることとなるが、保守的な本店幹部に睨まれることとなった。しばらくして横浜支店長転勤辞令がでた
ので、本人は左遷と思い込み同行を退職してしまう。尚、この大阪支店長時代の部下に小林一三がいた。
大阪株式取引所の理事長磯野小右衛門はそんな彼に眼をつけ、藤田伝三郎に進言して新設される北浜
銀行の幹部として迎い入れた。岩下の銀行経営の基本は人物本位を旨とし、工業立国論の立場をとった。
北浜銀行の頭取となった岩下は紡績、ガス、電気、醸造、製薬などさまざまな産業に関与することとなった。
鉄道事業に関しては片岡の仲介で知り合った大林芳五郎の勧めにより大軌の創立委員となり、取締役を
経て同社第2代社長に就任したことは廣岡の項で既に述べた。また、彼は阪鶴鉄道の国有化に伴う会社
清算事業にも関与しており、元部下の小林をその監査役として起用する。阪鶴鉄道は40年8月に国有化
され会社は解散することになるが、池田から豊中、十三を経て大阪に到る路線をを申請していた。
これが「箕面有馬電気鉄道」であり、阪鶴鉄道の元社長田艇吉ら6名によって発起された。同年6月発起
人創立総会で社名は「箕面有馬電気軌道」に改称され、総会終了後田艇吉ら発起人は退き、創立事務の
すべてを阪鶴鉄道重役=箕電発起人諸氏から北浜銀行頭取の後ろ盾を得て小林が引き受けることとなっ
た。同年10月19日会社創立総会が大阪商業会議所にて開かれ、小林は専務に互選され、初代社長に
岩下が就任することとなった。箕電は順調な滑り出しとは到底いえなかったが、41年梅田-宝塚間および
箕面支線の特許を申請し許可を受けた。こうして43年3月10日箕電は開業し、小林専務のさまざまなアイ
デアが功を奏し好評を得た。社長の岩下は決して表にでることはなかったが、北浜銀行をバックに資金提
供に尽力した。しかし、大正3年頃大阪日日新聞の岩下攻撃記事をきっかけに北浜銀行事件に発展し、
同年6月頭取を辞任、翌4年1月箕電社長も辞任してしまう。(後任社長には平賀敏が就任)
<廣岡恵三氏の項に関する追加事項>
大軌初代社長の廣岡恵三の辞任に際して、岩下は遺留に努めた。廣岡の心も大いに動いたであろうが、
廣岡家の事情が許さなかったので辞職することとなった。岩下本人も「俺は別に好んで(大軌)社長にな
った訳ではない。廣岡恵三君が社長の椅子に居ることは、其の本業たる銀行に累を及ぼすと云ふのでは
母堂(廣岡の養母、廣岡浅子)から注意され同時に母堂から後を引き受けて欲しいと切なる懇請もだし難
くて引き受けたまでで其処に何等の私心もも野心もない(中略) 若し夫れ北浜銀行との関係に至っては
全く別個のものである」云々と・・・ (「岩下清周傳」より)
松本重太郎 (まつもとじゅうたろう) 阪堺鉄道および南海鉄道(現南海電気鉄道)初代社長
弘化元年10月5日京都府竹野郡間人村に代々亀右衛門を名乗る農家の次男として生まれ。幼名
を亀蔵といった。当地の寺子屋で学び、10歳で京都の呉服商菱屋に奉公するが、すぐに大阪へ出
て大阪北区天満十丁目の呉服商錦利に勤めることになった。錦利は当時、大丸、三井などと並び
称された指折りの太物問屋だった。ここで十年間奉公し、商売人としての基礎を学んだ。この頃、
亀蔵は小田奠陽という儒学者の私塾で学びやがて独立を決意するようになる。店を辞めたあとし
ばらく輸入物のブローカーとして大阪を地盤に堺や神戸で商いをするが、やがて「丹重」を興す。
独立と同時に亀蔵は松本重太郎と名乗り、屋号の「丹重」とは丹後の重太郎という意味であった。
「丹重」は輸入洋反物雑貨を主に扱う店であったが、西南戦争の際に儲けた利益金を元に第百三
十国立銀行を設立し、これからのち金融、鉄道、醸造、紡績などに資本をつぎこんで手腕を振るい、
「東の渋沢栄一、西の松本重太郎」と並び称される存在となった。
(つづき)
明治初期から中期にかけて、五代友厚ら志ある大阪財界人の間に大阪-堺間にも鉄道を敷設しよ
うとする動きがでてきた。その中心的担い手となったが松本と藤田伝三郎であった。両者は明治4
年以来の知友でもあったが、そこへ日銀大阪支店長の外山脩造が支援するという形で15年5月
藤田他18名の発起人によって「大阪堺間鉄道」の設立を出願した。この会社は松本を中心に藤田
と外山が両脇から支えるという形で発展し、17年6月に敷設許可がおり、11月22日に社名を「阪堺
鉄道」と改めた。敷設工事は専ら藤田組が請負い18年12月27日難波-大和川が開通した。それに
先立つ12月14日の臨時総会にて松本重太郎は阪堺鉄道社長に選ばれた。翌年、資本金を追加
して大和川以南の工事を開始、21年3月に難波-堺間全線が開通した。
(つづき)
一方、堺−和歌山間の方に目を転じてみると、明治22年の紀泉鉄道の出願をもって開始される。
この会社は松本重太郎はじめ45名の発起人によって出願されるが、当時の経済事情もあって
一旦頓挫するが、26年6月再度出願。しかし、他にも同じ企画がありそれは「紀阪鉄道」と称する。
この事態は両社にとって不利であることから、松本は合同を決意。同年11月両社は合併し、「紀
摂鉄道」の設立と相なった。紀摂鉄道は松本他 232名の発起人からなり、翌年特許がおり「南陽
鉄道」と改めたが、28年さらに「南海鉄道」と改称した。32年さきの阪堺鉄道は解散してその事業
は南海鉄道が引き継ぐこととなり、明治36年3月、難波−和歌山間の全線が開通した。南海におい
ても社長をつとめた松本重太郎の事業はこの他にも山陽鉄道、大阪紡績、日本紡績、そして第
百三十銀行と多岐にわたり、実質的な南海の経営は専務取締役の佐佐木政乂に委ねられてい
たともいわれる。ともあれ、南海鉄道の全線開通を見届けた「私鉄王」こと松本重太郎は37年6
月に社長の職を辞し、阪堺鉄道の頃から片腕となって働いてきた鳥居駒吉にその座を譲った。
434 :
名無しでGO!:04/01/25 14:14 ID:A5koK03k
難解と言う会社、こんな暴露本あったよな。
>>339 え、本当?
南海と合併したとき最後の社長に平松憲夫という人がいたらしいよ。
あぼーん
あぼーん
439 :
名無しでGO!:04/01/27 22:47 ID:TMBAGkIa
同期の結婚式に出たときのこと。私たちは客室乗務員なので寿PA
(幸せ空港行き〜ってやつ)を頼まれていたのですが、数日前に
急に、より盛り上げるため招待客男性を飛び入りさせようって
ことになった。で新婦の大学の同級生の男の子が選ばれたんだけど
彼はなんと新婦のもとセフレ。招待されてる同僚全員そのことを
知ってるというのになんて大胆な・・・。確かにそのかなり
恥ずかしい余興をこなせる人はかなり限られてるけど、もともと
彼を招待してる時点で引きまくっていた私たちは相当びびりました。
結局、ノリ良くこなしてくれて助かったんですけどねー。
ちなみに、一緒に余興やったグループのほとんどはその彼と
合コンしたことがあり、うち1人はエッチ経験者でした。世の中
乱れてます。
新婦にはその他もろもろの武勇伝があるのですが、スレ違い
なのでやめときます。
以上、去年の夏、横浜ポートサイドでの出来事でした。
あぼーん
442 :
名無しでGO!:04/02/01 07:28 ID:KRQgHhDH
眠い人 ◆gQikaJHtf2
って軍事ヲタなんですって。
鉄ヲタで軍ヲタなんてきもい。
あぼーん
あぼーん
445 :
名無しでGO!:04/02/01 21:33 ID:KRQgHhDH
あぼーん
447 :
名無しでGO!:04/02/01 21:37 ID:KRQgHhDH
>>445 うんこを兵器にしよう。だってさ。
超恥ずかし>>眠い人 ◆gQikaJHtf2
あぼーん
あぼーん
450 :
名無しでGO!:04/02/03 10:01 ID:wYf8F0S/
近鉄の体たらく。。。。。。
金森さんや佐伯さんが泣いておろうぞ・・・・・
近鉄球団があんなふうになったのも、
バファローズに愛着を持っていた佐伯オーナーが死んだのが大きいな。
あぼーん
あぼーん
454 :
名無しでGO!:04/02/06 07:41 ID:TyrPJn/t
「あぼーん」で言論の自由を束縛するのは犯罪だよ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>450 南海も川勝さんが逝ってしまってから何かおかしくなった。
>>458 そういえば川勝氏はかねがね
わしの目の黒いうちは球団絶対売らネ、と言ってたのに
死んだ途端売られてもうたとか。
460 :
名無しでGO!:04/02/15 21:21 ID:Y/NBa2Zd
あげ
461 :
sage:04/02/15 21:25 ID:1N00aI06
さげ
463 :
sage:04/02/15 22:59 ID:et2DNkxU
さげ
>>425 「阪神の百年を創った男−外山脩造伝−」竹田十岐生著(文芸社)もお勧めだよ。
●岩下清周
「世評正しからず−銀行家・岩下清周の闘い」海原卓著(東洋経済)
「岩下清周傳」(故岩下清周君伝記編纂会編)
「逸翁自叙伝−青春そして阪急を語る−」小林一三著(阪急コミュニケーションズ)
「東への鉄路−近鉄創世記−」木本正次著(学陽書房)
●広岡恵三
「小説土佐堀川−女性実業家広岡浅子の生涯−」古川智映子著(潮出版社)
●松本重太郎
「気張る男」 城山三郎著(文藝春秋)
「藤田伝三郎の雄渾」 砂川幸雄著(草思社)
「佐々木政乂傳」 宮本又次著
>>464 「東への鉄路」も面白いんだが、
小説として(フィクション)として読むべきものなのか、
どうなんだろう。
>>465 うーんむずかしいところですね。
本人(井内専務)の口述を元に著者が小説にしたというので大きな記憶違いでも
ない限り大きな流れとしては近鉄創世時代の史料として扱ってもよいと思うのですが。
あとがきにも書いてありますように著者は「歴史を公正なものとするために井内
氏の話を盲信しない」立場をとっておられますのでそう信じたいと私的には思いますね。
ただ一つ、関西急行電鉄の立ち上げにあたって井内さんの協力者となられた岡本勝雄氏
については調査不足のためよくわかりませんが、それ以外の登場人物はすべて実在の人物
と考えてよさそうです。
あと、これを裏付けするためには「大阪電気軌道30年史」などの社史に当たってみる
のも一つの手ですね。(私自身この書はなかなか入手しにくいものなのでまだ当たっており
ませんが・・・)
>>466 弁天町にありますた
もう知ってたらスマソ
渋沢と京阪の関係についてくわしく書いてある本で何かいいものはないかな?
469 :
名無しでGO!:04/02/17 09:08 ID:o+TNpkXL
>>466 岡本勝雄氏は伊勢電常務で実在の人物。
上野結城氏も編集に関わった「伊勢電・近鉄の70年」とかいう写真集みたい
な本には、「伊勢電専務半田は名岐鉄道との合併を画策し、岡本常務は大軌
参急との提携を画策し云々と銘々勝手なことを考え・・・」とある。
ただしこの本には参急井内の名は全く出てこない。
岡本氏と井内氏との間にどのような密約???があったのかは不明。
470 :
名無しでGO!:04/02/18 08:55 ID:JEBqRA7b
>>465 流れとしては大きな間違いはないと思うけど、やはり小説として
読むべきものと思うよ。
特に後半、伊勢電社長熊澤氏の心情は、間違いが多いような・・・
熊澤氏は、伊勢電社長になる前にも、別の名古屋ー伊勢間の鉄道設立
に関わったり(結局実現しなかったが・・・)してこの小説の「伊勢電社長
になるのを躊躇した」というのは明らかに間違いと思われる。
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472 :
名無しでGO!:04/02/26 10:01 ID:iEaWLbMG
保全あげ
阪神・・・三崎省三
阪急・・・上田寧
大軌・・・速水太郎
南海・・・市来崎一郎
創業期には各社に偉大な技師(術)長がいたけど京阪にも誰かいたの?
訂正
×南海・・・市来崎一郎
◎南海・・・市来崎佐一郎
475 :
名無しでGO!:04/03/04 10:52 ID:aHCgE4wL
ageとくわ
sage
sage
♪ \\
>>1いいなーいいなー 仕事がなくっていいなー ♪ //
童貞続けて36年 友達いなくて毎日2chー♪
∧∧ ∧∧ ∧∧ ∧∧ ∧∧ ∧∧
♪ ∧∧(*゚ワ゚)つ∧∧*゚ワ゚)つ∧∧(*゚ワ゚)つ ∧∧(*゚ワ゚)∧∧ (*゚ワ゚)つ∧∧(*゚ワ゚) ∧∧
(*゚ワ゚) ∧∧ (*゚ワ゚)つ∧∧*゚ワ゚)つ∧∧ (*゚ワ゚)∧∧(*゚ワ゚)つ∧∧ (*゚ワ゚) ∧∧ (*゚ワ゚)
ヽ と ∧∧ (*゚ワ゚)つ∧∧(*゚ワ゚)つ∧∧*゚ワ゚)つ∧∧(*゚ワ゚)つ∧∧(*゚ワ゚)つ∧∧(*゚ワ゚)つ∧∧
── ⊂ (*゚ワ゚)つ ノ (*゚ワ゚)つ ノ (*゚ワ゚)つ ノ (*゚ワ゚)つ ノ (*゚ワ゚)つ ノ (*゚ワ゚)つ ノ (*゚ワ゚)つ
♪ ヽ と 丿_ ヽ と 丿_ ヽ と 丿 /ヽ と 丿_ ヽ と 丿_ ヽ と 丿_ ヽ と
⊂ _ / し ⊂ _ / し ⊂ _ / し ⊂ _ / し ⊂ _ / し ⊂ _ / し ⊂ _ /
し し し し し し
ファサァ
∧_∧
( ・∀・) ))
/つ( ̄`ヽO_ノ⌒ヽ
ノ ) \ ))
(__丿\ヽ :: ノ:::: )
丿 ,:' ))
(( (___,,.;:-−''"´``'‐'
∧_∧
( ・∀・ ) < お前らも早く寝ろよ
/ _ノ⌒⌒⌒`〜、_
ε( ̄⊂人 //⌒ ノ ヽ)
⊂ニニニニニニニニニニニニニニ⊃
>>478 良く俺のことがわかったな。
しかし、年齢は37だ。
sage
482 :
名無しでGO!:04/03/10 16:23 ID:z8HnoHbs
あげ
淋しいスレだこと
_、,_
_-ミ ̄  ̄三ニ 、
/ \
/ 三 ミ 彡 三 ミ ヽ
/ ./ \ !
| 三 ミ |
\ / ,,,,,,,, ,,,,,,,,,,, \ ノ
._|| 、_= ) ( =_ ), | K
|rl ≡'‘=’`ノ ‘=’`≡ |ノ||
ヽ| ⌒,ニ| -- k/
Y| /ヽ-_- 人 |ノ
~| | 、r-,-,-,-,- ' / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ヽニ二ニノ / <
>>1 クソスレ立てんな、蛆虫、氏ね。
|\ /| \_______________
_/ |\::::::::::::::: / / \_
ペパーダイン大学卒業希望 古賀 潤一郎
, -─- 、 , -‐-、
,∠ 二ニ,. ヘ‐-, '⌒i\ / ノ
/ , \/ ヽ. `{ l‐-ゝ. / /
, ' / , ,ヘ A. i l lヽ ヽ:‐-l / / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. /, | !.│l" !_L詫」\ `ヽ| / ./ <
>>1は逝ってよし!!!
│! │:ト. l { リr'ァ=Klコヽ. >' l \____________________
!| | ヽレく「` |_ji }F|/ ´____ヽ
l ト、 ト_r= ┴ '‐ ! i´ }
ヽ! ト‐ゝ. 丶,. -┐ ./l ヽ. ____ /
} `T!ヘ、 ヽ._ノ , ' |_ヽ i´ ヽ
/ ,リ| | `T ‐r ´ (.、7`y ヽ ____ ノ
/ /' || _|Li7-i┤ ) | l i´ ト、
/ / .|l/ (ゝ+- ‐1`l |ヽ、ヽ.____,ノ ヽ\
/ .,イ| l' | <[`r‐f_二ン′ \ `ー--‐ '´/|、 \ヽ
,' //'| | l/  ̄ ` ー- ィ´ | ヽ. ヽ !
. i ,イ l| | | ./ | | l|ヽ.!、 i l
l / ! l| l lレ' ! | |. l| }} ヽ l |
y' ヽ l| |l l| ヽ\ | | ll ,リ l l |
>>1ちの親父リストラされたってよ・・・
V
∧_/∧_∧∧_∧ マジカヨ ∧_∧ ねぇ・・
ヒソヒソ( ・∀( )∀・ ) (・∀ ・;)
( つ ( つ ⊂ ) ⊂ ⊂)
sage
488 :
名無しでGO!:04/03/16 09:27 ID:gV1dASnE
保全あげ
sage
「保全あげ」で生き延びてるスレも情けないよなー。
誰も書くことないっていうか興味ないんじゃない甲斐。
「眠い人」もウンコ野郎であることが暴露されたし・・・
いや、興味はあるネタなんだけどね。
過去の騒動を見てると、気軽には書き込めないんだ罠。
…小心者だもんで(スマン)。
ROMだけ、とか、そんなヤツが多いんじゃない?
男のクセに文学部史学科って情けねーの
494 :
名無しでGO!:04/03/23 09:56 ID:gPHAU7Qq
保全あげ
495 :
名無しでGO!:04/03/23 13:38 ID:W3/B8m/9
宮脇俊三 東京大学文学部西洋史学科卒業
>>495 鉄道ライターって、川島冷蔵庫もそうだけど、鉄ヲタ的偏狭な発想でしか
ものを見れないね(プ
496は宮脇作品すら読んだことない消防
宮脇氏の勤めていた所を知らんのだろうか。
499 :
496:04/03/26 00:17 ID:S57tPzmz
>>497 それがどうした。
こっちは、
鉄道ライターって、川島冷蔵庫もそうだけど、鉄ヲタ的偏狭な発想でしか
ものを見れないね(プ
っていってるんだから、それに対する反論をしたまえよ。
あんたには論理性というものがないのかい。(プ
__ノ | _
| | | ノ\__ヽ
ヽ二二 ヽ -―人 、 | \ノ(◎)
_____/ /'(__)ヽ____| _________
/ / _(__)∩ />1
| |/ ( ・∀・ )ノウンチー < 糞スレ立てるな、蛆虫。
.\ヽ、∠___ノ \\ \氏ね。
.\\::::::::::::::::: \\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日曜日に 2chへ繋ぎ 自信満々 スレ立てた
テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ テュリャリャ♪
テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ リャ♪ (・∀・)
月曜日は レスがつかない? 火曜日も レスがつかない・・・
ナゼ ナゼ ナゼ ナゼ ナゼ ナゼヨ?
ナゼ ナゼ レス ありません〜♪ (T o T)
水曜日は 自演を試し 木曜日に 「おっ?スレ上がってる!!」
1の母 家臣 医者 精子〜♪
さらしあげ 削除依頼ぃ〜! (`Д´)
金曜日に 激しく激怒 土曜日は 板中荒らす
氏ね 氏ね 氏ね 氏ね 氏ね ドキュソ♪
氏ね 氏ね 死ね チューボー ヽ(゚皿゚)ノ
お医者たま これが私ノ 一週間ノ 仕事デス
アヒャ アヒャ アヒャ アヒャ アヒャ アヒャヒャ♪
アヒャ アヒャ アヒャ ヒヒヒヒヒ ヽ(゚∀゚)ノ
(⌒⌒)
∧_ ∧( ブッ )
( ・ω・` ) ノノ〜′
(⊃⌒*⌒⊂)
/__ノωヽ__)
∧_∧
( ;´∀`)
人 Y / モウデチャッタ・・・
( ヽωつ ο°o。
(_)_)
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ■秋葉原連続少女強姦事件■
( 人____)犯 人 逮 捕 に ご 協 力 を
|ミ/ ー◎-◎-) お 願 い し ま す
(6 (_ _) )特徴 年齢20〜30歳ぐらい、
_|/ ∴ ノ 3 ノ身長180〜190cmぐらい、太め、
(__/\_____ノ 髪はボサボサ、メガネ
/ (__)) ))| 大きい鼻、にきび、白のTシャツ
[]__ | |
>>1 ヽ| 青いズボン、プリキュアのリュック、
|] | |______))「幼女ハァハァ」が口癖
\_.(__)三三三[国]) \この男に関する情報をお寄せください
/(_)\::::::::::::::::::::| ̄ ̄|
|ゲーマース.|:::::::::/:::::/ .|モナー警察署特捜本部
|____|;;;;;;/;;;;;/.____|0 1 2 0 − 3 0 7 X X X
(___|)__|)
彡 ビュウウウ…
彡
彡
ミ
.∧∧ ウリはいつも素でやっているのに…
< #.`Д´> こんな香具師とくらべるなんて
人つゝ 人,,
Yノ人 ノ ノノゞ⌒〜ゞ
. ノ /ミ|\、 ノノ ( 彡
`⌒ .U~U`ヾ 丿
謝罪と弁償汁!
低脳文学部史学科は早く氏ね!!!
507 :
名無しでGO!:04/03/30 07:30 ID:EtkGhSTr
ホシュアゲ
ホシュサゲ
509 :
名無しでGO!:04/04/07 20:32 ID:+ImGSIMB
一三翁は文学青年だった。
「文学少女」には知的なイメージがあるのに、「文学少年」にはそれがない。
むしろ、ひ弱、不健全、オタクまがい等々、マイナスのイメージばかり。
>>509 ロリコン変態エロ親父。
それが、小林一三の真実
511 :
名無しでGO!:04/04/14 09:55 ID:2MqPRtmi
ホシュアゲ
保守下げ
保守下げ
保守下げ
515 :
保守下げ:04/04/21 00:14 ID:DFRfvDy3
保守下げ
516 :
名無しでGO!:04/04/21 22:32 ID:ERkT6KuQ
あげ
517 :
保守下げ:04/04/22 01:03 ID:Aa/U25vX
保守下げ
518 :
保守下げ:04/04/24 02:03 ID:2z14rZ6i
保守下げ
阪神電気鉄道人事 4/23
代表取締役社長→代表取締役会長 手塚昌利
代表取締役副社長→代表取締役社長 西川恭爾
代表取締役会長→取締役相談役 久万俊二郎
sage
さげ
sage
523 :
名無しでGO!:04/04/28 14:27 ID:bLtEGMSx
ホシュアゲ
sage
525 :
名無しでGO!:04/05/04 20:21 ID:KBroJ4up
age
sage