外環道、圏央道 その5’

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915昔のプランナー
>>911,912
核都市広域幹線道路が第2外環と呼ばれていたころは、圏央道計画もなくて、大宮-立川-横浜を結ぶ16号の高速版として考えられていた。当時の資料は残念ながら捨ててしまったが、高速+一般国道+側道といった案もあった(湾岸と同じ)。
当時は住宅団地がまだ不足していたので、バス専用レーン(あるいはガイドウェイ)を設け、道路周辺のアクセスをよくして、その開発利益で建設費の一部を得ようとか、沿道に騒音防止壁を兼ねてビルを建て、ハイテク工業団地を造ろうという案もあった。
C2、外環、圏央道の3環状にしぼられたので、第2外環は優先順位が落ちた(のだと思う)。立川断層と関係あったかもしれないが、記憶にはない。
東京都分の南半分は多摩NTだし、神奈川分の北半分は港北NTと多摩田園都市だから、計画当時ならば用地手当ても可能だったのでは?1970年代後半は、全線、ほぼ田舎だった。