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ぼくらはトイ名無しキッズ:
(ケイマ大師)−−。
大乗の上にあって、はい。いいか、ヴァジラヤーナの定義というものは、すべての現象を、諸現象を完壁に解析し切ることだ。もちろん、それは大乗を背景としていなければならない。
いいか。じゃあいったい、その諸現象とは何かというと、自己の煩悩だね、あるいは他の煩悩だ、これを解析し切って、昇華して、そして完全にその煩悩から解放されると。これがヴァジラヤーナの教えであると。
じゃ、ここでだ、まだ大師方は最終解脱しているわけじゃないから、いろんなところで引っかかっている。
例えばプライド。そうすると、もう自己はかなりの精神的な経験をしているから、自己はプライドが少ないと思っている。ところが、わたしから見ると、プライドが少ないということはあり得ないわけだね。
わかるか、プライドが少ないということがあり得ないというのは。プンナ、わかるか、なぜプライドが少ないということがないといえるんだ?
それは相対の世界だからだ。つまり、ここにプライドが多い人がいると。その人から見たらプライドが少ないと。しかし、プライドの少ない人から見たら、その人はプライドが多いわけだ。
だから、プライドを完全に止滅するまで、プライドがわたしは他の人より少ないということはあり得ないわけだ。そして、そう見る者はだよ、そう見る者というのはわたしには歴然としたプライドがあるんだと。
そして、そのプライドをつぶさなきゃならないんだと。そのように見る者は、いいか、解脱が早い。しかし、そうではなくて、わたしはプライドが他の人より少ないんだど。
何でわたしにプライド、プライドと言うのだろうと。ブラフマンニ号だとか、ブラフマン三号だとか言うんだろうと。こういう人は、いいか、なかなか解脱はしない。それは、同じように闘争心もそうだ。
じゃあ、いいカルマについてはどうだろうね。例えば、ここに、他の人よりたくさん功徳を積んでる人がいたとしよう。
この人は、わたしは一生懸命功徳を積んでいる、しかし、報われない。こう考えたら、これは正しいものの見方といえんだろうか。ウッパラヴァンナー、どうだ。なぜいえないんだ?