【コピペおk】夫婦・家族のジーンとする話を集めるスレ6【オリおk】
何度読んでも名作
70 名前:名無しさん@HOME[] 投稿日:2012/07/26(木) 17:29:26.05 0
先日、母方のじいちゃんが天に召された。なんか日本でも発症例がごくわずかな珍しい
脳の癌だったらしい。今年の2月に激しい頭痛を訴えて病院へ向かった時にはもう
どうしようもない状態で医者から「いつどうなってもおかしくない」と言われて
うちら家族も覚悟を決めていた。
じいちゃんは地元の観光地で定食屋をやってて、とにかく頑固者だった。正月や盆
にはおかんとおれと弟と三人で毎年店に泊まるが楽しみで仕方なかった。頑固者で
怖いイメージしかないじいちゃんだったから、店に並んでるおもちゃをおねだりす
る時はそりゃもう決死の覚悟だったなw
時は過ぎておれは新卒で就職した会社でトラブルが続きうつ病になった。
頑固者で甘えや妥協を絶対許さないじいちゃんには当然うつ病のことは隠して
た。でも、日を追うごとに症状は悪化し回復の目処はまったく見えなくなった。
もう隠し続けるのは無理だろう…観念してじいちゃんに全てを話すことにした。
地元の喫茶店でおかんも入れて三人でコーヒー飲みながらうつ病のことを洗いざらい
話した。もういつ鉄拳が飛んでくるかと冷や冷やしてた。
でも、じいちゃんは「そうか」といいながら静かにこちらの話を聞いてくれる。大方
の話を終えたところでじいちゃんが「無理はするなよ。負けたらいかんぞ」と
言葉をかけてくれた。優しく笑いながら。
その時はただただほっとしたっていう覚えしかなかったんだけど…葬式でじいちゃん
の遺影を見たときに気づいた。
じいちゃんの遺影はその時おれに向けてくれた顔とまったく同じ顔だ。遺影に使った
写真は店の大ファンだったお客さんが撮ってくれたものらしい。この顔は身内でもあま
りみたことがないらしく「本当にいい顔だ」と式に参列した皆が言っていた。
式の時は忙しくてあまり思い出に浸る余裕もなかったけど、こうして日常に戻ると色んな
思い出が蘇って涙が止まらん。
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/08(火) 17:53:54.11
>>263 うん、無理はするな。
生きてるうちは負けじゃないぞ。
>>263 そうだぞ、無理はするな
生きているうちは死なないからな
>>263 せやせや、無理したらアカンで
死なんかったら生きとるんやし
この間彼女と雑貨屋に行った時の話なんだけど
店の奥のほうにオウムが籠に入ったおもちゃがあって
ボタンを押しながら喋りかけるとオウムボイスに変換されて
人が通る度に同じ言葉を喋ってくれるの
俺はそれに感激して最初は「いらっしゃいませーいらっしゃいませー」とか
一人で録音して楽しんでたけどそのうち吹き込む言葉が無くなって適当に
「おおおおおおおおお」って録音して帰った
次の日買い忘れがあってその店に行くとオウムが物凄い勢いで
「うおぉおぉおぉおぉおぉ!!!」ってデスボイス発してた
ビビって泣きそうになりながら外に出ると
外をオッサンが同じような奇声あげて
走ってたから今日も鳥が怖い
姑が末期癌で死んだ。
苦しんで苦しんで死んだ。
実の母親の病気に向き合えない旦那は私に付き添いを任せて逃げた。
私は毎日欠かさず一日朝から晩まで付き添った。
姑の地元病院から、私たちの近場の病院に転院させるまで
旦那にガンガン私が責められていた。賭けは苦しくて全て私にぶつけていた。
「ひとでなし人の親だと思って冷たい女だ結婚しなければ良かった鬼畜」
病気が発覚するまで私と姑は絶縁していた。姑の借金問題で
それまで色々とトラブルを起こされては私が処理するのに疲れたから。
それも旦那に「お前がおかんを癌にした」と責められ、最終的に引き取りOkした。
意地もあった。最後まで迷惑かけられてと命を盾にしてと、仕事を早退して
洗濯物持って花を買って付き添った。
最初にこちらにうつれた病院は姥捨て山みたいだった。
ただ死を待つのみで、声も出せない姑は粗相をしたと怒鳴られてた。
姑は私が何か言うたびに小さく笑って「ここでいい」と死ぬ覚悟だった。
流動食すら、もうとれなくて目も見えず体も半身不随だった。
それでも必死でペコペコと私に頭を下げる姿を見て
「あーこの人は、ただ自分で小さな問題を処理する事ができない弱い人なんだ」
と今までの恨みが半分に減った。
別の病院の相談室に毎日私は「こちらで姑を引き受けて欲しい」と頼み込んだ。
そしてやっと移動できた。姑は泣いた。旦那も「ありがとう」とは言ってくれた。
やっとプライバシーのあるカーテンの大部屋にうつり、オムツも体も拭いてもらえた。
看護婦さんも優しい言葉をかけてくれ、テレビも備えてあった。
少し回復した姑は声が少し出るようになった。笑顔も増えた。
「あんたに一番迷惑かけた。あんたのお陰、本当にありがとう」
その言葉で私が一番救われた。恨みが消えた。
いつ死んでもおかしくなかった。娘がバァバにと猫の写真をとっては話していた。
体が痛いと言えば体を撫でた。「薬増やしてもらおうね」と慰めた。
もう死しかなくて痛みに耐える必要はなかった。
あとは意識混濁だけが問題だった。
10回近い手術に耐えた姑が私にだけは弱音を吐いた。
「桜見に行こう、近くにほら窓から桜の木が見えるよ。
あれを見に行こう」
段々と痛みが強くなっていった。モルヒネにも耐性がつき限界が近づいていた。
「もう頑張りたくない」そう言った姑に
「もう頑張らなくていいよ、よく頑張ったね」と言うと泣かれた。
年末に既に体が動かせない、寝返りすら補助のいる姑が
錯乱しながら「死にたくない、帰りたい」と廊下に這っていたらしい。
「息子さんを付き添わせてください」と夜中に呼び出しを受けた。
旦那は「眠い」と嫌がったが、叩き出した。
そして朝、交代する時に
「死にたいと泣かれた…辛い」と旦那は自宅に帰った。
意識もロクにない姑は外を見たがったのでベットの上をあげて座らせた。
ずっと手を握っていた。
私がトイレに行って帰ると、虫の息だった。
大声で私は叫んだ。記憶があまりないが、ずっと姑に謝ってた。
「がんばらなくていいと言ったけど、せめて旦那がくるまで頑張って!!
ごめんね、がんばれっていってごめんね」
そして死んだ。旦那は娘を連れて来た。趣味の洗車をしていたらしい。
「なんで俺を待ってくれなかったんだ」という言葉がむなしく響いた。
葬式の間も旦那は役に立たなかった。ただ俺の身内を動かすな、お茶くらいいれろと
私に怒鳴った程度だった。
晴れていたのに出棺の時だけ雪が降った。雪なんて珍しい地域なのに綺麗だった。
葬儀が終わって旦那が言った。
「おかんが死んだら離婚しようと思っていた。でも結婚続けよう」
私の中で姑の「息子がバカでごめんね」という言葉が浮かんだ。
昨日が姑の一周忌だった。離婚して仏壇はもうない。
姑が生きていたら、こうなってなかったなと、少し寂しい気持ちで昨日は過ごした。
今度、桜が咲いたら娘と約束の桜を見に行こう。
病院の先生も看護婦さんも、相談室の女性も優しくしてくれた。
まだまだ人って捨てたもんじゃないなと、強く生きていこうと思う。
死んだその日に姑が夢に出てくれたんだ。
「ごはん食べてる?痛みはない?」
すると姑は笑って「猫と遊んでるから、だいじょうぶだニャン」と
元気な時みたいに笑ってくれた。
もう手も合わせられないけど、痛みも空腹もない場所で良かった。
昨年親父が死んだ。
家族全員が「変人」と認める親父だった。
とにかく頭が良い人で、70近くなっても県立高校の試験問題で全教科ほぼ100点取っちゃうような人だった。
その一方で、ちょっとした些細な事は記憶に定着しない。異常なくらい忘れっぽかった。
「俺は良い物はいらない」これが親父の口癖。とにかく何でも失くす。
財布、鍵、眼鏡、ライター、ボールペン、手帳、etc
これなら注意して失くさないかとお袋がプレゼントしたデュポンのライターも、二週間もたなかった。
性格はとにかく明るい人。家族には厳しく接することもあったが、外では滅茶苦茶気前が良くいつもニコニコしてた。
特に他人の飯を気にかける人で、早朝だろうが深夜だろうが来客があれば、上がってけ、飯食ったか?用意するから食ってけ、こうだった。
ある時なんかは宗教の勧誘に来た外国人2人組を家に招きいれ、カツ丼を振舞ってたこともある。
家庭の中ではというと、自分の流儀を強制するし、やたらケチだったし、挨拶や作法に厳しかった。
会話ではいつも今までに何度も話したことを聞かれるので、学生の頃の自分と姉は、
「どうせ興味ないくせに話しかけてくんな」
「外ヅラだけいいくせに」
いつもそう思ってた。
高校生だった頃のある日、友達のことで「その子は優秀なのか?」と聞かれ、俺が爆発した。
俺が今何年何組か知ってるか?担任の名前言えるのか?俺がサッカーでやってるポジション言ってみろ!俺のこと興味ないくせに、俺の友達が頭いいかどうかお前に関係あるのかよ!?」
これがきっかけで本格的に親父とは口を聞かなくなった。
俺が社会人になって、結婚して、子供が出来ても、親父との関係はあまり変わらなかった。
孫の世話を焼きたがる親父がうっとおしくて、親父がいないのを確認してから実家に行ったりもしてた。
たまに顔を合わせると、俺が始めたフットサルのことや昔から好きだった車のことなんかの話を振ってきたけど、やっぱり毎回同じ質問ばかり。
ケチにも磨きがかかりお袋が苦労してたこともあって、本当にうんざりだった。
そんな親父が入院してからは、あっという間だった。
さほど悲しくない自分にも驚かなかったし、淡々と事を済ませた。
納骨が済んでしばらくしてから、親父の私物を整理しに行った。
親父が経営してた小さい会社はたたむことになっていた。
結構な量の私物があったけど、ケチな人だったから特に大事そうな物もなくて。
机の引き出しに入っていたA6のノートが何冊かあった。
その内の一つを手にとって中を見てみた。
俺のことが書かれていた。手紙なんかではなく、本当にただのメモ。
“フットサルは五人でやる”
“ぴぼは攻めの選手”
“○○(俺の子供の名前)は今年で5歳、さくら2組、先生の名前は今度聞くこと”
“○○はイチゴが好き、柿は嫌いだから勧めないこと”
こんなのばっかりギッシリと書かれてた。
帰り際古くからの従業員に言われた。
「社長が言ってました。俺は親父が早くに死んだからどんなのがいい父親かわからないんだよなって。」
細かくメモしても結局覚えられず仕舞いだった親父がおかしくて、俺に責められたことを一生懸命直そうと努力してた親父が悲しくて、とにかく泣いた。
もし、親との関係で若い頃のわだかりを残している人がいたら言いたい。
憎んだり嫌ったりしたままでは切ないよ。
俺がそれを理解出来る前に、もう親父はいなくなっちまった。
ジーンとくる話とは違うかもしれないな。スレチだったらごめん。
>>273 高次脳機能障害って言ってな。
知能指数は高いんだが、短期記憶が消えまくる人がいる。
これは立派な脳の病気というか欠陥だから、本人がいくら気をつけても治らない。
まわりがいくら怒っても諭してもムダ。
生前にそれに気づけなかったのは残念だな。
>>274 レスありがとう。うん、多分そうだったんだろうなと思う。
昔自分なりに調べたり、医者やってる先輩に相談したりしたんだけど、当時はまだ情報が少なくてね。
一度受診を勧めた際は、俺の言い方も悪くて頑なに拒否されてそれきりになった。
親父が興味を持ってる分野は短期記憶も完璧だったせいもあって、そこから漏れた(と感じてた)俺は意固地になってたよ。
ノートの中に、“あいつはいい父親になれる”って書いてあってね。
少しは安心させられたのかなって思えたのが唯一の救いだよ。
よかったね
お父さんの考えと思いは
あなたに伝わってるよ
>>276 優しい言葉感謝です。
俺の子供も親父に対して戸惑うことが多々あったので、成長したら読ませてやるつもりです。
893 : 名無しさん@介護・福祉板[sage] : 2013/01/08(火) 05:12:29.84 ID:fOuTEAL7 2ch「社会福祉士」で検索した中で一番平和そうなこちらへ
スレチなのはわかっているのですが質問させてください
父が昨年3/15に合格しました(60才)
福祉とは無関係な仕事を勤め上げ、定年を期に転職する考えでした
平日の仕事の合間と休日で勉強をしながら、何度も研修?実習に行き、
おそらく学校のような所で講習を受けレポートもがんばっていたようです
実習で「患者?お世話する対象の方への扱いが雑(笑顔」だと教官に
よく叱られていたという会話だけは覚えていますがこれは余談です
自分(私)自身のことではないため、資格取得への途中経過に興味がなく
当時どのようにして合格まで至ったのかわからないし聞いていません。
たくさんggrましたが、社会福祉士を含む福祉業界についての
知識がまだまだかなり乏しい状態・現状です
しっかりと別の仕事をしながらこの資格を取ることが
どのくらいのレベルのことなのかを知りたいです=質問です
長文になったので分けます。
894 : 名無しさん@介護・福祉板 : 2013/01/08(火) 05:16:55.99 ID:fOuTEAL7 続きです。
社会福祉士に合格したと言うと、この資格を知っている方々には
すごい偉いことだよと言われることが多いのですが
学生や主婦や無職&求職中の方が目指す場合と違うと思うので、
そういった転職経験のある方や
社会人が目指す場合についてわかる方がいらっしゃれば教えてほしい
身内のことなのに、彼がどのくらいの努力をしたのか
どのような苦労をしたのか、少しでももっと知りたいのです
昨年3/14に吐血し病院へ行きました
簡易検査で癌の可能性が高く、翌日3/15(合格発表日)の精密検査の結果
数日後に末期癌で余命宣告され、しばらくして亡くなりました
棺に一度も利用することのできなかった合格証を入れました
もう本人に聞けないし
家族は資格取得も再就職もご自由にどうぞというスタンスだったので
リアルタイムで社会福祉士について詳しい方のいるスレへ
何かお言葉をいただけないかと思い、こちらへ辿り着きました
独りで吐き出しまくった上、長文で申し訳ありませんでした。
失礼いたします。。
>>278 >「患者?お世話する対象の方への扱いが雑(笑顔」
ひでえ教官だな
指導時に「〜(笑顔」って何様だよ
>>280 扱いが雑と注意しつつ本気で怒っていないという表現で(笑顔)かなーと
へらへら(笑)とも違うし、雑なことが正しいわけでもないが(苦笑)が近いかも
895 : 名無しさん@介護・福祉板[sage] : 2013/01/08(火) 20:26:00.22 ID:l/KH6knT
>>893 お父様のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。
試験難易度は、それほど高いとは言えない資格ですが、他業種で
働きながら60歳で合格されるのは、さぞ大変だったろうと思います。
自分は30代で介護職となり、一般大卒でしたので、仕事をしながら
通信で受験資格を得て、30代半ばで合格しましたが、その年齢で
すでに目の疲れが酷く、読んだ本を理解してレポートを書いたり、
受験対策に過去問集を解いたりする以前に、ある種「老いとの戦い」
を意識せざるを得ませんでした。60歳ともなれば、尚更でありましょう。
また、同業であれば多少は職場にも理解があるでしょうが、
他業種であれば、完全に個人の趣味という扱いでしょうから、
スクーリングや実習でまとまった休みを取るのにも苦労されたのでは?
ご家族も「ご自由にどうぞ」のスタンスと書かれていますが、
それなりの影響はあったと思いますし、ご家族のご理解があったから
お父様も勉強を続けられたのではないでしょうか?
業務独占でもありませんので、資格取得して再就職に活かすことは
困難だったかもしれませんが、合格までの過程に苦労が多ければ、
それだけ充実感も持てたのではないかと思います。
まだお亡くなりになって1年も経っていないので、ご家族には、
整理できない想いが沢山おありなのだろうと推察いたします。
どういう書き方をすれば、ご家族のお気持ちを傷付けず、
また、自分の言いたいことを伝えられるのか悩みました。
失礼がありましたら、お許し下さい。
899 : 893[sage] : 2013/01/09(水) 05:04:15.75 ID:BufDcKDe
>>895さま
ありがとうございます
私もこれを聞きたいと考え書くまでに随分時間がかかったのですが
お心遣いいただいた上、悩んででも時間を割き、
丁寧に説明しご意見をいただけたことを本当に感謝しています
亡き後、父との人生のことを思い出す日々の中で
結果として最後の証となったこの資格のことをもっと知りたく、
どんな晩年だったのだろうとネットで調べてしまいます。
ブログ等で若い方のレポは見つけることができても
やはり定年で転職する状況の方の様子を知ることは難しいです
確かに何冊ものテキストを合格ラインまで理解することは
30代でもきつく学生の頃との吸収力の違いを思い知らされます
(退職前の父が持っていた資格を今年から目指しています<私)
私の倍近い老い?では想像できない程大変だったでしょうね
あと、実習のために休みを取るのも
仕事さぼってまったくもうっと家族で囃していたこと、
苦笑いしていた表情を今思い出してしまい
後悔とは少し違いますが、、「もっと」理解し応援していれば
彼ももっと気持ち良く勉強ができたんじゃないかと思いました
私はまだまだ悲しくて寂しい気持ちばかりですが
それをなぐさめられたくてここへ来たわけではないので、
もし生きていれば!資格を活かしてしっかり働いていたのかなと
みなさまのような福祉の仲間と楽しく活動していたのかなぁと
思います。思えます。
このような気持ちになれ、質問して良かったです
お目を通してくださった方へも895様へも心よりお礼申し上げます
-
278+279+282+これで以上です。コピペでした
少なくとも資格自体はどうでもいい。
お父様が常に向上心を持っておられたこと。
その事だけは誇っていいと思うよ?
再就職が目的ならフォークリフト講習だけで事が足りる、そうではなく介護を選んだ。
こっちはお人柄なのでしょう、いい人だったのですね。
私はそんな父の子供だって、父が残した宝だって自覚が出たら、自分なりに
でいいからお父さんには負けないよ?って言いに行って下さい。
幸多からんことを。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/27(水) 19:56:38.83
679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/22(土) 14:12:09 ID:U44SoZA8
酒と泪と男と女
丹羽長重の家臣、江口三郎右衛門の家来に出口という60才の老将がいた。
出口は数々の武功を挙げたが、酒乱が災いして200石の薄禄に甘んじていた。
関ヶ原の合戦で、丹羽長重が大聖寺を攻撃した際、出口は江口隊として従軍した
が、歳のせいでへばってしまい暫し休憩していた。
そこに、腰に短刀、片手に瓢箪を持った老女が江口の陣に向かって歩いて来た。
よく見れば、自分の妻ではないか。
「おーい、こっちだ!好物の酒を持ってくるとは感心な妻じゃ。」ところが妻は
夫を無視して、江口の陣に向かう。
妻は江口の陣につくと、陣の外でへばっている夫を指差し、
「あそこにいるじじいは私のダンナです。戦場で昼寝するような男に酒を飲ませ
るバカはいません。あなたたちも、あんなろくでなしにならないよう、必死で戦
いなさい。」と励ました。
そして、妻は浅井山によじ登り、前線にいる大将の江口に陣中見舞いの酒を届け
た。
よろこんだ江口は酒を飲み干し、見事敵将を討ち取った。
さて、妻にバカにされた出口は奮起して、こちらも見事首を取った。
「ばばあ、首を取ったぞ。早く酒を飲ませろ。」
それを見た妻は笑い、
「あなたは酒飲みたさに奮起しただけでしょう。その首を取った手柄はあなたで
はなく、この瓢箪と言うべきでしょうが。」
とカラの瓢箪を振って見せた。
「くそ〜、あのくそばばあに騙された。せっかくの首もムダになったわい。(あ
の古嫗に誑かされて、あだ骨を折りつる事よ)」と非常に悔しがった。
そんな夫婦のやりとりを見ていた江口たちは大笑いしたという。
(武将感状記)
で、その晩は熱烈合体と。
287 :
sage:2013/03/28(木) 18:04:42.45
てすと
動画も泣けるな。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/01(月) 22:01:40.12
アゲ
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/30(日) 17:36:42.87
ほしゅ
踏切で人助けのために亡くなった40歳の女性
友人は自衛官で、嫁さんがいて二人の子供の父親です。
今回の台風で友人宅は被災し、敷地の法面が地滑りを起こし母屋ギリギリ迄削られる被害が出ました。
伊豆大島に自衛隊が出動している状況で、嫁さんも自分も友人とは連絡がついていません。
(友人も心配でも連絡出来る状況ではないと思います)
けれど、自宅の状況は可及的速やかに根本処置が必要な状況です。
「ちょっとコネ使えば連絡とれると思うけど……戻って来られないか聞いてみようか?」と自分は言いました。
それを聞いて、嫁さんは静かに、しかしきっぱりと
「災害でも戦争でも、国難の時には一番後回しにされる、それを理解して自衛官に嫁ぎました。
○○さん(友人)が仕事に専心出来る様に騒ぎ立てずにここを守るのが私の仕事です、お気持ちだけ頂きます」
と、そう言い切りました。
武門の奥方はかく在るべき、という気持ちになりました。
子供二人は危険だから避難させて欲しいと言われ、我が家で預かっています。
今も強い雨が降っていますが、嫁さんは自宅に残り、斜面をブルーシートで養生したり土嚢を積んで何とか守ろうとしています。
テレビや新聞やネットで自衛隊の活躍を見て自衛官に感謝する事も多いと思います。
けれど、その後ろにこうやって『銃後』を守っている家族の存在が有る事も、時々思い出して下さい。
スレチかも知れませんが、書き込ませて頂きました。
なにいってんの
この馬鹿
わけがわからん
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 15:23:26.92
アゲ
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/25(月) 00:27:33.51
>>287 俺、この人知ってる。
facebookで弁当画像上げてた。
息子、内定決まったらしい。
友達(女)は幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられた。
「勉強ができる子だから、大学に行かせよう。
将来は教師か、女医か?
医学部ならお金が掛かるから、貯金しなきゃ」
そんな話までしていた優しい祖父母。
しかしそんな矢先、祖父が癌になった。祖父は74歳、友達は10歳。
手術の前に、祖父は大きなお守りを彼女に渡して
「俺はお前を大学に行かせたかった、本当にすまない。
花嫁姿も見たかった。それだけが心残りだ。
ばあちゃんと仲良くしてくれ。本当に困ったらこのお守りを開けろ。」
それから16年経ち、彼女は無事大学を卒業し会社員になった。
最近、例のお守りの存在を思いだし開けてみたところ古い万札が11枚。祖父が必死に貯めたんだろう。
この話を聞いて、何かすごく胸がいっぱいになった。
もうすぐ彼女の結婚式。
あとちなみに彼女の祖父は健在。90歳。まだまだ長生きしてくれ。
26歳で大学卒業ってとこが泣きどころ?
これが、ゆとり脳
302 :
↑:2014/02/20(木) 09:45:22.92
○最優秀新人賞受賞曲
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/22(火) 05:27:54.51
あげとくか
いそいで宅配便に出ようとして思い切り頭を柱にぶつけたわ。
ほんとジーンと来た。
( ´_ゝ`)フーン
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/29(金) 11:37:58.22
アウ焼き胡麻手書きメモトンコツ煮ぼし浮遊おしんこコク塩高校塩ソリューソンラーメン
アウ焼き胡麻手書きメモトンコツ煮ぼし浮遊おしんこコク塩高校塩ソリューソンラーメン
アウ焼き胡麻手書きメモトンコツ煮ぼし浮遊おしんこコク塩高校塩ソリューソンラーメン
ゴミF宅駐在車近代ググレーラーメン
学下請け宿題回収クレヨン共同日本大韓入浴ネッドラ
ムゥ〜おやつが食べたいな〜
あっ、シュークリームだ
おいしそう 食べよう
モグモグモグモグ おいしいな モグモグモグモグ
もう一個ある これも食べちゃえ
モグモグモグモグ モグモグモグモグ
あ〜おいしかった
ねえムーくん、ここにあったシュークリーム知らない?
知らないよ
変だなぁ 後でムーくんと一緒に食べようと思ったのに
おかしいな どうしたんだろう?
あんなおいしいシュークリーム どうしたんだろうね?
あんなおいしいシュークリーム?
それじゃまるでムーくん
あのシュークリームを食べたことがあるような言い方じゃないか?
ワッ しまった
さてはムーくん シュークリーム食べたでしょう?
知らないよ
ほら 白状しないと コチョコチョコチョコチョ
ムヒヒヒヒ 食べた 食べた
ほら やっぱりムーくんが犯人じゃないか
もう おしりペンペン
ムッヒーミンミンミン ムッヒーミンミンミン
ようし ムー汁にして食べちゃおうかな
ムッヒーミンミンミン ゴメンナサイ ムッヒーミンミンミン
知恵袋からのコピペ
<家族から言われて最高に感動した言葉は何ですか?
親・兄弟・姉妹・子供など、家族から言われて心から感動した言葉を教えてください。 >
<ベストアンサーに選ばれた回答>
私は、弟から言われた「誕生日おめでとう」です。
え?そんなこと普通だろう?と思うと思うのですが事情があります。
子供の頃、両親が離婚し、私は父の元に引き取られて育ちました。
父は離婚後すぐに再婚し、継母ができました。私は東京で生まれ育ったのですが、父の再婚後、父の仕事の都合で地方に転居しました。
そして継母と父の間に子供が生まれ(これが弟です。)
それ以降、私は両親から口をきいてもらえることがありませんでした。一切無視されて育ちました。
弟はまだ赤ちゃん〜幼児だったので、普通に私と触れ合ってくれていました。
父と継母が再婚して以降、私は誕生日祝などしてもらったことがないし
両親は、私がなんという学校に通っているのかくらいは知っていても、担任が誰か、どんな友達がいるのか、何組なのか
中間テストや期末テストはいつからなのか、夏休みはいつからなのか?
等、普通の親が知っていることをまったく知らなかったし、聞いてもきませんでした。
私の分の食事こそ用意してありましたが、そこにいないものとしてまったく完全に無視されて生活していました。
その間、病気になり2度ほど入院したのですが両親が病院に来たことは一度もありませんでした。
友達のお母さんや友達が、着替えの世話をしてくれました。
その頃は高校生だったのですが、卒業してからは家を出て
1人で東京に戻り(戻りといっても生家はもうなく、アパート暮らしです。)
働きながらお金を貯め、大学に行きました。結婚もしました。
その間、親との接点はありませんでした。
その後、弟も大学に行くために東京に出てきました。
その時私はもう結婚して家庭をもっていましたが、可愛がっていた弟の面倒をよく見てきたつもりです。
親も、弟が私たち夫婦に世話になっているのをわかってからは
時々、私たちにも気を使って何か送ってくれたりするようになりました。
弟は無事大学を卒業し、就職しましたが近くに住んでいたので、ずっと仲良くしていました。
そして弟が就職して最初の私の誕生日の日
弟が、突然やってきて「お姉ちゃん、誕生日おめでとう。」とプレゼントをくれました。
私にとっては、血のつながった家族からの初めての言葉でした。
夫や友達は毎年祝ってくれても、実家の家族は誰も私の誕生日など興味はないし、知らなかったと思います。
でも弟は、社会人になったことを機に、ずっとよくしてくれた姉に
なんとかしてお礼の気持ちと伝えたい、と、ずっとチャンスを探していたようです。
私は、嬉しくて嬉しくて、今までどんなにつらい時でも泣いたことがなかったのに(泣けなかった)
その場で幼児のように号泣してしまいました。
おそらく一生忘れられない一言だと思います。
私の人生、最高の感動だったと思います。
10年くらい前の出来事です。
<原文まま>
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/05(水) 08:12:29.84
て
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
ゴミ岡薫の娘がウチの娘と同じように苦しめばいいのに
オマエのせいで大事な思春期に拒食症になって学校では相談室通い、生理も止まり、精神的にも
おかしくなった
小さい頃から死んだ子の分も自分を犠牲にしてまで大事に育ててきたのに
オマエが生きてるだけでどれだけの人間に迷惑をかけて人生壊して苦しめているのかよく考えろ
偉そうにものを言える資格なんてオマエになんかひとかけらもないだろうが
賠償しろ
オマエの娘も同じように人生壊されろ