世界史なんでも質問コーナー

このエントリーをはてなブックマークに追加
501匿名子
人間の理性が現代文明に果たす役割についておしえてください
502世界@名無史さん:01/11/11 02:35
ポーランド史が勉強できる大学(国内のみ)ってどこですか?
503世界@名無史さん:01/11/11 02:59
>>502
ポーランド史研究者が史学科等で教えてる大学。
概説書や論文読み漁って著者の肩書きをチェックすべし。
504486:01/11/11 03:15
>>489
初めての質問であやめさんに答えてもらったヨ!
脳内仮説が成立するとは思いもよりませんでした。むうー。
ありがとうございます。
505あやめ:01/11/11 14:01
>>492
たしか「くだらねー質問は…」というスレに王直について書いた記憶があるので、
それでよければ探してコピペしときます。最後の方は格闘技の話題に発展しちゃった
ような(*^ー^*)
>>493
ごめんネ、先週はお出かけが立て込んじゃって、水曜以降になると思うけど書きます
北京が中途半端になってるけど御要望なのでカントンから行きましょう
ほいでもって読んでくださったら「読んだよ」だけでいいからレスポンスお願い
506世界@名無史さん:01/11/11 14:50
>503さん
502です。これから毎日図書室に行って片端から調べます。
507世界@名無史さん:01/11/11 16:27
>>506
目星を付けたら大学のHPで教官の最新情報を確認しておいたほうがいいですね。
入ってみたらお目当ての先生は既に辞められてて、
しかも全然専攻の違う先生が後任で入られてたら目も当てられない。
508492:01/11/11 16:57
あやめ様、
有難うございました。
ついでにというのもなんですが、例のスレで1やその他のレスに
一言コメント頂ければ有難いのですが、すいません。
509今日の駿台模試で:01/11/11 19:40
玄奘や義浄について述べた文で、答えが
『玄奘が訪れたインドではヴァルダナ朝が最盛期を迎えていた』
ということなんですが、玄奘が訪れた時インドはさんさんたる状況でとても最盛期などといえる状態ではなかったと思うのですが
510世界@名無史さん:01/11/11 19:55
歴史の授業とか大嫌いで今までまったく勉強してこなかったんだけど、急に勉強したくなりました。
なんか初歩から学べる本でいいのありますか?
やっぱ教科書がいいんですかね?
511Cavabien:01/11/11 20:04
本当に初歩なんだったら集英社辺りから出てる漫画「世界の歴史」あたりを
ザッと通読して、それから面白そうな所について中公や河出の全集から該当
する巻を抜き出して読んでみる、とか。
512Cavabien:01/11/11 20:44
え〜と。
今「世界の名将百人」のスレで見た宋景詩という人を調べてるんですが
清史稿のセンゲリンチン伝に少し出てくる意外は良く解らずに行き詰まり、
素人の悲しさ、途方に暮れてます。
どなたかご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。
捻軍の人かと思って太平天国史(少しだけ捻軍に関する記述がありますから)
や清末に関するの手持ちの本は見てみたんですけど・・・。
513忘れんぼ:01/11/11 21:15
ナイチンゲールがセポイの乱の時にもインドで看護活動をしたとどこかで読んだ
ような気がするのですが、いくつかのナイチンゲールの年表にはそんな記録無い
し、やっぱガセネタだったんでしょうか?
514世界@名無史さん:01/11/11 22:23
レーニンとスターリン本名を教えて
515世界@名無史さん :01/11/11 22:34
>>510
三日でわかる世界史(ダイヤモンド社)
を勧める。
516世界@名無史さん:01/11/12 00:44
>510 名前とかは忘れたけど参考書(大きめのやつ)で見やすいのあったょ。参考書以外ではとりあえず平凡社のカラー世界史百科(3400円)をおすすめ。地図と解説がたくさん細かく載っていて便利。
517@@:01/11/12 02:44
エフタルってどんなんだったんですか?結構強かったけど、
ササン朝(パルティアやったっけな)とどっかの国に挟撃
されたっていう・・・
518本名                    :01/11/12 05:18
聖ウラジミール、ヨシフ大帝
519あやめ:01/11/12 13:56
>>512
宋景詩は山東の堂邑の出身で豆腐屋をやっていた貧民でしたが、白蓮教系の八卦教に
参加していたようです。咸豐十一年に地租増税反対一揆を起こし、白蓮教軍の一翼と
して「黒旗軍」と呼ばれて活躍していましたが、形勢が不利になると清の討伐軍に投
降し、勝保の下で安徽・河南の捻軍や陝西の回民の反乱の鎮圧に従事していました。
翌年には脱走して表面上だけ清軍に協力するふりをして、白蓮教軍の鎮圧に差し向け
られると白蓮教軍や太平軍の残兵を収容し、自軍の隊伍を強化拡大し地主の民團勢力
と衝突を反復していました。当初は山東や河南の民乱に牽制されて武力対応の余裕が
なかった清側も、同治二年四月には僧格林沁の軍を動員して九月には開州で宋軍を撃破
しました。その後は安徽で捻の苗沛霖や湖北で太平軍の張宗禹の軍に参加して活動を
継続し、四年には曹州で僧格林沁を戦死させたのは彼だということになっています。
その後の消息はやや曖昧で亳州で捕縛され安徽省城で処刑された、許連升という拝み
屋の男が実は宋景詩であったとも、それは別人で光緒二十六年に故郷に姿を見せたとも
色んな伝説が語られているようです。
彼の名は「清史稿」の「文宗本紀」や「勝保傳」などに断片的に出てきますが、余り
注目されない人物でした。一躍有名になったのは「武訓批判運動」に関連したキャン
ペーンからです。当初は山東地方で乞食から富農になり慈善事業を行った武訓という
人物の顕彰運動があり、実は彼は偽善者で農民の抑圧に狂奔していた「悪覇地主」の
典型だという暴露キャンペーンに変わっていきました。その中で武訓の後援者の揚樹
坊の一族が中心となっていた柳林鎮の民團が、宋景詩と最も激しく対立していたこと
が明らかにされ、毛主席のお声がかりで「農民起義英雄」として宋がクローズアップ
されることになったのです。当時の編纂に係る「宋景詩史料」という本があったと記
憶します。

さっき「そうかくりんしん」で変換したら一発で「僧格林沁」が出ました!
「サンコリンチン」や「センゲリンチン」で出したらもっと感激しちゃうんだけど^^
520Cavabien:01/11/12 21:02
>>519 あやめサン
 う〜ん、快刀乱麻。ありがとうございます!
 日本の戦国時代で言う山本勘介的(実際にやった事と作られたイメージの差がはっきりしない)
 存在の可能性があるわけですかね。
 全然名前が出てこない本がある理由もなんとなくわかりました。

 個人的にはセンゲリンチン(ちなみに自分は「そうかくはやしぶんぴつ」変換の「分」削除)を
 討ち取ったのは頼文光を首領とする捻軍と太平天国残党の合同軍だと思っていて、宋景詩の名前は
 初めて聞いたのでとまどってました。
 あやめサンに教えていただいた情報を参考にして、自分の中では判断保留にしておきます。宋景詩。
521Cavabien:01/11/12 21:26
>当初は山東地方で乞食から富農になり慈善事業を行った武訓という人物の顕彰運動が
>あり、実は彼は偽善者で農民の抑圧に狂奔していた「悪覇地主」の典型だという暴露
>キャンペーンに変わっていきました。
・・・なんかいいなぁ、これ(苦笑。
『噂の真相』の一行記事みたいな情報が乱れ飛んだんだろうなあ。
522世界@名無史さん:01/11/12 23:36
>センゲリンチン
私はモンゴル人なんだからカタカナでいーじゃん、と思う。
523Cavabien:01/11/12 23:50
>>522サン
いやぁ、できるだけその方が良いとは思うんですけど・・。>モンゴル人だからカタカナ
まぁ、俺の場合は正確な読み方が解らなくて怖いから漢字で、というのもありますです。
センゲリンチンの場合は多少は人口に膾炙してるからまだいいけど、マイナーな人の場合は
ピンインだけが頼りですから、カタカナと漢字併記の方が読む人に間違った情報を
与える確率が減るかなぁ、とか。
なんか説明になってなくてスンマセン。
524Cavabien:01/11/12 23:51
そういえばセンゲリンチンもサンコとかセンゲとかサンゴとかあるらしいっす。
ますます解らん(苦笑。
525あやめ:01/11/13 12:37
たしかに漢字表記のままの方が無難です。
ネルチンスク条約で有名な「索額圖」は最初に読んだ本では「ソエト」だったのに、
だいぶ後に「ソンゴトゥ」と判明してオイオイと思いました。彼の父の「索尼」も
「ソニ」だと思ってたら「ソニン」なんだって ~へ~
だから「勝保」も「シェンポ」にしないでおいたの。

僧格林沁のことを明治初年の新聞なんかではテッキリ坊さんと思い込んじゃってた
らしく「髪賊の討伐に大功ありし豪僧として知られたる格林沁は」云々とか書いて
たらしいです。(狩野直喜先生の随筆で見た記憶)

曹州で僧親王を討ち取ったのが宋景詩だというのもどこまで史実か怪しいと思って
ます。中央から農民起義故事考査班の御一行なんかがやってくると、村の党書記が
古い話に詳しい爺さんを呼んで「あんたは聞き取りされると思うけど頼むから一つ
うまいことしゃべってくれ」「うめえことって何の?」「だからさ宋景詩って英雄
がいるんだよ、でこの近辺は昔モンゴルの大将が太平軍だったかとドンパチやって
戦死したって言われてるだろ、それが宋景詩の大手柄だったって話にすりゃ喜ばれ
ること請け合いなんだから」「おらぁそんだらこと知らね」「解放前に死んだつう
爺さんのおとっつぁんから子供の時分に聞いたとか言っときゃいいんだよ」なんて
工作があってもおかしくないんじゃないかと勝手に想像してます。だって太平軍や
義和団の民間伝説とか見ると、何か調子のいい美談快談が多いんだもの。
526あやめ:01/11/13 12:52
最近は武訓の再評価の本も出てるみたいです。あまりにも悪者にされすぎ
ました。
なにしろこいつは悪い奴ということになると迎合情報がどんどん出てきて、
挙句は「鉄証如山」とかで反論不能になってしまうってことは、紅衛兵で
いやというほど経験済み、でも時間が解決してくれる場合もあります。
してくれない例も多いけど。
527世界@名無史さん:01/11/13 16:45
中国の字(あざな)は本名を忌むことから使われるようになったということですが
なぜ本名を忌むようになったんでしょうか?
528あやめ:01/11/15 19:59
師走が迫ってきて本業がめっちゃ忙しくなってきました。心残りながら年内は御無沙汰
つかまつります。皆様お元気でね。
>>493
かねてのお約束なので「清末廣東売春事情」だけはこれから書きます。
但し少しづつ毎週1回連載としますので了承ねがいます。

廣東では咸豐・同治から光緒中葉まで穀埠での色町の繁盛は変りませんでしたが、光緒
三十一年に廣東総督は海岸に長堤を築いてしまい、穀埠・迎珠・合昌・水鬼トウ(乙の尾
の延びた上に水を乗っけた不思議な字、水溜りという意味、廣東語の表記のためだけに
出来てる文字です)にあった大小の花舫は一切をあげて珠江の下流に移されました。デ
ルタにくっついていて「大沙頭」と呼ばれることとなりましたが、それから5年間は昔
と変らぬ繁盛が続きました。光緒三十三年冬から「天趣報」という新聞が「花榜」(人
気ランキング投票)で金を集めるといったことも始まりました。
翌年の七月に台風が襲来し大沙頭に上陸しました。「花舫」すなわち廣東独特の船上
娼家は大半が破壊され、娼妓は全て陳塘に籍を移動しました。その後に花舫が大沙頭
に帰ったのは6割弱に止まりました。宣統元年正月には財記という店の船が大火を起
こし瞬く間に隣接する舟に次々と広がり、大小数百の舟が一度に灰となり、運良く免
れたのは2-3割しか残りませんでした。この事件から穀埠艇の名は歴史上のものと
なり、代って陳塘と東堤の全盛時代となりました。
続きます。
529493:01/11/15 21:26
>>528
わかりました。お忙しいところありがとうございます。
530ポン:01/11/17 15:29
今、学校の授業でスペイン=ハプスブルク家のところをやっているんですが
フェリペ2世の時スペインは全盛を迎えたらしいのですが、その先代の
カルロス1世は神聖ローマ帝国の皇帝(カール5世)にもなったのに、
なぜカルロス1世の時に全盛でなかったのですか?二カ国も領有してたんですよね?
531世界@名無史さん:01/11/17 15:59
王様が共通でもスペインとオーストリアが合邦したわけではないでしょ。
532世界@名無史さん:01/11/17 16:13
フェリペ(フィリップ)2世 Felipe 1527−98(位1556−98)
スペイン王。カルロス1世の子。熱心なカトリック信者で新大陸を領有し、
レパント海戦に勝ち、ポルトガルを併合し、スペイン絶対王政の最盛期を現出した。
1588年の無敵艦隊の敗北後、再建をはかったが国勢は次第に衰えた。
山川出版『世界史用語集』より
533世界@名無史さん:01/11/18 00:56
>>115
次にあやめさんにお会いできるのは来年ですか・・・。
お仕事がんばって下さい。
534世界@名無史さん:01/11/18 02:23
昨日の<ベルサイユ宮殿の光と闇>再放送だけど見た人いる?
535世界@名無史さん:01/11/18 05:15
十字軍について知りたいのですが、
過去ログにないでしょうか。
申し訳ありませんがお教え願います。
536世界@名無史さん:01/11/18 14:54
>>1
スレタイトルが優しくなったのが「ご愛敬」
537世界@名無史さん:01/11/18 20:29
<死海文書>発見から54年 全38巻の書籍に
http://news.lycos.co.jp/topics/science/civilization.html?d=16mainichiF1117m064

すでに10刊は刊行されてるそうなんですが、残りの28巻にはどんな価値が
あるのでしょうか?未知の内容は含まれてるんでしょうか?
538 :01/11/18 23:45
ソ連/ロシアの指導者に「ツルフサの法則」があるのは有名な話ですが、
帝政ロシアのころはどうだったのでしょうか?
ニコライ2世はフサフサということはわかったのですが、それ以前がわかりません。
本当にくだらない質問ですがよろしくお願いします。
539世界@名無史さん:01/11/19 19:40
ノモンハン事件というのは一体どのような事件だったのでしょうか?
どなたか詳しい方お願いします。
540世界@名無史さん:01/11/23 14:19
とりあえずage
541世界@名無史さん:01/11/23 20:40
>>539
「ヲイ、オレら満州国作ったけどさ、なんか北の方が危なくないか」
「そだね。じゃあ、ちっと北の方シメてみるか。なんたってオレら天下の帝国陸軍さ」
「ああ、オレらのへーたいは突撃させりゃ世界一さ」
「なあに戦車がちっと小さいぐらい、たいしたことじゃないさ」
「よおし、やるか。大丈夫、始めっちまえば、本国だって認めるよ。いつも通りさ」

てな訳で、弱体と思いこんでソ連戦車にケンカをふっかけた事件です。
戦争と言うには恥ずかしすぎるお話。
542世界@名無史さん:01/11/23 23:08
>>535
>過去ログにないでしょうか。

という質問なら、答えは
「あります」
543世界@名無史さん:01/11/24 10:52
「センゲリンチン」はチベット語センゲ・リンチェン(sengge rin chen)で、意味は「獅子・宝」です。
544世界@名無史さん:01/11/24 12:16
中世の西洋貴族や召使の生活がくわしく載っている本を探しています。
図書館で探したのですが、衣装の資料や建物の資料しかなかったので。。
召使はどのくらいの給料をもらっていたのか、どんなご飯を食べていたのか、
どんな仕事があったのかなど生活状況を知りたいのです。
もし誰かご存知でしたら教えてください。
(本でなくてもいいです。)
545世界@名無史さん:01/11/24 12:24
ご存知の方がいらしたらお願いいたします。
切手関係の書籍(立ち読みなのでソース不詳)で見かけた話
ですが、WWII直前のチェコスロヴァキア共和国分割時に
(ボヘミア&モラヴィア→第三帝国、スロバキア→一応独立)
カルパート・ウクライナが一瞬独立国になったような記述を
見た事があります。ほんの数日間かもしれませんが、切手を
発行していたらしいんですが・・・。
なんと言う名前の国家だったのでしょうか?
「ルテニア共和国?」でしょうか?
一体どのような政体でどのような経緯で独立?したのでしょうか?
その後はどうなったのでしょうか?
一瞬だけ成立した国家・政権等に興味があるのですが、この「国」
に関してかかれた文章を見た事がありません(不勉強です)
よろしくお願いいたします。
546唯一神:01/11/24 13:17
なぜグプタ朝はマウリヤ朝を復興させようとしたのですか?教えてください お願いします
547あやめ:01/11/24 15:27
「清末廣東売春事情」2
陳塘は光緒年間から盛んになってきた地帯で、大巷口・新填地・陳塘南・隆吉里に分れて
おり、クリークで仕切られているので妓女は小舟で往来していました。陳塘の遊客は
大体は商人でした。光緒三十一年からは「嶺南第一楼」などの大酒楼が建ちあがり、
それまでこの辺の酒局は花代5銭くらいであったのが1元を加え、従前の穀埠・迎珠
並になりました。前回に書いたように三十四年の大風災で大沙頭の娼妓が悉く陳塘に
移動してきて、人が犇く状態になったのを心配した陳塘の女郎屋の主人(亀公)たちは
大籬(大寨)を建築し、その数は35軒に上り抱える娼妓も凡そ2千余人にもなりまし
た。前回に述べた宣統元年の大火にも辛亥革命の際の東堤の駐兵といった事態にも、
陳塘の全盛は全く影響を受けませんでした。ところが間もなく廣東都督の陳炯明が
禁娼令を出したので、陳塘は荒廃し2年後に龍済光に代って娼妓も古巣に戻りはし
ましたが、もはや過去の繁華を取戻すことはできませんでした。
続きます

地名が現代のどこに相当するのか地図を見ても分らないのが残念、大沙頭だけは現在
も同じなので多分その近辺と対岸一帯じゃないかとは想像するんだけど。
548世界@名無史さん:01/11/24 19:17
>>547
あやめさん、ありがとうございます。
勉強になります。
続きも期待してます。
549世界@名無史さん:01/11/24 21:47
スペイン人・ポルトガル人の成立について詳しく教えて下さい。
550世界@名無史さん:01/11/24 23:47
アジアでは支配する民族が頻繁に入れ替わるのに、何故西洋ではそれが起こらないんですか?
西洋は人種が入り混じってないからでしょうか。だとしたらそれは何故ですか?
新スレ立てようかと思いましたが、いかんせん高校理系の世界史選択(センターのみ)で
知識に乏しいので。世界史は面白いからやってるだけです。
551世界@名無史さん:01/11/25 00:42
>>550
質問がちょっとわかりにくい。

中国だと頻繁に征服王朝ができるのに
西洋では何故それがないか?ということ?
552世界@名無史さん:01/11/25 00:50
まあそうです。あと西アジアとかもです。
なのに西洋ではフランスはずっとフランス人、とか。
まあ少なくとも近代では。
553名無し:01/11/25 00:51
中国の王朝名ってどうやって決まるんですか?
漢や魏や唐は、建国者の封号(地名)からですよね?
宋・明・清はどうなんでしょう…?
554551:01/11/25 01:11
>>552
単一民族国家の代表のようなフランスでも、
革命以前は地方による方言差が別言語と言っても良いほどだったし、
ブルトン語・バスク語のようにフランス語とは別系統の地方語すらあります。
それらを全部単一民族「フランス人」としてまとめようとしたのは、
近代国家の作為であるとする説が最近では支持されています。
やや本題とずれましたが、それを踏まえて。

中国における征服王朝は、見方を変えれば
モンゴル人や女真人が貧しい北から豊かな南に
民族移動を起こしたと言うことです。
西欧のダイナミックな民族移動は
ゲルマン人の移動とノルマン人の南下以来
出ていく一方(十字軍や海外植民)だから、
外来民族に支配されるということは起こりえません。
民族移動が起こりにくいのは、
西欧は民族を吐き出す内陸ユーラシアの草原世界から
隔てられているためだと考えられます。
ロシア、東欧、イラン、インドなどには
中国と同じく、近年まで外来系民族の政権があるでしょう?

西アジアは民族の混住が常識なので、もっと複雑。
アナトリアは住民そのもののトルコ化が進みました。
イランでは都市・農村はペルシア人、
草原・砂漠はトルコ人という住み分けが起き、
その中からトルコ系の支配者が立ちました(カージャール朝はトルコ系)。
アラブ地域は近世以降オスマン朝領。
オスマン朝の支配者たちは必ずしも「トルコ人」とは言えない、
ということがオスマン史研究者によって指摘されていますが、
だからといってアラブ人というわけでもなし。
555世界@名無史さん:01/11/25 01:23
>>553
大元・大明・大清は地名からではなく抽象名詞からの王朝名です。
大元なら「おおいなる根元」という意味で古典から取って付けたらしい。
金はたしか完頭氏の出身地が砂金の採れる川だったことからだから、
元から王朝の命名法が変化したということになりますね。
李自成が一時的に国を建てたときの「大順」も地名じゃないっぽいな。

宋は趙氏の出身地の地名だったかな?
556世界@名無史さん:01/11/25 01:27
質問です。

ダヴィッドの絵とか見ると
(『サビニの女たち』とか)古代ギリシアの男子は
陰部剥き出しの裸でマントだけ付けたりしてますが
ほんとにあんな格好で戦場に出たり白昼往来したりしていたんですか?
557名無し:01/11/25 01:31
553>>555
ありがとうございます。
明も清も、字面は良いですね。
宋は……やっぱり古の宋という地名」しょうか。
558 :01/11/25 03:29
WW1はなんで始まってなんでおわったの?
559世界@名無史さん:01/11/25 03:41
558の質問、オーストリアを軸にどなたか解説お願いします。
かの国は帝国崩壊を予想できなかったのでしょうか?
560世界@名無史さん:01/11/25 07:54
WW1が何で始まったか、と言う問いかけはよく見るが、
なんで終わったか、と言う問いかけは初めてだな。
561世界@名無史さん:01/11/25 14:55
>>556
アブナイ質問をする人ですね、君も。
まず一つは、芸術というのは人間の体に美を見いだし、それを長くとどめようとする
ため、という目的(?)があります。であるから、ハダカを描くことが絵画の基本の
一つな訳。エロのためではない。ただし、一歩間違えばアブナイことになるが。
特に、ギリシャ、ローマでは、競技会ではそのたくましい筋肉を聴衆に見せるため、
裸体で行ったと記述にある。個人的には、下帯の一本もつけないで競技したとは思え
ないんだけどね。

なぜかって? >>556氏が男だったが考えてもみろ。あんなもんぶら下げた状態で100m
の全力疾走が出来るか? 華麗な回し蹴りが出来るか? (藁

てな訳で、あれは芸術的誇張であると思っている。まして、ローマにはかの有名な「トーガ」
があり、成人男性たるものこれを着こなせなければ一人前ではない、と言われたとか。
ギリシャにだって同じような衣装がちゃんとあったはず。

彫刻とか絵画だけの世界の誇張、でいいんじゃないか? ましてダヴィッドの時代なら、
教会とか道徳にやかましい連中に睨まれないように
「これは、エート、ギリシャの昔の絵ですんでハダカでもいいんじゃないかと思うんですが」
とか口実をつけたんじゃないの?
562あやめ:01/11/25 15:12
>>553
こういうのが目に付くと黙ってらんなくなっちゃうのが、因果なあやめの
悪い癖
以前に「世界史なんでも質問コーナー」というスレに書いたのをコピペし
ときます
563あやめ:01/11/25 15:13
548 名前:あやめ投稿日:2001/01/25(木) 20:13
支那歴代の国号の称え方について書きます。
古代の唐虞から近代の明清に至るまで概ね固有名詞的な1字を用いるのが基本になっ
ていますが、上に冠する字と下に履く字がありますので併せて説くことにします。
本体部分の文字はその国の発生の基礎となった地名によって名称が定まるのが普通で
す。観念を国号に用いるようになったのは元朝からと言われていますが後に言及しま
す。経書の注釈などに堯の「唐」は広大平易の意味の「蕩」から来たものだとか、舜
の「虞」は安楽の義に原づくものだとか見えていますが根拠のないこじつけです。
劉淵が「漢」李存勗が「唐」を郭威が「周」を国号としたように家系の源流に命名の
由来を求めた例もありますが、劉裕も趙匡胤も「宋」を国号としたのは受禅当時の封
國または領鎮に因んだものです。
清の趙翼は「廿二史剳記」の「元は國號を建て始めて文義を用ちゆ」の項に「『新』
や『成』などの字を用いた王莽や公孫述も、根拠地に因んだもので文字自体の意味を
採用したわけではない、『金』の場合は金が変質しないところから命名したそうだが、
物質の名称であってまだ抽象的な意味から取ったものではなかった、金末に蒲鮮萬奴
が遼東に拠って『大眞』と号したのが抽象観念を用いた最初の例だ、元の太祖のころ
は単に『蒙古』と称していたが世祖の至元八年に『大なる哉、乾元』の句から取って
『大元』とした」という趣旨の記述があります。金については前代の「遼」が銀と同
義の「鐐」と同音なのでランクアップしたものだという説がありますが、「金史」の
「地理志」には根拠地にある川の名で女真語の金という意味ののアルチュカ(金源水)
に因るものであるとあり、また蒲鮮萬奴の「大眞」については岩井大慧さんはやはり
金という意味であると解釈しています。あやめは萬奴が所属民族の女真を意識して命
名したものではないかと考えています。
元が「周易」の「乾」の卦の「彖傳」に「大なるかな乾元、萬物資りて始まる」の句
から2字を取って国号としたのは、元号の選び方に倣ったもので紛れもなく文義から
取ったものと言えます。ただ趙氏が唐末に南詔王の世隆が帝を称して国号を「大禮」
としたこと、以後も雲南の国家は「大封民」「大長和」「大天興」「大義寧」「大
理」などと称していて、これらはいずれも文義に因んだ国号といえるものなのに言
及していないのは物足りないものがあります。
564あやめ:01/11/25 15:15
549 名前:あやめ投稿日:2001/01/25(木) 20:16
それはともかく元が文義によって国号を定める例を開いてから以後の各朝もこれに倣
うこととなりました。「大明」は「禮記」の「禮器」に「大明は東に生じ、月は西に
生ず」や「詩経」の「大雅」の「大明、文王に明徳あり、故に天は命を武王に復す」
などに因ったものでしょう。ただし一説によると朱元璋が最初に所属していた紅巾軍
では白蓮教の一派でマニ教も混えた明教を奉じていましたが、弥勒の下生と明王の出
世による世直しを信じて反乱を起こしたもので、その二代目の教主の韓林児は「小明
王」と号しており元璋も彼から呉王に封じられていたところ、元璋が天下を得た時点
で「小明」ではなく「大明」と号したものだというのです。説の当否はともかく中華
の朝号がゾロアスター思想に由来するというトピックは面白いと思います。また朱元
璋は当初は「大中」という国号にしたかったのだということが、清の王士モフ「池北
偶談」に出ていますが実現したら「大中國」となるわけです。なお元末の群雄が建て
た国号は「大金」「大宋」「大漢」「大夏」などと地名由来型に復帰してしまってい
ますが、振るっているのは徐壽輝の「天完」で「大元」の上に画を加えて押さえつけ
たつもりにしているのです。
ヌルハチは「大金」と号していましたがホンタイジに至って「大清」と改めたのは天
下の混一を志向したものでしょうか。その典拠は恐らく「管子」の「内業」の「大清
に鑑がみ、大明に視る」だろうと考えます。李自成の「大順」については彼の部下に
は碌な読書人がおらず古典から引用できなくて、博打の用語にある「大順」という手
の名が景気がいいからと採用したのだそうです。眉唾な話ですが清代の随筆に出てい
ました(書名失念)。張献忠の「大西」も智慧のないネーミングですが「大西洋」とい
う単語が意識にあったかどうか。
565あやめ:01/11/25 15:18
551 名前:あやめ投稿日:2001/01/26(金) 19:26
清末の金石学者として知られている葉昌熾の「語石」に「王昶の『金石
萃編』に『保寧寺鐘款』を挙げているが冒頭に『大宋國』と題しており、
後世の『大元國』『大明國』もここから始まったと思われる、私が見た
ものでは『蒋舒行修六和塔記』にも冒頭に『大宋國』と題しており、私
の出身地の江蘇の『郭市橋北井欄』の文中にも『大宋國兩節浙路平江府』
などと書かれており、同様の事例はこの二石に止まらない」という趣旨の
記述があります。国号の本体部分に対してこの「大」の字のように上に付
く字と「國」のように下につく字があります。
上に冠せられる字として「語石」には上文に続けて「『有』『維』『皇』
『聖』などの字があるが、『大』の字が通用されており変じて『巨』や
『鉅』の字が用いられている、宋碑に『炎宋』とあるのは火徳であったか
らで劉氏の『炎漢』と称しているようなものだ、また『神宋』としたもの
もあるが漢の『周憬碑額』は『神漢桂陽太守』と題しており、これもやは
り漢碑の例を用いたものである」と述べています。
「有」字は「有窮」「有扈」「有虞」など古代の国家の名に多く付けられ
ていますが、いずれも一字の国名の語呂を安定させるために用いられたよ
うです。しかし後世でも「有明一代の文章」とか「有清創業の基」とかい
うように屡しば使用されています。「維」字も古代から発語の辞として甲
骨文などにも頻見しており、ことに「維十祀」のように年月表記などには
用いられることが多く、当初は「維れ王の廿又三年九月、王は宗周に在り」
(周の「克鼎」)のように王の名すらも記載されていなかったのに、後世で
は「維唐貞元元年仲冬十一月十有七日」(唐の「聞喜令楊夫人裴氏墓誌」)
のように朝代を明記するのが普通になりました。但し「維唐」の句は「維
れ唐の」のように読むべきもので「維」は以下の年月表記全体に係り、葉
氏の理解のように国号表記の一部になっているわけではありません。
その他の文字は国号の美称として添えられたものとして常用されています
が、システマティックな意味を持つのは「大」字だけです。
566あやめ:01/11/25 15:26
このあと国号の下に付く字−「國」や「家」「氏」などについて書く
予定にしていたのですが、スレが無くなっちゃったり多忙になったり
結局はシリキレとんぼで終ってしまいました。いずれヒマと御要望が
あったら書き継ぎたいと思っています。
567Krt:01/11/25 18:16
>>556
基本的には561氏の言うとおりだと思うのだが、面白い質問なので少し書き加えてみる。
まず、古代ギリシャ人の運動競技時などにおける裸体愛好の習慣についてなのだが、
これは正確にいうと元々スパルタのようなドーリス系ギリシャ人だけの習慣だったのが
ギリシャ人一般へと広がっていったものと見なされている。ドーリス人以外のギリシャ人
にとっては運動競技時においてすら裸になることはかなり心理的抵抗があることであって、
古来「ドーリス人のごとく振る舞う」という表現が「裸になる」ことを意味する程だった。
その証拠には、紀元前7世紀頃までの壺絵を見ると運動競技者ですらまだ服を着ており、
アカイアの戦士達も腰巻きのようなものを纏っていたことが観察されるのである。

ところが紀元前5世紀頃(正確には六世紀末頃からか?)になると、競技者や戦士を裸で
画いた壺絵が見られるようになる。もちろん重装歩兵戦術が一般化したこの時代における
「戦士の裸」については、同時代の現実そのものというよりは神話伝説時代を題材とした
芸術的な表現として理解する方が妥当だとも思われるが、ことドーリア系の戦士の場合は、
かなり後まで(一説ではアレキサンダーの時代まで)上半身には鎖帷子を付け武装しても
下半身はむき出しだったのではないか、という説も有力である(ペニスによる威嚇?)。

この時代、運動競技時に関してはアテナイにおいてすら(運動場において)裸になるのが
一般的になったことが文献的にも確かめられるようになる。とはいえ彼らにとっても運動時に
おける裸体、というのはあくまで例外的な身体状態であり、別に町中で裸だったわけではない。
さらに言うと、スパルタでは女子も裸になって運動競技をしていた、と言われることがあるが、
実際には彼女たちが肌着(キトン)を付けていたことは文献や彫像によって確かめられている。

最後に、競技時の男性器のやり場に関する微妙な問題(笑)についての561氏の憂慮について
答えておくと、紀元前510年頃と推測される壺絵において、競技者が自分の性器をひもで固定
している場面が画かれている。これはギリシャ人が包皮がめくれ亀頭が剥き出しになることを
非常な恥と見なしたため、そうならないように配慮している場面なのだが、このひもは最低限の
衣服という面と同時にサポーターとしての役割を担っていたのではないだろうか? 後には
素裸で画かれる競技者も実際にはこの程度の身体的配慮をしていた可能性は大きいと思う。
(あ、だからついでに言うと、ギリシャ人には包茎こそが文明人のあるべき姿だったんです)
568世界@名無史さん:01/11/25 18:56
ナチスドイツ第三帝国の「帝」って誰のことなのでしょうか?
それと、第三の云々というのは正式な国名なのでしょうか?
569世界@名無史さん:01/11/25 19:47
>568
第三帝国はドイツ語でDas dritte Reich ですが、
帝国と訳されてる Reichは英語のEmpireのような、
皇帝の国土の意味ではなく、ある特定の領域、支配圏を
さしています。(Königsreich、王国と言う単語もあります。)

だから、ヒトラーが皇帝を自称しているわけではありませんが、
もともと、第三帝国は1920代にある哲学者が、「いまこそ、敗戦から
立ち直り、神聖ローマ帝国、プロイセンによるドイツ帝国に続く
第三のドイツ民族の理想国が必要だ。」との論文がナチスに
政治的に利用されたわけです。(千年帝国も同様な標語。)

なお、ナチス政権も正式名称はドイツ帝国(Das Deutsche Reich)です。
57072:01/11/25 20:03
まーた。ヲタク、すなおにメラーファンデルブルックの名前出せばいいのに。
脳内の神学論争が目に見えるようだよ
571名無し:01/11/26 06:22
553>>あやめさん
お忙しい中、ありがとうございます。
明の国号の由来はおもしろそうですね。
ただ、こちらもあれから概説書とかで調べたのですが、
ヌルハチは「大金国」ではなく「後金国」を自称したのでは?
うっかりミスだと思いますが。
572世界@名無史さん:01/11/26 07:50
>>571
ヌルハチの建てた国名は満州語でアイシン・グルン(金国)、
漢字で「大金国」だよ。
「後金」はあくまで区別のための歴史用語。
573あやめ:01/11/26 17:46
>>564
李自成の「大順」という国号が博打の手の名に由来するという話の出所が、分らなく
なってしまったと書きましたが、その後に見つかりましたので紹介します。
清初の呉偉業の「綏寇紀略」の「言妖」に「萬暦年間に民間は葉子戯を好み、趙宋時の
山東の群盗の姓名を牌に圖して之を鬪かはす、崇禎時に至って大いに盛んなり、其の法
は百貫の滅活を以て勝負と爲す、闖と曰ふ有り、獻と曰ひ大順と曰ふ有り、初め自りて
起こる所を知らず、後に皆な驗す」とあります。「葉子戯」というのは麻雀の源流とさ
れている紙牌の遊びです。そこに「水滸傳」の好漢の絵が画かれていて、また何貫という
銅銭の額も表示されていました。
清初の陳瑚の編になる「頑潭詩話」に収められている王育の「戳讖謡序」には葉子戯の
手役を解説しています。「千生は闖を用ゆ、鬪の險也」と「百老は獻を用ゆ、戰の捷也」
そして「百千萬馬皆な到る、則はち順風旗にして勝の烈也」という3種です。
明末の諸賊(起義農民と呼んでる人もいる)もこの博打にはまってて、彼らの名号にこれ
らの文字が出てくるのは偶合ではなく、意識して使っていたのだというのが清初の人の
認識のようです。
ことに「順」という字は好まれたようで李自成は崇禎十六年には「新順王」と自称し、
翌年には西安で「大順」の国号を定めており、また張獻忠も成都で「大西國」を建てた
際に元号を「大順」としています。
ということで李自成の国号が賭け麻雀から取ったというのも満更のヨタ話じゃないみた
いです。
574世界@名無史さん:01/11/26 18:48
大元はモンゴル語のダヤンに当て字しただけときいたが?
別の説ではダヤンの語源が大元といってる奴もいた。よくわからん
575世界@名無史さん:01/11/26 19:54
「ダヤンの語源が大元」が正しいのでは?
ダヤンって人名でしょ。
576名無し:01/11/27 03:58
>>575
571じゃないけれど。
「後魏」「後周」「後漢」などは確かに
区別のための後世の呼び方だが、
「後金」は確かに自称(金の後裔の意味)。
満洲語でアイシン・グルン。
漢語で後金国。
577みか:01/11/27 05:15
ムガル帝国のアクバルの時にでてくる『ディーネ・イラーヒー』ってなんですか??
ノートに書いてあるけど意味がわかんないので誰か教えてくださいm(__)m
578世界@名無史さん:01/11/27 06:22
>>577
『ディーネ・イラーヒー』(神の宗教・神聖宗教)
ムガル帝国の皇帝アクバルが宮廷の宗教家たちが政治介入するのを嫌い、
イスラム各派をはじめ他の世界の諸宗教ヒンドゥー教、ジャイナ教、
ゾロアスター教、キリスト教などの
折衷・融合をめざして1582年に創始した皇帝を首長とする新宗教。
しかし、新宗教の信者はごく少数の廷臣のみで、普及はしなかった。
579世界@名無史さん:01/11/27 06:41
「ダヤン・ハーン」は称号で「大元汗」の謂。
十六世紀にモンゴルを再統一した「ダヤン・ハーン」の諱は場とモンケ。
580みか:01/11/27 08:00
578さん、ありがとうございました!世界史やってたら朝になっちゃいました。でもまだまだおわらないー(T_T)…がんばります。
581ボルガ:01/11/27 12:43
どうも、理系で科学史大好き人間です。ロシアの科学史なんていいですよね。ビレンキンとか
興味深いですね。
582世界@名無史さん:01/11/27 19:55
メンデーレフ。メンデル。ツィオルコフスキー。
583世界@名無史さん:01/11/28 12:18
古代にフェニキア人がすでにアフリカ一周していたらしいが。アメリカまでいったと言う話も・・
584世界@名無史さん:01/11/28 17:42
ロシアのほかに皇帝や国王なんかの
偽者が出た国と人物を教えてください。
585あやめ:01/11/28 18:02
>>571,576
「後金」の国号が確認されるのは「李朝實録」(最近では「朝鮮王朝実録」と言わないと
叱られるらしいです)にヌルハチが朝鮮國王に寄越した国書には年号を「天命二年」とし、
「後金國汗」が朝鮮國王に諭すとして「七宗悩恨」(いわゆる七大恨)が書かれていまして、
そこに押捺されていた篆印を解読すると満文で「後金天命皇帝」と顕出されたとの記述が
あります。なおこの「胡書」が朝鮮に致送されたのは天命四年のことなので、清朝文献が
伝える天命建元の年次は後年になって遡らせたものと疑われることになりました。
この後も後金國汗の称号で文書を発出していたことは翌年六月の「神宗實録」に熊廷弼の
奏文を引いた中にも見え、その他「三朝遼事實録」「東夷考略」「建州私志」「皇朝從信
録」など多くの書籍に見えています。
その後に天命六年の寧遠の攻囲戦ころから改めて「金國汗」と称するようになったようで、
天聰年間の朝鮮や毛文龍との文書の往来には全て「金國汗」が用いられています。
そういうことで少なくとも公式に「大金」の国号が用いられたことはなさそうで、御指摘
のようにうっかりミスでした(A^^;;
ただヌルハチの領域内では一般に「大金」が用いられていたような証跡は残ってはいて、
「燃藜室記述」に引かれた「朝野鮮聞」に朝鮮と金國の誓文を載せた中に「朝鮮國王と大
金國王子と誓を立て」云々とあり、また遼陽城の南門外から発見された「喇嘛法師寶塔」
には「大金天聰四年歳次庚午孟夏吉旦」とあるそうです。
586世界@名無史さん:01/11/28 20:45
>>583
フェニキア人が船でアフリカ大陸を一周したときの様子は
古代ギリシアのヘロドトスが書いた『歴史』にのっていた。
587世界@名無史さん:01/11/28 20:47
アラブの遊牧民のことを騎馬民族といわないのはなぜですか。
588世界@名無史さん:01/11/28 20:52
>>587
アラブの遊牧民は「馬」より「ラクダ」を重用したからでは?
589世界@名無史さん:01/11/28 21:00
>588
馬よりラクダを重用したという事実はどの文献に見られますか?
ベドウィンはアラブ馬の繁殖に熱心だったと聞きます。

http://home.interlink.or.jp/~odagi/white_sarabu.htm
590世界@名無史さん:01/11/28 21:48
騎馬民族とは、騎馬で戦う民族のことでしょうか?
それとも、馬上で生活している民族ということでしょうか?
591世界@名無史さん :01/11/28 21:50
>それとも、馬上で生活している民族ということでしょうか?

んなもんいねーべよ(藁
592世界@名無史さん:01/11/28 22:51
549です、どなたか教えて下さい。
593世界@名無史さん:01/11/28 23:29
詳しいわけではないが、確か、スペイン人はローマ人やらゲルマン人やらの混血で、ポルトガル人はローマ人やらベルベル人やらの混血、とにかく色々混ざってるのは確か。
594世界@名無史さん:01/11/28 23:54
スペインはバスク人、カタルーニャ人、カスティージャ人、ガリシア人
ジプシー、ベルベル人等による多民族国家です。

スペイン人という概念はフランコ政権によって確立されたものと言えるんじゃないかな。

少なくとも生物学的には論ずる事は難しいと思う。
595549:01/11/29 01:26
>>593,>>594
ありがとうございます。
596世界@名無史さん:01/11/29 02:10
>>587
ふつう騎馬民族って言ったらスキタイの類の、
黄金文化を持った中央アジア遊牧民を指すからではない?
597587:01/11/29 02:16
>>596
ああ、それは僕も思うんですけどもっと具体的な理由があったら知りたかった
のです。
598名無し:01/11/29 08:26
騎馬=草原のイメージがあるなあ。
599世界@名無史さん:01/11/29 10:57
>>598
あ、私もそんな気はするんですよね。
>>587
>アラブの遊牧民のことを騎馬民族といわないのはなぜですか。

ちょっと自信ないとこもあるんですけど。
遊牧生活には、別に遊牧騎馬生活だけでなくって、古代シリアなんかでは
羊の遊牧もあったわけですよね。

で、内陸アジアの遊牧民は騎馬技術を使って移動するときはすごく広範に移動
する。
アラビア半島の遊牧民というとベドゥインなわけですけど、彼らはイスラムの
大拡大までは、アラビア半島のオアシスの間で、定常的な遊牧ルートを巡回
するか、部族間で争いあってるか、さもなければ交易民として隊商を組んでる
かだったわけで。

内陸アジアの遊牧騎馬民みたいに群団をくんで怒涛のように押し寄せるって
ことは(イスラムの大拡大以前は)あまり知られてない。
(古代メソポタミアの国家とやりあったことはあるらしいですけど、だいたいは
半島に侵入されてたんだと思いました)

だから「アラブの遊牧民のことを騎馬民族」とは呼ばない、って歴史イメージ上
のもんだいではないでしょうかねぇ(?)。
600世界@名無史さん:01/11/29 15:01
騎馬民族って学術的タームというより観念的なものなのかな?
「騎馬民族征服説」とか「征服王朝」とかいうときは
ツングースの半定住民・狩猟民まで騎馬民族って呼ぶよね。