くだらねぇ質問はここに書き込め!@世界史板

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601東北人
>>598
現在の国民国家的発想で歴史の領土関係を考えるのは無意味。

>>599
別に東京なんか逝きたくないよ。
ゴキブリとドブネズミが多いしな(ワラ
昔と比べると東京の魅力は薄れてるよ。
地方でもある程度の都市に住んでれば不自由は感じないしね。
602558:2001/07/21(土) 10:17
質問がアイマイですいませんでした。
北イタリアというのは、
日本人が考えるよりも、
ドイツ、オーストリアと関係が深いのでは?
という点を知りたかったので。
603アマノウヅメ:2001/07/21(土) 11:11
北イタリアはむしろフランスと関係が深いはずです。
フェラーラ公やマントヴァ侯は16世紀になるとフランスの宮廷に出入りしてますね。
南のナポリならアラゴン家だからハプスブルク家と親戚ですが。
604世界@名無史さん:2001/07/21(土) 11:39
599のポイントはゲーテの時代のドイツは自分たちを
文化的後進地帯の人間だと理解していたと言う事で
すか。

それだと東北人に失礼です。

ただ、ドイツが後進地帯であったと言う事には賛成。
605世界@名無史さん:2001/07/21(土) 12:08
いまでも夏のヴァカンスシーズンになるとドイツ人たちがイタリアへ基地外のように押し寄せてきます。
文化的なあこがれはもちろん、ドイツでは得られない、さんさんと降り注ぐ明るい陽光を求めているのです。
二千年前の昔から、ドイツ人にとってアルプスの向こうは「明るく暖かい楽園」だったのでしょうね
606558:2001/07/21(土) 12:38
北イタリアだけイタリアから
分離独立の動きがありますね。
607:2001/07/21(土) 12:56
ピエモンテ地方ってよく出てくるような気がするけど
歴史上重要な係争地だったりするんですか?
608看板職人:2001/07/21(土) 22:21
旧ソ連の国歌はなかなかメロディアスでいい曲でしたが、
あれは例のスターリン批判後、歌詞が無しになってた曲
と同じ曲ですか?又、今のロシアの国歌はどうなってますか?
609世界@名無史さん:2001/07/22(日) 01:26
>>607
ピエモンテ州―――もとのサヴォイア公国→サルディーニァ王国
1861年イタリアを統一
610世界@名無史さん:2001/07/22(日) 07:53
ブロンビエールの密約でサルディニアがナポレオンに割譲したサヴォイア、ニースですけど、
フランスにとってその地はどのような戦略的意味があったのでしょうか?
またイタリア国内でも「未回収のイタリア」のように問題にはならなかったのでしょうか?
611世界@名無史さん:2001/07/22(日) 10:32
イギリスとそれ以外の国(ヨーロッパ諸国)との産業革命の違いを述べて下さい。
612世界@名無史さん:2001/07/22(日) 15:28
>>608
今のロシア国家は旧ソ連と同じだよん♪
ぷーちんが変えたね。
613世界@名無史さん:2001/07/22(日) 16:34
>>611

もし、宿題ならそれでかまわないけど、先生の傾向とか
授業のレベルと傾向を書いてください。

宿題なら単位の取れる、先生が喜ぶ答案がいいわけで
すから。

宿題ではないのなら、また別の回答があるけど。
614世界@名無史さん:2001/07/22(日) 18:37
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=995475623

軍事板で中世戦術論が熱く語られてます、参加のほどを
615看板職人:2001/07/22(日) 18:44
>>612
レスありがとうございます。
616なぜ誰もつっこまない:2001/07/22(日) 19:02
>今のロシア国家は旧ソ連と同じだよん♪
>ぷーちんが変えたね。

国家(誤 →国歌(正
直さないでもなんとなく意味が通じてしまいそうなところがすごい。
612さんとぷーちんのコラボレーションネタだな。
617看板職人:2001/07/22(日) 23:41
>>616
いや、俺も608の書き込みしたとき同じ誤変換
やりそうになったのですぐに察しがつきました。
618ななし:2001/07/23(月) 00:07
しつこい北イタリア。
私はイタリアもドイツも行ったことが
ないんですが、イタリアと他の国の
道は難路なのでしょうか?
私のしっているのは、
ハンニバルのアルプス越え。
ジャッカルの日という映画でドゴールを
狙う殺し屋がイタリアからフランスの国境を越えるシーン。
WW2でシシリーに上陸したアメリカ軍はその後ドイツに
うまくはいれたのだろうか?
619アマノウヅメ:2001/07/23(月) 01:05
>>618
鉄道通っているし難所ばかりではないでしょう。

昔モン・ブランに昇ったとき(ケーブルカーで)ここから、スキーで
イタリアに亡命できますと説明がありました。

そりゃ下では大勢スキーしてましたけどね。
みんな上級者ばかりでしょうが。
まあ、日本とは基準が違うんだろうとは思いますが。
620611:2001/07/23(月) 10:05
>>613
レスありがとうございます。

経済史の期末テストで、出る可能性のある、大きな問題の一つです。
授業のレベル・・・50(平均)ぐらいだと思います。
傾向・・・良くわかりません。
621ななし:2001/07/23(月) 23:11
北イタリアのレスいろいろ
ありがとうございました。
ミラノ公国の領主の名がヴィスコンティーと
知り驚きました。ルートヴィヒ2世の映画の
監督の名前ですね。
622世界@名無史さん:2001/07/23(月) 23:25
>>621
映画監督のルキノ・ヴィスコンティは、
ミラノ公国のヴィスコンティ家の末裔です。
623看板職人:2001/07/24(火) 00:47
またまた質問で失礼します。
ロンドン塔の衛兵はなんで「牛喰い」ですか?
624ナポレオン:2001/07/24(火) 01:07
>>623 看板職人様
でっかい肉切り包丁みたいな長槍をもってるから、
じゃなかったかと思いますが。うろ覚えです
625看板職人:2001/07/24(火) 01:09
>>624 ナポレオン様
即レス感謝いたします。
626セポイの反乱:2001/07/24(火) 03:45
どうして「新アッシリア帝国」は無いの?
「バビロニア」「新バビロニア」「アッシリア」はアルのに・・・(プンプン)
627アマノウヅメ:2001/07/24(火) 12:23
>>623
給料以外に牛肉の現物支給があったと何かで読みましたが。
628ひ‎ろゆき@管‎直人:2001/07/24(火) 12:35
日本は 謝罪と補償 でしか変われない 民主党です( ̄ー ̄)ニヤリッ
629看板職人:2001/07/24(火) 12:39
>>627 アマノウズメ様
へえ、じゃ文字通り「牛喰らう者」だったんですね。
しかし昨夜から喰うことばっかりだな俺。
630看板職人:2001/07/24(火) 17:23
またまた食い物関係でホント恐縮です。
蕎麦のことをフランス語でsarrasin(サラザン)と言いますが。
サラセン帝国と当然何か関係はあるんですよね?
さらに蕎麦屋の屋号によく使われる「更科」と音が良く似てますが
これは単なる偶然ですか?
631世界@名無史さん:2001/07/24(火) 17:32
三国時代の正閏論について教えてください
632世界@名無史さん:2001/07/24(火) 20:08
この板の博識な方々に質問。ローマ崩壊後のヨーロッパは諸国色々
ありましたが、今の仏蘭西と独逸のあたりは確かフランク王国でし
たよね?その後分裂したのは知ってるのですが、どのように東フラ
ンクが神聖ローマに繋がりプロイセンそして独逸へと繋がったのか
よくわかりません。神聖ローマが形骸化していたのと色々な諸侯分裂
だったのはわかるのですが。長くて済みません。
633世界@名無史さん:2001/07/25(水) 00:27
>>630
あれ?と思って"sarrisin"をフランス語の辞書で引いてみました。
「サラセンの」っていう意味の形容詞が原義みたいですよ。
だから「更科」と綴りが似てるのは偶然でしょう。
たしか、長野のほうの地名では?
ちなみに「サラセン」の語源はよくわからないようです。
634世界@名無史さん:2001/07/25(水) 00:33
>>632
高校世界史レベルの理解ですが、まとめてみましょう。

10世紀の初めにカロリング家の東フランク王家が絶えて
ザクセン朝が継承しました。
以降は東フランク王と呼ばずドイツ王と言うようです。
オットー1世がローマ皇帝に戴冠して以降
ドイツ王が皇帝になるようになったので、
以後この国を神聖ローマ帝国と呼ぶようになります。

この国はだんだん皇帝の力が諸侯に及ばなくなって
諸侯の領邦の集まりになりました。
皇帝もオーストリア公のハプスブルク家が世襲するようになります。
そのうち、北部のブランデンブルク候が
現ポーランド北部のプロイセン公を兼任するようになって、
さらにいろいろあって「プロイセン王」を名乗るようになりました。
プロイセンは次第に勢力を伸ばして、
神聖ローマ皇帝のハプスブルク家と肩を並べるくらいになります。

19世紀に入ると神聖ローマ帝国はナポレオンの進攻によって
完全に解体されてたくさんの独立領邦に分けられました。
分裂状況からドイツ統一、国民国家形成の運動が起こって、
統一の主導権をオーストリアとプロイセンが争った結果プロイセンが勝ち、
プロイセン中心・オーストリア抜きによる
ドイツ帝国ができました。
635看板職人:2001/07/25(水) 00:35
>>633
そうですよね。やっぱり単なる偶然ですよね。
それにしても綴りが似てますよね?
636633:2001/07/25(水) 00:42
>>635
漏れがトンデモさんだったら
「サラセンと更科は同一語源だ!」って断言するところですけど(w

まあ、偶然でしょう。
「サラセンの」は英語では"Saracen"、ドイツ語では"Sarazene"ですし。
637632(太郎):2001/07/25(水) 01:39
>>634
大変親切なレスどうもありがとうございました。大体理解する事が出来たの
ですが、一つ宜しいでしょうか?ナポレオンによる侵攻の結果神聖ローマは
倒れて、その後に国民国家形成のためのプロイセンとオーストリアのイニシ
アティブ争いが生じますよね。この場合のオーストリアとは神聖ローマを世襲
していたオーストリア公ハプスブルグが、帝国の滅亡の後に自身の所領に戻り
それがオーストリア・ハンガリーアウグストライヒでよろしいのでしょうか?
そして体制は変わっても独逸とオーストリアは分断状態なのでしょうか。まぁ
EUの時代だからもうあまり意味は無くなってきているとは、思うのですが。
またわからない事がありましたらご教授お願いします。それにしてもこの板の
レベル高いですよね。皆さんは歴史が趣味のアマチュアなのでしょうか。少し
は専門家も混ざっているような気が。
638世界@名無史さん:2001/07/25(水) 01:55
>>631
http://www.daito.ac.jp/kouhou/shinbun/200101/200101-4c.html

↑でも足りなければ、「三国志」の迷宮(文春新書)あたりを
読んでみたら。
639634:2001/07/25(水) 02:00
>>637
>オーストリアとは神聖ローマを世襲していたオーストリア公ハプスブルグが、
>帝国の滅亡の後に自身の所領に戻り
もともと自身の所領=オーストリアを中心とする地域にいて、
帝国全体への影響力はほとんどなかった…みたいです。

>それがオーストリア・ハンガリーアウグストライヒでよろしいのでしょうか?
18世紀にはハプスブルク家はオーストリア公のほかにハンガリー王・ボヘミア王などを兼ねて
神聖ローマ帝国の版図外にまで及ぶ他民族地域を支配してました。
ハプスブルク家はローマ帝冠を放棄したと同時に
オーストリア皇帝を名乗るようになります。
オーストリア皇帝としてのハプスブルク家は依然として
旧神聖ローマ帝国=ドイツ地域では最強の領邦だったけど、
ドイツ系以外の民族が領内にあまりにも多く居住していたので
ドイツ統一の動きから排除されてしまい、
その結果できあがったのが他民族国家としてのアウグスライヒ体制です。
それが解体した結果、オーストリアは現在の版図になります。

ドイツとオーストリアが合併しない理由は…
すいません、私の理解不足で納得のいく説明はできません。
ドイツに詳しい方、補足願います。
640世界@名無史さん:2001/07/25(水) 02:02
>>637
>少しは専門家も混ざっているような気が。
少しどころか多分にいると思われ。岡田英弘スレとかで
やたら学会の話が盛り上がってるあたりからしてぁゃιぃ。
641かきつばた:2001/07/25(水) 02:09
>>637>>640
少なくとも、史学科の学部生・院生の卒業生や現役は
二けた以上のレベルで参加していると思われ。
642640:2001/07/25(水) 02:10
>>639
ヒトラーがオーストリアを併合して、結果あんなことになっちゃった
ので、戦後戦勝国各国で「ドイツとオーストリアの合邦を永久に禁」
じたからじゃありませんでしたっけ? うろおぼえでスマソ。
643632(太郎):2001/07/25(水) 02:14
>>639
またまたありがとうございます。と、言うことはアントワネットの故国は神聖ローマ
オーストリア公ハプスブルグになりますね。なにか今までごちゃごちゃしててあの
時点でオーストリア帝国だったと思ってたんですよ。(苦笑)素人考えですが独逸と
オーストリアが合併しない理由はやはりナチス時代の併合が尾を引いているような。
戦後の東西冷戦とかの関係でお互いに必要としあわなくなったのでしょうか。それに
現在だと行き来も楽だから国民国家的な考えは少しすたれているのも一因でしょうか。
644学部生:2001/07/25(水) 02:15
>>641
学部生はアマチュアか否か?
...本人の心構えかなあ。
645632(太郎):2001/07/25(水) 02:16
そのような専門家の皆さんのお話を気軽に聞けるのは日本でも
2ちゃんの世界史スレだけ!ですね。
646世界史の名無し:2001/07/25(水) 10:39
神聖ローマ帝国やハプスブルグ家のような
権力がうまれたのは、イスラムとの対抗する
大将として需要があり、イスラムが弱ると
帝国も弱まるという関係はないでしょうか?
647ガージー:2001/07/25(水) 16:52
>>611
イギリスは、自然発生的に、
産業革命が起こったのに対して、他の国はその国の官僚なり国王なりが
主導して起こしたという違いがあります
648611:2001/07/25(水) 23:52
>>647
回答ありがとうございます。
おかげで明日の試験の時、書けそうです。
649さち子:2001/07/26(木) 07:50
日本の昔の人は背が低く
日本史上、もっとも平均身長が低いとされた江戸期においては
男子平均身長で155cmなのですが。

昔の欧米の人の身長はどれくらいだったのでしょうか?
やはり、現代よりも低かったのですか?
650世界@名無史さん:2001/07/26(木) 08:09
>>649
出典忘れましたが、今より随分低かったそうです。
大航海時代の頃のオランダ人は今の日本人の平均より低かったんじゃなかったかな。
651名無しさん:2001/07/26(木) 09:21
王権神授説について
教えてください。
652世界@名無史さん:2001/07/26(木) 09:33
>昔の欧米の人の身長はどれくらいだったのでしょうか?
>やはり、現代よりも低かったのですか?

なんか、遺骨からの推計によると
当時、「雲をつくような大男」とされていたウィリアム征服王は175cmぐらい。
「わりと小柄な女性」だった妃のマティルダは125cmぐらいだったらしい。
653アマノウヅメ:2001/07/26(木) 11:21
>>650
オランダ人の身長が伸びたのは17世紀頃から盛んに乳製品を摂取したからだ
と言う話です。
当時の家具の寸法を計ると現代のオランダ人にはちいさくて使えないそうです。
654看板職人:2001/07/26(木) 14:33
クロマニヨン人はかなり大柄で壮健だったという記事を
呼んだ憶えがあります。身長も180センチクラスが結構いたとか
655アマノウヅメ:2001/07/26(木) 14:54
栄養が大きく影響していることは事実です。
バイキングの生き残り(調査当時は全滅)を調査すると
男140センチ台、女130センチ台にしかならなかったそうです。
草の根かじって生きていたとか・・・
656チビ黄猿:2001/07/26(木) 15:06
じゃあ、俺らだっていつかは・・・
657世界@名無史さん:2001/07/26(木) 17:38
>>638
ありがとうございました!!
658世界@名無史さん:2001/07/26(木) 20:24
>>651
>王権神授説

いわゆる絶対王制のイデオロギーの一つだな。
ジェームズ1世が代表的思想家。
内容としては、
1.王権は直接神に由来する。
2.したがって国王は神に対してのみaccountable である。
(議会などに対しては accountableでない。)
3.したがって臣民には王権への服従が要求される。臣民の抵抗権は認めない。(せいぜい受動的不服従のみ。)

抵抗権の問題・教会統治の問題が、王権神授説成立の直接的背景だったが、
ロックのフィルマー批判によって、国王〜議会の国制問題に文脈が移し替えられた、ということでいいのかな?
659世界@名無史さん:2001/07/26(木) 23:05
>>654
それはありえないでしょう。
原始人の平均寿命なんて十数歳ですし、
原始時代は栄養状態もわるかったですから。
660世界@名無史さん:2001/07/26(木) 23:09
>>659
原始人、原始時代じゃわからん。
具体的に。
661世界@名無史さん:2001/07/26(木) 23:12
クロマニヨン人を辞典で調べると
1.8mって書いてある・・・
662世界@名無史さん:2001/07/26(木) 23:22
板ちがいだけど、現在の定説では
人類の先祖はクロマニヨン人で
中国やジャワやオーストラリアの原人などは
いまの人類とは無関係で途中で滅亡したんですよね?

でも同じクロマニヨン人から進化したのに身長や
人種の差が出たの何故?
昔はパイキンクでも140cmというんだから、
昔は人種間に差がなかったんですか?
でもなら何故クロマニヨン人からそんなに縮んだんですか?
663名無しさん:2001/07/26(木) 23:49
王権神授説レスありがとうございまいた。
カトリックのルイ14世も、同じと考えて
よいでしょうか?つまりもうこのころは、
ローマ法王の実質的管理力はないと?
664世界@名無史さん:2001/07/27(金) 00:34
クロマニヨン人は絶滅して、
アフリカ出の別の新人に取って代られたってのが
定説じゃなかったっけ?
665世界@名無史さん:2001/07/27(金) 00:44
クロマニヨン人と、
クルマのエンジン。
666アホ:2001/07/27(金) 01:36
メディチ家ってどうやって富豪になったの?
667世界@名無史さん:2001/07/27(金) 01:40
>>666
両替商(=銀行業)。
668世界@名無史さん:2001/07/27(金) 02:04
あのー質問が2、3あります。
・ジェノバ共和国はいつから共和国になったのでしょうか。
高校生の参考書、世界史地図、年表しか持ってないのですが、
神聖ローマ帝国内の一都市ジェノバがある頃から「ジェノバ共和国」と
表記されているのでいつからどのようにしてなのか気になりました。
・世界史用語集にベネチア共和国は7世紀末独立とありますが、
これはランゴバルドからの独立でしょうか。それとも東ローマ?
・ランゴバルドがフランクによって滅ぼされたあと教皇領の南に
ベネベント公国というのがありますが、これはランゴバルドの生き残りでしょうか。
年表によるとフランク王国787年にベネベント公国を降す、とありますが、
ノルマン人が来るまでイタリアのここら辺はフランクの領土なのでしょうか。
どなたかよろしくおねがいします。
669サクッと:2001/07/27(金) 02:11
奴隷王朝の名前の由来は何?
奴隷を使ってたから?
それともどこかの奴隷のような存在の王朝だったの?
670世界@名無史さん:2001/07/27(金) 02:18
>>669
王様(スルタン)がイスラムにおける奴隷階級(マムルーク)出身だった
からどぅわ〜〜!!
671世界@名無史さん:2001/07/27(金) 03:01
>>670
正解。
アイバク、イルトゥトゥミシュ、バルバンという
3人のマムルーク(奴隷軍人)出身者が祖の家系が
相次いで王位についたから奴隷王朝といいます。

紛らわしいんでインド・マムルーク朝と呼ぶべきという説もあるみたい。
それもエジプトと紛らわしいけどさ。
672世界@名無史さん:2001/07/27(金) 03:26
イスラム圏の宮廷奴隷の力って凄かったんだよ。
オスマントルコなんか後期は奴隷が皇帝のクビを挿げ替えてたし。
中国の宦官も明の皇帝が「家奴の命を受く」と言ってるくらいで、
宮廷奴隷だよ。
彼らは皇帝の直属の家来なので官僚や貴族より信頼された。
それで奴隷の将軍、奴隷の首相なんてものが出てくる。
そしていつの間にか皇帝その人より権力を持ってしまった。
673671:2001/07/27(金) 03:42
イスラム世界のマムルーク(アラビア語で『所有される者』)は
購入されたときは奴隷ですが、
軍人として実戦に投入されるときは
法的に解放されて元奴隷となります。
だから「奴隷軍人」も正確に言うと「解放奴隷軍人」です。
オスマン帝国のカプ・クル(トルコ語で『御門の奴僕』)に至っては
購入された奴隷ではないし、
しかもムスリム自由人であってもスルタンに隷属する軍人階層に入れば
「カプ・クル」と呼ばれるようになるので、
そもそも法的に奴隷と言えるのか怪しい
(イスラム法ではムスリムは奴隷になれない)。
スルタンを改廃した17世紀以降のイェニチェリに
自由人である退役イェニチェリの子弟や
トルコ人ムスリムが入ってきていたといわれているから、
少なくともそのころには「奴隷」とは言えないのでは。

そういう連中をヨーロッパ的な奴隷の観念で見て比較して
権力の強い弱いを論じるのがそもそも筋違いだと思われ。
674さち子:2001/07/27(金) 07:02
皆さん、昔の欧米人の身長について、
レスありがとうござました。
なるほど、欧米人も昔は背が低めだったのですね。
とはいえ、戦国時代に日本に来た西洋人は
日本人よりは背は高かったのでしょうね。
当時の日本人の平均身長が今より15cmほど低かったのですから、
欧米人もその程度の割合に低かったのかしら?
それでは
675無名武将@お腹せっぷく :2001/07/27(金) 07:38
よく歴史って、こいつがいなくても誰かがやった、と言われるじゃないですか。
それに当てはまらない、こいつじゃなきゃ誰もやらんかった、という行為はありますか?
676世界@名無史さん:2001/07/27(金) 07:58
675さんの書き込みのような
質問は675さんが書き込まなくても
誰かしたでしょうね。
677世界@名無史さん:2001/07/27(金) 09:45
大学受験に役立つ世界史のページでおすすめありませんか?
678世界@名無史さん:2001/07/27(金) 12:23
>>669-673
以前は、こういうスレも在ったんだが、単発質問スレや
糞スレの乱立で倉庫へ押し流されちゃったのよ。
http://mentai.2ch.net/whis/kako/979/979784020.html
679671:2001/07/27(金) 16:40
>>678
懐かしいスレだなー。
数えたらレスの3割弱が漏れの書き込みでした。
680YP:2001/07/27(金) 21:21
>>675
御質問の主旨とちょっと違うと思いますが、シュバァルの“理想宮”なんて、まさに
『こいつじゃなきゃ誰もやらんかった』に当てはまるんじゃないかな?
43才の郵便配達人がつまづいた石に魅了されて、33年の歳月を費やして独学で作り
上げた“理想宮”。 はっきり云って狂ってる。馬鹿万歳。
このクレイジーな建造物を一度観に行きたい。
681658:2001/07/27(金) 23:01
>>663

>カトリックのルイ14世も、同じと考えて
よいでしょうか?

そうですね。
王権神授の説は、
「王権は(神法・自然法などはともかく)、現実の他の政治的諸権力の制約を受けない。」
という王権の行使に関する主張、
(但し、これはあくまで理論上の主張。現実には絶対王制の王権には様々な制約が存在した。)
を弁証するために持ち出された、王権の淵源に関する主張の一つです。

要するに、「王権は神に由来する」という観念は、多かれ少なかれ、当時の常識であったのに対し、
(現代の「民主主義」といっしょ。)
それを国王権力の範囲に関する、ある主張と結びつけ、わざわざ言語化したのがジェームズ1世だった、ということです。

>つまりもうこのころは、ローマ法王の実質的管理力はないと?

これも、そのとうりですね。
実はジェームズ1世は、王権神授説を理論化するにあたって、
フランスのガリカニズムの
「司教の権力は、直接神に由来する。(教皇を経由してではなくて。)」
という主張の(結論ではなくて)型を採用しています。
したがって、大状況としては、対教皇権の問題は解決済みだったのではないでしょうか。
(ジェームズにとってはむしろスコットランドの長老派対策の法が関心事だった。)
682名無しさん:2001/07/28(土) 21:58
王権神授説に関しいろいろ
ありがとうございました。
英国国教、長老派、high church,low church
清教徒と、用語がむずかしいですが、自分で
すこし、勉強してから、また教えていただこうと
思います。
683二日酔い子:2001/07/28(土) 22:21
クイーンエリザベス1世は父ちゃんの事どんな風に考えてたんだろう。不倫はするし自分の母ちゃん(アン・ブーリン)処刑しちゃうし・・・知ってる人いたら教えて!!
684世界@名無史さん:2001/07/28(土) 23:32
農奴ってのは奴隷なんですか?
また中国の佃戸とどう違うんですか?
685世界@名無史さん:2001/07/28(土) 23:40
四人組追放に大きな役割を果たした華国鋒は、
なぜそのあとすぐ権力の座から下ろされたのですか?
ケ小平に比べて権力基盤が弱かったのはわかりますが、
それにしても……という気がするのですが。
686_:2001/07/28(土) 23:41
どっかのサイトで満州民族はモンゴル系とか書いてありましたが、
違いますよね?ツングース系でしたっけ?
687無名武将@お腹せっぷく :2001/07/29(日) 08:36
ムスタファ・ケマル
ケマル・アタチュルク
ケマル・パシャ

どれが本名?
688世界@名無史さん:2001/07/29(日) 09:45
>>687
「アタテュルク」は確か「トルコの父」か何かの意味の尊称。
「パシャ」は、たぶん、オスマン朝の「大臣」ぐらいの意味の役職名だ
と思う。
「なんとかパシャ」という人はオスマン史にやたらと出てくるよ。
689電波君:2001/07/29(日) 10:14
オスマントルコとオスマンサンコンはどういう関係なんですか?
690ガージー:2001/07/29(日) 10:31
>>685
軍部に支持基盤がなかったため、
支持基盤があったケを復活させざるを得なかった
軍の支持がないと、政権は維持できません
>>687
オスマン時代は、名前だけで苗字はなかったんです
苗字を作ったのもケマル、だから、産まれたときは
ケマルはムスタファと言う普通の名前でも、
小学校に同じ名前の先生がいたので紛らわしいので
その先生が、あだ名として、ケマルというのをつけました
(ケマルは満点という意味学校の成績がよかったため)
そのご、将軍になり、その称号である、パシャをもらい
そして、祖国防衛戦争後、西洋化の一環として、苗字をつける
ことになり、そのとき議会に貰ったのがアタチュルクという苗字
アタは、お父さんを意味し、チュルクはトルコを意味します
691世界@名無史さん:2001/07/29(日) 13:06
生まれたときに貰った名前がムスタファ、
社会に出て呼ばれるようになった名前がムスタファ・ケマル、
将軍になって称号が付いてガーズィ・ムスタファ・ケマル・パシャ、
大統領になって苗字をつけてムスタファ・ケマル・アタテュルク。
要するにまとめると、
ムスタファ=本名→ファーストネーム(西欧の洗礼名みたいなもの)
ケマル=ニックネーム→セカンドネーム(でも呼ばれるときはこちらを使う)
アタテュルク=創姓法で定められた苗字
パシャ=将軍の称号
ガーズィ=同上
ですね。

>>689
オスマンというのは第三代正統カリフ「ウスマーン」の名前のことなので
イスラム教徒にはわりとありふれた人名のひとつ。
692自転車小僧:2001/07/29(日) 13:39
>686
満洲族は南ツングースです。
693名無しさん:2001/07/29(日) 23:25
ナポレオンの部下のネー元帥は銃殺刑に処せられたことになっていますが、
実は処刑を逃れてアメリカに渡り、学校の歴史教師になったという噂が
アメリカでは根強いそうです。
日本では、この噂はどの程度伝えられていますか?
694世界@名無史さん:2001/07/29(日) 23:47
>>693
あ、その話ならオイラも聞いたことがありんす。

ついでに質問で〜す。
岡田英弘御大の「チンギスハーン(朝日文庫)」の中にチラリと
話が出てくる、「モンゴル軍の先鋒を果たした元イギリス貴族」
って、具体的には誰のことを指してんのすか?
あまりににもその経歴がカッコイイもんで、どうしても知りたく
なったッス。
695:2001/07/29(日) 23:57
イスラム教とイスラム文化に関するスレッドってありますか?
一応過去ログをざっとみたんですけど、見当たりません。
もしご存知の方は誘導してください。お願いします。
696YP:2001/07/30(月) 00:25
最近朝食でクェーカーのシリアルを好んで食べてるんですが、
考えてみれば、ほとんどこの宗教団体の事を知りません。
で、クェーカー(ふるい派)の歴史や宗教理念がザっと知りたいです。
この平和主義、戦争絶対反対団体は新大陸のペンシルヴァニア、ジョージア植民地政策は
どのような形で進められたのでしょうか?
現地人や他の宗教理念の団体との摩擦をどうやって乗り越えたんですか?
教えてください。
697世界@名無史さん:2001/07/30(月) 00:36
摩擦については、ユタ州をのっとっちゃって半宗教王国化、みたいな感じじゃなかったっけな。
698世界@名無史さん:2001/07/30(月) 02:36
>>694
それは英語からの翻訳で日本で出版されてる本に
G.ローナイ『モンゴル軍のイギリス人使節』というのがあって、
そこに詳しく述べられてます。
ずいぶん前の出版されたてのころに読んだけど、
たしか件のイギリス人は
○シモン・ド・モンフォールの反乱に組して祖国を追われる
→中東に逃げて十字軍に紛れ込む
→征西してきたモンゴル軍に捕まる
→バトゥの遠征にラテン語を扱う使節として参加
→ハンガリーでモンゴル軍が退いたときにヨーロッパ人に捕まる
→処刑
ってな人生だったと記憶。
処刑される前に調書が取られて、
それで事歴がわかるんだって話だったと思います。
699世界@名無史さん:2001/07/30(月) 02:38
>>695
最近の世界史板だと
「なぜイスラム軍はローマを陥さなかったの?」
(イスラムの大征服時代になぜローマに進攻しなかったかについて)
「なぜイスラムはカトリックに負けてしまったの?」
(先進的だったイスラム世界が西欧カトリック世界より劣勢になった理由について)
「イスラム教徒は諸悪の根源!」
などがありましたよ。
まだ落ちきってないはずだから探してみてください。
http://mentai.2ch.net/whis/subback.html

イスラム教そのものについてなら
民俗・神話学板とか心と宗教板のほうが
詳しいスレッドがあるんじゃないですかね?
700名無しさん:2001/07/30(月) 02:48
>697
そりはモルモン教のことではないのん?