魏延を励まそう

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621長文校尉
しばらく来ないうちに、随分スレが伸びたね。これなら1000も夢ではないか。
随分間が空いてしまったが、北伐の可能性について>>418の続きをやらせても
らうよ。

法正は先主に漢中攻略を勧めたとき、漢中を得た場合の利益を次のように示
している。

上可以傾覆寇敵尊奨王室
中可以蚕食雍涼広拓境土
下可以固守要害為持久之計

上手くいけば曹操を倒して漢室復興も可能であり、普通でも雍・涼州を漸次
切り取って領土を広げられ、悪くても守るのに有利な地形を頼みにできると
いうわけだ。
まあ、これはセールストークだから幾らか割り引く必要があるし、その後色
々あって(進言した法正自身やこれを受け入れた先主の死も含め)、諸葛亮
が北伐を開始した時点で、蜀にとって事情はずっと不利になっていたことを
先に頭に置こう。

北伐について魏延の考えが具体的に伝わっているのは、「魏略」の長安奇襲
案のみなので(「魏略」は資料としてあまり信頼されていないが)、まずこ
れを検討してみたい。

夏侯[木矛木]為安西将軍、鎮長安、亮於南鄭与群下計議、延曰「聞夏侯[木矛木]
少、主婿也、怯而無謀。今仮延精兵五千、負糧五千、直従褒中出、循秦嶺而
東、当子午而北、不過十日可到長安。[木矛木]聞延奄至、必乗船逃走。長安
中惟有御史、京兆太守耳、横門邸閣与散民之穀足周食也。比東方相合聚、尚
二十許日、而公従斜谷来、必足以達。如此、則一挙而咸陽以西可定施矣。」
亮以為此縣危、不如安従坦道、可以平取隴右、十全必克而無虞、故不用延計。

もし長安を占領し、さらに渭水の対岸にある咸陽を確保できたなら、咸陽の
東を流れる水を盾に、それ以東の魏の領土を切断することが一応可能と思
われる。
ただし、最低でも以下の条件を全て満たす必要があるだろう。

1)魏延の奇襲隊と諸葛亮の本隊がそれぞれ予定通り到着すること
2)長安を守る夏侯ボウが魏延の見込み通り逃走、配下の士卒も逃散した長安
 を占領できること。
3)関中に駐留するその余の魏軍の抵抗を早期に排除すること。
4)洛陽方面から来襲するであろう魏の大軍と決戦し、大勝すること。
622長文校尉:2001/06/29(金) 23:58
雨による桟道の途絶などで遅れが出た場合、魏延が遅れれば諸葛亮本隊の動
きを先に察知され、長安方面への攻撃が警戒されることになる。また、魏延
が予定通り奇襲に成功しても、本隊の到着が遅れたならば、五千の兵では魏
の逆襲を支え切れない。
夏侯ボウが予想に反して踏み止まるか、副将などが代わって防備に当たった
場合(上から下まで全員腰抜けとは限るまい)、五千の軽装の兵で長安を陥
とすのは魏延といえど無理。諸葛亮と合流した後では、既に魏の側も防備や
増援を行っているだろうから、ほとんどチャンスはない。
目論見通り長安を簡単に占領できたとしても、長安の周辺は特に要害という
わけではないから、魏軍の来攻、包囲そのものは防げない。蜀本国、漢中か
らの来援は期待できない状況で(北伐軍の他に動員可能な大兵力があるとは
思えない)、敵の領内に突出して包囲されるとなれば万事休すだ。(籠城し
たなら、長安の食糧が尽きたときが北伐軍の最後になるだろう)従って長安
以西の魏軍との連携を絶ち、包囲されないようにするために、長安、あるい
は咸陽前面で(兵力で勝るであろう)魏軍を撃破する必要がある。また、勝
利を得てもそれが不完全だった場合は、兵力を残した敵に対応するために、
やはり長安に軍を拘束される形になる。結果、長安以西の平定に兵力を割い
たり、さらに東へ進む自由は失われるであろう。

1,2で蹉跌があれば魏延隊は全滅する可能性が高い。3.4の段階で魏に敗れれ
ば、全軍が何ら成果なく漢中に引き揚げることになるだろう。そして、決戦
で大敗し、将士を多く失うようなことがあれば、もはや再起は難しい・・・。

敵将は逃走し、城を食糧ごとあっさり手に入れられるという希望的観測に頼
った計画、これほどにリスクが高く、成算が低い作戦を諸葛亮が採用しなか
ったのは当然であろう。
まあ、魏延がこんな提案をしたという「魏略」の記事自体、怪しいものだが
・・・。

(いやぁ、ひょっとして成功するかもと色々考えはしたんだが・・・)
623長文校尉:2001/06/29(金) 23:59
正史の本伝となると、

延毎随亮出、輒欲請兵萬人、与亮異道会于潼関、如韓信故事、亮制而不許。
延常謂亮為怯、歎恨己才用之不尽。

魏延の戦略が語られているのはたったこれだけだからなぁ・・・。
関中盆地の東縁に位置する潼関(当然長安より先にある)は、北から黄河が
渭水に合流する地点でもあり、魏の西方の領土を切り離すという目的には長
安以上の適所ではある。
かつて(関中を地盤とした)馬超・韓遂らの連合軍もここで曹操と対峙した。
結果は、遠征すれば討伐するのに一、二年かかるところを、向こうからやっ
て来たので一度に滅ぼせた、と曹操を喜ばせることになったが・・・。
魏延がどうやって一万の兵で潼関まで達するつもりだったのか、そこで諸葛
亮と合同した後、圧倒的な魏軍(首都洛陽まで直線距離で二百kmばかり。東
方の広大な領土から増援を募るの容易だ)を打ち破る見込みを立てていたか、
後方の安全の確保する手段はあったのか、地図を見ながら首を傾げてしまう。
・・・きっと「会于潼関、如韓信故事」は言葉のアヤか何かだろう。

正史を見る限り、魏延は戦術家としては非常に有能だったが、戦略眼となる
と、良く言っても思い通りの作戦を実施していないから未知数、悪くすると
自分の武勇を恃むだけで何も考えていなかったのではないか、としか論評の
しようがない。

(ここでは腐したが、あとで魏延はフォローも用意してあるよ)

諸葛亮が採用し、実施した第一次北伐作戦についてはまた次回。