魏延を励まそう

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>>312 >>314
ありがとう。なるほど、演義を読み返したらその通りだった。

蜀書には伝がないが、季漢輔臣賛の呉子遠(呉壱)賛に陳寿が加
えたコメントによれば、呉班は呉壱(演義では呉懿)の族弟で、
大将軍何進の部下呉匡の子。劉備により領軍に任命され、官位は
常に呉壱に次ぎ、驃騎将軍・仮節・メン竹候で終わった。

驃騎将軍だったことは>>248で既出だが、李厳伝の注にある諸葛亮
の上奏文を見ると、231年の時点では魏延が征西大将軍、呉壱が
左将軍で、呉班は後将軍となっている。
234年までの間に呉班が魏延や呉壱を飛び越えて昇進したとは思
えないので、おそらく(諸葛亮の)北伐からは無事帰還し、呉
壱が督漢中・車騎将軍・仮節に任ぜられた(魏延に取って代わ
ったわけだ)ときに、同時に驃騎将軍となったのではないかと思
われる。
(ランクは車騎>=驃騎>征西>左将軍>=後将軍)
呉壱は237年に死去、呉班の没年は記されていない。

呉班は劉備の呉討伐に従軍して生還した将軍のなかでは、一番の
大物だろうね(史実では黄忠は既に死亡。趙雲は後方支援を担当)
魏延は要地漢中の守備に止まらねばならなかったが(同じ理由で
多分諸葛亮の南征にも同行していないだろう)、もし彼が参戦し
ていたならば、違った展開になったのではないか。
魏延の剛勇を以て夷陵を突破、荊州に素早く侵攻を果たすことが
できれば、戦線が膠着して陸遜の逆襲を受けるようなこともなか
っただろう。
320李厳:2001/06/09(土) 22:48
いやー、残念ながらそれはないね
仮にあったとしても魏延が漢中を離れたら漢中を維持できなかっただろうしね
っていうか、君は呉遠征は賛成反対どっちだったんだい?
孔明は実は賛成だったらしいぜ、ダンナ
321李厳:2001/06/09(土) 22:48
いやー、残念ながらそれはないね
仮にあったとしても魏延が漢中を離れたら漢中を維持できなかっただろうしね
っていうか、君は呉遠征は賛成反対どっちだったんだい?
孔明は実は賛成だったらしいぜ、ダンナ