>>188の者であります。
プレイ終了しました。
以下、途中経過などをお伝えします。長くなりますがすみません。
シナリオ:209年 群雄競いて荊州に覇を争う
赤壁の戦いは終わり、曹操軍は荊州から半ば撤退した。
元劉表軍として曹操に降伏した韓玄であったが、
もはや劉表からも曹操からも援助を得られない
独立勢力とならざるを得ない状況になってしまった。
そこに猛将が二人いた。一人は老将黄忠漢升、そして残る一人は
これより大陸を駆けんとする、魏延文長である。
ゲーム開始後、約1年。
目標である「名勝古跡探訪」を終わらせたころ、魏延の所属する
韓玄軍唯一の街・長沙は孫権軍の侵攻を受けた。
将兵は良く戦ったが、所詮徴兵も訓練もしていない状態では
赤壁で曹操を撃破した孫権軍には太刀打ちできなかった。
魏延は捕らえられ、黄忠ともども孫権に降った。韓玄は斬首。
孫権は魏延を粗略に扱いはしなかった。韓玄軍時代から昇給し、
孫堅ゆかりの名剣「古錠刀」を与え、期待の大きさをあらわした。
魏延は大いに奮起し、鍛錬の結果「水軍」の特技を得る。
後に周瑜亡き後軍師を任される、富豪魯粛と知り合い
政治の鍛錬や資金カンパなどの恩恵を受ける。
政治力を鍛えた魏延は前線の太守に任じられ、
当時孫権と荊州の覇権を巡って争っていた劉備軍の撃破を目標に掲げた。
魏延は軍勢を率いて劉備軍を殲滅。諸葛亮を自ら捕縛した。
目標達成の褒美として「兵法二十四編」を授かったときは、
さすがの魏延も苦笑するばかりであった。
これで「発明」の特技を得た魏延は連弩隊を編成。
益州の劉璋、涼州の馬騰を次々に撃破。大陸の西半分を制圧した。
なお北方攻略に際しては長安を急襲、西側を孤立させてから順につぶしていく
かねてよりの計画を実行。馬岱を一騎打ちで叩きのめした。
魏延が西より洛陽・許昌を攻略したときには、孫権自らが海を渡って
遼東半島に到着。魏を背後より叩き、かつて袁紹が治めていた地域は
孫権領土へと変貌していた。
汝南周辺の数カ国に50名近い武将が結集した曹操軍はしぶとく
一進一退の状態が続いたが、ついには刀折れ矢尽き、孫権の軍門に降ったのであった。
韓王孫権は天下を統一した。
しかし、功績第一として曹操が司徒に任命されたのを見て魏延は愕然とした。
大陸の西半分を自ら制圧した功績は漢の韓信にも匹敵するものであり、事実
彼は大将軍として軍事の頂点にあったはずなのだ。
それが、1ヶ月前までは敵軍の将であった曹操に功績一位の座を奪われるのは
我慢ならなかった。魏延の反骨は燃えあがった。
中国には平和が訪れたが、魏延の戦いは終わらなかった。
北方異民族征伐の軍を率いて、荒野をさすらう日々が続いていたのである。
中国を制した魏延軍に匈奴は破れ、また魏延はよく徳を布きこれを治めた。
匈奴は魏延を神威大将軍と崇め、中華の地や漢の献帝、韓王孫権にではなく
魏延個人に忠誠を誓うようになっていた。
中国国内においても、魏延の勇名はもはや主孫権を凌駕していた。
孫権はそれを憎み、誅殺さえ考えるようになっていた。
魏延は親しくしていた者から、このままでは韓信の二の舞になると聞かされ
激怒したが、彼は一旦治まった天下に乱を起こすような男でもなかった。
魏延は誼のあった匈奴を頼って出奔し、異民族の王となったのである。
そして生涯を戦いの中で暮らし、匈奴は大いに勢力を広げた。
魏延のもたらした漢土の文化は平和をもたらし、「兵法二十四編」は無学な騎馬民族に
軍略の偉大さを知らしめ、古錠刀とともに国宝とされた。
しかし、万里の長城を越えることは魏延存命中はついになかったのである。
民の信望厚い魏延の理不尽な出奔が、人心を離反させたのか。
風雲児曹操を政権内部に取り込んだのは、やはり失敗だったのか。
晩年の孫権とその後継者たちは、中華の覇者たる力量を備えていなかったのか……
天下統一から十数年後、孫一族は臣下に禅譲を強要された。
北国にてその報を受けた魏延の胸になにがあったのか、歴史は黙して語らない。
長文すぎました。申し訳ありません。