文化としてのバレーへ

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81名無し@チャチャチャ
1969年、米国カリフォルニア州サンフランシスコで誕生し、6才までをそこで過ごしたYokoは、小学校に入学する直前、母と共に東京の新富町へと移り住みます。ヘイゼル色の瞳、ブラウンの髪をもつ米国籍のYokoは、地元の小学校から入学を拒否されてしまいました。そして越境入学した小学校では、子供たちから残酷で、執拗ないじめを受けることになります。米国では、肌の色や髪の色の違う友達がいっぱいいただけに、どうして自分だけが仲間外れになるのか、理解する事ができませんでした。「どうして私はみんなと違うの?」と祖母に泣いて訴えると、祖母は決まって「五体満足で、三度三度の食事にありつけてんだよ。何が不満だい!あたしゃ、誰よりもYokoが好きだよ。表に出たら胸はって、上を見て歩きな」と明治気質の下町っ子らしい言い廻しで、孫娘に「誇り高く生きること」を要求し続けました。いじめは小学校を卒業するまで続きました。

でも小学5年生の時、母たち、元全日本のOGやOBたちがやっていた趣味のバレーボールの会で、Yokoは素晴らしい体験をしたのです。

年齢も性別も、上手下手も関係なくチームがみんなで力を合わせて一つのボールに思いを賭けるバレーを知ったのです。コート上では、誰もがお互いを認め合い、信じ合える理想郷があったのです。

ゲームを終えてみんなでちゃんこ鍋をつついていた席上で、Yokoは胸をはって「私、五輪で金メダルをとるんだ!」と話しはじめました。祖母の云っていた「胸をはって上を見て歩く」という本当の意味がすこしわかりはじめた気がしたのです。

Yokoが自分のアイデンティティを見つけようと長い旅路に船出した、記念すべきこの体育館は、数年前に取り壊されて今はありません。Yokoはその体育館が取り壊されるとき床材の一部を分けてもらい、自分自身のモニュメントとして今も大事に、机の上に飾っているそうです。
82名無し@チャチャチャ:2001/05/26(土) 14:55 ID:???
1969年アメリカ (サンフランシスコ)生まれ。
6歳の時、母とともに日本に移住。
12歳から本格的にバレーボールを はじめ、文京区立十中3年で全国 優勝を果たす。 その後、全日本ジュニアメンバーと してアジアジュニア選手権で優勝。
87年早稲田大学人間科学部スポー ツ科学科に入学。 関東大学リーグ6部最下位にあった 早大を2部優勝まで導く。
91年2月に単身渡米し、アメリカ ナショナルチームの「トライアウト (入団テスト)」に合格。 ナショナルチームでのトレーニング を開始する。
92年バルセロナ五輪で銅メダル獲得。
96年アトランタ五輪では日本チーム を相手に奇跡の逆転勝利の立て役者 となる。
96年実業団チームの東芝へ、 翌97年からダイエーオレンジアタッ カーズとプロ契約しVリーグでプレー。 休部予定のダイエーチームの3年ぶり、 2度目の優勝に貢献。 メンバー一人一人の潜在能力を十二分 に活かすスターティングセッターとし ての、その奥深い技量に対してベスト 6が贈られる。
98年プロチームとして新生した オレンジアタッカーズ(現久光製薬ス プリングアタッカーズ)の一員として プレー。
99年の皇后杯黒鷲旗(全日 本選手権大会)で2連覇、ベスト6に 選ばれ現役を引退する。