皇国史観で東日本人を侮辱するな。( その2 )

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826そば屋竹林庵

19世紀というのは(そして20世紀初期も)国民国家の時代でしたよね。

中世の西ヨーロッパではローマ教皇の力が個別の国(というか国王)の力を圧倒していました。で、西ヨーロッパ中がノッペラボーの単一文化、単一民族化していたかというと話は逆で、国王の力が弱かった分バロンだのナイトだのといった諸侯の力が強く、国(王の権力)というのは領封(諸侯の権力)の連合体だったわけです。

王権はより大きな統合単位であるローマ教皇権を解体し、西ヨーロッパをより小さな単位に分割しつつ、より小さな単位である領封を吸収して成長していったわけです。王権はさらに成長を求めて互いに攻防を繰り返し、あるいは世界各地に植民地を獲得していきました。

封建時代には良くも悪くも領民(被支配者)と領主(支配者)は身近な存在だったのですが、絶対王権の時代になって支配者が地方の領主から中央の王に取って代わられると支配者は遠い存在になってしまったのです。しかも王には教皇のような宗教的権威があるわけでもない。

宗教的権威もなく、身近でもないくせに四六時中戦争ばかりして国民に負担をかける存在、それが国王でした。この国王を補完して、または代替して国民を統合し戦争に駆り立てるための舞台装置として国民国家が登場したのです。

国民国家では「民族」の神話が創作され、民族の血と歴史と伝統のために国民は一致団結しなければならないとされました。もともと単一民族とは言い難いような国であっても学校教育を通じて「国語」が強制され、「歴史」や「文化」が教えられ、無理矢理一つの文化に統合されていったのです。

人種的違いから見ただけで違うことが分かるとか、文化や伝統があまりにも違い過ぎるとか、地理的に離れ過ぎている場合には国民国家への完全な統合は不可能と考えられ、それらの地域は植民地とされました。

日本の近代化というのは、この国民国家を日本でもやろう、という時代でした。
827そば屋竹林庵:2000/12/02(土) 23:09

国民国家というのは国家より大きな統合単位を否定するところから始まっています。ところが二十世紀になると、国際連盟だの国際連合だの、さらにはEUだの、国家より大きな統合単位が創設されるようになりました。これは国民国家の時代の終わりの始まりです。

そして世界各地の植民地(=国民国家に中途半端にしか統合されていなかった地域)で独立運動が始まります。この二つは連動しています。より大きな統合単位が復活することによって中間の統合単位の力が弱まり、より小さな統合単位が息を吹き返したのです。

ロシアのような国は一度は共産主義(=疑似宗教)の力を借りて無理矢理国民国家体制を継続しようとしましたが失敗しました。

スコットランドの独立運動や北イタリアの独立運動もこのような国民国家解体の流れの中で理解出来ますね。

さて、日本はどうしましょう?19世紀的国民国家に固執しますか?それとも地域的独自性を認めて文化的情緒的統合はより小さな単位にまかせて、日本全体はEU型の緩やかな連合体へ移行しますか?

私が恐れているのは国民的統合を強要し続けることによって、無理強いされた恨みから日本列島人同士が憎み合うようになることです。このまま一緒にいて仲の悪い身内になるよりも、早く連邦制に移行して仲の良い隣人として暮しましょう。