部落解放運動史−同和問題

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1部落解放運動史(1)
日本の各地に「被差別部落」「未解放部落」あるいは「同和地区」など、いろいろな呼び方をされ、
そこに住んでいる人、生れ育った人が他の人々から特別視、差別されているところがある。
「同和」という言葉は昭和に入って、被差別部落のために、政府が特別に作った行政用語である。
被差別部落=同和地区の人たちへの差別に対して、結成された差別解消のための運動組織が、
「部落解放運動組織」=「同和団体」である。

1965年8月に同和対策審議会から出された『同和対策審議会答申』によると、
部落解放運動とそのための組織について
●「みずからの努力で同和地区を改善しようとする自主的な運動」
●「差別撤廃のために闘争する自主的団体」
という規定をしている。
「同和団体」は、まず被差別部落の人が、差別に対して闘う自らの運動ということである。

部落差別に対して、一般民衆の側にも、部落の悲惨な状況に同情して、解消を目ざす動きとして
1887年(明治20年)頃、近畿地方に「逓余会」という青年団的組織ができて、
寺院で補習教育をしたり、三重県で各部落に「自営社」という団体が作られ、
改善活動が行われたりした。
このような外部の動きの一方で、被差別部落内部からの動きも起こり、
差別に対する抵抗が次第に増え、組織化された自主的な運動が起こってきた。

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2部落解放運動史(2):2000/12/01(金) 09:54
1892年(明治25年)、和歌山県の青年たちによって作られた「青年進徳会」、
1898年(明治31年)、静岡県に生まれた「吉野村風俗改善同盟」、そして
1902年(明治35年)、岡山県の青年たちが作った「備作平民会」。
その翌年には、大阪に「大日本同胞融和会」が結成され、全国から代表が参加した。
1912年(大正元年)、「全国細民部落協議会」が開かれ、奈良県の「大和同志会」をはじめ、
各地に部落住民による改善運動組織が結成された。これにつづき、
1914年(大正3年)には民間運動を代表する「帝國公道会」が創立された。

しかし、これらのほとんどは、多分に国に依存し、一般からの救済や同情に頼って運動を展開、
部落内部の改善によって一般大衆との「融和」をはかろうとしたものだった。
差別された自らの立場を大胆に打ち出し、社会にその撤廃を積極的に求める、
本来の意味での自主的な部落解放運動ではなかった。

被差別部落住民が立ち上がって作った自主的、積極的な組織として注目される
はじめての組織が、「全国水平社」である。1922(大正11年)年3月3日、それまで
全国各地で解放運動に取り組んできた被差別部落の人々によって、全国水平社が結成された。
被差別部落民が、自ら差別撤廃のための団結と闘争を掲げた、初めての自主的な組織であった。
創立大会には、近畿地方はじめ、中国、九州、四国、関東、中部各地方の被差別部落代表
約2000人が参加した。
3部落解放運動史(2):2000/12/01(金) 09:54
それまでの経緯について、先に引用した「同和対策審議会答申」では
次のように述べている。
―――――――――――――――――――――――――――――
同和問題が政府をはじめ広く社会一般から注目され、深い関心を持たれるようになったのは、
大正時代後半のことであり、その契機となったのは、(大正)7年7月勃発した米騒動と、
11年3月結成された全国水平社の運動である。

米騒動は、米価の暴騰により生活難に陥った広範な低所得者層の憤激が
自然発生的に暴動化したものである。この暴動に…都市における同和地区住民が…
一般大衆とともに多数参加し、激烈な行動に出たことは事実である。…
けれども、同和地区住民のみで米騒動を起こしたのでなければ、
差別問題が原因で暴動化したものでもなく、また、同和地区住民が計画的、組織的に
暴動を指導したものでもなかった。しかし、第1次大戦の経済的影響による
未曾有の好景気のなかで、同和地区住民の大多数が差別の中の貧困ともいうべき
劣悪悲惨な生活状態におかれたことと相まって、長年にわたってうっせきした
差別圧迫と憤まんが爆発して、多数の地区住民をして米騒動に参加させた。

政府をはじめ社会一般の関心は、そのような反社会的エネルギーが潜在する
同和問題の深刻さと重大さに集約される。言いかえれば、米騒動によって
同和問題は新しく再発見され、重大な社会問題として認識されたのである。…
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4部落解放運動史(4):2000/12/01(金) 09:55
全国水平社創立大会において、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まる水平社宣言、
※「絶対の解放」をうたった綱領、※「徹底的糾弾」を期した決議は、
その後の部落解放運動の理念の原点として、極めて重要なものである。

※融和運動を批判し、
※被差別部落民の人間的尊厳の自覚と団結をうたい、
「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結んだ、あの有名な水平社宣言の
冒頭の「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」の言葉は、
※マルクスの『共産党宣言』の冒頭に出てくる「万国の労働者よ団結せよ」を模倣したものとされ、
部落解放運動の原点、基本的理念を指し示すものとなっている。

全国水平社は、1922年の結成第1回大会から、1925年の第4回大会までは、
水平社結成決議のいう※「徹底的糾弾」を唯一の戦術として、差別的言動に対する
糾弾闘争を積極的に展開してきたが、
1926年の第5回大会後、※マルクス主義の理念を持つ活動家が主導権を握り、
資本主義、地主制度、天皇制に対する※階級的身分制度の撤廃闘争の色彩を強めた。

さらに、昭和に入り、被差別部落民の悲惨な生活を改善するための日常闘争の展開による
大衆的な闘争へと戦術を広げていった。
5部落解放運動史(5):2000/12/01(金) 09:55
第2次大戦への突入によって、他の社会運動団体とともに、水平社の運動への弾圧も強まり、
1940年8月の第15回大会を機に、その活動は停止、組織は解体に追い込まれて、
1942年法的に自然消滅したこととなった。

1945年、日本は戦争に敗れ、米軍の占領軍となった。その翌年の
1946年2月、全国水平社の指導者、戦前の活動家、部落改善事業にたずさわっていた
融和事業団体の役員などが京都に集まって、全国部落代表者会議を開き、
「部落解放全国委員会」を結成した。のちの部落解放同盟の前身である。

呼び掛けのビラは「全国水平社」となっていたといわれるが、新しい組織の名称には
全国水平社の名を踏襲しなかった。
そのことについては、被差別部落民による水平運動や融和運動の立場を越えて、
部落解放を目ざす全ての人が、幅広く加わることのできる「大同団結」の組織を、
という考えからだったとされている。

その後、全国委員会の中に、部落差別は単に部落民への偏見、差別観に由来するのではなく、
資本主義体制下の社会、経済、政治構造の中にその根拠、本質があるとする考えが強まり、
運動も、差別者への抗議、糾弾から、行政上の責任を追及する「行政闘争」の姿勢へと
向かっていった。
6部落解放運動史(6):2000/12/01(金) 09:56
全国水平社、そして戦後の全国部落解放委員会から部落解放同盟へと、
部落解放運動へと、部落解放運動が進む中で、共産党もその組織の中にあって、
互いに連帯し、補完し合いながら、運動を進めていっていた。

しかし、初代の委員長・松本治一郎氏が社会党から参議院に立候補して当選するなど
解放同盟中央が社会党との連携を強めていく一方で、共産党も次第に力をつけていくに従い、
解放同盟内部で、その主流の部分と、共産党員・支持者の部分との間に、
解放運動のあり方、進め方をめぐる意見の対立が起こりはじめた。

さらに同対審答申の評価をめぐっても意見がわかれ、その対立は次第に深刻化、
ついに1970年6月、共産党員の同盟員らが開放同盟を脱退、それらのメンバーを
中心にして、「部落解放正常化全国連絡会議」(略称・正常化連)が結成された。

ここに、全国水平社いらい48年の伝統を継ぐ部落解放運動が分裂することとなった。
正常化連は共産党のバックアップも加わって、組織を拡大、
1976年、「全国部落解放運動連合会」(略称・全解連)と改称した。
部落解放同盟から完全にタモトを分かつ、自立した部落解放運動組織としての
スタートであることを明確にしたのである。
7部落解放運動史(7):2000/12/01(金) 09:56
さらに、部落解放同盟、全解連とともに、部落解放運動組織として
「全日本同和会」が1960年に誕生した。
被差別部落や解放同盟内の保守的な層の人々の組織として生まれたもので、
解放同盟の運動のあり方に反発して離脱、あるいは脱退したメンバーが
中心になったといわれる。結成には、自民党のてこ入れがあったとされる。

ここに、部落解放運動は3つに分裂し、別個の運動を展開する「3つの運動団体時代」、
そして1986年にいたり全日本同和会が分裂して「全国自由同和会」が誕生、
水平社以来64年にして「4つの運動団体時代」になった。

全日本同和会は、保守系の部落解放運動団体として自民党のバックアップを背景に勢力を伸ばし、
公称の組織人員は解放同盟・全解連をはるかにしのぎ、
全国大会などには多数の自民党国会議員、秘書が列席する盛大さをみせていた。
しかし、深刻化する内部対立と、相次ぐ不祥事に、連帯していた自民党も連帯関係を見合わせ、
総務庁もそれまでの対応を留保、1986年11月、政府への意見具申作業のため、
運動団体から意見聴取を行っていた地域改善対策協議会も、それまでの全日本同和会にかわって
全国自由同和会を保守系運動団体の代表として意見聴取を行った。

この動きに対し全日本同和会側は危機感を深め、自由同和会入りした県などで
新しい県連組織を新発足させるなどし、ところによっては両者の険悪な対立状況も生まれた。
8部落解放運動史(8):2000/12/01(金) 09:56
各組織事務局による、以上の4運動団体の組織勢力(1987年5月時点)は以下の通り。

▽部落解放同盟/約17万4200人、43都道府県連
▽全解連/約8万人、36都府県連
▽全国自由同和会/約4万人、13府県連
▽全日本同和会/約35万人、43都道府県連

解放同盟は、よく「6000部落、300万人の兄弟」を合言葉にする。
それに基づけば、この3運動団体の被差別部落関係者の組織率は、4分の1以下
ということになる。

※組織員すべてが被差別部落出身ではないことも加え、
組織、運動を避けようとする被差別部落住民、出身者が多数を占めている。
これらの運動団体間の軋轢を複雑にするものとする、それぞれが結びついている政党、
さらに、労働組合組織、学者・文化人組織の問題がある。

・部落解放同盟/社会、公明、民社各党、総評、部落解放研究所
・全解連/共産党、自治労の一部、部落問題研究所、国民融合を目指す部落問題全国会議
・全国自由同和会/自民党、地域改善対策研究所
・全日本同和会/保守系