Bar Love Affair ★★★

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30四葉
Vol.1
具体的な状況を述べることは極力避けさせていただきますが、
身体的或いは社会的な、実に様々なハンディを背負った家族・家庭の形態と、
その中で育つ子供たち、育てる親たちの日常の暮らしを、
少なからず知っています。
その一方で、
一見何の不自由もなさそうな瀟洒な4LDKの両親共に健在な家の中で、
ひとり息子が大暴れしている家庭、
その中で追い詰められ疲弊していく母親・家族。
その他、環境には恵まれているにもかかわらず
どこかで間違えたとしか思えないような子育ての結果に
呆然自失の家族の姿等々も、同様に知っています。
140さんおっしゃるところの「人が生きていくことは現実」の厳しさ、
悲惨さを、私なりに、知識としてではなく見聞しているところも
多々あります。

安定した環境と充実したサポート体制に恵まれながら、
余りに容易に子育てに頓挫してしまった悲しい親とその子の姿。
また、逆に、
様々な悪条件のもと、与えられたわずかな恩恵を最大限に
有効活用して、子と共に生き抜く強い親の姿とその子の溌剌とした笑顔。
・・・これらの対照的な親子の姿から学ぶべきことは何か。
それは、
親が子を守り育てる、かつ、子が健全に成長していく
ことのために最も必要とされるものは、
単に物質的な豊かさ或いは親がふたりいる、という表面的な条件ではなく
子への深い愛情に裏付けされた親の強い「意志」
守り抜き育て抜こうとする強い強い「意志」なのではないか、
ということです。
31四葉:01/09/15 23:45 ID:OJjGV2AQ
Vol.2
ひとりの子が苦もなく育つ、と安易に思えてしまうほど
私も若くはありません。
私の子が、障害を持って産まれる、大病を患い通院生活が続く、
犯罪に巻き込まれる、心が病む、etc。
おっしゃるように、危惧すべきいろいろな可能性はあるでしょう。
親がひとりであれふたりであれ、その可能性は等しくあります。
いざ、自分の子がそうなった場合、
私がひとりで乗り切っていくことができるのかどうか。
そう問われれば、
公的機関によるサービス、民間からのヘルプ、個人的ネットワーク等々
可能な限りの資源を活用はしつつも、それでも
できるかもしれないし、できないかもしれない。といまは
お答えするよりありません。

けれども。
そのとき私がその困難を乗り越えることができるか否か、の答えは
上の例で見たように、
私に夫がいるかいないか、にかかっているというよりは、
私に、親として子を守り育て抜く、何としても幸せに育ててみせる、
という強い意志と信念があるかないか、にかかっているところが
より大きいのではないでしょうか。
私の知る幾多の親子の事例が、それを示しています。

無論、精神論だけを拠り所にするわけにはいきません。
たちまち降りかかって来るであろう様々な現実的難問を
迅速かつ的確に処理していく能力が一層問われます。
将来的な展望も欠かせない。
しかし、そのような能力を発揮し支えていくためにも
一方で拠り所としての精神論は、
大変重要なファクターとしては位置づけられます。

そして、そのような親の意志と信念のもとに育てられた子は
果たして、本当に不幸なのでしょうか。
親の苦労を間近で見、ときには支え、かつ、その親に守られ愛され
導かれて育つ子は、親がひとりだというだけで皆不幸なのでしょうか。
離婚家庭の子は、おしなべて不幸なのでしょうか。
32四葉:01/09/15 23:46 ID:OJjGV2AQ
Vol.3
子の成長過程において様々な不可抗力は、当然あるでしょう。
「不幸せになる時はどんな事をしても不幸せになる」と
140さんもおっしゃっているように
親がふたりでも、子どもが包丁で刺されるときは刺されます。
様々な種類の危険と暴力に遭遇する可能性は、親の数を問いません。
ならば、再考すべき「子供の現実」とは何でしょう。
親がひとり故に寂しい思いをする、ということでしょうか。
不自由を感じる、理不尽な差別に傷つく、背負わなくてもよかった
苦労を生まれながらに背負ってしまう、ということでしょうか。
しかしこれまた、
ふたりの親に育てられても、心の寂しい子は大勢います。
子ども社会の中で、ほとんどの子が某かの不自由さを感じ
傷つけたり傷つけられたりしながら成長していきます。
とんでもない親の元に生まれたおかげで、
背負わなくてもよかった苦労を生まれながらに背負い、
あげく殺されてしまう子までいます。
腐った親ふたりに育てられる子より、
良質の親ひとりに育てられる子の方が、より幸せではないでしょうか。
大切なのは親の数ではない。親の質です。

その「親の質」を考えた場合、
むしろ、私がより強く不安を感じるのは、
私がこのまま他の男性と、何となく結婚して何となく子をもうけて
何となく母親になったときのことです。
そのとき、上に述べたような覚悟が果たして私に備わるのか。
たとえどんな恵まれた環境が与えられていても、何となく母親になった私には、
何の覚悟も意志もない、何となくの子育てしかできないでしょう。
そんな母親に育てられた子こそ不幸です。
そんなふうに考えると、私は単に、自分の幸せを次世代に繋いでいく、
という意味だけで、母親になりたいとは決して思いません。
33四葉:01/09/15 23:48 ID:OJjGV2AQ
Vol.4
140さんの書き込みがあと1週間早ければ、私はこのVol.4を
書くことはありませんでした。
過去の書き込みはどこまでお読みいただけたでしょうか。
いま、事態は変わりつつあります。

私は先日、彼と会いました。
あの人は、完璧に、避妊しました。
その瞬間、私がどんな気持ちだったか。
私の持つ語彙では表せません。言葉にできません。
おそらく一生もうこんなことはないだろうというくらいの
大声で、泣き、喚きました。
あのとき私は、ほとんどあの人を憎んでいたと思います。
あの人は、長い長い時間私を抱きしめていてくれたけど
私の心は抱きしめられなかった。心は癒されなかった。
あの人の理性が、あんなにも理性が、勝つのなら
私にはもう手の施しようがない。どうしようもない。
そう思いました。

あの人の意志は固い。
それが、私への愛情によるものか、あの人自身の保身のためか、
それとも、やはり皆さんと同じように、
子が不幸だと信じて疑わないためなのか、私にはよくわかりません。
けれど、どちらでもいい、どうでもいい。
どちらにしたところで、結果は同じだからです。

私はここまで、余りにも思い詰めて、お母さんになりたくてなりたくて、
何とかひとりでもやっていけるような目途が立つように
様々なシミュレーションを重ねて、
言葉を尽くして心を込めて、お願いした、結果、
聞き入れてもらえなかった。
・・・受け入れる以外にない。あの人の結論です。

私はもう、次回の機会を作りません。
これ以上の消耗戦を戦い続けることは、余りに不毛です。
いずれ私自身を、内側から崩していってしまうことにもなりかねない。
それは避けねばなりません。
とりあえず、私はこれからも生きていかなければなりませんから。

あの人の結論を、受け入れたはよいが、
ところがどうして、その先が、見えない。
私はこれからどこへ向かって行くのか。
やはり、この台詞で終わってしまう....。