詩:投稿and批評 

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495すみす
ぢるさん、自分の書きたいことをどのように書いても『詩』にはなると思います。自由詩である条件って、「言葉でつづる」だけだと思うんです。ただ、例えば自分が感じたことを単なる話し言葉で書くと、あまり他人には効果的に伝わらないから、「表現上の技巧」があるんだと思います。あと、詩を勉強するなら「詩の作り方」みたいな本が巷には出回っているので、見比べて買ってはどうでしょうか。
496はなまる:2001/03/31(土) 14:35
>>450(阿麻さん)
壊れやすい人間関係、恋愛感情を眺めながら、
阿麻さん自身は人の繋がりを重く受けとめているようですね。
そして、この詩は時代に逆行するそんな自分を、
自虐的に読んだものだと感じました。

「めぐり合いたい!私」は普通に「めぐり会いたい私」で良いと
思うのですが、「!」を入れたのには何か理由があるんでしょうか。
「!」が無くても徐々に高まる感情の流れは、詩の中から読み取れます。

一段落目の「チューリップ園」から、三段落目の「色を摘んだら」
の繋がりは綺麗だなぁ、と関心しました。

ただ、世界の広がりが感じられないのが残念です。
読む人をすっぽりと囲ってしまうような大きな世界観の方が、
この詩には向いていると思います。
497はなまる:2001/03/31(土) 14:50
>>496
初めての批評です。
最強詩人さんの偉大さが改めて解りました。ほんと。

大体、「感想」「解体」「評価」「批評」の違いもよく解っていない人間が
人の詩にどうこう言うってのが無理なのか。ハァ。

>>488(阿麻さんへ)
僕も完全に我流です。
殆ど、ここに投稿される詩しか読んだことありません。
そんなんですから、↑の批評は的外れなんじゃないか、とびくびくしてます。

もちろん僕に対する批評は大歓迎です。
詩作・批評能力共に、互いに磨き合えたら良いですね。
498阿麻:2001/03/31(土) 17:59
(はなまるさんへ)早速批評してくださって、ありがとうございます!!!
 実は、>>450の詩、まったく即興の詩でした。

>「めぐり合いたい!私」は普通に「めぐり会いたい私」で良いと
>思うのですが、「!」を入れたのには何か理由があるんでしょうか。
>「!」が無くても徐々に高まる感情の流れは、詩の中から読み取れます。
  ↑
 この部分ですが、書いているうちに感極まって、というのは大げさかもしれませんが、
どうしても、「!」とつけたくて、つけていました。
 でも、上のご批評をお聞きし、頭の中で感嘆符をとってみたら、表現がよくなっていること
に気づきました。
 私の詩は、推敲しきれずに出したものがおおく(というかほとんど・・・)なので、
下書きをするなど(できなかったらごめそ)気をつけてみます。

>ただ、世界の広がりが感じられないのが残念です。
>読む人をすっぽりと囲ってしまうような大きな世界観の方が、
>この詩には向いていると思います。

 やっぱり世界観を広げる(読み手を自分の世界に吸い込むように引き寄せること)はむずかし
いですね。
 あまりあの詩に対し、ちからをいれてなかったなー、と自分で感じました。

 はなまるさん、的確なご批評、ほんとにありがとう!
  又、素敵な感想、とても嬉しかったです。やっぱり批評しあうって大事ですね!
499阿麻:2001/03/31(土) 18:45
(はなまるさんへ)
批評と感想を戴いたので、私も

>>477 について
この詩は特に終わり方が素晴らしいと思います。
「帰郷の橋のその上で」かろうじて衝動と平静のバランスをたもちつつも、
詩人は有り余るその力を持て余して慟哭している。
「好意が疼く」、「飛沫」、これらの言葉が前段階となって、
やがて聞き取れないくらいの声で詩人は
「ミンチにされても大好きだといって」(←この段の行の変え方は、完璧。)
とおそらくこの世でもっとも大きな存在である「何か」に告げたのでしょう

批評するところは余りありません。
ただ二段目「エプロンだらけの・・・」の部分の情景がいまひとつ見えませんでした。
また、一段目の最後の部分の「舌が巻かれて」そして「雨」と
三段目の「弾いたそばから音が出て」を、
二段目の「睫毛が五万本」の状況をもっと明確にすると、つながりがうつくしく、明確になることで
作品の凄みが一層増してくる気がします。

 上記はまったく「私の」視点からのものなので、違ってたら又教えてください。
 長文失礼しました。
 又この板を通して今後も感覚を磨きたいと思ってます。感謝
500TNR:2001/03/31(土) 20:10
>>493
古典詩には、形式上の規則がありました。西洋ではソネットやバラード、本朝では短歌や俳句が、その代表的なものです。さらに上古には表現についても暗黙の了解があり、明らさまなのは下品で遠回しな言い方が上品とされました。
昔の人はそのような規則に守られていたので、思いついたことを規則に当てはめるだけで詩が作れたのです。
そのへんの決まりごとがうざいものだから「あぼーん」してしまったのが今日の自由詩なので、もはや万人に共通の決まりごとというものはなく、自分で自分の規則を立てなければなりません。

規則がない以上、評価基準も人によってまちまちです。複数の読者に共通する基準があるとすれば、それが面白いかどうか、独創がみられるかどうかです。
>>490
の作品について言えば、何が面白いのか部外者にはよくわかりません。使われている言葉そのものも、言葉の組み合わせ方も、どこかで見たことのあるようなものばかりです。つまり、新しさを感じません。
従って一読者の感想としては「凄え、こんなの初めて見たぜ!」ではなく「やれやれ、またこんなんかよ」に傾いてしまうのです。

「感じたこととか想ったことを書く」というのはそのとおりでしょう。
しかし、誰でも同じように感じたり想ったりすることをそのまま書いただけでは新味に欠け、詩にはならないというわけです。